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第二部 秋雨(あきさめ)

第11話

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 ハルは病院にいた。

 集中治療室にいた。

 経理の未来ちゃんの車の助手席に乗せてもらって案内されたのは、内藤美嘉が八階の精神科病棟に入院している病院だった。

 ハルは解体作業中に落下物の下敷になってしまったということだった。

「ヘルメットをちゃんとしていたそうですから頭は大丈夫だと思うんですが」

 赤信号で車を停車させた未来ちゃんはそう言った。

 未来ちゃんは去年鬼頭建設に採用された社会人二年目の経理担当だった。

 まだ十九で、商業高校を卒業してすぐうちで働き始めた。

 社会人二年目なのにまだよく高校生や、ときには中学生に間違われる童顔の持ち主で、初心者マークをつけたラパンを運転している彼女の姿を横目に見ながら、こどもが車を運転していると誰かに通報されないか、こんなときだったけれど少し心配になった。

 未来ちゃんはハルを弟のようにかわいがっていて、ふたりはあたしがやきもちを妬かないではいられないくらいすごく仲が良かった。

 未来ちゃんの話では、ハルの胴体や両手足は、医学の知識のまったくない現場の作業員たちが見ても、これはまずいという状態だったらしい。

 全身を強く打って、骨が陥没していたり複雑骨折しているのが、一目見てわかったそうだ。

 たぶん皮膚を突き破って骨が出てしまっていたのだ、とあたしは思った。

 一瞬、解体作業現場の瓦礫の中で、血だまりに浮かんでいるそんなハルの姿が頭に浮かんで、ぞっとした。


 続いて、ハルが瞳孔の開ききった何も映さない瞳であたしを見ている光景が浮かんだ。

 昆虫のように節が増えた、傷だらけの腕があたしに向かって伸びていて、あたしに助けを求めているように見えた。

 あたしは首を何度も横に振って、頭に浮かんだその光景をかきけした。


 車が病院の駐車場に着いた頃、未来ちゃんは張りつめていた糸がぷっつりと切れてしまったように泣き出してしまった。

 仕事場では涙は見せまいと必死に堪えていたのがわかった。

 未来ちゃんは、本当ならすぐにでも病院に駆けつけたかったはずだろう。

 すぐ駆けつけたかったけれど仕事をほっぽりだすような真似はできなくて、何時間も辛い思いをしていたのがわかった。

 未来ちゃんはあたしなんかより、あたしが思ってるよりずっと大人だった。

 あたしは泣きじゃくる未来ちゃんの肩を抱いて、いつか内藤美嘉の病室を訪ねたとき親切に案内してくれたお姉さんがいる受付で、ハルの居場所を聞いた。

「救急車で運び込まれた15歳の男の子なんですけど」

 そう言うと、すぐに集中治療室に案内してくれた。

 病院は、もう夜だからか外来患者たちの姿はなく、時間外診療に訪れた人たちがまばらにいるだけだった。

 そのため、やけにひっそりとしていて少し薄気味が悪かった。

 あたしたちが集中治療室の前に着くと、手術室の前でナオがひとり三人がけのソファに座って待っていた。

 あたしたちを、ではなく、ハルの手術が終わるのを。


 あたしたちに気付いたナオは立ち上がって、あたしと未来ちゃんをソファに促した。

「どうなの? ハル」

 あたしがそう尋ねると、

「まだわかりません」

 ナオは首を横に振った。

「耳から血が出ていました。意識もないみたいで、何度呼び掛けても返事をしてくれなくて……」

 ナオは力なくそう言った。

「現場を指揮していたぼくの責任です」

 手術はもう、五時間以上続いているらしかった。

「ナオ、あんまり自分を責めないで。少し横になるといいよ。疲れてるでしょ」

 あたしはそう声をかけたけれど、ナオはずっと、手術中を示す赤いランプを、ランプが消えるまで見つめていた。



 ランプが消えた。

 集中治療室から出てきた榊という女医から、

「ハルさんのご家族の方ですか?」

 ナオはそう尋ねられて首を横に振った。

「ぼくたちは会社の同僚です。
 ご家族には連絡はしましたが、生まれたばかりの赤ん坊や兄弟から手が離せないそうで、いつ来られるかわからないそうです」

 ナオはそう答えた。

 ハルの家はいまどき珍しい大家族というやつで、六男四女に両親に祖父母という、十四人家族のハルは長男だった。

 ハルが高校に通わせてもらえなかったのは、もちろん彼が勉強が不得手で公立の高校には彼が入れる学校がなかったからということもあるのだけれど、両親のずさんな家族計画がこどもを高校に通わせてやれないほど家計を圧迫していたからだった。

「大家族はその存在自体が児童虐待だよ」

 というのは、いつかあたしにハルが言った言葉。

 あまり不幸自慢はしたくない、かっこわるいから、ハルはそう言って家族のことをあまり語りたがらなかった。

 ハルの親は義務教育を終えたら親のこどもを育てる義務も終わると思っているのだろう。

 中学を出ると同時に、ハルは家を追い出されて、鬼頭建設の小さな社宅に住むことになった。

 息子の一大事にすら駆け付けてこないのは、もう家族としてすら見ていないのだろうと思った。

 セックス狂いの馬鹿は死ねばいいと思った。


「ぼくはハルの上司で、兄代わりみたいなものです」

 本当は家族以外は面会謝絶のところを、あたしたちは家族の代理として集中治療室に入る許可をもらって、ハルを見舞った。

 ハルは全身打撲に、あちこちの骨の陥没や複雑骨折で、体は全治半年ということだった。

「酷い怪我ですが、治療を続けていけば体はいずれ治ります。
 リハビリは大変になるしょうが、本人の努力次第では日常生活に困ることはなくなるでしょう。
 ただ今のお仕事はとても続けられないでしょうが」

 女医は言った。

「問題は、意識です。
 ヘルメットをかぶってらっしゃったから致命的な損傷はありませんでしたが、うちどころがよくありませんでした。
 いつ意識が戻るか、今はなんとも申し上げられない状態です」


 ハルは明日目が覚めるかもしれないし、5年後や10年後になるかもしれないという。

 女医の言葉にあたしたちは絶望した。

 未来ちゃんはまた泣き出してしまった。

 全身にミイラ男のように包帯が巻かれたハルの体のあちこちからは、色とりどりのチューブが様々な機械に伸びていた。

 それは、脳波を計る機械や、テレビデラマでよく見る心拍数を計る機械につながっていた。あとはよくわからなかった。

 未来ちゃんは、ハルのそんな姿を直視できなくて、まっすぐ立って歩くことすらままならない様子で壁伝いに集中治療室を出ていった。

 あたしはハルの手を握って、

「ハル?」

 彼の名前を呼びかけた。

 返事はなかった。

 ハルの返事を待つ長い沈黙が、あたしたちに訪れた。

 ハルに取り付けられた機械が、ただ規則的なリズムで電子音を奏でていた。



 あたしとナオは、ただ呆然とハルを見つめていた。

 どれくらい時間が過ぎただろう。

 長い沈黙を破ったのは、ナオだった。

「お嬢様は、ハルがあなたのご家庭のことを知らないと思ってらっしゃいますよね」

 ナオは言った。

 あたしはこんなときに彼は一体何を言い出すんだろうと思った。

「ハルは全部知っていました。ハルはお嬢様のことをすべて知っていた上で、何も知らないふりをしていたんです」

 ぼくが教えました、お嬢様にハルを紹介した日、ハルがお嬢様のことを好きになってしまうんじゃないかと思いました、かつてのぼくのように、ナオはそう続けて、

「いつかお嬢様の秘密を知ってしまったら、ぼくのようにお嬢様を傷付けてしまうんじゃないかと思いました。だから話しました。
 話して、お嬢様のことは好きになるなと言いました。
 だけどハルがお嬢様に対する態度を変えることはありませんでした。ぼくは何度も注意をしました。その度にハルはこう言いました」

 ハルは、結衣は結衣だろ、と言ったそうだ。

 経営者の孫だとか、ヤクザの孫だとか、そんなのは結衣が望んで手に入れたものじゃない、だからそんなもので結衣を縛りつけたくない。

 ぼくにとってはぼくが知る結衣が結衣のすべてだから、と、そう言ったそうだ。

「ハルはお嬢様のこと、本当に好きだったんだと思います」


 あたしは涙が止まらなかった。


「どうして今、そんな話するの? ナオいじわるだよ。つらいよ」

 ナオはあたしを優しく抱き締めてくれた。

 優しく頭を撫でてくれた。

「確かに、こんなときにこんな話をするのは卑怯かもしれない」

 そして、ナオは言った。

「ぼくもずっと結衣ちゃんのことが好きだった」

 あたしの初恋の人は、昔のようにあたしを呼んで、あたしにキスをした。



 一週間が過ぎてもハルは目を覚まさなかった。

 一週間、横浜には秋の雨が降り続いていた。

 きっと誰かの涙雨だとあたしは思った。

 あたしじゃない誰かの。


 数日前にハルは集中治療室から外科病棟の一般の個室の病室に移されていた。

 あたしは学校が終わると秋の花を一輪だけ買ってハルを見舞い、仕事が終わって彼を見舞いにくるナオを待った。

 ハルの家族は一度も見舞いに来ていないようだった。

 その証拠に、病室に置かれた花瓶には毎日一輪ずつあたしが持ってきた秋の花が増える。

 数日前に生けた花はもう枯れてしまっていた。

 ナオはハルが退屈しないようにと、彼が好きそうな漫画やライトノベルと呼ばれる中高生向きの小説を一冊ずつ持ってやってきた。

 異世界に召喚された男の子が剣や魔法を使って世界を救う、そんな物語だそうだ。

「そんなの持ってきたってハルは読めないよ」

 あたしがそう言うと、ナオは漫画のコミックをハルの枕の下に滑り込ませた。

「枕の下に好きな女の子の写真を敷いたらその子の夢が見れるって言うよね。これはその応用」

 そう言った。

 あたしはそういうのとそれはちょっと違う気がしたけれど、異を唱えたりしたらナオのことだから睡眠学習だとか言って漫画を迫真の演技で音読しかねないのでやめておいた。

「いい夢見てるといいね」

 あたしが言った。

「そうだね」

 と、ナオは言った。


 病室に鍵をかけて、ハルが眠る病室の床で、あたしとナオは愛しあった。

 ナオはあたしの初恋の人だったけれど、ナオのことはもう別に好きでもなんでもなかった。

 それはナオも同じだと思った。

 あたしたちはただ、ハルを失ってしまった悲しみを、傷を、舐めあって慰めあいたかっただけだった。

 あたしはナオに抱かれながら、もし今ハルが目を覚ましたら、と考えていた。


 ハルはどんな顔をするだろう。

 そんなことを考えると、あたしはすごく興奮した。

 ハルがあんな体になって、あたしとナオがそんな関係になって、あたしは気が付くと夏目メイへの復讐のことなんてどうでもよくなってしまっていた。

 あたしは、たぶんハルはもう一生目を覚まさないような気がしていた。


 学校に行っても、せっかく夏目メイに近付くために草詰アリスや小島ゆきと同じグループに入れてもらったというのに、あたしは一日中授業にも出ず、空き教室で暇をもてあますようになっていた。

 戯れに開いた写メールの投稿サイトで、たぶんこれも夏目メイの仕業なんだろう、麻衣が裸になっている写真を見つけたけれど何とも思わなかった。

 麻衣の裸の写真の更新は、夏の終わりで止まっていた。

 戸田というあのマル暴担当の刑事から手に入れた情報も今ではもう何の役にも立ちそうもなかった。

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、空き教室に次の授業のために人が集まり始めると、あたしは教室を出て、人気のない場所で休み時間を過ごし、チャイムがもう一度鳴ると再び空き教室を探した。

 廊下で何度か夏目メイとすれ違った。

 あたしに気付いているのかいないのか、彼女はあたしに顔や目を向けることなく、あたしたちの担任の要雅雪と楽しそうにおしゃべりをしていた。

 その後ろを草詰アリスがついて歩き、あたしに気付くとあかんべをした。

 小島ゆきは生徒会の仕事が忙しいのか、授業の取り方が下手なのか、休み時間に見掛ける度に廊下を全速力で走っていた。

 あたしが学校に来てはいるのに、一日中授業を受けないでいても、誰もそのことに気付いていないようだった。

 誰か気付いていたとしても、あたしを咎めるような人はこのすべてが作りものめいた学校にはいなかった。

 あたしは今日も、最後の授業を空き教室で過ごした。

 階段教室の、横長の机にあたしは寝転がって、ぼんやりと天井を眺めていた。


 考えるのはハルのことばかりだった。

 経営者の孫とか、ヤクザの孫とか、あたしの秘密を知ってもあたしだけを見てくれた優しいハルをあたしは裏切ってしまった。

 後悔はしていなかった。

 ハルのことは好きだったけれど、他の男に抱かれるのははじめてじゃなかったから。

 じいさんの命令で何度ヤクザ相手に体を売ったかわからなかった。

 だから今日もナオが求めてきたらあたしはきっと応えるだろうと思った。


「なんだ、ここにいたのか」

 突然教室に声が響いて、あたしは飛び起きた。

 声の主は、要雅雪だった。

「夏目さんから君が最近授業を受けていないって聞いてね。心配してここ数日ずっと探してたんだ」

 教室の入り口にいた彼は、少し悪い足で、ゆっくり階段教室を登ってきた。

「今は数学の後藤先生の授業の時間だろう? 夏目さんや草詰さんや小島さんはちゃんと授業を受けてるよ」

 どうして授業を受けないんだ? 何か悩んでることでもあるのか? 先生でよかったら相談に乗るよ、要雅雪はあたしの顔を覗き込んでそう言った。

 要は実に教師らしい人だった。

 だけどあたしは戸田から彼の秘密を聞いて知ってしまっていた。

 だから尋ねてみようと思った。


「先生が九年前に、女子中学生を誘拐したって本当ですか?」

 その瞬間、要雅雪の顔が変わった。



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