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第二部 秋雨(あきさめ)

第4話

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 編入の手続きが終わり、あたしは真新しい制服に身を包んで、担任の要雅雪(かなめまさゆき)という人から学内の案内を受けていた。

 城戸女学園の制服は、あたしとしたことがまったく知らなかったのだけれど、あたしの好きなハニードロップというブランドのデザイナー「あげは」がデザインしたもので、女の子だったら誰もが一度袖を通してみたくなるようなかわいいデザインの制服だった。

 さすがは有名私立のお嬢様学校だと思った。

 この制服が着たくて、この学校を受験する女の子は多いだろう。

 だから受験は倍率何十倍の超難関になっていて、入学してからも一流の教師たちによる徹底した教育が行われ、城戸女学園は毎年何十人も東大や京大、早稲田や慶應といった大学の合格者を出していた。

 あたしがそんな学校に簡単に編入できてしまったのは、あたしの努力の賜だ。

 あたしの偏差値は70近くあって、この間まで通っていた学校は県内トップの公立高校だった。


 そんな高校に、ニュースになった「流産させる会」はあった。


 きっとこの要という教師も、担当は国語だそうだけれど、一流の教師なのだろう。

 私立だから給料もいいんだろう、要はcrying faceという高級ブランドのスーツを着ていた。

 ノーネクタイで、シャツのボタンを適度に外して、長身の体でスーツを見事に着くずしていた。

 一見そうは見えないけれど、足が少し不自由なようだった。

 だから歩くのがとてもゆっくりで、あたしは彼にあわせて歩くのが少しだけ大変だった。

 城戸女学園は生徒の自主性を重んじる校風らしい。

 そのため、時間割がクラス毎に決められているわけではなく、大学と同じように生徒ひとりひとりが好きな科目や受験に必要な科目を選んで時間割を決めるのだという。

 だから要に案内された授業が行われるそれぞれの教室も、階段教室になっていてまるで大学のようだった。

 大学と同じように単位制で、必須科目さえ単位をとっていればあとはどの科目を受けるかは自由だった。

 三年の最後に、決められただけの単位が取れていれば卒業できるそうだった。

 授業も一時限が50分ではなく90分あった。


 だから一応クラス分けがされ、担任の教師がつくけれど、同じクラスでも一日中同じ授業を受ける生徒もいれば、朝と帰りに顔を合わせるだけのクラスメイトがいたりするらしかった。

 廊下ですれ違った生徒たちからは、

「ごきげんよう」

 と、声をかけられた。

「ご、ごきげん、よう?」

 あたしは慣れないお嬢様の挨拶に戸惑い、しどろもどろになりながら返した。

 要はそんなあたしを見て笑った。

「きみもすぐに慣れるよ」

 そう言った。

「二学期に入って、ぼくのクラスに編入生を迎えるのは実はきみが二人目でね」

 要はそう言って、

「ぼくは口下手な方だから、学内の案内なんて苦手なんだけど、さすがに二度目になるとうまくできるものだね」

 と笑った。

 要は、たぶん偶然通りかかったひとりの生徒に声をかけた。

「夏目さん」

 と、そう呼んだ。

 艷のある長い黒髪がきれいな女の子だった。

 背はあたしと同じくらい。

 長い睫毛が縁取る大きな瞳が人形のようだった。

「ごきげんよう、要先生。
 あら、そちらの方は?
 ごめんなさい。わたしったら人の顔を覚えるのが苦手なもので……」

 どこまでも透き通るようなきれいな声をしていた。

「大丈夫。初対面だから」

 あたしはひきつった笑いを浮かべながらそう言った。

 そして、

「紹介しておくよ。
 きみの一ヶ月前に編入してきた夏目メイさん」

 要はあたしに彼女を紹介した。

「こちらは来週からこの学園に編入して、夏目さんのクラスメイトになる鬼頭結衣さん。
 いろいろわからないことだらけだと思うから、編入生同士仲良く、夏目さんが面倒をみてあげてください」

 あたしは小さく頭を下げた。

「まぁ、そうでしたか。
 今、要先生にご紹介いただきましたが、わたくし、夏目メイと申します。
 鬼頭さん、でしたね。来週からよろしくお願い致します」

 夏目メイはそう言って、あたしに右手を差し出し、あたしはその手を握った。


 それがあたしと、夏目メイとの出会いだった。


 意外だった。

 目の前にいる夏目メイという女の子は、いかにも良家の世間知らずのお嬢様といった感じがして、とても同級生に売春を強要するような女の子には見えなかった。

 麻衣にウリを強要するような女には見えなかった。

 演技だろうか。

 それとも、同姓同名の別人だろうか。

 だけど要という教師は、彼女もまた一ヶ月前に城戸女学園に編入してきたばかりだとあたしに紹介した。

 じいさんがつかんでいた情報と同じだった。

 夏目メイなんていう珍しい名前、そうそうある名前じゃなかった。

 別人のはずがなかった。

 だとしたら、夏目メイは、保土ヶ谷の緑南高校に通っていたときとは違う、新しい仮面をつけているのだ。

 未成年だったから、新聞の記事やテレビのニュースで彼女たちの名前や顔写真が出ることはなかった。

 保土ヶ谷では麻衣の家が、近隣住民のいやがらせを受けて一家離散してしまうくらいには彼女たちの顔と名前は知られていたけれど、城戸女学園のような、まるで外界とは住む世界が違うような環境の中にいる人たちにとって、あの事件はテレビの中の出来事でしかなかっただろう。

 まさか編入生が、前にいた学校で同級生に売春を強要していただなんて、誰も夢にも思わないに違いなかった。

 だから夏目メイはそこで、良家の世間知らずのお嬢様として存在していられるのだ。

「どうかしましたか? 鬼頭さん」

 要という教師にそう尋ねられて、

「本当に。ずっと手を握られたままでは、わたくし、お手洗いにも行けませんわ」

 夏目メイにそう言われて、あたしは彼女の手を握りしめたまま、考え事をはじめてしまっていたことに気付いた。

「な、なんでもないですっ」

 あたしは慌てて夏目メイの手を離した。

「びっくりしましたわ。このままずっと手をつないだまま一日授業を受けなければいけないかと思いましたわ」

 夏目メイは笑って、手を口にあててそう言った。

「あ、それ、悪くないかもしれないなぁ」

 要が何か思い付いたらしくそんな言葉を口にした。

「鬼頭さん、せっかくだから、今日一日、夏目さんといっしょに授業を受けてみませんか?」

 一日体験授業って感じで、担当の先生方にはぼくから断りを入れておきますから、要はそう言って、

「そうだ。時間割は家でゆっくり考えてもらうつもりでしたけど、今日夏目さんといっしょに決めてしまうといい。
 何なら一週間の時間割を、全部夏目さんと同じというのもいいですね。
 夏目さんはとてもしっかりした方だから鬼頭さんのことをおまかせできそうだし、担任としても安心です」

「まぁ、要先生ったらお上手ですこと。わたくしは別に構いませんよ。鬼頭さんさえよろしければ」

 気がつくと、いつの間にかとんとん拍子に話が進んで、あたしは今日一日夏目メイといっしょに授業を受けることになってしまっていた。

「じゃあ、夏目さん、鬼頭さんをよろしくお願いします。午後の授業が終わったら、鬼頭さんを職員室のぼくのところまで連れてきてあげてください」

 要はそう言うと、授業があるのか廊下の向こうに消えていってしまった。

「それでは行きましょうか、鬼頭さん。わたくし次はお茶の授業ですの」

 あたしは気が遠くなる思いだった。


 あたしは一日中夏目メイの隣でぼんやりと授業を受けた。

 気になっていたのは夏目メイのことだけじゃなかった。

 要というあの教師だ。

 あたしは彼に見覚えがあった。

 幼い頃、どこかで会ったことがあるような気がした。

 それはひょっとしたらテレビの中で、だったかもしれないけれど、あたしは彼の顔に見覚えがあった。

 だけど一体どこで彼を見たのかまったく思い出せなかった。

 そんなことを考えているうちに一日はあっという間に過ぎてしまった。


「さても、この人をばいかがもてなしきこゆべき。めづらしきさまの御心地も、かかることの紛れにてなりけり。いで、あな、心憂や。かく、人伝てならず憂きことを知るしる、ありしながら見たてまつらむよ」

 その日の夏目メイの最後の授業は古典だった。

「と、わが御心ながらも、え思ひ直すまじくおぼゆるを、
『なほざりのすさびと、初めより心をとどめぬ人だに、また異ざまの心分くらむと思ふは、心づきなく思ひ隔てらるるを、ましてこれは、さま異に、おほけなき人の心にもありけるかな。
 帝の御妻をも過つたぐひ、昔もありけれど、それはまたいふ方異なり。宮仕へといひて、我も人も同じ君に馴れ仕うまつるほどに、おのづから、さるべき方につけても、心を交はしそめ、もののまぎれ多かりぬべきわざなり。
 女御、更衣といへど、とある筋かかる方につけて、かたほなる人もあり、心ばせかならず重からぬうち混じりて、思はずなることもあれど、おぼろけの定かなる過ち見えぬほどは、さても交じらふやうもあらむに、ふとしもあらはならぬ紛れありぬべし。
 かくばかり、またなきさまにもてなしきこえて、うちうちの心ざし引く方よりも、いつくしくかたじけなきものに思ひはぐくまむ人をおきて、かかることは、さらにたぐひあらじ』
 と、爪弾きせられたまふ」

 要に指名された夏目メイは、すらすらとつまづくことなく、源氏物語を朗読した。

「帝と聞こゆれど、ただ素直に、公ざまの心ばへばかりにて、宮仕へのほどもものすさまじきに、心ざし深き私のねぎ言になびき、おのがじしあはれを尽くし、見過ぐしがたき折のいらへをも言ひそめ、自然に心通ひそむらむ仲らひは、同じけしからぬ筋なれど、寄る方ありや。わが身ながらも、さばかりの人に心分けたまふべくはおぼえぬものを」

 彼女は感情をあまり込めず、淡々と光源氏の悲劇を読み上げた。

 彼女はとても頭がいい。

 たぶん朗読しながら、辞書をひかずとも、古文は彼女の頭の中で現代語に翻訳されて、物語が彼女の中に吸収されているのだろうと思った。

「と、いと心づきなけれど、また『けしきに出だすべきことにもあらず』など、思し乱るるにつけて、
『故院の上も、かく御心には知ろし召してや、知らず顔を作らせたまひけむ。思へば、その世のことこそは、いと恐ろしく、あるまじき過ちなりけれ』
 と、近き例を思すにぞ、恋の山路は、えもどくまじき御心まじりける」

 光源氏は、亡母に似ているとして父帝の後宮に入った藤壺を慕い、遂に一線を越えて子をなすが、密通の事実は世に知られることはなかった。

 しかし、源氏自身がかつて父桐壺帝を裏切ったように、妻である女三宮の密通が発覚する。

 一度は女三宮とその愛人の柏木に怒りをつのらせた源氏であったが、生まれた子どもを見て、これが若い日の罪の報いであったことに気づかされる。

 夏目メイが朗読したのは、そんなくだりだった。

 源氏物語のテーマは因果応報だ。

 これほど夏目メイにふさわしい言葉はないとあたしは思った。

 彼女はそのことに気付いているだろうか。

 たぶん気付いているだろう。

 気付いていて、そして自分が報いを受けることなどないと、鷹をくくっているのだ。

 だったらあたしがその報いを受けさせてやろう。

 あたしはそう思った。


 あたしは一週間の時間割をすべて夏目メイと同じ授業を受けることにした。

 城戸女学園で良家の世間知らずのお嬢様を演じる夏目メイの化けの皮を剥がすためには、四六時中行動を共にする必要があると思った。

 あたしに引き金が引けるかどうか、自信はなかったけれど、じいさんの言う通りに夏目メイの殺すなら、あたしは四六時中彼女と行動を共にする必要があると思った。

 あたしはそのために城戸女学園に編入したのだから。

 授業が終わった後、あたしは夏目メイに連れられて、職員室の要を訪ねた。

「どうでしたか? 我が城戸女学園は」

 要はあたしにそう尋ねた。

「とても素敵な学校だなと思いました」

 それはお世辞などではなくあたしの心からの言葉だった。

 授業はわたしが通っていた高校よりもはるかに高度なことを習い、あたしの知的好奇心を満たしてくれた。

 設備は、公立高校と比べるのがかわいそうなほど、最新鋭のものが揃っていて、いつも何かが物足りないと感じていたあたしの探求心も満たしてくれそうだった。

 生徒たちは、皆良家のお嬢さまたちばかりだからかとても品がよく、聡明な子たちばかりだった。

「そうですか。それはよかった」

 要はそう言って満足そうに笑った。

 だけど、この学園は、とても作り物めいているような気が、あたしにはしていた。

 目の前の要の笑顔も、廊下であたしにごきげんようと言って笑う生徒たちの顔も、夏目メイの笑顔も、心からは笑っていない、そんな顔をしていた。

「来週からこの学園に通えるのが楽しみです」

 あたしの笑顔も作り物めいたものになってしまうのだろうか、と思った。


 職員室を出ると、廊下で夏目メイがあたしを待っていた。

「待っててくれたんだ?」

 あたしがそう言うと、

「要先生から今日は一日、鬼頭さんのお世話をするようにお願いされましたから」

 と、夏目メイは言った。

 彼女は、あたしといっしょに帰るつもりらしかった。

「そうですわ。せっかくお友達になったんですもの」

 靴箱を開けて、校章の入ったローファーの靴を履きながら、何か思いついたように夏目メイはそう言って、

「携帯電話の番号、交換していただけますか?」

 鞄からケータイを取り出した。

 そのケータイには、あたしのケータイと同じ、YとMとOのアルファベットを繋げたストラップがついていた。

 一週間前、じいさんを殺しに来て、コンクリ詰めにされて海に棄てられた、あのクスリ漬けの男の子のケータイについていたのと、同じストラップだった。

 あたしはとっさにケータイを忘れてきてしまったと嘘をついた。

 だけどそのとき、あたしの鞄の中でケータイがラブスカイウォーカーズの新曲を奏でた。

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