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第二部 秋雨(あきさめ)
第1話 ②
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「今日はこの家、壊すんだ?」
ショベルカーを降りてきたハルにあたしは聞いた。
「うん。なんかよくわかんないんだけど、先月一家離散して、家と土地手放したらしいんだ。」
被っていた黄色いヘルメットをとって、タオルで汗を拭う。
タンクトップから伸びた腕は、春にはじめて会ったときよりずいぶん筋肉がついたように見えた。
ハルが言うには、土地の買い手が見付かって、早速家を建てることになったらしく、鬼頭建設に仕事が舞い込んできたらしい。
「それにしても、なんか嫌な住宅街だよな」
ハルは言った。
「何が?」
とあたしが聞くと、ハルはこれから壊す家の壁を指差した。
そこにはスプレーで大きく「売春婦は引っ越せ」と書かれていた。
「あれだけじゃないんだぜ。全部剥がしてやったんだけど、俺たちが来たときは似たような張り紙が家中に貼ってあったんだ。たぶん近所の奴がやったんだろ」
スプレーの落書きを見て、ハルの言葉を聞いて、あたしの胸の奥の方がざわざわしていた。
夏の終わりに、女子高生に売春を強要していたとして、その女子高生と同じクラスの女子高生が三人逮捕される事件があった。
そのニュースは新聞の一面を飾り、ほんの何週間か前にバスケットボール部員全員が覚醒剤所持で逮捕されたばかりの高校に立て続けに起きたその不祥事は、連日新聞や週刊誌やテレビを賑わせた。
その高校は緑南高校と言って、この家からそう離れていない場所にあった。
「この家、あの事件で売春させられてた子の家らしいんだ。さっきナオさんが言ってた」
ナオと言うのは、まだ27歳の鬼頭建設で一番若い現場監督のことだ。
まだ27歳なのに、もう戸籍にバツがひとつついている。
だとしたらあたしはこの家に住んでいた女の子を知っていた。
あたしは慌てて表札がある場所まで走り、そこに加藤と書かれているのを見てため息をついた。
表札には苗字だけではなく、勇、静、亜衣、といった風に家族の名前が書かれていて、あたしはそこに友達の名前を見つけてしまった。
加藤麻衣。
「ハル、そろそろ解体作業始めるぞ」
ナオが、仕事をほっぽりだしてあたしのまわりを犬みたいにうろちょろするハルを捕まえにやってきた。
「ナオちゃん」
あたしはナオのことを呼びとめた。
彼が鬼頭建設に入社したときから、そう呼んでいた。
ナオは兄弟のいないあたしのお兄さんのような人だった。
だけど彼はいつからかあたしを、
「なんでしょう、お嬢様」
こどものころは結衣ちゃんと呼んでくれていたのに、そんな風にあたしを呼ぶようになった。
現場監督になって、大きな仕事をまかされるようになった頃からだ。
鬼頭建設がただの建設会社ではないということを彼は知ってしまったのだと思う。
あたしがただの経営者のかわいい孫娘なんかじゃなくて、ヤクザの孫だということを彼は知ってしまったのだ。
だから昔あたしに見せてくれたような屈託のないハルのような笑顔を、彼があたしに向けることはなくなっていた。
彼があたしと話すとき、彼はいつも慣れない敬語を引きつった顔で話した。
だからいつの間にかあたしも彼と接するとき、ヤクザの孫の顔になっていた。
冷たい顔をしているのが自分でもわかるくらいに。
「この家に住んでた人のこと知りたいの」
一家離散して、それからどこに移り住んだのか。
特に、次女の麻衣っていう子がどこに住んでいるのか。
夏の終わりのあの事件と関係があるなら、逮捕された三人の女子高生たちや事件の関係者のことも知りたい、とあたしはナオに話した。
ナオは建設会社のただの現場監督だったけれど、あちこちに広いコネクションを持っていることをあたしは知っていた。
ナオのコネクションによる情報のおかげで鬼頭建設は本来なら取れないような仕事を取ることができたことが何度もあった。
「わかりました。知り合いにすぐに調べさせます」
ナオはそう言って、足早にハルを追い掛けていった。
あたしは鞄からケータイを取り出して、何かあったら電話してねと言われた麻衣のケータイの番号を呼び出した。
「おかけになった電話番号は現在使われておりません。おかけになった電話番号は現在使われておりません。おかけになった電話番号は現在使われておりません。おかけになっ」
お昼を過ぎる頃、朝家の形をしていたそれは、瓦礫の山になっていた。
ハルが瓦礫の山の中で楽しそうに笑っていた。
いつかきっと、ハルもわたしを結衣と呼んでくれなくなる日がくる。
そんな日を迎えるくらいなら、このまま時が止まってしまえばいいのに。
あたしはそう思った。
何かあったら電話してね。
あのとき、麻衣はあたしにそう言った。
何かあったのに電話もかけてこなかったのはあんたの方じゃないか、とあたしは思った。
「加藤家は両親が先月離婚届を出していました。
長女の亜衣と三女の実衣は母方にひきとられたようです。
もっとも長女の亜衣は、事件の一年前から交際中の男の下宿先に転がりこんでいるようですが。
母方の実家は愛知県の弥富市で、母親と三女の実衣は母親の実家に引っ越したそうです。
父方に引き取られた麻衣という少女の行方は残念ながらわかりませんでしたが、父親の実家が北海道の富良野市にあることはわかりました」
その夜、あたしはケータイでナオから報告を受けた。
「仕事が早いね」
あたしがそう言うと、
「知り合いの探偵に依頼をしようと思って連絡をとってみたんです」
ナオはそう答えた。
その探偵は例の事件で逮捕された三人の女子高生のうちのひとりから依頼を受けて麻衣の身辺調査をしていたらしい。
奇妙な偶然があるものだ、とあたしは思った。
「彼からニュースだけではわからないいろいろな情報を聞くことができましたよ」
逮捕された三人の女子高生たちは、いずれも証拠不十分として起訴されることはなかったそうだ。
三人のうちのひとり、内藤美嘉という女の子は事件の最中にレイプされて精神を病み、事件後も駅前の保土ヶ谷の駅前にある病院に入院しているそうだ。
もうひとり、山汐凛という女の子は、事件の最中、実の兄のこどもを妊娠していたが、流産してしまったということだった。
事件後まもなく母親が再婚をし、横浜を去っていた。
「そして最後のひとりが、逮捕後の警察の事情聴取で他のふたりが『金が欲しくてやった』と容疑を認めていたのに対し、唯一『自分は関係ない』『知らない』と容疑を否認しつづけ、不起訴という形に仕立てあげた人物です。
同時に探偵に加藤麻衣の身辺調査を依頼した人物でもあります」
おそらく麻衣にウリを強要した三人組のリーダーといったところだろう。
内藤美嘉も山汐凛も、容疑を認めていたし、それなりの罰もすでに受けていた。
だけどその少女だけが、何かしらの罪を背負うことも罰を受けることもなかった。
きっと悪知恵のよく働く嫌な女に違いなかった。
あたしはナオに報告の続きを促した。
「名前は、夏目メイ」
先日、お祖父様の命を狙って鉄砲玉を送りつけてきた夏目組の頭の娘です。
ナオはそう言って、あたしは電話を切った。
ケータイを机に置いた手で引き出しを開けると、あたしはじいさんにもらった拳銃を握り締めた。
銀色の拳銃はずしりと重く、冷たかった。
ショベルカーを降りてきたハルにあたしは聞いた。
「うん。なんかよくわかんないんだけど、先月一家離散して、家と土地手放したらしいんだ。」
被っていた黄色いヘルメットをとって、タオルで汗を拭う。
タンクトップから伸びた腕は、春にはじめて会ったときよりずいぶん筋肉がついたように見えた。
ハルが言うには、土地の買い手が見付かって、早速家を建てることになったらしく、鬼頭建設に仕事が舞い込んできたらしい。
「それにしても、なんか嫌な住宅街だよな」
ハルは言った。
「何が?」
とあたしが聞くと、ハルはこれから壊す家の壁を指差した。
そこにはスプレーで大きく「売春婦は引っ越せ」と書かれていた。
「あれだけじゃないんだぜ。全部剥がしてやったんだけど、俺たちが来たときは似たような張り紙が家中に貼ってあったんだ。たぶん近所の奴がやったんだろ」
スプレーの落書きを見て、ハルの言葉を聞いて、あたしの胸の奥の方がざわざわしていた。
夏の終わりに、女子高生に売春を強要していたとして、その女子高生と同じクラスの女子高生が三人逮捕される事件があった。
そのニュースは新聞の一面を飾り、ほんの何週間か前にバスケットボール部員全員が覚醒剤所持で逮捕されたばかりの高校に立て続けに起きたその不祥事は、連日新聞や週刊誌やテレビを賑わせた。
その高校は緑南高校と言って、この家からそう離れていない場所にあった。
「この家、あの事件で売春させられてた子の家らしいんだ。さっきナオさんが言ってた」
ナオと言うのは、まだ27歳の鬼頭建設で一番若い現場監督のことだ。
まだ27歳なのに、もう戸籍にバツがひとつついている。
だとしたらあたしはこの家に住んでいた女の子を知っていた。
あたしは慌てて表札がある場所まで走り、そこに加藤と書かれているのを見てため息をついた。
表札には苗字だけではなく、勇、静、亜衣、といった風に家族の名前が書かれていて、あたしはそこに友達の名前を見つけてしまった。
加藤麻衣。
「ハル、そろそろ解体作業始めるぞ」
ナオが、仕事をほっぽりだしてあたしのまわりを犬みたいにうろちょろするハルを捕まえにやってきた。
「ナオちゃん」
あたしはナオのことを呼びとめた。
彼が鬼頭建設に入社したときから、そう呼んでいた。
ナオは兄弟のいないあたしのお兄さんのような人だった。
だけど彼はいつからかあたしを、
「なんでしょう、お嬢様」
こどものころは結衣ちゃんと呼んでくれていたのに、そんな風にあたしを呼ぶようになった。
現場監督になって、大きな仕事をまかされるようになった頃からだ。
鬼頭建設がただの建設会社ではないということを彼は知ってしまったのだと思う。
あたしがただの経営者のかわいい孫娘なんかじゃなくて、ヤクザの孫だということを彼は知ってしまったのだ。
だから昔あたしに見せてくれたような屈託のないハルのような笑顔を、彼があたしに向けることはなくなっていた。
彼があたしと話すとき、彼はいつも慣れない敬語を引きつった顔で話した。
だからいつの間にかあたしも彼と接するとき、ヤクザの孫の顔になっていた。
冷たい顔をしているのが自分でもわかるくらいに。
「この家に住んでた人のこと知りたいの」
一家離散して、それからどこに移り住んだのか。
特に、次女の麻衣っていう子がどこに住んでいるのか。
夏の終わりのあの事件と関係があるなら、逮捕された三人の女子高生たちや事件の関係者のことも知りたい、とあたしはナオに話した。
ナオは建設会社のただの現場監督だったけれど、あちこちに広いコネクションを持っていることをあたしは知っていた。
ナオのコネクションによる情報のおかげで鬼頭建設は本来なら取れないような仕事を取ることができたことが何度もあった。
「わかりました。知り合いにすぐに調べさせます」
ナオはそう言って、足早にハルを追い掛けていった。
あたしは鞄からケータイを取り出して、何かあったら電話してねと言われた麻衣のケータイの番号を呼び出した。
「おかけになった電話番号は現在使われておりません。おかけになった電話番号は現在使われておりません。おかけになった電話番号は現在使われておりません。おかけになっ」
お昼を過ぎる頃、朝家の形をしていたそれは、瓦礫の山になっていた。
ハルが瓦礫の山の中で楽しそうに笑っていた。
いつかきっと、ハルもわたしを結衣と呼んでくれなくなる日がくる。
そんな日を迎えるくらいなら、このまま時が止まってしまえばいいのに。
あたしはそう思った。
何かあったら電話してね。
あのとき、麻衣はあたしにそう言った。
何かあったのに電話もかけてこなかったのはあんたの方じゃないか、とあたしは思った。
「加藤家は両親が先月離婚届を出していました。
長女の亜衣と三女の実衣は母方にひきとられたようです。
もっとも長女の亜衣は、事件の一年前から交際中の男の下宿先に転がりこんでいるようですが。
母方の実家は愛知県の弥富市で、母親と三女の実衣は母親の実家に引っ越したそうです。
父方に引き取られた麻衣という少女の行方は残念ながらわかりませんでしたが、父親の実家が北海道の富良野市にあることはわかりました」
その夜、あたしはケータイでナオから報告を受けた。
「仕事が早いね」
あたしがそう言うと、
「知り合いの探偵に依頼をしようと思って連絡をとってみたんです」
ナオはそう答えた。
その探偵は例の事件で逮捕された三人の女子高生のうちのひとりから依頼を受けて麻衣の身辺調査をしていたらしい。
奇妙な偶然があるものだ、とあたしは思った。
「彼からニュースだけではわからないいろいろな情報を聞くことができましたよ」
逮捕された三人の女子高生たちは、いずれも証拠不十分として起訴されることはなかったそうだ。
三人のうちのひとり、内藤美嘉という女の子は事件の最中にレイプされて精神を病み、事件後も駅前の保土ヶ谷の駅前にある病院に入院しているそうだ。
もうひとり、山汐凛という女の子は、事件の最中、実の兄のこどもを妊娠していたが、流産してしまったということだった。
事件後まもなく母親が再婚をし、横浜を去っていた。
「そして最後のひとりが、逮捕後の警察の事情聴取で他のふたりが『金が欲しくてやった』と容疑を認めていたのに対し、唯一『自分は関係ない』『知らない』と容疑を否認しつづけ、不起訴という形に仕立てあげた人物です。
同時に探偵に加藤麻衣の身辺調査を依頼した人物でもあります」
おそらく麻衣にウリを強要した三人組のリーダーといったところだろう。
内藤美嘉も山汐凛も、容疑を認めていたし、それなりの罰もすでに受けていた。
だけどその少女だけが、何かしらの罪を背負うことも罰を受けることもなかった。
きっと悪知恵のよく働く嫌な女に違いなかった。
あたしはナオに報告の続きを促した。
「名前は、夏目メイ」
先日、お祖父様の命を狙って鉄砲玉を送りつけてきた夏目組の頭の娘です。
ナオはそう言って、あたしは電話を切った。
ケータイを机に置いた手で引き出しを開けると、あたしはじいさんにもらった拳銃を握り締めた。
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