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第一部 夏雲(なつぐも)
最終話(第18話) ①
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十和がツムギを連れて、アタシたちがいたガード下にやってきたとき、凛はもうアタシが呼んだ救急車に乗せられて、病院に搬送されようとしていたところだった。
「何があった?」
十和に肩を捕まれたアタシは、凛が凛が、と呟くだけで、とても話ができる状態じゃなかったそうだ。
「流産しちゃったみたい、あの子。まだわからないけど」
と、メイが十和とツムギに他人事のように言ったらしい。
その言葉で十和は、自分がいない間に一体何が起きたのか、アタシが説明しなくても悟ったそうだ。
アタシが体を売って稼いだ凛の中絶費用だったはずのお金で、レッドストリングスの服を買ったメイが、凛に何をしたのか、十和には自分がいなかった間に何が起きたのか簡単に想像がついたそうだった。
ツムギはほっと胸を撫で下ろした顔をしていたらしい。
「もう殴る気も起きなかった」
十和は後でアタシにそう言った。
そうだとか、らしいとか、そんな風にしかアタシがこのときのことを話せないのは、アタシはこのときのことをまるで覚えていないからだった。
凛の下着が血で真っ赤に濡れて、ケータイで救急車を呼んだところまでは覚えていた。
それからのことは、アタシはその場にいてすべてを見ていたはずなのに、すべてアタシの記憶から抜け落ちていた。
それから先の記憶は、秋葉原駅からそう遠くない場所にある病院で、手術中を示す赤いランプをぼんやりと眺めているところからしかなかった。
アタシや十和は、凛といっしょに救急車に乗せられてその病院に運ばれたようだった。
病院にメイやツムギの姿はなかった。
赤いランプが消えて、
「山汐凛さんのお友達の方ですか?」
手術室から出てきたお医者さんが、すぐそばのベンチに座っていたアタシたちにそう尋ねた。
十和が、はい、とはっきり答えたことは今でも覚えている。
「大変申し上げにくいのですが……」
その後のお医者さんの言葉も。
窓に叩き付けられる、どしゃぶりの雨の音も。
凛は流産した。
それだけじゃなかった。
「詳しく検査してみないとわかりませんが、おそらく凛さんはもう二度と妊娠できないでしょう」
お医者さんはそう言った。
手術室からベッドに寝かされたまま出てきた凛に、アタシはかける言葉が見付からなかった。
凛を載せたベッドは、看護師さんにどこかの病室へ運ばれていった。
アタシはそれをただじっと眺めていた。
「何か言葉をかけてやらないのか」
十和にそう言われたけれど、アタシにはこんなときにかけてあげられる言葉が見付からなかった。
ただ、いつか凛が美嘉のことを言った、因果応報という言葉をアタシは思い出していた。
アタシたちはその晩、薬で眠らされている凛の病室で眠れないまま夜を明かした。
「お兄ちゃん……」
凛が寝言に、アタシの心が痛かった。
翌朝、凛が目を覚ますより早くアタシたちは病室を出た。
アタシたちは、乗客のまばらな始発の電車に乗って横浜へと帰った。
アタシは十和にどうしても確認しておきたいことがあった。
「メイが十和のこと、殺人犯だって言ってたよね。あれ、どういう意味?」
十和があの硲という探偵につきつけたバタフライナイフには赤黒い血がこびりついていた。
あのナイフを十和は使ったことがあるのだ。
アタシはずっとそのことを考えないようにしていたけれど、気にしないでいることはもうできそうになかった。
「あの子、頭がおかしいんだよ」
麻衣を混乱させるようなことを言って楽しんでるだけだよ、十和はそう言って笑った。
アタシはそれを聞いて、少しだけほっとした。
それからしばらくして、電車が横浜に着く頃、十和は電車の中吊り広告を見ていた。
それは女性週刊誌の広告で、
「人気バンド『エンドケイプ』のボーカル、俳優としても活躍するタレントsinに一体何が?
強盗殺人未遂事件の真相に迫る!」
大きな見出しでそう書かれていた。
「ぼくが刺したんだ」
十和はそう言った。
彼はもう笑ってはいなかった。
電車を降りたアタシたちは、いつもの公園の遊具で眠ることにした。
昨日はいろんなことが起こりすぎて、アタシたちはひどく疲れていた。
疲れているのに、寝つけなかった。
十和があのsinという男の人を刺した。
いくら疲れているからと言って、そんなことを聞かされて眠れるほど、アタシの心は頑丈に出来てはいなかった。
十和も同じだったらしく、遊具の狭い天井をぼんやりと見つめていた。
「自首、しないの?」
アタシはその横顔に聞いた。
「麻衣にはじめて会った日だよ」
十和は返事のかわりにぽつりぽつりと話し始めた。
「あのsinって奴がぼくを抱きながら言ったんだ。
君、お兄さんいない? って。
君のお兄さんを知ってるよ、って。
君のお兄さん、東大の院生だよね? って。
どうしてあいつが兄貴のこと知ってるか、ぼくにはわからなかった」
アタシは黙って、十和の語る言葉を聞いていた。
「兄貴さ、ゲイだったんだ」
十和はそう続けた。
「兄貴も体、売ってたんだって。
あいつは兄貴を買ったことがあったらしいんだ。
そのときにぼくのことを聞いたらしかった。
たぶん、兄貴のことだから、年の離れたできそこないの弟がいるとか言ったんだと思う。
あいつは、兄貴とぼくの顔がそっくりだったから一目見ただけで、ぼくが兄貴の弟だって、わかったらしかった。
あの出来のいい、いつもすました顔をしてる兄貴も、俺といっしょで男に体を売ってるって知って、それも俺みたいな家に帰りたくないとか金がほしいとかそんな理由じゃなくてさ、本物のゲイだとわかって、男に抱かれたくてしかたがないって知って、俺はあいつに抱かれながらこみあげてくる笑いをこらえるのに必死だった」
十和はそう言いながら、笑うことはなかった。
「だけどあいつ、俺を抱いた後で言ったんだ。
君はお兄さんと比べたら、頭だけじゃなくて、体もあんまりよくないんだね、って。
そのとき、こどもの頃からずっと兄貴と比べられてきて、父さんや母さんが兄貴ばかりかわいがって、自慢して、俺を一度も褒めてくれたり頭を撫でてくれたりしたことがなかったのを思い出したんだ。
ずっと考えないように、俺は兄貴にはかなわないから、思い出さないようにしてたのに。
頭に血がのぼって、何も考えられなくなった。
父さんや母さんにできそこないだと罵られる声が聞こえた。
兄貴の、いつも俺を馬鹿にする笑い声が聞こえてた。
気が付いたら、ナイフをあいつの腹に刺していた。
一度刺したら、恐くなって何度も刺した。
あいつが動かなくなるまで刺した。
ぼくはあいつの財布からもらうはずだったお金を抜きとって、ホテルを出たんだ」
それが、まだ誰も知らない、人気タレントの強盗殺人未遂事件の真相だった。
「自首、しないの?」
アタシはもう一度だけ、十和に尋ねた。
「自首するのもわるくないかもしれないね」
十和は笑った。
「俺が自首して、警察の取り調べでウリやってたこととか、兄貴もあいつに体売ってたこと話せば、官僚やってる父さんのキャリアに傷をつけられるし、将来有望な兄貴の未来もめちゃくちゃにしてやれる」
十和は優しい人だったけれど、悲しい人だなとアタシはそのとき思った。
彼は、そんなことになったらお父さんやお兄さんがどうなってしまうのかはわかっても、きっと自分がどうなってしまうのかわからないんだと思った。
「でもその前に、時計を買って、それをつけて麻衣といっしょに海を見に行きたいんだ。
広い海で、映画の中のジャック・マイヨールみたいにはうまくは潜れないだろけれど、潜水夫の真似事みたいなことでいいから一度してみたいんだ」
アタシたちは手をつないで、その手が簡単にはなれてしまわないように指をからめた。
「そろそろ寝よう」
アタシたちは余程疲れていたのか、次の日の朝まで眠り続けた。
夢の中でアタシは何台ものパトカーのサイレンを聞いた。
「麻衣、起きて」
メイの声が聞こえた気がした。
目を覚ますと、やっぱり外は雨が降っていて、赤い長靴と黄色い傘のメイが、遊具の中のアタシたちを覗きこんでいた。
「楽しい夏休みは今日で終わりだよ、麻衣。
あんたのひと夏の恋もこれでおしまい」
メイはそう言って、アタシにも外が見えるように、体を遊具の前から退かした。
何台ものパトカーが、公園の入り口に見えた。
十和はアタシの目の前で逮捕された。
彼は特に抵抗することもなく、とても穏やかな顔をして、パトカーに自分から乗り込んだ。
「十和、十和」
アタシはパトカーにすがりついて、窓の中に見える彼の名前を何度も呼んだ。
彼はそんなアタシに笑いかけた。
「だいじょうぶ」
声は聞こえなかったけれど、十和がそう言ったのが口の動きでわかった。
麻衣はいい子だから。ぼくなんかいなくてもきっとしあわせになれるよ。
「そんなことない。そんなことないよ、十和。
十和がいなくなったらアタシ、どうしたらいいのかわからないよ。
ずっといっしょにいようって約束したじゃない。いつか海のきれいなところで海の家いっしょにやろうって約束したじゃない。
アタシ、十和がいなくちゃひとりじゃ何にもできない。何にも決められないよ」
十和はまた、
「だいじょうぶ」
と言って笑った。
それが、アタシと十和の別離(わかれ)だった。
パトカーがゆっくりと動き出すと、その場にはアタシとメイだけが残された。
「どうして……?」
アタシは呟いた。
「メイはyoshiのことがずっと好きだったんでしょう?
だからアタシとyoshiを別れさせるために美嘉をけしかけて、アタシにウリをさせて、アタシがウリをしてたことyoshiに話して、アタシのことも美嘉のことも凛のことも、みんなみんなめちゃくちゃにして、yoshiを自分のものにして満足でしょ?
どうしてまたアタシから幸せを奪うの?
アタシ、メイに何かした?
何もしてないよね?」
アタシはメイに詰め寄った。
メイはアタシの襟首をつかんだ。
「あんたがフツーの女の子でいるのが、最初から気に入らなかったんだよ」
そう言った。
「まぬけづらして、フツーの服着て、フツーの顔して、フツーの家族に囲まれて、フツーの恋愛して、あんただけがフツーなのが一番気に入らなかったんだよ」
メイはアタシの襟首をつかんでいた手を離すと、ヒールのかかとでアタシを蹴り飛ばした。
「だからね、ずっと、殺してやりたいくらい憎かったんだよ」
メイはそう言うと、アタシに拳銃を向けた。
アタシは目を疑った。
「これね、凛のお兄さんがナナセに作ってあげたようなモデルガンじゃないよ。本物だよ」
メイはアタシの足元に向かって、拳銃の引金をひいた。
ぱん、と乾いた音がして、あたしの足元で土ぼこりが舞った。
「どうして? どうしてメイがそんなもの持ってるの?」
メイは答えなかった。
そのかわりに、
「ねぇ知ってる? あたしたちの中でね、フツーの家の子ってあんただけなんだよ」
そう言った。
「yoshiは母子家庭。
美嘉は内縁の妻のこども。
凛は幼い頃に両親が離婚してる。
ナナセはお父さんがゲイで、ご両親は偽装結婚なんだって。知ってた?」
知らなかった。
「さっきの十和だっけ。あの人も官僚のお父さんが出来のいいお兄さんばかりかわいがって、お父さんから愛してもらえなかった。だから男に体売ってたんでしょ?」
どうしてメイがそのことを知ってるんだろう。
「フツーの家の子って、あんただけなんだよ」
アタシはずっと不思議だった。
みんな確かにアタシと違ってフツーの家の子じゃなかったかもしれない。
だけどみんなそれでも家族の話をアタシにしてくれた。
メイだけが家族のことをアタシに語らなかった。
「メイの家もフツーじゃないの?」
アタシは尋ねた。
「そうね、たぶん一番フツーじゃないわね。
あたしがどうして今、拳銃なんか持ってると思う?」
フツーの女の子に拳銃なんて手に入れられるわけがなかった。
「まだわからないんだ?
じゃあ、これならどうかな?
バスケ部にクスリを流したの誰だと思う?」
「メイ……なの?」
嘘だと思いたかった。
だけどメイは、
「うん、あたし」
そう答えた。
アタシは目の前が真っ暗になった。
クスリさえなかったら、ナナセは凛にそそのかされても美嘉をレイプなんてしなかったかもしれなかった。
クスリさえなかったらバスケ部はインターハイに行けたかもしれなかった。廃部になんてならなくてもすんだかもしれなかった。
yoshiも退学になんかならずに、早く実業団に入ってお母さんに楽をさせてあげたい、そんな夢を叶えることができたはずだった。
「アタシの家ね、暴力団なの。
だから、拳銃とかクスリとか、いくらでも手に入るんだ」
「何があった?」
十和に肩を捕まれたアタシは、凛が凛が、と呟くだけで、とても話ができる状態じゃなかったそうだ。
「流産しちゃったみたい、あの子。まだわからないけど」
と、メイが十和とツムギに他人事のように言ったらしい。
その言葉で十和は、自分がいない間に一体何が起きたのか、アタシが説明しなくても悟ったそうだ。
アタシが体を売って稼いだ凛の中絶費用だったはずのお金で、レッドストリングスの服を買ったメイが、凛に何をしたのか、十和には自分がいなかった間に何が起きたのか簡単に想像がついたそうだった。
ツムギはほっと胸を撫で下ろした顔をしていたらしい。
「もう殴る気も起きなかった」
十和は後でアタシにそう言った。
そうだとか、らしいとか、そんな風にしかアタシがこのときのことを話せないのは、アタシはこのときのことをまるで覚えていないからだった。
凛の下着が血で真っ赤に濡れて、ケータイで救急車を呼んだところまでは覚えていた。
それからのことは、アタシはその場にいてすべてを見ていたはずなのに、すべてアタシの記憶から抜け落ちていた。
それから先の記憶は、秋葉原駅からそう遠くない場所にある病院で、手術中を示す赤いランプをぼんやりと眺めているところからしかなかった。
アタシや十和は、凛といっしょに救急車に乗せられてその病院に運ばれたようだった。
病院にメイやツムギの姿はなかった。
赤いランプが消えて、
「山汐凛さんのお友達の方ですか?」
手術室から出てきたお医者さんが、すぐそばのベンチに座っていたアタシたちにそう尋ねた。
十和が、はい、とはっきり答えたことは今でも覚えている。
「大変申し上げにくいのですが……」
その後のお医者さんの言葉も。
窓に叩き付けられる、どしゃぶりの雨の音も。
凛は流産した。
それだけじゃなかった。
「詳しく検査してみないとわかりませんが、おそらく凛さんはもう二度と妊娠できないでしょう」
お医者さんはそう言った。
手術室からベッドに寝かされたまま出てきた凛に、アタシはかける言葉が見付からなかった。
凛を載せたベッドは、看護師さんにどこかの病室へ運ばれていった。
アタシはそれをただじっと眺めていた。
「何か言葉をかけてやらないのか」
十和にそう言われたけれど、アタシにはこんなときにかけてあげられる言葉が見付からなかった。
ただ、いつか凛が美嘉のことを言った、因果応報という言葉をアタシは思い出していた。
アタシたちはその晩、薬で眠らされている凛の病室で眠れないまま夜を明かした。
「お兄ちゃん……」
凛が寝言に、アタシの心が痛かった。
翌朝、凛が目を覚ますより早くアタシたちは病室を出た。
アタシたちは、乗客のまばらな始発の電車に乗って横浜へと帰った。
アタシは十和にどうしても確認しておきたいことがあった。
「メイが十和のこと、殺人犯だって言ってたよね。あれ、どういう意味?」
十和があの硲という探偵につきつけたバタフライナイフには赤黒い血がこびりついていた。
あのナイフを十和は使ったことがあるのだ。
アタシはずっとそのことを考えないようにしていたけれど、気にしないでいることはもうできそうになかった。
「あの子、頭がおかしいんだよ」
麻衣を混乱させるようなことを言って楽しんでるだけだよ、十和はそう言って笑った。
アタシはそれを聞いて、少しだけほっとした。
それからしばらくして、電車が横浜に着く頃、十和は電車の中吊り広告を見ていた。
それは女性週刊誌の広告で、
「人気バンド『エンドケイプ』のボーカル、俳優としても活躍するタレントsinに一体何が?
強盗殺人未遂事件の真相に迫る!」
大きな見出しでそう書かれていた。
「ぼくが刺したんだ」
十和はそう言った。
彼はもう笑ってはいなかった。
電車を降りたアタシたちは、いつもの公園の遊具で眠ることにした。
昨日はいろんなことが起こりすぎて、アタシたちはひどく疲れていた。
疲れているのに、寝つけなかった。
十和があのsinという男の人を刺した。
いくら疲れているからと言って、そんなことを聞かされて眠れるほど、アタシの心は頑丈に出来てはいなかった。
十和も同じだったらしく、遊具の狭い天井をぼんやりと見つめていた。
「自首、しないの?」
アタシはその横顔に聞いた。
「麻衣にはじめて会った日だよ」
十和は返事のかわりにぽつりぽつりと話し始めた。
「あのsinって奴がぼくを抱きながら言ったんだ。
君、お兄さんいない? って。
君のお兄さんを知ってるよ、って。
君のお兄さん、東大の院生だよね? って。
どうしてあいつが兄貴のこと知ってるか、ぼくにはわからなかった」
アタシは黙って、十和の語る言葉を聞いていた。
「兄貴さ、ゲイだったんだ」
十和はそう続けた。
「兄貴も体、売ってたんだって。
あいつは兄貴を買ったことがあったらしいんだ。
そのときにぼくのことを聞いたらしかった。
たぶん、兄貴のことだから、年の離れたできそこないの弟がいるとか言ったんだと思う。
あいつは、兄貴とぼくの顔がそっくりだったから一目見ただけで、ぼくが兄貴の弟だって、わかったらしかった。
あの出来のいい、いつもすました顔をしてる兄貴も、俺といっしょで男に体を売ってるって知って、それも俺みたいな家に帰りたくないとか金がほしいとかそんな理由じゃなくてさ、本物のゲイだとわかって、男に抱かれたくてしかたがないって知って、俺はあいつに抱かれながらこみあげてくる笑いをこらえるのに必死だった」
十和はそう言いながら、笑うことはなかった。
「だけどあいつ、俺を抱いた後で言ったんだ。
君はお兄さんと比べたら、頭だけじゃなくて、体もあんまりよくないんだね、って。
そのとき、こどもの頃からずっと兄貴と比べられてきて、父さんや母さんが兄貴ばかりかわいがって、自慢して、俺を一度も褒めてくれたり頭を撫でてくれたりしたことがなかったのを思い出したんだ。
ずっと考えないように、俺は兄貴にはかなわないから、思い出さないようにしてたのに。
頭に血がのぼって、何も考えられなくなった。
父さんや母さんにできそこないだと罵られる声が聞こえた。
兄貴の、いつも俺を馬鹿にする笑い声が聞こえてた。
気が付いたら、ナイフをあいつの腹に刺していた。
一度刺したら、恐くなって何度も刺した。
あいつが動かなくなるまで刺した。
ぼくはあいつの財布からもらうはずだったお金を抜きとって、ホテルを出たんだ」
それが、まだ誰も知らない、人気タレントの強盗殺人未遂事件の真相だった。
「自首、しないの?」
アタシはもう一度だけ、十和に尋ねた。
「自首するのもわるくないかもしれないね」
十和は笑った。
「俺が自首して、警察の取り調べでウリやってたこととか、兄貴もあいつに体売ってたこと話せば、官僚やってる父さんのキャリアに傷をつけられるし、将来有望な兄貴の未来もめちゃくちゃにしてやれる」
十和は優しい人だったけれど、悲しい人だなとアタシはそのとき思った。
彼は、そんなことになったらお父さんやお兄さんがどうなってしまうのかはわかっても、きっと自分がどうなってしまうのかわからないんだと思った。
「でもその前に、時計を買って、それをつけて麻衣といっしょに海を見に行きたいんだ。
広い海で、映画の中のジャック・マイヨールみたいにはうまくは潜れないだろけれど、潜水夫の真似事みたいなことでいいから一度してみたいんだ」
アタシたちは手をつないで、その手が簡単にはなれてしまわないように指をからめた。
「そろそろ寝よう」
アタシたちは余程疲れていたのか、次の日の朝まで眠り続けた。
夢の中でアタシは何台ものパトカーのサイレンを聞いた。
「麻衣、起きて」
メイの声が聞こえた気がした。
目を覚ますと、やっぱり外は雨が降っていて、赤い長靴と黄色い傘のメイが、遊具の中のアタシたちを覗きこんでいた。
「楽しい夏休みは今日で終わりだよ、麻衣。
あんたのひと夏の恋もこれでおしまい」
メイはそう言って、アタシにも外が見えるように、体を遊具の前から退かした。
何台ものパトカーが、公園の入り口に見えた。
十和はアタシの目の前で逮捕された。
彼は特に抵抗することもなく、とても穏やかな顔をして、パトカーに自分から乗り込んだ。
「十和、十和」
アタシはパトカーにすがりついて、窓の中に見える彼の名前を何度も呼んだ。
彼はそんなアタシに笑いかけた。
「だいじょうぶ」
声は聞こえなかったけれど、十和がそう言ったのが口の動きでわかった。
麻衣はいい子だから。ぼくなんかいなくてもきっとしあわせになれるよ。
「そんなことない。そんなことないよ、十和。
十和がいなくなったらアタシ、どうしたらいいのかわからないよ。
ずっといっしょにいようって約束したじゃない。いつか海のきれいなところで海の家いっしょにやろうって約束したじゃない。
アタシ、十和がいなくちゃひとりじゃ何にもできない。何にも決められないよ」
十和はまた、
「だいじょうぶ」
と言って笑った。
それが、アタシと十和の別離(わかれ)だった。
パトカーがゆっくりと動き出すと、その場にはアタシとメイだけが残された。
「どうして……?」
アタシは呟いた。
「メイはyoshiのことがずっと好きだったんでしょう?
だからアタシとyoshiを別れさせるために美嘉をけしかけて、アタシにウリをさせて、アタシがウリをしてたことyoshiに話して、アタシのことも美嘉のことも凛のことも、みんなみんなめちゃくちゃにして、yoshiを自分のものにして満足でしょ?
どうしてまたアタシから幸せを奪うの?
アタシ、メイに何かした?
何もしてないよね?」
アタシはメイに詰め寄った。
メイはアタシの襟首をつかんだ。
「あんたがフツーの女の子でいるのが、最初から気に入らなかったんだよ」
そう言った。
「まぬけづらして、フツーの服着て、フツーの顔して、フツーの家族に囲まれて、フツーの恋愛して、あんただけがフツーなのが一番気に入らなかったんだよ」
メイはアタシの襟首をつかんでいた手を離すと、ヒールのかかとでアタシを蹴り飛ばした。
「だからね、ずっと、殺してやりたいくらい憎かったんだよ」
メイはそう言うと、アタシに拳銃を向けた。
アタシは目を疑った。
「これね、凛のお兄さんがナナセに作ってあげたようなモデルガンじゃないよ。本物だよ」
メイはアタシの足元に向かって、拳銃の引金をひいた。
ぱん、と乾いた音がして、あたしの足元で土ぼこりが舞った。
「どうして? どうしてメイがそんなもの持ってるの?」
メイは答えなかった。
そのかわりに、
「ねぇ知ってる? あたしたちの中でね、フツーの家の子ってあんただけなんだよ」
そう言った。
「yoshiは母子家庭。
美嘉は内縁の妻のこども。
凛は幼い頃に両親が離婚してる。
ナナセはお父さんがゲイで、ご両親は偽装結婚なんだって。知ってた?」
知らなかった。
「さっきの十和だっけ。あの人も官僚のお父さんが出来のいいお兄さんばかりかわいがって、お父さんから愛してもらえなかった。だから男に体売ってたんでしょ?」
どうしてメイがそのことを知ってるんだろう。
「フツーの家の子って、あんただけなんだよ」
アタシはずっと不思議だった。
みんな確かにアタシと違ってフツーの家の子じゃなかったかもしれない。
だけどみんなそれでも家族の話をアタシにしてくれた。
メイだけが家族のことをアタシに語らなかった。
「メイの家もフツーじゃないの?」
アタシは尋ねた。
「そうね、たぶん一番フツーじゃないわね。
あたしがどうして今、拳銃なんか持ってると思う?」
フツーの女の子に拳銃なんて手に入れられるわけがなかった。
「まだわからないんだ?
じゃあ、これならどうかな?
バスケ部にクスリを流したの誰だと思う?」
「メイ……なの?」
嘘だと思いたかった。
だけどメイは、
「うん、あたし」
そう答えた。
アタシは目の前が真っ暗になった。
クスリさえなかったら、ナナセは凛にそそのかされても美嘉をレイプなんてしなかったかもしれなかった。
クスリさえなかったらバスケ部はインターハイに行けたかもしれなかった。廃部になんてならなくてもすんだかもしれなかった。
yoshiも退学になんかならずに、早く実業団に入ってお母さんに楽をさせてあげたい、そんな夢を叶えることができたはずだった。
「アタシの家ね、暴力団なの。
だから、拳銃とかクスリとか、いくらでも手に入るんだ」
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婚約者に子どもが出来ました。その子は後継者にはなりません。
あお
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