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第一部 夏雲(なつぐも)

第17話 ①

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 2年前、中学2年の夏に、アタシは15年の人生で一度だけ海外旅行をしたことがあった。

 パパがいてママがいて、お姉ちゃんとアタシと妹と、それからハーちゃんとヒーもいっしょで、家族全員で旅行をしたのはそれが最後のことだった。

 一足早く大人になってしまったお姉ちゃんはたぶんもう、彼氏と旅行にでかけることはあっても、家族旅行には参加しないと思う。

 行き先は韓国だった。

 ハワイとかグアムとかプーケットとか、いろいろな国のリゾート地が候補に上がったけれど、韓国に決まったのは韓流ドラマにハマっていたママとハーちゃんのおかげ。

 有名な韓流ドラマのロケ地をまわるツアーにアタシたち一家は参加した。

 ママもお姉ちゃんもアタシも妹も、それからパパとヒーも初めての海外旅行だった。

 アタシたちはまるで修学旅行ではじめて東京にやってきた地方の中学生みたいで、何度も海外旅行をしたことがあるハーちゃんがバスガイドさんか担任の先生みたいにアタシたちを引率してくれた。

 夜、ハーちゃんに誘われて、ママとお姉ちゃんと妹とアタシの五人は、パパとヒーをホテルに残して、韓国式のマッサージをしてもらいに街に出かけた。

 アタシをマッサージしてくれたのは、流暢な日本語を話すまだ若い女の人で、一通りマッサージをしてくれた後でアタシに言った。

「あなた、少し、心臓が悪いね」

 どきりとした。

「どうしてわかるの?」

 それは家族以外は誰も知らないことだった。

 日常生活に何か支障があるわけでも、運動ができないわけでもないし、病院に定期的に通っているわけでもなかった。

 別に人に話すようなことでもなかったから誰にも話したことなんてなかったけれど、だからきっとメイも知らないだろうけれど、アタシは生まれつき心臓に少し欠陥がある。

「わたし、いろんな人の体見てきた。触ればどこが悪いかすぐにわかる」

 けれど、アタシの心臓はフツーと少しだけ違っていて、不完全な作りをしていた。
 生まれつき弱く出来ていた。

「右手の人指し指に金の指輪をするといいよ」

 と、その人は言った。

「本当?」

 その人は、本当、と言った。

「きっとよくなる」

 だからと言って、その人はそれから悪徳商法のように金の指輪をアタシに売りつけたりはしなかった。

 善意でアタシにそう教えてくれていた。
 だからアタシはその言葉を信じることにした。

「わかった。ありがとう。
 今はまだアタシこどもだし、指輪なんて買えないけど、いつか買えるようになったら言う通りにしてみるね」

 アタシがそう言うと、その人はにっこりと笑った。

 すると、隣でアタシたちの話を聞いていたハーちゃんが、

「じゃあ、麻衣にこれあげる」

 右手の薬指にしていた金の指輪をはずすと、アタシにくれた。

 何万円もするような高価な指輪だった。

 それはハーちゃんが大学を卒業して働きはじめて、初任給で自分へのご褒美に買った宝物なのだと聞いていた。

「こんな高価なものもらえないよ」

 アタシは言った。

「じゃあ、貸してあげる。
 いつか自分で買えるようになったら返してくれたらいいよ」

 ハーちゃんはそう言って笑った。

 ハーちゃんの薬指につけられていたその指輪は、アタシの人指し指にぴったりの大きさだった。

「ありがとう。大切にするね」

 それ以来その金の指輪はアタシの右手の人指し指にある。
 アタシのお守りのようなものだった。

 アタシはこの夏休みに、大切にしていたいろんなものを失ったけれど、指輪はまだアタシの人指し指にあった。


 どうしてアタシがそんなことを思い出していたかと言えば、今日も泊まってることにしてとメールしたハーちゃんから、

「今度キルフェボンのタルトをおごるべし」

 と、絵文字つきのメールがさっき届いたばかりだから、というわけじゃなくて、シャワーのある漫画喫茶の個室で、もう小一時間も十和がアタシの手をとって、まじまじとアタシの指や爪を見つめていたからだった。

 一応マニキュアは塗ってあったけれど、もう何日もお手入れしていなくて、剥がれかけたところをじっと見つめられると恥ずかしかった。

「麻衣の爪、細長くてきれいだね」

 だけど十和はアタシにそう言った。

「そうかな」

 脚が長いとか、痩せてるとかみたいに他人と比べたりしないから、アタシは自分の爪の形しか知らなかったけれど、十和にそう言われるとなぜだかとてもうれしかった。

 流行りの少女漫画をふたりで交互に読んでいた途中で、十和がなぜアタシの爪にそんなに興味を示したのかはよくわからなかったけれど、

「こんな風に女の子の手を見るのははじめて。いつも男ばかり相手にしてるから」

 まじまじとこどものようにアタシの爪をいろんな角度から見る十和がすごくかわいらしくて、アタシは十和の手を握り返してあげたくなった。

 ピアニストみたいに細く長い指をした彼の手を優しく両手で包んであげたくなった。


「今月13日、歌手として俳優として活躍するタレント、sinさんが横浜市内のホテルで何者かに刺された強盗殺人未遂事件で、神奈川県警捜査本部は――」

 今日、街の電気屋さんを通りかかったとき、まだ我が家には一台もない地デジのテレビが、そんなニュースを流していた。

 アタシの手をひいて歩いていた十和が足を止めて、そのニュースを食い入るように見つめていた。

「一命をとりとめたものの意識不明の重体の状態が続いていたsinさんが本日未明、意識をとりもどしました。
 神奈川県警はsinさんの容態の回復を待って、事情を聞き捜査を進める方針を明らかにしました」

 アタシと十和がはじめて会った日、彼を買ったのがそのsinというタレントだった。

「この人、刺されたんだ?」

 アタシはその事件のことを知らなかった。
 もう何日もテレビなんて見てなかったし、だから新聞なんて番組覧さえ見ていなかった。

「そうみたいだね」

 十和はどこか上の空でそう言った。

「もうあんまり時間がないみたいだな」

 十和は空を見上げながら寂しそうに言った。

 何が? とアタシが尋ねると、

「もうすぐ夏が終わってしまうね。
 ほら、雲があんなにも早く空を流れてる」

 と十和は言った。

 アタシも空を見上げた。

 灰色の大きな雨雲が、雨を降らせたり降らせなかったり、この数日、アタシの好きなあの夏の大きな雲は空になかった。

 アタシはそうだねと返した。

 もうすぐ夏は終わってしまう。

「明日さ。晴れたら、いっしょに海に行かないか?
 麻衣といっしょに海が見たい。
 はじめて見る海は麻衣といっしょがいい」

 十和はアタシの手を握った。
 アタシはその手を強く握り返した。

「アタシも十和といっしょに海が見たい」

 アタシにとってこの夏は、あまりいい夏じゃなかった。
 だから十和といっしょに海を見たら、それはきっと素敵な思い出になると思った。


 アタシたちはその日も公園の遊具で寝た。

 遠足の前の夜のこどもみたいにアタシたちはなかなか寝つけなくて、そして朝早くに目を覚ました。

 どしゃぶりの雨を見ながら、

「海はまた今度だね」

 と、十和は言った。

「そうだね、また今度行こうね」

 アタシはそんな風に笑ったけれど、その今度は二度とアタシたちには訪れないような気がしていた。


 三日目の朝、アタシと十和は秋葉原行きの電車に揺られていた。

 アタシたちは手を繋いで並んで座って、十和は頭をアタシの肩にもたれかけて、寝不足のせいでうつらうつらしていた。

 アタシは立場が何だか逆だなと思って、それがおかしくて笑いをこらえるのに必死だった。

 同じ車両に乗っていた人たちもアタシと同じ気持ちだったらしく、そんなアタシたちの姿を微笑ましく見ているような気がした。

 もう二日もふたりきりで夜を明かしたのに、十和はアタシの体に触れてはこなかった。

 ただ優しくキスをしてくれるだけだった。

 彼は男の人に体を売ってはいるけれど、だからといってゲイじゃなかった。

「好きだよ、女の子は」

 彼はフツーの男の子だった。

 だけど彼はアタシを抱かない。

 メイからたった5日間だけもらえた本当の意味でのアタシの夏休みは今日がもう折り返しの日だった。

 夏休みはまだ続くけれど、アタシの夏休みは今日を除いたらあと2日しかなかった。

 だからもう十和とは海には行けないなと思った。

 男の人にはもう抱かれたくないという気持ちと、十和に抱かれたいという気持ちの間でアタシは揺れていた。


 凛からメールが届いたのは、十時すぎのことで、アタシたちがちょうどガストでモーニングを食べ終えた頃のことだった。

「これから秋葉原にお兄ちゃんと遊びに行くんだけど、麻衣ちゃんもどう?」

 アタシは凛からのメールを開いたケータイの画面を十和に見せた。
 いっしょにどう? という意味のつもりだった。

 凛はアタシの唯一の友達だ。

 だから凛には十和を紹介しておきたいなと思った。

「この子だろ、兄貴のこども妊娠したっていうの」

 だけど十和はそう言った。

「この子は産みたがってるけど、麻衣はこの子のために体売らされて中絶費用稼がされてたんだろ。あのメイとかいう子にさ」

 十和は眉をしかめてそう言った。

「中絶のお金、メイって子が管理してるんだよな。
 いくらかかるか知らないけど、そろそろそれくらいのお金なら貯まってるんじゃないのか?」

 そう言われて、ケータイの電卓機能を使って、アタシはそのときようやく、とっくに凛の中絶費用が貯まっていることに気付いた。

 ウリを再開してから、アタシは緑南高校の教師たちに毎日かわるがわる一週間抱かれたし、その後にはメイに裸の写メや動画をとられたりもしたけれど、最初の3.4人でアタシはもうそれくらいのお金は稼いでいた。

 どうして気付かなかったんだろう。

 メイはとっくに気付いていたはずで、その上で美嘉の復讐のつもりだったのかどうかはわからないけれど、アタシにあんな恥ずかしい思いをさせたのだ。

 そんなことを考えていて、メイが美嘉の復讐なんて考えるわけがないと思った。

 あの子はたぶん、美嘉にも凛にもアタシにも興味がない。

 凛から産婦人科にかかって妊娠しているかどうか検査を受けたという話は聞いていなかったから、たぶんまだ凛は検査をしていない。

 だけどこの10日前、丸2ヶ月生理が来ていなかった凛から、その後生理が来たという連絡もなかった。

 だから妊娠しているのは間違いなかった。

 妊娠したのは早ければ2ヶ月前になるんだろうけれど、確か妊娠9週までの中絶にかかる費用が11万5500円、10週から11週までが12万6000円だった。

 たぶんぎりぎり9週までにあてばまるか、もしかしたらその次の段階に入ってしまっているかもしれなかったけれど、第二段階までの中絶費用をアタシはもうとっくに稼いでいた。

 ただこのまま放っておいて、凛のお腹が目立ち始めるような12週以降の段階に入ってしまうと、中絶にかかる費用は44万1000円になってしまう。

 アタシは中絶にかかる費用を簡単に十和に説明した。

「最後のは、ぼくが欲しい時計と同じ値段だね」

 十和が言った。

 本当だった。

 十和の欲しがっている、オメガSEAマスターという時計とそれは同じ値段だった。
 不思議な偶然があるものだなとアタシは思った。

「ぼくにはよくわからないけど、麻衣は中絶させた方がいいって思ってるんだろ」

 アタシは、うんとうなづいた。

「だったら一日でも早く説得した方がいい。父親がいっしょにいるなら尚更だ」

 十和は言った。

「付き合うよ、ぼくも秋葉原」

 アタシたちが秋葉原に着いたのは、11時すぎのことだった。

 秋葉原駅の改札のすぐそばには凛とツムギがいて、そしてそこにはメイがいた。
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