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第2章 第8話

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 少年が男の言葉の真意について考えていると、

「もしかして君は言葉が話せなくなってしまったのかな?」

 男がそう言ったので、少年は頷いた。
 顔を見ればわかるのだそうだ。
 男の知り合いに昔、失語症になってしまったことがある者が何人かいたのだという。
 医者か何かだったのだろうか。
 少年は男がかつて会社を経営していたことを知らなかったからそんなことを思った。

「これは、僕からの君への感謝の気持ちだよ。受け取ってほしい」

 男は、スーツの内ポケットから、真空パックに入れられた何かを取り出した。
 それは、腕時計だった。
 高級時計に疎い少年も名前くらいは聞いたことのある「ユークロニア」という高級ブランドのもので、おそらく高級自動車並みに値の張るものだった。
 ユークロニアは確か雨野市内に本社と製造工場があった。

「本当なら箱に入れて渡したかったのだけれど、かさばるし、いつ君に会えるかわからなかったからね。
 それでも一応新品だよ。会社がなくなってしまって、発売されなかった2024年モデルの試作品。これは世界に1個しかないものなんだ」

 男は少年の右手首に腕時計をつけてくれた。
 男はユークロニアの社長だったという。名は橋良トネリというそうだ。

 先程の失語症に関するくだりは、彼が会社で社長という立場を利用し、部下に対しパワハラやモラハラを繰り返していたためだったのだが、男は少年にそのことは話さなかった。

「君が4年前に彼女とおそろいでつけていたスマートウォッチもよく似合っていたけれど、君はもう大人だ。
 大人の男はいい時計をひとつくらい持っていた方がいい」

 災厄の時代の到来の前から、いつの間にかそういう時代じゃなくなってしまっていたらしいが、彼よりも一回り上の世代はそういう人が多かったそうだ。
 そう言えば、少年の父親もひとつだけ、数十万円もする高級時計を持っていた。

「それにあれだけ流行ったスマートウォッチは今はもう使い物にならないしね」

 橋良はそう言って笑った。

 貰えないと思った。
 いくら成人したとはいえ、中学生の頃と外見が全く変わっていない自分には、全く似合っていないように見えたからだ。
 それ以上に、世界にひとつしかない、下手をすれば数千万円の値がつくかもしれないものなんて貰えないと思った。

「自分には似合わないと思うかい?」

 そう訊ねられ、少年は頷いた。
 タカミならもしかしたら似合うかもしれないが、自分にはまだ早い。早すぎる。

「いつか似合うようになるよ。良い時計っていうものは、そういうものなんだ。持ち主の成長を時を刻みながら見守ってくれるものなんだよ」

 僕は今でも十分君に似合っていると思うけどね、と言って男は笑った。

 笑顔のまま、その場に崩れ落ちるように倒れた。

 男の腹部には、ナイフで刺されたと思われる傷が何ヵ所もあった。

 刺されてからどれくらいの時間が経過していたのだろうか。
 今まで気づかなかったのが不思議なくらい大量に出血していた。
 雨が血のにおいを消し、アスファルトに流れ落ちた血を洗い流していたから気付けなかった。

 暴徒にやられたのだろう。
 こんなところで大の大人が5時間以上もショーシャンクごっこをやっていたからだ。

「最期に君に出会えてよかったよ。
 僕は、君に自由を与えられた者なんだ」

 自由? またしても少年には理解できない言葉を男は口にした。

「いくら仕事に忙殺されて、心に余裕がなかったとしても、やっぱり部下は大切にしないと駄目だね。
 部下だけじゃない。これは、他人の尊厳をないがしろにし続けた僕に与えられた罰なんだろう」

 男を刺したのは、暴徒ではなかった。
 かつて彼が失語症になるまでに精神的に追い詰めた部下のひとりだったという。

「災厄の時代の前の僕には、仕事と金以外何もなかった。
 けれど、仕事も金も妻も子もすべてを失って、手に入れたものがひとつだけあったんだ」

 それが自由だったのだという。

「時計屋が時間を気にすることすらなくなるくらい、この数年間、僕は何にも誰にも縛られることなく、僕の人生を自由を謳歌することができたんだ」

 それは、君のお陰だ、と男は言い、

「僕の亡骸はこのままここに放っておいてくれるかな」

 息を引き取った。

 少年は、彼の意思を尊重することにした。

 目をつぶらせ、胸のあたりに両手を組ませると、マンションに向かって歩きだした。

 こんな世界になってから、ようやく人間らしく自分らしく生きることができるようになった人がいる。

 そんな人がいることが、少年には理解できなかった。

 もらった時計が似合うようになる頃には、理解できるだろうか。

 少年には一生理解できない気がした。
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