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第2話

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 今朝のぼくは珍しく行動的だった。 

 母や妹より早く起き、パジャマ代わりのジャージの上にジャンバーを羽織り、ニット帽を目深にかぶる。 

 洗面所の鏡に映るぼくが、ぼくであることがわからないことを確認すると、一度部屋に戻り、そして、数ヶ月ぶりに家を出た。 

 ぼくたちの住む団地にある粗大ごみ置き場に向かった。 

 薬局や不二家のマスコットを抱きかかえて。 

 昨日の朝、目が覚めるとぼくは【薬局の蛙のマスコット】を抱いて眠っていた。 

 窓の下、道路から2階に手を振る妹を見送った後もう一度眠り、夕方目を覚ますと今度は【ペコちゃん】を抱いていた。 

 そして今朝、ぼくは【バス停】を握り締めていたのだった。 

 バス停は予想外だった。すでに二個、捨てるものはあったし、たとえ増えることがあってもマスコットものだろうと思っていた。 

 おかげで粗大ゴミ置き場まで二往復するはめになってしまった。 

 本当は粗大ごみに出すのではなく、元の場所に返したかった。 

 しかし、店舗や停留所の名前がわかる箇所にはモザイクがかかっていて、読むことができなかった。 

 それに、ひきこもりのぼくには、粗大ゴミ置き場を往復することができるのかさえ疑問だった。 

 案の定、ぼくはバス停を捨てて帰る頃にはくたくたに疲れてしまっていた。 

 台所では母がテーブルの上に2人分の朝食の準備をはじめていた。テレビでは今日もまだたてこもり事件の続報をやっていた。 

「あら珍しいわね。どこ行ってたの?」 

 母がぼくに声をかけた。とんとんとん、と包丁が何かを刻んでいた。 

「恥ずかしいからあんまり出歩かないでくれない?」 

 母はぼくを見ようともしなかった。 

 ぼくは部屋に戻り、布団に入った。妹を起こしてあげようかとも思ったけれど、やめておいた。 

 昨日妹が言った通り、どうやらぼくには夢遊病の気があるのかもしれない。 

 ぼくが眠っている間、「ぼく」は部屋のドアにつけられた何重もの鍵を開けて、街を徘徊しているのかもしれない。 

 その間、ぼくは「ぼく」が持ち帰る何かにまつわる夢を見ている。 

 それにしても、とぼくは粗大ごみ置き場で舌を出して笑うペコちゃんを思い出して思った。 

 よくもまぁ白昼堂々盗み出してきたもんだ。 





「棗先生? ええ私です。加藤学の母です。今夜会えないかしら? うふふ。やだわ、先生ったら。学のことはもう諦めましたわ。先生にお会いしたいんですの。だめかしら? やったあ、うれしい。楽しみにしてるわ。うん。きれいにしていく。じゃ、麻衣のこと今日もよろしくお願いしますわね」 

 下の階から、1オクターブ高いよそゆきの母の電話の声が聞こえてくる。

 母は、ぼくの担任だった教師と不倫している。 

 きっかけはぼくの不登校とひきこもりと、父の死だった。 

 8ヶ月前のある朝、目を覚ますとぼくは学校に行くことができなくなっていた。 

 その一ヶ月後のある朝、【父】が階段をころげ落ちて死んでいた。 

 父の葬儀から一週間後のある朝、母が女の声で電話をするようになっていた。 

 母の不倫相手はひとりではなく複数いて、全員が父の葬儀に参列した男たちだった。 

 母は今夜の相手を探して電話をかけ、断られると次の男に電話をかける。 

 相手を見つけると仕事に向かい夜中まで帰ってこない。 

 帰ってくる母は食事も風呂もすませているらしく、寝室に直行し音はすぐに聞こえなくなる。 

 玄関の扉が開いて、閉じ、鍵がかけられる。 

 母の軽自動車が仕事へ向かう。 


 母が不倫をしている夢を見た。 

 母は代わる代わる何人もの男たちに抱かれて、あえぎにもおえつにも聞こえる声をあげていた。 

 ぼくと妹は部屋のすみでそれを見ている。 

 ぼくは妹の目を手で覆い隠し、耳を両手で塞がせている。 

 男たちは皆裸で、首にカメラをさげていた。 

 自分の番を待ちながら写真を撮り、代わる代わる母を抱いた。 

 目を覚ますと、ぼくの部屋には母の【不倫写真】が床一杯に敷き詰められていた。 

 写真の右下には日付が入っていたけれど、またモザイクで見えない。 





 昨夜【母】は帰ってこなかった。 

 ぼくはひさしぶりに部屋を出て、母の寝室に不倫写真を貼るという作業に疲れ、すぐに眠ってしまい、 

「お兄ちゃん、お母さん帰ってないみたい」 

 そのことを今朝、ドアごしに妹から知らされた。 

 今朝は夢は見なかった。 

「お兄ちゃん、あのね、麻衣はこれから学校行くから、お母さんが帰ってきたら冷蔵庫に昨夜の夕飯の残りが入ってるからチンして食べてって伝えてね」 

 妹が家を出たすぐ後から、家の電話は鳴りっぱなしだ。 

 どうも母は今日仕事を無断欠勤したらしい。 

 ぼくの部屋に子機はなかったから、ぼくは電話に出なかった。 

 電話が鳴るたびにぼくは一本コカコーラを買った。56本買っても、コーラは売り切れにはならない。 

 母は昨夜妹の担任の棗と約束をしていたはずだ。 

 今も棗といっしょなのだろうか。 

 それとも棗は何食わぬ顔で何も知らない妹の教室の教壇に立ち教鞭をふるっているのだろうか。 

 妹が帰ってきたら棗が学校に来ていたかどうかだけ聞いてみようと考えていると、妹が帰ってきた。 

 妹は、棗に憧れている。 

 学校の話は、いつも棗の話。 

 聞けなかった。 

 また電話が鳴った。 

 63本目のコカコーラに手をのばすと、妹が電話に出た。 

「もしもし、加藤です。あ、お母さん。うん、うん、わかった。うん、麻衣はだいじょうぶだから」 

 妹が受話器を置く。 

 電話は母からだったらしい。 

 妹が階段をのぼってくる。 

「お兄ちゃん、お母さんもう帰ってこないって」 

 妹は泣いていた。 

「ふたりきりになっちゃったね」 

 ぼくは部屋に妹を招きいれた。 

「お金は心配いらないって。お母さんといっしょにいる人、お金持ちなんだって。毎月わたしの口座にふりこんでくれるって」 

 妹の肩が震えている。 

「だから心配しないでね。お兄ちゃんはわたしが守ってあげるから」





> 学くん、あのね、 

 中学時代の同級生が次々と行方不明になっていることを、ぼくは宮沢理佳からのメールで知った。 

 行方不明になったのは【秋月蓮治】、【花柳宗也】、【神田透】、【氷山昇】、【真鶴雅人】、【山汐凛】、【大和省吾】の7人。 

 皆、二年前の中学の生徒会のメンバーだった。 

 宮沢理佳は生徒会長を務めていた。 

 長い黒髪と、細いフレームのメガネが、いかにもお固い生徒会長といった印象で、はじめて彼女を見たときからぼくは彼女が少し苦手だった。 

 ぼくは書記を務めていた。 

 発言の内容から重要な点だけをまとめて書き記す、ということが書記の本来の仕事なのだろうけれど、ぼくにはとても難しく、議会でのすべての発言を一字一句たがわずノートに書きとめていた。 

 まとめるということができないから、勉強も教科書の丸暗記くらいしか出来ず勉強時間のわりに成績は伸び悩んでもいた。 

 当時のぼくはそんな自分にコンプレックスを抱いていた。 

「学くんがやってることの方がずっと難しいよ」 

 みんな加藤くんみたいにできないから、まとめる、ということを覚えたんだと思う、と理佳は一度だけ、ぼくを誉めてくれたことがあった。 

 次期生徒会の役員が決まり、ぼくたちの生徒会が今日で活動を終えるという、そんな日のことだった気がする。 

 ふたりきりの生徒会室だった。 

「学くん、あのね、」 

 あの日も、彼女はそう言って、その後に続く言葉を部屋に入ってきた仲間達が邪魔をした。 


 行方不明になった7人は、置き手紙を置いて家出した者もいれば、誘拐された疑いのある者、神隠しのように家族の目の前でふっと消えた者もいたらしい。 

「死体は? 見つかってないの?」 

 ぼくは短い返信を送信した。 


> 馬鹿。なんでそんなこと言うの? 

> でも、学くん卒業してからはじめてメールくれたね。 
> 皆で集まろうってメールしても学くん返事もくれなかったのに。 
> ねぇ、学くん、今から会えないかな? 


「会えない」 


> ごめんね。 
> 学くんが今どうしてるのかってこと、秋月くんから聞いてる。 
> でもわたしなんだかこわくって。 
> あのときの生徒会のメンバー、もうわたしと学くんだけだし。 
> 次にいなくなるの、ひょっとしたらわたしかもしれない。 
> こわいの。 
> 加藤くんに会ったら少し安心できると思うんだ。 


「無理だよ」 


> そう……。 
> 学くん、あのね、ひょっとしたらもう学くんにメールできなくなっちゃうかもしれないから、 
> あのとき、言いそびれたこと、メールで送ります。 



> わたしね、学くんのこと好きです。 





 ぼくは返事を返さなかった。 

 ぼくは宮沢理佳のことが少し苦手だった。 

 彼女はぼくの初恋の女の子だったから。 



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