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あまりにも違いすぎる世界地図

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宮仕えの地理学者である私は、王宮の中に用意された研究室で、現在の世界地図と数百年前の世界地図を見比べながら大きなため息をついていた。
ため息の理由はひとつ。
ふたつの世界地図はあまりにも違いすぎたからだった。

5つの大陸、無数の島、七つの海。
大陸と海の数こそ同じだが、その形は数百年前の片鱗さえ残っていないのである。

近年の地理学者たちの研究で、大陸や島が地震や火山活動をはじめとする地殻変動により、年間数mmから数cm程度ずつ移動していることが確認されてはいる。
かつてこの世界はひとつの大きな大陸だったということもわかっていた。
人間がこの世界に生まれるよりはるか以前の時代の話であり、まだ魔物も、精霊も聖竜も、神ですら存在していなかった時代のことだろう。
数十億年という、気の遠くなるほどの時間をかけて、世界は今の形になったのだ。

だが、わずか数百年でここまで変わるのはあり得ないことだった。
変化があったとしても地震や火山の噴火などによる局所的な変化が関の山のはずだ。
だが私の目の前にある2枚の世界地図は、数千万年か、あるいは数億年単位の変化が起きており、数百年前の地図が間違っているとしか思えないほどだった。

「まるで別の世界の地図を見ているようだよ」

数百年前に存在していた国が、現在はひとつも残ってはいないことも気になっていた。
しかし、この地図を作った者の逸話だけは世界中で脈々と語り継がれている。
国や町、村はすべて滅んでいたが、教会をはじめとする信仰は残っていた。
それは、2枚の世界地図が別の世界のものではないということだった。

「また天穹の勇者様の地図を見ていらっしゃるんですか? よく飽きませんね」

研究室に入ってきた弟子の青年が私に軽口を叩いた。
天穹の勇者とは、数百年前に魔王討伐を成し遂げただけでなく、その旅の途中で世界地図を完成させた偉人のことだ。その二つ名の如く、天を穿つ程の力を持ち、魔王の強靭な体に大きな風穴を空けたという。
偉人であったが、後世の地理学者たちを悩ませる張本人だった。

弟子である彼には、使いを頼んでいた。
私の研究に必要な書物が王立図書館にしかないため、借りて私の研究室に持ってきてくれるよう言ったのだが、戻ってきた彼は手ぶらだった。
機密文書に分類されているため私の名前を出しても本人でないと借りられなかったか、どこにあるかわからず見つけられなかったのか、どちらだろうか。なんとなく後者の気がした。
彼は優秀だが、その優秀さにあぐらをかいているところがあった。努力を嫌い、飽きやすい性格で、正直なところ学者には向いていなかった。

「でも、その勇者様の地図って、自動描写の魔法が使われてたんじゃありませんでした?」

歩幅や歩数による距離の換算の他、様々な測量方法をひとつの魔法に集約し、自動的に世界地図を作る。
それが自動描写の魔法だ。
だからこそ、この地図が私を悩ませていた。
現在の世界地図も同じ魔法を使って作られている。
地図の裏の魔方陣を見比べてみても全く同じで、数百年前にはその魔法はすでに完成していたことがわかる。その精度には何の問題もないはずなのだ。

「頼んだ資料はありましたか?」

私の問いに対し、

「先生の名前を出しても借りられなかったので、内容を全部覚えてきました」

青年は自分の頭を指で二、三度小突きながら言った。
私が学者には不向きな性格の彼を弟子にとったのは、その驚異的な記憶力ゆえのことであった。

「先生って意外と偉くないんですね」

彼はまた軽口を叩いたが、私は特に気にも止めなかった。

「一字一句間違いなく、ですか?」

「はい、挿し絵のようなものも全部です」

私が彼に使いを頼んだ文書は、サイズは23.5 cm × 16.2 cm × 5 cm、現存する分だけで約240ページもある。
左から右へ読む形で未解読の文字が記され、多数の奇妙な植物らしき絵が描かれているものだ。
それを一字一句、挿し絵まで記憶してきてくれたというのだから、何も文句はなかった。

数十年前にこの国のとある町の教会で発見されたそれは、魔法による年代測定の結果、数百年前に記されたものだとされていた。それが原本であるのか写本なのか、誰が記したものかまではわからなかった。
これまでに何十人何百人という言語学者が解読を試みてきたが、解読方法はおろか、何について書かれたものであるかさえわからないまま時が過ぎていた。
数百年前の謎の文書という歴史的価値から、国立図書館に保存されていたが、今では誰も解読を試みる者はいなかった。

この世界には、空白の100年と呼ばれる時代があった。
天穿の勇者による魔王討伐の数年後から100年あまり、世界中のどの国も歴史的資料が欠落した時代があるのだ。
世界中の国が示し合わせたかのように焚書を行うわけがないが、その時代の前と後で世界地図は大きく変わってしまっていた。
数億年単位に相当する地殻変動か、あるいは神話にあるような世界規模の大洪水が起き、それによりあらゆる国が滅んだとしか考えられなかった。

だが、もし仮に世界中の国が示し合わせたかのように焚書を行っていたとしたら?
世界規模で後世に残せないような出来事があったのかもしれない。
都合の良いことはいくらでも脚色し誇張して後世に残し、都合の悪いことは一切後世に残さないのが、人間という生き物だ。
彼がすべて記憶した文書こそ、空白の100年について記されたものなのではないか。
未解読の文字はおそらく作者が創作した文字であり、文書の7割を占める奇妙な植物の絵は図鑑に見せかけることで焚書を免れるためではないか。
私はそう考えたのだ。

「ついでに解読もしてきましたよ。すぐに文字に起こします。
でも、28ページかそれ以上、欠落した部分があるみたいですから、あまり期待しないでくださいね」

彼はそう言うと椅子に腰掛け、机にあった羊皮紙とペンを取った。
彼なら文書のすべてを記憶してきてくれるかもしれないとは思っていたが、まさか記憶と同時に解読までやってのけるとは思わなかった。
やはり、彼を弟子にとって正解だった。

彼はまず記憶した未解読の文字を羊皮紙にスラスラと書いていった。

「これは魔族の文字です。人間が知らないのは当たり前ですよ」

作者が創作した文字ではなかったことに私は驚きを隠せなかった。
確かに人間は見た目が違うというだけでかつて魔族を迫害し、北の極寒の地に追いやった過去があり、魔族の文字や言語について知識のある者はいなかった。

彼は別の紙を横に置き、別の文字に置き換えていく。

「今は魔族の文字を、聖竜や竜族の文字に置き換えています」

私は急に彼のことが怖くなった。
なぜ彼が魔族の文字や聖竜や竜族の文字を知っているのか、疑問に思ったからだった。
どこかで目にしたことがあり、たまたま記憶していたということだろうか。
そんなことがあるだろうか。

「それから、これを精霊やエルフだけの文字と文法に置き換えます。
魔族や竜族の言語は、人間やエルフが使う言語とは文法が違うんですよ。
あとは人間の、この国の言語にするだけです」

やはりおかしかった。
確かに彼は驚異的な記憶力を持っている。
だがそれだけでは説明がつかない語学力だ。
いくつもの言語を話せる者はいくらでもいる。私だって五か国語は話せる語学力はある。だが、それはあくまで人間の言語だ。
交流のない魔族や竜族、エルフの言語をここまで理解している者を私ははじめて見た。

「この文書は確かに空白の100年について記されたものでした。
あの時代に何が起きたのかわかりましたよ」

青年は私に語った。

数百年前、魔王を倒した勇者とその仲間たちは、人間たちにとって新たな脅威とされ、磔刑に処された。
魔王や勇者の脅威が去った後、人間たちは領土や資源を巡り戦争を始め、人間同士の殺し合いが始まった。
その戦争でエルフや竜族、魔族たちは、戦争の道具として使われた。
それを機に、精霊と聖竜は人間を見限り、神と敵対するようになった。
精霊と聖竜は手を組み、神と戦った。
その戦いは、世界地図が変わるほどの世界規模の天変地異を引き起こした。
神は、自らを崇める教会の教徒だけを守り、異教徒や無神論者たちを戦争の道具として使った。
精霊は神によって石にされ、教徒たちによって粉々に破壊された。
聖竜は邪心に染まり魔物となり、神によって翼をもがれ、最期は東の海に落ちた。
教会はその事実を知りながら、空白の100年について沈黙を貫いている。

それは、教会の教徒のひとりによる神と人間の罪を告発する文書であった。

しかし、私の興味はもはや世界地図や空白の100年にはなかった。

「君は、一体何者なんだ……?」

目の前にいる青年の正体にしか興味がなくなってしまっていた。

「あなたはこの国で指折りの識者だ。評議会の一員でもある。
この文書の解読方法と内容を公開し、真実を秘匿し続けた教会を公けの場で批判してくれるというなら、ぼくの正体を教えますよ」

青年はそう言い、私はその言葉に従うことにした。

しかし、やり方を間違えたのかもしれない。

私が公開した解読方法と内容は、すべて教会によって揉み消された。
評議会の議員たちは、私以外は皆、教会の教徒だった。

磔刑に処されることになった私を、青年が見上げていた。
その顔には笑みがこぼれていた。

彼もまた教徒であったのだ。
彼は確かに私との約束を守った。

きっと教会は、評議会に教徒以外の者がいることが許せなかったのだろう。
彼は最初から、私を貶めるために、私の前に姿を現したのだ。

『国立図書館に、解読方法がわからない数百年前の文書があるでしょう?
あれが、空白の100年について書かれた文書ということは考えられませんか?』

思い返せば、彼を国立図書館に使いに出したのも、彼の言葉がきっかけだった。


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