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賢者は世界の形を知る

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かつて、この世界は丸く、球体の形をしていると言った学者がいた。
しかし、誰もその学者の言葉を信じる者はいなかった。
創造主が創りしこの世界は、平らな円盤の形をしていると信じられていたからだ。
創造主は、国や宗教、時代によって、精霊や竜神、神など様々な呼び名があったが、世界中のどんな神話の書物にも共通して、世界は大地が海に浮かび、半球状の空に包まれているように描かれていた。
まだ教会の力が強く、国と密接な関係にあった時代、その学者は創造主に対する不敬罪を問われ、拷問の末火炙りにされた。
それから数百年の時を経て、教会の力が弱まると、火炙りにされた学者は正しかったと声を上げた者達がいた。
彼らは学者の弟子を名乗り、何年もかけて大きな船を作ると、師の学説を証明しようとした。
数年間に渡る長い旅路の末、彼らは世界が丸いことを証明した。
だが、帰還した彼らのその表情は皆暗かった。

彼らが私の元を訪ねてきたのは、私がまだ賢者と呼ばれるようになったばかりの頃のことだ。
魔法使いであった私が国王から賢者の称号を与えられたのは、魔王討伐の直後だ。
元々宮仕えの魔法使いであった私が、国を挙げての魔王軍の残党掃討作戦の陣頭指揮を執ることになった際のことだった。
彼らの旅は、私が勇者様と共に旅をしたのとちょうど同じ時期であった。
どこかの港町で彼らと出会ったりすれ違ったことがあったかも知れない。

彼らは私の前で世界地図を広げると、その東西の両端を繋げ円柱のような形にして見せた。
彼らが見てきた世界は本当に丸かった。
だが、彼らが師とする学者が言ったような球体ではなかったという。
どういうことか、と私が訊ねると、彼らは今度は世界地図の南北の両端を繋げて、また円柱の形にして見せた。
彼らの表情が暗かったのは、そういうことだった。

世界は東西にも南北にも円柱の形をしており、彼らの旅は神話に語られる世界の形を否定すると同時に、師の説をも否定してしまったのだ。
彼らは賢者と呼ばれる私なら世界の形の真実を知っていると考えたからだろう。
海を旅した彼らと違い、私は勇者様と共に旅をする中で、空を飛ぶ乗り物に乗ったことがあるからだ。
だが、私が乗った乗り物も、世界全体を見渡せるほど高くは飛べなかった。

「君たちは、ドーナツという揚げ菓子を食べたことがあるか?」

私がそう訊ねると、彼らは皆一様に首を横に振った。
水や食糧を補給するため港町に立ち寄ることはあっても、酒や煙草や菓子のような嗜好品・贅沢品を買うことはなかったという。

「小麦粉で作った生地に、水と砂糖とバター、それから卵を加えたものだったかな、それを、油で揚げたものだよ。
中心に大きな穴の空いた、リング状の形をしているんだ」

彼らは、私が何故急に揚げ菓子の話をし始めたのか理解できなかったらしく、きょとんとした顔をしていた。

「世界はそういう形をしているという話を私はしているんだけどね」

私は苦笑し、彼らが持参した世界地図の柔らかさを確かめながらそう言った。
地図は羊皮紙に描かれていた。動物の皮を乾燥させているため、あまり伸縮性は期待できそうもなかった。
私は彼らに許可を取り、魔法を使ってその羊皮紙をゴムに変えることにした。
これならば私の考える世界の形を、彼らに伝えることができるだろうと思ったのだ。
南北を魔法の糸で繋ぎ合わせて作った円柱の両端を、引き伸ばしながらさらに繋ぎ合わせた。

「これが私の考える世界の形だよ」

リング状のドーナツのような形になった世界地図を彼らの前に置くと、彼らはわたしを訝しげに見た。
顔を見合せ、大きな声で私を笑った。

「馬鹿げている」

はっきりと口にした者もいた。

「我々は、訪ねる相手を間違えたようだ」
「賢者様ともあろう御方が、まさかこのような世迷い事を仰られるとは」
「世界がこんな形だというなら、太陽や月は一体どこにある?」
「この真ん中の穴にでもあるんじゃないか?」
「我々に代わり、世界が球体であることを学会で証明してくださると思っていたのに」

残念ながら、私は彼らの見込み違いであり、彼らもまた私の見込み違いだったらしい。
彼らはどうやら自分たちが実際に目にした世界の姿を受け入れることが出来ないでいるだけのようだった。
彼らが欲しいのは世界の形の真実などではなかった。
自分たちの目で見たものさえも否定し、盲目的に信じる彼らの師の教えを、賢者の称号を持つ私の力を使って、学会に認めさせたかっただけらしい。
彼らは気づいていないのだ。
その盲目さが、彼らの師を生きたまま火炙りにしたということを。
自分たちが、師を火炙りにした者達とまるで変わりがないということを。

「悪いが、あんたの言う世界の形を認めるわけにはいかない」

案の定、彼らは私にナイフを突きつけてきた。
私が言いなりにならないとわかれば、最初からそうするつもりだったのだろう。

「我々の言う通りに学会で発言してもらうぞ」
「死にたくなければ、言う通りにするんだな」

私は笑いを堪えるのに必死だった。
何の恐怖も感じなかったからだ。
彼らを返り討ちにするのは容易い。多勢に無勢だが、全員を細切れにするのにおそらく一秒もかからないだろう。
すでに彼らのナイフを銀紙で出来た玩具に変えてもいた。

かつて、私は老体の魔法使いであった。
しかし、旅の途中で手にした不老長寿の薬を飲み、青年であった頃の身体を取り戻した。老体であった頃とは比べ物にならない魔力も取り戻していた。

魔王の脅威から解放された人間にとって、勇者様は新たな脅威として畏れられ、城の地下牢に幽閉された。
私や他の仲間達は幽閉されずにすんだものの、生活にさまざまな制限をかけられていた。
国王や評議会は幽閉する相手を間違えた。
勇者様は確かに強い。だが、剣術では戦士に劣り、魔法では私に劣っていた。

私の魔法は、強大な力を持つ魔王の身体に大きな風穴を空けたこともあるのだ。それだけの力は、勇者様にもなかった。
魔王討伐後も魔法の鍛練を続けてきた私ならば、今なら一人でも魔王を倒せるだろう。その気になれば世界を滅ぼすことすら1日もあれば可能だろう。

「君たちが世界が球体だと信じるなら、それでいいじゃないか。平面だと信じる者がいてもいい」

山をも超える高さの空を飛ぶ乗り物の上からですら、世界の形を確かめることは出来なかった。
どうせ誰も世界の本当の形を確かめることなどできないのだ。
いつか、人間があの乗り物よりもはるかに高い場所を飛ぶような時代が来ない限り。
だから、球体だろうが平面だろうが、今は信じたいように信じればいい。

「あやまちは正さなければならない」
「我々には真実を伝える義務がある」

「だとしたら、たとえ失笑され嘲笑されたとしても、世界はドーナツと同じ形をしていたと学会で伝えるべきだ。
君たちが見てきた世界は、そういう世界だったんだろう?」

「黙れ! そんな馬鹿げた話があるわけがない!」

盲信者たちは私に襲いかかってきた。
玩具のナイフにすり替えられていることにも気づかずに。
彼らは、私が直接手を下すような相手ではなかった。
だが、五体満足で帰らせてやるのも癪に触る。
私は、彼ら全員を世界の形と同じように繋ぎ合わせてやることにした。
道端にでも捨ててやるか。
私の仕業だと口を割らないよう、口も縫い付けてやらなければならない。
それは少々面倒だ。いっそ、私に関する記憶だけを消してしまうか。
いや、石化させてしまうのはどうだろうか。
石にしてしまえば、彫刻品にしか見えないのではないか。


そうして、私が作った作品「世界」は、あれから数十年が過ぎた現在、作者不明の作品として国営の美術館に飾られている。
美術館は当初「世界」を飾るために作られたものであったが、今では世界中から集められた美術品が飾られ、この国の首都は芸術の都と呼ばれるようになった。

皮肉なことに、「世界」によって世界の形がドーナツ状であることも徐々に受け入れられつつあった。

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