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第四章 朝闇の深林
出雲の神宮
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斉明天皇五年。
この年、鎌子は出雲の国造と神祇祭祀について交渉を始めていた。
東国の国造の多くは郡司となり、自らの館を郡家として周囲の土地を管理するようになっていた。国造が独自に祀っていた神は倭王族の神話と関連付けられ、特に有力な国造だった者は倭王族の神話の神を自らの一族の祖神とし、郡家近くに神社を建ててそれらの神を祀るようになった。
そして大化の改新で定められたようにいくつかの郡がまとまって国となり、国を治める国司が政府から派遣された。国司の館である国府の周りには寺院が建てられ始めていた。
高い塔や大きな屋根を持つ寺院の伽藍に対抗するように、豪族が建てる神社も次第に大きくなっていった。その建築を助けたのは寺院を立てた工人たちだった。
――土地の信仰の根本的な要素は残しつつ、神の出自を倭王族の神話に繋げることで王族を頂点とする律令制度の外枠を造る。
蘇我入鹿を弑する前から鎌子が僧旻とともに準備してきた倭の律令制度の枠組みは、順調に整いつつあった。
東国では順調なその歩みだったが、
「やはり出雲は紀国のようにはいきません」
鎌子は飛鳥宮で葛城王にそう報告した。
「鎌子は前にも出雲の祭祀を同調させるのは難しい、と言っていたが」
「出雲の国造は彼ら自身が祭祀を執り行う神官でもあり、かつ強力な武力を持った武人でもあります。この二つの力を分かつことがどうしても受け入れ難いと」
それが単純な言い訳であり、出雲の国造の本心が政府からの国司派遣を拒絶するところにあるのは十分に分かっている。
「国司とは別に権限を持つ神郡でもだめなのか」
「神郡は良いそうです」
葛城王はさすがに呆れて短く息を吐いた。
「あまりにも言葉を弄するようならば、出雲の地に柵を築き、兵を送って強引に国司を置くしかないな」
「長引くようなら、あるいはその方法も選ばなくてはならないでしょう」
「戦になるか。母上に一度、伝えておこう」
葛城王から出雲の国の報告を受けた斉明天皇は、しばし考え込んだ。
「大王、戦になれば吾が軍を執ります。大海人皇子も……」
提案する葛城王の言葉を遮るように斉明天皇は片手を軽く上げた。
「出雲の神を造り変えようとするから余計な反発を招いているのだ。細工も何も必要はない。ただ王族の霊を祭る社を立てよと命じろ。先に亡くなった健皇子の神霊を祀れ、と。出雲攻略はそこを足がかりにすればよい」
斉明天皇はそう云うと王座の背もたれにゆっくりと体を預けた。
「……生きている間、口も利けず自ら歩くこともできなかったあの哀れな子の魂に、出雲の地を与えればよい」
斉明天皇は言い終えると目を閉じた。老いた女王の寿命が尽きるときが近づいているのははた目にも明らかだった。
その斉明天皇の命を受け、出雲国に新たな社が築かれることになった。
新たな社は出雲の国造の本拠地とはやや離れた場所にある、他の有力な豪族の祭祀の場に建てられた。
熊野坐神社と名付けられたその神社には、建立後に大和から物資が次々に運び込まれるようになり、やがて政府の拠点として機能するようになっていった。
そして出雲の国造の了解がないまま、熊野坐神社がある山の麓に国府が造られた。
西国や蝦夷への対応に手を抜くようなことができない緊張が続いていたが、一方でこの年、倭国は斉明天皇の代になって初めての遣唐使を出した。
七月に難波の湊を発った遣唐使の一団は、八月十一日、二つの船に分かれて筑紫から大陸へ向けて出航した。この時、新羅と百済の戦闘が激化していたため半島に近づくことができず、東シナ海を横断する危険性の高い航路を選ばざるを得なかった。
結果、荒れる海で一艘は遭難し、残るもう一艘に乗る吉祥津守が唐の長安に辿り着いたのは十月十五日のことだった。だが想定しない事態がその遣唐使の一行に降りかかった。
「鎌子、遣唐使はどうした。年内には筑紫に戻るはずだったのでは」
なんとか唐に辿り着いた遣唐使だが、予定の十二月になっても帰国しなかったのだ。葛城王は眉をひそめて筑紫からの報告に目を通した。
「それが現在、行方が分からなくなっております。唐の皇帝に拝謁したとの報告は届いているのですが、それ以降、一切の連絡が途絶えています」
「新羅は何か言ってきているか」
「新羅は何も。どころか貢調使も滞っています。百済との戦争が激しくなったためでしょう」
「高句麗の使者は倭国に来ているはずだ。彼らは何と」
「高句麗は唐と敵対しています。先日やって来た高句麗の使者は、王族の倭国への亡命を打診してきました。唐の内部情報など手に入れるどころではありません」
「鎌子、これはもしや……」
切迫した事態に葛城王は焦燥の表情を浮かべた。その焦燥は鎌子も同様に感じていた。
「遣唐使の行方を含め、唐の意中や新羅、百済の現況などなるべく情報を手に入れられるよう手を尽くします」
実際のところ、倭国の遣唐使は十月三十日に唐の皇帝と面会していた。
「倭国は大王が変わったというが、治世はどうか」
皇帝に代わりその近習が遣唐使に質問した。
「安定しています。これにより北方の領土を広げることができました。蝦夷と呼ばれる者たちの土地を倭国の領土に治めています」
「なるほど」
皇帝が直接口を利くことはなかったが、遣唐使が連れていった蝦夷の者達を興味深げに眺めていたのだという。
遣唐使は賓客のみが招待される十一月一日の冬至の儀式にも呼ばれ、いくつかの外交上の任務を終えて帰国の日が迫った十二月三日。そろそろ出発しなければ年内に筑紫に着くことはできないというその時になって、事態が急変した。
「倭国の使者、そなたらは我が国の機密に触れた。倭国に帰国させるわけにはいかない」
遣唐使の一行は突然現れた唐の刑吏に捕縛され、長安から離れた西京で幽閉されることになった。
その時、唐は新羅と結んで百済を討つための戦争の準備をしている最中だった。遣唐使が持ち帰るはずだった倭国への情報は遮断されたまま、唐と新羅の連合軍は百済侵攻の準備を着々と進めていった。
翌年の斉明天皇六年三月、唐と新羅の連合軍の猛襲により百済の王城が落城した。百済王とその家族は捕らえられて長安へと移送され、国としての百済はこの時、滅亡した。
この年、鎌子は出雲の国造と神祇祭祀について交渉を始めていた。
東国の国造の多くは郡司となり、自らの館を郡家として周囲の土地を管理するようになっていた。国造が独自に祀っていた神は倭王族の神話と関連付けられ、特に有力な国造だった者は倭王族の神話の神を自らの一族の祖神とし、郡家近くに神社を建ててそれらの神を祀るようになった。
そして大化の改新で定められたようにいくつかの郡がまとまって国となり、国を治める国司が政府から派遣された。国司の館である国府の周りには寺院が建てられ始めていた。
高い塔や大きな屋根を持つ寺院の伽藍に対抗するように、豪族が建てる神社も次第に大きくなっていった。その建築を助けたのは寺院を立てた工人たちだった。
――土地の信仰の根本的な要素は残しつつ、神の出自を倭王族の神話に繋げることで王族を頂点とする律令制度の外枠を造る。
蘇我入鹿を弑する前から鎌子が僧旻とともに準備してきた倭の律令制度の枠組みは、順調に整いつつあった。
東国では順調なその歩みだったが、
「やはり出雲は紀国のようにはいきません」
鎌子は飛鳥宮で葛城王にそう報告した。
「鎌子は前にも出雲の祭祀を同調させるのは難しい、と言っていたが」
「出雲の国造は彼ら自身が祭祀を執り行う神官でもあり、かつ強力な武力を持った武人でもあります。この二つの力を分かつことがどうしても受け入れ難いと」
それが単純な言い訳であり、出雲の国造の本心が政府からの国司派遣を拒絶するところにあるのは十分に分かっている。
「国司とは別に権限を持つ神郡でもだめなのか」
「神郡は良いそうです」
葛城王はさすがに呆れて短く息を吐いた。
「あまりにも言葉を弄するようならば、出雲の地に柵を築き、兵を送って強引に国司を置くしかないな」
「長引くようなら、あるいはその方法も選ばなくてはならないでしょう」
「戦になるか。母上に一度、伝えておこう」
葛城王から出雲の国の報告を受けた斉明天皇は、しばし考え込んだ。
「大王、戦になれば吾が軍を執ります。大海人皇子も……」
提案する葛城王の言葉を遮るように斉明天皇は片手を軽く上げた。
「出雲の神を造り変えようとするから余計な反発を招いているのだ。細工も何も必要はない。ただ王族の霊を祭る社を立てよと命じろ。先に亡くなった健皇子の神霊を祀れ、と。出雲攻略はそこを足がかりにすればよい」
斉明天皇はそう云うと王座の背もたれにゆっくりと体を預けた。
「……生きている間、口も利けず自ら歩くこともできなかったあの哀れな子の魂に、出雲の地を与えればよい」
斉明天皇は言い終えると目を閉じた。老いた女王の寿命が尽きるときが近づいているのははた目にも明らかだった。
その斉明天皇の命を受け、出雲国に新たな社が築かれることになった。
新たな社は出雲の国造の本拠地とはやや離れた場所にある、他の有力な豪族の祭祀の場に建てられた。
熊野坐神社と名付けられたその神社には、建立後に大和から物資が次々に運び込まれるようになり、やがて政府の拠点として機能するようになっていった。
そして出雲の国造の了解がないまま、熊野坐神社がある山の麓に国府が造られた。
西国や蝦夷への対応に手を抜くようなことができない緊張が続いていたが、一方でこの年、倭国は斉明天皇の代になって初めての遣唐使を出した。
七月に難波の湊を発った遣唐使の一団は、八月十一日、二つの船に分かれて筑紫から大陸へ向けて出航した。この時、新羅と百済の戦闘が激化していたため半島に近づくことができず、東シナ海を横断する危険性の高い航路を選ばざるを得なかった。
結果、荒れる海で一艘は遭難し、残るもう一艘に乗る吉祥津守が唐の長安に辿り着いたのは十月十五日のことだった。だが想定しない事態がその遣唐使の一行に降りかかった。
「鎌子、遣唐使はどうした。年内には筑紫に戻るはずだったのでは」
なんとか唐に辿り着いた遣唐使だが、予定の十二月になっても帰国しなかったのだ。葛城王は眉をひそめて筑紫からの報告に目を通した。
「それが現在、行方が分からなくなっております。唐の皇帝に拝謁したとの報告は届いているのですが、それ以降、一切の連絡が途絶えています」
「新羅は何か言ってきているか」
「新羅は何も。どころか貢調使も滞っています。百済との戦争が激しくなったためでしょう」
「高句麗の使者は倭国に来ているはずだ。彼らは何と」
「高句麗は唐と敵対しています。先日やって来た高句麗の使者は、王族の倭国への亡命を打診してきました。唐の内部情報など手に入れるどころではありません」
「鎌子、これはもしや……」
切迫した事態に葛城王は焦燥の表情を浮かべた。その焦燥は鎌子も同様に感じていた。
「遣唐使の行方を含め、唐の意中や新羅、百済の現況などなるべく情報を手に入れられるよう手を尽くします」
実際のところ、倭国の遣唐使は十月三十日に唐の皇帝と面会していた。
「倭国は大王が変わったというが、治世はどうか」
皇帝に代わりその近習が遣唐使に質問した。
「安定しています。これにより北方の領土を広げることができました。蝦夷と呼ばれる者たちの土地を倭国の領土に治めています」
「なるほど」
皇帝が直接口を利くことはなかったが、遣唐使が連れていった蝦夷の者達を興味深げに眺めていたのだという。
遣唐使は賓客のみが招待される十一月一日の冬至の儀式にも呼ばれ、いくつかの外交上の任務を終えて帰国の日が迫った十二月三日。そろそろ出発しなければ年内に筑紫に着くことはできないというその時になって、事態が急変した。
「倭国の使者、そなたらは我が国の機密に触れた。倭国に帰国させるわけにはいかない」
遣唐使の一行は突然現れた唐の刑吏に捕縛され、長安から離れた西京で幽閉されることになった。
その時、唐は新羅と結んで百済を討つための戦争の準備をしている最中だった。遣唐使が持ち帰るはずだった倭国への情報は遮断されたまま、唐と新羅の連合軍は百済侵攻の準備を着々と進めていった。
翌年の斉明天皇六年三月、唐と新羅の連合軍の猛襲により百済の王城が落城した。百済王とその家族は捕らえられて長安へと移送され、国としての百済はこの時、滅亡した。
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