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第二章 石床の潦水
桃花の縁組
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「ああ、あれは」
鎌子は葛城王の視線の先で狼狽えている男を手招きした。
「葛城王にご紹介しようと思って私が呼んだのです。佐伯子麻呂といってこの飛鳥宮を守る衛士です」
佐伯子麻呂は春に鎌子が葛城王と再会した百済寺で面識を得た人物である。
鎌子が阿倍内麻呂の手引きで潜り込んだ警備の仕事には、もともと飛鳥宮の衛士だった子麻呂も加わっていた。鎌子が宮廷に出入りするようになると自然、南大門の出入りや廊下などで警邏する子麻呂と顔を合わせることが多くなり、やがて世間話を交わすようにもなった。
鎌子は一度、子麻呂とその仲間たちと狩りに行ったことがある。
徹夜を伴う宮廷の警備の仕事を担う子麻呂とその仲間たちの連帯は強い。鎌子は初めのうちこそ戸惑ったが、馬の轡を並べて駆けさせ、声を掛け合いながら鹿を数頭射止めるうちに、彼等とも気負いなく話せるようになった。
子麻呂は鎌子の弓の腕前を見て一目置くようになったというが、生粋の武人である子麻呂の腕前こそ見事だった。
葛城王は頑強な体躯に鎧を身に付けた佐伯子麻呂の姿をやや胡乱な目で見たあと、鎌子に小声で訊いてきた。
「鎌子、この者は信用できるのか」
「はい。何かあった時には必ず葛城王の御身を守ってくれるでしょう」
「わかった」
葛城王はそれだけ言うと、子麻呂に歩み寄り自ら話しかけた。
「佐伯子麻呂、吾の蹴鞠の相手をしろ。鎌子は吾が必ず拾えるようにしか毬を蹴らない。つまらないからお前が代われ」
「え、いやあ、自分は蹴鞠なんてやったこともございませんよ」
「こちらに毬を蹴ればいいだけだ」
慌てふためく子麻呂に向けて、葛城王は早速毬を蹴り上げた。かろうじて毬に追いついた子麻呂がおかしな方へ毬を蹴り、葛城王がそれを走って取りに行く。もはや蹴鞠とはいえない遊びを始めた二人の様子を鎌子は安堵の気持ちで眺めていた。
王族のこれまでを鑑みるなら、いずれ王宮内においても葛城王の身辺を守る親衛の武人が必要になる。葛城王と円滑に信頼関係を結べる人物として佐伯子麻呂の顔は早くから鎌子の頭の中にあった。
「子麻呂、蹴るのはこっちだ」
「蹴ってそっちに飛べばいいんですけどね」
東宮御殿中庭を駆けまわる葛城王の笑顔を見て、鎌子は自分の判断が正しかったことを確信した。
その数日後には、鎌子は葛城王の依頼を阿倍内麻呂に伝えていた。
「阿倍様、葛城王が側女を得たいと仰せです。ここは是非、阿倍様が葛城王に采女を差し出して今後のつながりを作られてはいかがでしょうか」
鎌子の言葉を聞き、阿倍内麻呂は心得た笑みを満面に浮かべた。
「なるほどなるほど、葛城王はそのようなお年頃になられたか。分かった、わしが葛城王に采女を遣わせて、のちのち葛城王にも軽皇子様にご協力いただくようお願いしてみよう。鎌子、良いことを教えてくれた。よくやった」
鎌子は無言のまま拱手し内麻呂の労りの言葉を聞いた。
おそらく内麻呂は阿倍一族の者から適齢の女人を探すはずだ。内麻呂は軽皇子に実の娘である子足媛を差し出している。血縁を結べば葛城王も阿倍氏の後ろ盾を得られることになる。
少しずつだが確実に、朝廷における葛城王の位置も定まり始めていた。
一方で鎌子と蘇我石麻呂との接触はあっけなく実現した。東宮御所から神祇官の室へ向かう鎌子の姿を見て、向こうから声を掛けてきたのである。
「中臣鎌子殿、葛城王の側に仕えておられると聞いた。何かわたしに手伝えることはないか」
阿倍内麻呂の手の者が何か伝えたのには違いないが、よく吟味せずに飛びついた思慮の浅さが言葉の端に垣間見える。石麻呂はあまりつかえない、と云った蘇我入鹿の聡明な顔貌を思い出しながら鎌子は石麻呂に応じた。
「確かに、葛城王は政を学んでいる最中で相談できる相手を探しています。石麻呂殿にその役目をお願いできれば大変ありがたいことです」
「わたしでお役に立つことができるなら喜んで。何ならお近づきの証に私の娘を葛城王に進ぜましょう」
「それは一度葛城王に訊いてみる必要があります」
戸惑う鎌子の肩を石麻呂が気安く叩いた。
「我が娘ながら遠智娘は一族でもとりわけの美女ですよ。それも是非葛城王にお伝えください」
「鎌子、どう思う」
葛城王は執務室の椅子に深く座り直して、最近は決まり文句のような言葉で鎌子に訊いてきた。
「蘇我石麻呂殿は我らが知らないところで阿倍内麻呂様と繋がりがあります」
「なぜそう思う」
「石麻呂殿が身に付けた刀や、厩に預けられていた石麻呂殿の馬に付けられた馬具には阿倍殿の一族が使う飾りがありました。なんらかの見返りに受け取った可能性があります」
「良く分かったな」
葛城王の口調には素直な感心があった。鎌子は自分の判断について補足した。
「王族の祭祀には刀や馬が欠かせません。豪族から献上されたもの、豪族に献上したものを祭祀ごとに使い分けていますので、中臣の神祇官にはそれらを見分ける知識が必要とされてるのです」
「そうなのか」
「はい。ですので石麻呂殿はどういたしましょうか。断るのが安全かと思いますが」
「いや、断る必要はない。鎌子の説明で吾にも分かったことがある」
葛城王は面白そうにそう言って、側に立つ鎌子を見上げた。
「石麻呂はすぐに娘を吾に献上すると言ったのだろう。阿倍が吾に差し出す采女を見繕っていることを知っていながら、それに先んじるつもりだ。石麻呂はいずれ阿倍も裏切る」
葛城王の推断に鎌子は軽くため息を吐いた。
「まったく、誰を信じたらいいものか分かりませんね」
「けれど佐伯子麻呂、あいつは信じられる。あいつは表も裏もないほど単純だから」
鎌子が葛城王に佐伯子麻呂を引き合わせて以来、葛城王は度々子麻呂を東宮御所に呼んでは蹴鞠の相手をさせている。この頃は剣の扱いも子麻呂に習っていると聞いていた。
「子麻呂を気に入って頂けたようで何よりです。葛城王が褒めていた、と子麻呂に伝えておきましょう」
葛城王の言葉をそのまま伝える必要はないが、葛城王が信用しているというその評価は子麻呂を喜ばせるだろう。そんなことを考える鎌子を葛城王はまっすぐに見た。
「褒めているのは鎌子の人を見る目だ」
「……ありがとうございます」
鎌子は返す言葉に一瞬詰まり、目を伏せ拱手してようやく感謝の言葉を口に出せた。
葛城王の信頼に甘えて、いつか蘇我入鹿について話ができればと鎌子は胸の内で思った。だがそれは今ではなくていいだろう。蘇我入鹿と阿倍内麻呂との権力争いが何らかの局面を迎えた時。その時こそ鎌子が考え得る契機だった。
――誰を信じたらいいものか分からない
鎌子が自ら言った言葉がそのまま自分に返ってくる。
政とはこういうものか。今さらではあっても鎌子は湧き上がる苦さを呑み込んで顔を上げた。
「石麻呂殿はこちらに連れてくるとして、彼の娘のことはどうしますか」
「そちらも断る必要はない。娘を差し出すようにと云え」
阿倍内麻呂を出し抜く石麻呂の提案だが、葛城王は断らなかった。
「阿倍が慌てる顔を見てみたいし、なにより蘇我の一族は美女が多いと聞く」
軽口のようだが、先ほどのように面白がっている口調ではない。
「何か、あるのですか」
鎌子がそう聞くと、葛城王は手元の書籍に目を落とした。
「……母が早く子を成せ、と吾に言ってくる」
世継ぎの存在は王族にとって重要だが、まだ十九歳の葛城王にしては早すぎるように思えた。鎌子の無言の疑問を葛城王は読み取って、声を潜めた。
「最近、新羅から密かに使者が来た」
その使者は、新羅が女帝を擁することを理由に唐が新羅への侵攻を始めようとしている、と皇極天皇に伝えた。今の新羅は女帝である善徳王が統治している。唐は、その善徳王が女であるため信用がならない、という言いがかりをつけ、代わりに唐の高官を統治者として新羅に受け入れさせようとしているのだという。新羅に侵略するためのただの口実だが、同様の口実で女帝である皇極天皇が統治する倭への侵攻を始める可能性は十分にあった。
「母上は一時的に王位を退くことを考えている。吾に王位を譲る場合、吾に世継ぎがある方が臣たちを説得しやすいのだと」
それは王位継承の争いが思った以上に間近に迫っていることを示していた。
「……分かりました。蘇我石麻呂には速やかに娘を貴方に差し出すよう、伝えておきます」
「鎌子、頼んだ」
鎌子の知らないところで王位継承に向けた動きは既に始まっていた。
そしてこの年、皇極天皇三年十一月。蘇我入鹿が鎌子にこぼしていた蝦夷のふるまいが公にあからさまになる出来事が生じた。
蝦夷が新たな蘇我氏の邸宅を甘樫丘に建てたのである。蝦夷と入鹿の親子がそれぞれの家屋を持ったその邸宅は堅牢な城柵を備えており、常に多くの兵を置く城塞と呼ぶべき建造だった。
飛鳥京を見下ろす甘樫丘に建てられたその城は、倭王権への武力による蘇我氏の威圧を隠そうともしていなかった。
それだけではない。邸宅内での蝦夷のふるまいも人の口に上り始めた。
「蝦夷殿は自分の家を宮門と名付けたらしい」
「近しい者の子を王子と呼んでいるとも聞いた」
「自らが大王になる気のようだな」
「王に対する叛意以外の何ものでもないのでは」
晩秋の夕暮れ時、鎌子は宮中から南大門に向かう入鹿の姿を見かけて声をかけた。遠目にも憔悴した様子が見て取れる入鹿は鎌子に気づかず、赤い日が落ちる門の外へと出て行った。
皇極天皇四年の春、二十歳になった葛城王は蘇我石麻呂の娘である遠智娘を妃に迎え入れた。
鎌子は葛城王の視線の先で狼狽えている男を手招きした。
「葛城王にご紹介しようと思って私が呼んだのです。佐伯子麻呂といってこの飛鳥宮を守る衛士です」
佐伯子麻呂は春に鎌子が葛城王と再会した百済寺で面識を得た人物である。
鎌子が阿倍内麻呂の手引きで潜り込んだ警備の仕事には、もともと飛鳥宮の衛士だった子麻呂も加わっていた。鎌子が宮廷に出入りするようになると自然、南大門の出入りや廊下などで警邏する子麻呂と顔を合わせることが多くなり、やがて世間話を交わすようにもなった。
鎌子は一度、子麻呂とその仲間たちと狩りに行ったことがある。
徹夜を伴う宮廷の警備の仕事を担う子麻呂とその仲間たちの連帯は強い。鎌子は初めのうちこそ戸惑ったが、馬の轡を並べて駆けさせ、声を掛け合いながら鹿を数頭射止めるうちに、彼等とも気負いなく話せるようになった。
子麻呂は鎌子の弓の腕前を見て一目置くようになったというが、生粋の武人である子麻呂の腕前こそ見事だった。
葛城王は頑強な体躯に鎧を身に付けた佐伯子麻呂の姿をやや胡乱な目で見たあと、鎌子に小声で訊いてきた。
「鎌子、この者は信用できるのか」
「はい。何かあった時には必ず葛城王の御身を守ってくれるでしょう」
「わかった」
葛城王はそれだけ言うと、子麻呂に歩み寄り自ら話しかけた。
「佐伯子麻呂、吾の蹴鞠の相手をしろ。鎌子は吾が必ず拾えるようにしか毬を蹴らない。つまらないからお前が代われ」
「え、いやあ、自分は蹴鞠なんてやったこともございませんよ」
「こちらに毬を蹴ればいいだけだ」
慌てふためく子麻呂に向けて、葛城王は早速毬を蹴り上げた。かろうじて毬に追いついた子麻呂がおかしな方へ毬を蹴り、葛城王がそれを走って取りに行く。もはや蹴鞠とはいえない遊びを始めた二人の様子を鎌子は安堵の気持ちで眺めていた。
王族のこれまでを鑑みるなら、いずれ王宮内においても葛城王の身辺を守る親衛の武人が必要になる。葛城王と円滑に信頼関係を結べる人物として佐伯子麻呂の顔は早くから鎌子の頭の中にあった。
「子麻呂、蹴るのはこっちだ」
「蹴ってそっちに飛べばいいんですけどね」
東宮御殿中庭を駆けまわる葛城王の笑顔を見て、鎌子は自分の判断が正しかったことを確信した。
その数日後には、鎌子は葛城王の依頼を阿倍内麻呂に伝えていた。
「阿倍様、葛城王が側女を得たいと仰せです。ここは是非、阿倍様が葛城王に采女を差し出して今後のつながりを作られてはいかがでしょうか」
鎌子の言葉を聞き、阿倍内麻呂は心得た笑みを満面に浮かべた。
「なるほどなるほど、葛城王はそのようなお年頃になられたか。分かった、わしが葛城王に采女を遣わせて、のちのち葛城王にも軽皇子様にご協力いただくようお願いしてみよう。鎌子、良いことを教えてくれた。よくやった」
鎌子は無言のまま拱手し内麻呂の労りの言葉を聞いた。
おそらく内麻呂は阿倍一族の者から適齢の女人を探すはずだ。内麻呂は軽皇子に実の娘である子足媛を差し出している。血縁を結べば葛城王も阿倍氏の後ろ盾を得られることになる。
少しずつだが確実に、朝廷における葛城王の位置も定まり始めていた。
一方で鎌子と蘇我石麻呂との接触はあっけなく実現した。東宮御所から神祇官の室へ向かう鎌子の姿を見て、向こうから声を掛けてきたのである。
「中臣鎌子殿、葛城王の側に仕えておられると聞いた。何かわたしに手伝えることはないか」
阿倍内麻呂の手の者が何か伝えたのには違いないが、よく吟味せずに飛びついた思慮の浅さが言葉の端に垣間見える。石麻呂はあまりつかえない、と云った蘇我入鹿の聡明な顔貌を思い出しながら鎌子は石麻呂に応じた。
「確かに、葛城王は政を学んでいる最中で相談できる相手を探しています。石麻呂殿にその役目をお願いできれば大変ありがたいことです」
「わたしでお役に立つことができるなら喜んで。何ならお近づきの証に私の娘を葛城王に進ぜましょう」
「それは一度葛城王に訊いてみる必要があります」
戸惑う鎌子の肩を石麻呂が気安く叩いた。
「我が娘ながら遠智娘は一族でもとりわけの美女ですよ。それも是非葛城王にお伝えください」
「鎌子、どう思う」
葛城王は執務室の椅子に深く座り直して、最近は決まり文句のような言葉で鎌子に訊いてきた。
「蘇我石麻呂殿は我らが知らないところで阿倍内麻呂様と繋がりがあります」
「なぜそう思う」
「石麻呂殿が身に付けた刀や、厩に預けられていた石麻呂殿の馬に付けられた馬具には阿倍殿の一族が使う飾りがありました。なんらかの見返りに受け取った可能性があります」
「良く分かったな」
葛城王の口調には素直な感心があった。鎌子は自分の判断について補足した。
「王族の祭祀には刀や馬が欠かせません。豪族から献上されたもの、豪族に献上したものを祭祀ごとに使い分けていますので、中臣の神祇官にはそれらを見分ける知識が必要とされてるのです」
「そうなのか」
「はい。ですので石麻呂殿はどういたしましょうか。断るのが安全かと思いますが」
「いや、断る必要はない。鎌子の説明で吾にも分かったことがある」
葛城王は面白そうにそう言って、側に立つ鎌子を見上げた。
「石麻呂はすぐに娘を吾に献上すると言ったのだろう。阿倍が吾に差し出す采女を見繕っていることを知っていながら、それに先んじるつもりだ。石麻呂はいずれ阿倍も裏切る」
葛城王の推断に鎌子は軽くため息を吐いた。
「まったく、誰を信じたらいいものか分かりませんね」
「けれど佐伯子麻呂、あいつは信じられる。あいつは表も裏もないほど単純だから」
鎌子が葛城王に佐伯子麻呂を引き合わせて以来、葛城王は度々子麻呂を東宮御所に呼んでは蹴鞠の相手をさせている。この頃は剣の扱いも子麻呂に習っていると聞いていた。
「子麻呂を気に入って頂けたようで何よりです。葛城王が褒めていた、と子麻呂に伝えておきましょう」
葛城王の言葉をそのまま伝える必要はないが、葛城王が信用しているというその評価は子麻呂を喜ばせるだろう。そんなことを考える鎌子を葛城王はまっすぐに見た。
「褒めているのは鎌子の人を見る目だ」
「……ありがとうございます」
鎌子は返す言葉に一瞬詰まり、目を伏せ拱手してようやく感謝の言葉を口に出せた。
葛城王の信頼に甘えて、いつか蘇我入鹿について話ができればと鎌子は胸の内で思った。だがそれは今ではなくていいだろう。蘇我入鹿と阿倍内麻呂との権力争いが何らかの局面を迎えた時。その時こそ鎌子が考え得る契機だった。
――誰を信じたらいいものか分からない
鎌子が自ら言った言葉がそのまま自分に返ってくる。
政とはこういうものか。今さらではあっても鎌子は湧き上がる苦さを呑み込んで顔を上げた。
「石麻呂殿はこちらに連れてくるとして、彼の娘のことはどうしますか」
「そちらも断る必要はない。娘を差し出すようにと云え」
阿倍内麻呂を出し抜く石麻呂の提案だが、葛城王は断らなかった。
「阿倍が慌てる顔を見てみたいし、なにより蘇我の一族は美女が多いと聞く」
軽口のようだが、先ほどのように面白がっている口調ではない。
「何か、あるのですか」
鎌子がそう聞くと、葛城王は手元の書籍に目を落とした。
「……母が早く子を成せ、と吾に言ってくる」
世継ぎの存在は王族にとって重要だが、まだ十九歳の葛城王にしては早すぎるように思えた。鎌子の無言の疑問を葛城王は読み取って、声を潜めた。
「最近、新羅から密かに使者が来た」
その使者は、新羅が女帝を擁することを理由に唐が新羅への侵攻を始めようとしている、と皇極天皇に伝えた。今の新羅は女帝である善徳王が統治している。唐は、その善徳王が女であるため信用がならない、という言いがかりをつけ、代わりに唐の高官を統治者として新羅に受け入れさせようとしているのだという。新羅に侵略するためのただの口実だが、同様の口実で女帝である皇極天皇が統治する倭への侵攻を始める可能性は十分にあった。
「母上は一時的に王位を退くことを考えている。吾に王位を譲る場合、吾に世継ぎがある方が臣たちを説得しやすいのだと」
それは王位継承の争いが思った以上に間近に迫っていることを示していた。
「……分かりました。蘇我石麻呂には速やかに娘を貴方に差し出すよう、伝えておきます」
「鎌子、頼んだ」
鎌子の知らないところで王位継承に向けた動きは既に始まっていた。
そしてこの年、皇極天皇三年十一月。蘇我入鹿が鎌子にこぼしていた蝦夷のふるまいが公にあからさまになる出来事が生じた。
蝦夷が新たな蘇我氏の邸宅を甘樫丘に建てたのである。蝦夷と入鹿の親子がそれぞれの家屋を持ったその邸宅は堅牢な城柵を備えており、常に多くの兵を置く城塞と呼ぶべき建造だった。
飛鳥京を見下ろす甘樫丘に建てられたその城は、倭王権への武力による蘇我氏の威圧を隠そうともしていなかった。
それだけではない。邸宅内での蝦夷のふるまいも人の口に上り始めた。
「蝦夷殿は自分の家を宮門と名付けたらしい」
「近しい者の子を王子と呼んでいるとも聞いた」
「自らが大王になる気のようだな」
「王に対する叛意以外の何ものでもないのでは」
晩秋の夕暮れ時、鎌子は宮中から南大門に向かう入鹿の姿を見かけて声をかけた。遠目にも憔悴した様子が見て取れる入鹿は鎌子に気づかず、赤い日が落ちる門の外へと出て行った。
皇極天皇四年の春、二十歳になった葛城王は蘇我石麻呂の娘である遠智娘を妃に迎え入れた。
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