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第11話② この子にしてこの親あり

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「お義父さん……どうぞ、上がってください」

 ゴッ太郎はそう言葉を発するのがやっとで、それすらも烏滸おこがましいような気がした。彼こそが、御鈴波家現当主であり、御鈴波途次の父、御鈴波映雪であるのだ。
 部屋は散らかり、ゴッ太郎の服は汚れている。けれどそれ以上に、この人を待たせることは出来ない。ゴッ太郎はすぐに上着を脱いで、床のベタつく染みを拭くと、御鈴波が買い置きしていた来客用のスリッパを引きずり出して置いた。

「悪いね。失礼するよ」

 彼は靴を脱ぐと、出されたスリッパも履かずにリビングへ向かった。そしてソファに座ると、ゴッ太郎にも座るように促した。なにか飲み物を、と冷蔵庫に向かっていたゴッ太郎は途中でそれをやめて、すぐにソファに座った。隣り合った状態である。そこにテーブルもあるのに、とゴッ太郎は思ったが、何も言えなかった。リビングの入口では上海が不思議そうに二人を覗いている。

「ゴッ太郎くん。なぜここに私が来たのか――それについては、わかるね」

 重苦しく、しかし優しい声色で彼は言った。御鈴波途次のものとは違った威厳がある。決して結論を急かない、説き伏せるような圧力だ。

「はい。すみません。こんな言葉では謝罪しきれないってわかってるっすけど」
「そうだね。君は並大抵のことでは許されないほどの失態を犯している。今、私の娘は生死不明の状況に置かれているんだ。そうならないために実行部隊と、君のように強く、途次みちすがらを守ってくれる人を近くにおいておきながら、だ。親にとってはこれがどれほど辛いことかわかるかね」

 ゴッ太郎には、わからない。上海がいなくなった時のことを考える。きっと、上海が同じ状況に置かれたら、ゴッ太郎は死を覚悟して玄明を探して戦いを挑むだろう。たとえ力量差がわかっていても、それでも止まらないだろう。彼の気持ちが同じとは限らないけれど、もしかしすると近いのかもしれない。それでもゴッ太郎は、全く同じものではない、そう思った。

「わかんないっす。でも、俺が悪いのは……事実です。俺が、遅かった。もっと早く駆けつけられていたら」
「もしも、の話は必要ない。ゴッ太郎くん」

 心臓を握りつぶされるように、ゴッ太郎は眉間をしかめた。何も言うことができない。何を言っても彼を逆撫でしてしまうだろう。

「君が悪いのはわかっている。敵の策略に踊らされて、あまつさえ作戦の一番の弱点を露出させたまま、そこを突かれて敗走など――悔やんでも悔やみきれるまい」

 ゴッ太郎の肩に彼の分厚い腕が回る。ゴッ太郎は何も言えないまま、壁の染みを見つめていた。

「今日、君に会いに来たのは他でもない。リベンジの可能性を伝えに来たのだよ」

 ゴッ太郎の、視線が反射的に右を向く。

「リベンジの、可能性、ですか」
「ああ。玄明は、元から途次を殺すなんて考えはないみたいでね。彼が欲してるもの、わかるかな」

 ゴッ太郎の脳裏には、数日前の玄明の声が帰ってくる。しみったれた喫茶店の席で、ゴッ太郎にこう言った。

『御鈴波途次を、ぼくにくれないか』

「御鈴波途次を、手に入れることですか」
「半分正解だな」

 ゴッ太郎には、それ以上の思考は回らなかった。意味がわからなかった。玄明は御鈴波と結婚したいとか言っていたけれど、それが本意だとは思えない。その先に権力や金があるのではないか――しかしそれなら、結婚せずとも玄明は手に入れられるんじゃないだろうか、玄明の力なら不可能ではないだろう。だから、わからなかった。映雪はゴッ太郎の回答を何度も咀嚼そしゃくするように頷くと、口を開いた。

「勘解由小路玄明――彼は、結婚を申し込んできた。御鈴波途次との、ね。これから御鈴波途次と二人で生活するそうだ。そうして、お互いの考えが同じになったらまた伝える、と。乱暴はしない、安心してくれ、そう伝えられたよ」

 ゴッ太郎は、頭を石で殴られたような気持ちになった。玄明は、本気で御鈴波途次を狙っている。ゴッ太郎の立場を追い出そうと、本気で憎んでいるかのように外堀を埋めているのだ。

「……」

 言葉を失ったまま、ゴッ太郎は何も言えなかった。ゴッ太郎が玄明に負けたのは、ついさっきのことだ。そして矢継ぎ早にこの宣言。それも当主である映雪まで巻き込んでのことである。

「ゴッ太郎くん。私は彼になんと伝えたと思う」
「わかりません。でも、今は俺よりも玄明の方が強いし、賢い。それは事実だ」
「そうだな。全くそのとおりだ」

 歯に衣着せぬ、とはこのことだろう。映雪はゴッ太郎に一瞥《いちべつ》もくれぬままにそう言い放ち、どっかりと背中をソファに預けた。

「しかしだね、ゴッ太郎くん。彼が強く、賢いのは誰のおかげであると思うかね」
「……御鈴波途次と、御鈴波グループ技研、そして何より、あなたの力だ」
「うむ。悪くない回答だ。その通り、彼は私の実験体なんだ。だから強くて当たり前。賢くて当たり前だ。君よりも優れていて当然なんだ」

 勝てなくてもいい――そう言われるのが怖かった。ゴッ太郎は震えていた。冷や汗が滴り、ゴッ太郎は奥歯を噛み潰しそうになりながらその言葉が出ないように祈っていた。

 ――そう言われた時、ゴッ太郎は瓦解する。すべてが終わる。全てを失って、再び路地裏に戻るしかない。跳ね返せるような材料は、何一つない。

「もう、いい。教えてくれ。俺は、もう、要りませんか。御鈴波途次に、俺は、もう、要りませんか。それだけを、教えてくれ」

 これ以上は、無理だ。ゴッ太郎の精神は限界に達していた。病的に震えているゴッ太郎に気がついて、映雪は優しく抱き寄せた。ぶあついゴム膜のような手のひらが、ゴッ太郎の頭を優しく撫でる。ゴッ太郎は涙が堪えられなくなって、歯を食いしばったまま泣いていた。

「ゴッ太郎くん。私は、好きなものがいくつかある。その中の二つを教えておく。君にとって有意義なものになると思う。一つは」

 ギャンブルだ。と人差し指を立てながら映雪は言った。

「ギャンブルはいい。勝ちと負け、両方に意味がある。結果が明白で、それが勝者と敗者を二分する。私が思うに、あれは人類にとってもっとも優しいものだ。多くの人が忘れてしまった大切なもの――そうだな。例えば、『生』と『死』とか、『得』とか『損』とかのコントラストを直接的に教えてくれる。思わんかね。世界は曖昧あいまいで溢れている。御鈴波途次が君のことが好きだ、とか勘解由小路玄明が御鈴波途次のことが好きだ、とか、権力の実権はあの人にある、とか。だって実際わからないじゃないか。御鈴波途次が君のことが好きだって言ったなんて、ひょっとすると身体が好きなだけかもしれないし、隠し持っている世界一の富が好きなのかもしれない。勘解由小路玄明についてもそうだ。権力も、全部そうだ。実際にそうなっているのかわからない場所で、世界はずっと揺れ動いている。私はそれが嫌いでね。だから御鈴波グループの実権は全て私にある。そのおかげで暇はないが、自分の好きな世界に生きられている。だから、ギャンブルが常にしたいんだ。身を焦がすほどの熱いギャンブルが。私は最近、ギャンブルに対して欲求不満でね」

 彼はもう一本、親指を立てた。ちょうど人差し指と親指が直角になる。

「次は、人間性だ。私は人間性というやつが好きでね。こいつは大変曖昧で、大変腹が立つ。しかし計算だけでは測れない部分で、かなり得をすることもあるし、損することもある。見えないパラメーターが働いてるんだな。大分年を食ってきて、そいつの片鱗が見えるようになってきたが、それまでは随分厄介だった。ある程度コントロールするまでに酷く時間を食ったからね。しかし、苦手な部分を必至に練習すると得意になる、ということもあって、昨今はこいつが好きでね。人生五十余年生きてきたが、今が一番人間を欲しているよ。内側を覗くのが楽しくてねえ。玄明も、中身の随分面白いやつなんだ」

 ゴッ太郎は混乱していた。この壮年の男子は一方でははっきりした物事が好きといい、一方では曖昧なものが好きだという。先程までは理性的な好々爺といった風に見えていたのだが、今では同い年の男子に羽根を生やしたような、奇妙な存在に様変わりしていた。

「だから、二つ、面白いことがあったら掛け合わせてみたい。私の楽しみの為に。どうせ玄明は、途次に妙なことはしない。そういう男だ。アレは。だから君、賭けの材料になってくれないか」

 映雪は笑う。ゴッ太郎は何を言われているのか理解しきれず困惑の色を顔に浮かべていた。

「私はね、玄明にこう言ったんだ。『ゴッ太郎くんが君を倒す前に、御鈴波途次をお前の女にしてみろ。それができたら、お前に御鈴波途次と結婚する許可をやる』とね」

 悪魔的、その言葉が似合いすぎるほど、彼は悪い顔をしていた。

「最高の賭けだと思わないかね。君にはイーグルがついて鍛錬たんれんしていると聞く。イーグルは力だけなら玄明よりも上だろう。そんなイーグルが、天然モノのインチキパワーを持っている君を叩き上げる。そしたらどうだ、君はうちの技研の孫みたいなものだ。うちの技研で手に負えなかった怪物が作り上げた戦士が、果たしてうちの最高傑作とやってかなうのか? これを見ずして、これを見ずして、玄明を成功とは言えないじゃないか、ええ? そうだろう、ゴッ太郎くん」

 徐々に映雪の言葉には熱がこもって、強調のアクセントが詰まった言葉が何度も繰り返す。

「玄明は、最高傑作だが、誰とも戦っていない――そんなものを成功とは言えない。今まで人類は『最高の』と名のついたゴミを何度も何度も作り出してきた。艦隊、銃、ゲーム、文具、車、あらゆるもので『最高の』ゴミを作り出してきた。時代の先駆けと称して、当たり前に普及した機構をちょろっといじっただけのものに付加価値を付けて値段を釣り上げ、何度もメシを食ってきた。しかし、思うんだ。私は。そんなものは『最高』とはまったく違う。『最高』とは、何度も何度も実戦を繰り返し、その上で鍛錬された『連用に耐えうるもの』のことを言う。いっかいこっきりのねこだましなんて、ほとんど意味がないんだ。時代が移り、今まで名も無いものに成り下がってきた当たり前のプロトタイプ――そういうものこそが、究極の『最高』であると私は思う。そんな存在に、玄明を押し上げたい。その為には、ゴッ太郎くん。君の力がいるんだ」

 狂気的だ。ゴッ太郎は映雪に身の毛もよだつような怖気を覚えていた。ゴッ太郎と同じくらいの身長であるのにも関わらず、その大きさは全盛のμミューよりも大きく感じられる。この人は、化け物だ。御鈴波途次とは比べ物にならないほどの欲を秘めた、生きる地獄そのもののような人間だ。

「もちろん、君が勝ったら御鈴波途次と結婚する権利は君にくれてやる。その代わり玄明の改良を行うテスターとして君とは何度も戦ってもらうがね。負けたら、その時はさよならだ。この部屋からも出ていってもらう。ああ、そうだ。勝ったら孫は最低五人頼むぞ。若いうちにな。データ的に若い間の子どものほうが秀でて育ちやすい研究結果が出ているからね。私は子供が育っていくのを見るのが好きなんだ」

 時計は十時の時針を刻んだ瞬間、彼は立った。照明に立ち塞がるように立った映雪は、部屋に入ってくる時とは別人に見えた。ゴッ太郎はただただ気圧されて、動けないまま彼が過ぎ去っていくのを見ていることしか出来なかった。

「じゃあね、上海ちゃん。いっぱいご飯食べるんだよ」
「おっちゃんいつもありがとー!」
「いえいえ。ハイタッチハイタッチ」
「はいたっちー!」

 声が聞こえなくなって、ドアが閉まる音がする。ゴッ太郎は溜まっていたつばを飲み込んだ。混乱したままの脳裏には、照明を遮って立つ映雪の顔色がにわかに浮かんだ。
 どうするのが、正しい――? ゴッ太郎は好機を与えられたにも関わらず、未だに動き出す理由が見当たらなかった。
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