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第10話⑤ 包囲網

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 地上処理班は闇に包まれた道路を素早い動きで制圧しながら、照明を設置した。μミューまでの距離は二十メートル、一面が暗い海と同化してしまったような砂浜には、駆けていく若駒二人と、赤い液体に下半身を浸けたまま上半身を月に向けて放心する一人の男が映っていた。
 照明班の一人、江崎正義は思った。これから彼らは戦うのだ。あの正体不明の難敵と。聞いた話ではあるが、ここまで一連の出来事での死傷者は三人、けが人は四十余人と聞いている。海がほんの少し照り返す油膜のような光は、死人の顔めいて揺らめきつつこちらを誘っている。正義は眉間をしかめつつ振り返った。自分の任務は警備である。彼らの背中を守るのが、我々の仕事だ。

「ゴッ太郎、俺が先行する」

 駆けながら器用に爪と仮面を付けつつ、零春は宣言した。ゴッ太郎は不満そうに口の端を曲げる。

「あ!? 手柄は取らせねえぞ! こんなもん先に着いた方が優先に決まってんだろ!」
「バーカ! 違ぇよ! あいつの体液が物を溶かすって聞いてただろ! お前は手で相手を触って初めて攻撃が成立するんだから、危険だろうが!」
「それってこの筋肉でなんとかなりませんか!?」
「なってたらお前だけでいいだろうが!」
「そっかぁ」

 まっすぐ論破されて所在を失ったゴッ太郎は、走力を緩めて零春を先行させた。零春も無策な人間ではない。

「ゴッ太郎、俺がヤツをあの残った液体の中から引きずり出す。そしたらあいつを挟み込むように前後で構えるんだ。絶対に逃がすな。ここで捕らえる」

 仮面の向こうで、零春が一つ目配せをした。それの意味をゴッ太郎は理解している。膝を落として手のひらを重ねると天に向けた。

「おう! いつでも来い!」

 零春はゴッ太郎の手にかかとを乗せると、押し出される力をバネのように利用して跳び上がった。夜闇に溶け込んで消える零春は、再び俯瞰ふかんしながらμミューを見下ろす。やけに肌の白い男だ――目鼻立ちはくっきりとして美形だが、どこか病的な層を頬骨に抱えている。げっそりと削られたように顔は痩けていて、美男子のしゃれこうべ――そんな表現が正しいかもしれない。だが、何を見つめている? じっと空を見つめたまま動かないμミューの本体は、口をすぼめたり緩めたりしながら何かをつぶやいている。零春は唇を読んだ。読唇どくしんは得意とする分野だ。学ぶだけで使える小賢こざかしい外付け技能ハードウェア。そういうものの方がこういう場面では役に立つ。

『お……ね、え……さん』

 ……姉。姉を呼んでいるのか? それとも狂人が過去の像を眺めてただ反応を示しているだけなのか? 零春の疑念は尽きないが、時間には限りがある。仮面の向こうから、μミューの急所を探る。リーンとの戦いの記憶が脳髄から指先へ伝達する。臨気に満たされた肉体の運びに伴って、零春の視界は電磁波の海を覗いていた。白く網がかった別世界に、赤く輝くものが生命だ。リーンの経験に先立つならば、生命の急所は赤い輪郭りんかくの中にある白がかった場所――大抵それが頚椎けいついや心臓、脳といった風に急所を示す。

「――!」

 思わず表情が固まる。電磁波の海の中から零春は顔を上げた。意味がないのがわかったからだ。この生命には、いや、生命なのか? μミューには、弱点が見当たらない。それどころか、生命としてすらも映らない。つまり、のだ。落下の姿勢を取りつつ、零春は爪を構えた。

「既に生命の兆しはない、か。ならば、敢えて致命傷を与えてやろう――!」

 零春の爪は落下の衝撃に併せて、μミューの首を削いでいた。左爪は落下に捻りを加え、右爪は心臓の急所を的確に貫く。ぶしゅ、と鮮血が飛び出す音を聞いた零春はそのままμミューの本体の背を蹴り出した。致命傷を与え、距離を取る。一連の淀みない行動には、イーグルとの修練の成果が滲んでいる。零春が着地したと同時に、μミューの頭部が砂浜に転がった。それは口惜しいように、何かをつぶやくと、粘土みたいに灰色に変わった。生気が完全に失われていく。

「……」

 釈然としない。零春はあまりにも簡単すぎたその一瞬の出来事に、混乱を呈さずには居られなかった。なぜだ? こんな簡単なはずはない。まさか玄明がこんな欠陥品を作り出したのか? そんなはずはない――零春の脳裏には、何から何まで計算尽く冷徹漢の声と表情が浮かぶ。一度は全幅の信頼を置いた彼、零春のことを一度も『落ちこぼれ』などとは言わなかった彼。そしてなんら迷うこともなく切り捨てた冷酷な彼。
『零春、君は僕の最初の被験者だ。君のことを期待している。もちろん、成果を――』

「おかしい、何かが、いや、何もかもがおかしい」

 零春は根拠のない恐怖で身が竦み上がり、必至に辺りを見回す。ゴッ太郎が叫ぶ。

「やべえって、おい! 零春! 逃げろって!」
「はっ」

 ゴッ太郎が手を振り回して呼んでいる。零春はそちらに向かって跳躍し、ゴッ太郎と背中を合わせた。

「……なあ零春ゥ、これどうなってんだと思うゥ?」
「さぁな。だが、ひょっとすると俺達は誘い込まれていたのかもしれん――」

 二人の視界には、ドーム状に広がった赤い液体の膜があった。ゴッ太郎と零春を包み込むように展開された液体は、既に本体と関係なく動いているのがわかる。ずっと本体だと思いこんできたあの人体は、既になんら意味のない出し殻に過ぎなかったのである。

「この中、どうやって出るよ」
「そうさな、お願いしてみるか。『通してくれないか? 千円でどうだ』って」
「俺なら通しちゃうかも」
「だろうな。俺は死んでも通さんが」

 切羽詰まっている状況ではありながら、零春は以前ほど孤独ではなかった。隣にいる気楽な男のせいかもしれない、それとも今自分は正しいことをしているという自覚があるからだろうか――。ずっと心の奥で孤独のくびきを自らに掛け続けていたころの零春に比べれば、今の零春はずっと軽くて、ずっと粘り強い。

「さっさとここを出るぞ、ゴッ太郎」
「そうだな、どうすりゃいいか全くわかんないけど」
 

 
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