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第9話⑥  もう一つの災害

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 白い砂浜が夕焼けに燃えている。寄せては返す波の向こうには、どこまでも広がる高い壁が一面に広がっている。
 ここはかがり浜。海のない壁の中に作られた、小さな人工湾だ。生命は棲んでおらず、普段は海水浴場として、豪雨時にはダムとして利用されている。人目を避けて市街の裏手を回った上海は、気がつけば篝浜に出ていた。夏なので濡れてもほとんど気にならないが、お世辞にも綺麗とは言えない川の中に飛び込んだわけなので、服に鼻を近付けるとやや匂った。

「……」

 牛乳を拭いた雑巾のような匂いである。子犬が驚いたような顔をして服から鼻を背けると、上海はとぼとぼと歩みだした。先程の区画とは距離が離れているので人通りはある。上海はようやく安心して一息ついた。肩がなんだかぎくしゃくしている感じがした。

「……お腹痛い」
「すいません、道に迷ってしまって」

 とぼとぼ、と帰路につく背中を誰かが呼び止めた。
 上海はお腹を押さえつつくるり、と振り返ると。
 そこには輝くイケメンがいた。

……?」

 身長は百七十から八十の間で、若干赤混じりの猫っ毛に優しげな目元はアーモンド形だ。ハーフなのか鼻の頭の辺りに少々そばかすがある。顔に彫りの深さがあるとやや厳格なイメージに寄りがちだが、少年っぽい印象の顔立ちのおかげで人懐っこさが強調されている。服は清潔感のあるネクタイシャツにスラックスという軽装でありながら、安物の生地では出せないしゃなりとした優雅さが全体から漂っており、深黒のスラックスには透かすと浮かび上がる幾何学的な図柄が縫い込まれている。

「君、この辺で住んでる子だよね?」

 上海は首を横に振る。少なくともここに住んではいない。上海の居城はあの壁の向こうの汚い雑沓だ。

「そっか。じゃあ、どこに住んでるんだい?」

 やけに踏み込んで来るな……上海は訝しみつつ、砂浜の堤防の上に飛び乗った。

「……教えナイヨ。知らないヒト、ヘンタイ、知ってるもんね」

 上海が飛び乗った時、奇怪な光景を見た。彼の背中の後ろだ。なにかが滴っている。赤いような、緑のような、粘液質ななにかだ。

「そうか……淋しいな。ぼくは君のことをよく知っているだが……上海ちゃん。君を腕に抱きたい、そんな風に思ってここに来たのに」
「……ッ!」

 背面に跳び上がった上海は回転を加えつつ、彼と距離を取った。追手かもしれない。男は距離を取られると、悲しそうな顔をして膝から崩れて、隙を見せる間もなく大声で泣き始めた。

「うあああぁあぁぁぁッ!!! 上海ちゃんんんんッぼくは遠くの海を越えてェ、君に出会うためにぃここまで遠路はるばる壁の中までやってきたって言うのにぃ……どうしてぼくから逃げていくんだああああああッ!!! ぼくは君の弟だよおおおおおおおッ君と同じ産道から生まれた弟なのにいいいいいいいい」
「は……?」

 綺麗な顔をぐちゃぐちゃに歪めながら、男は臓躁的ヒステリックに泣いている。上海は困惑と恐怖を顔に浮かべながらその男から目を離せずにいた。

「オト……ウト? いない! 上海はひとり! それに、オマエデカい!」

 上海の記憶に、弟などいない。上海の母親は上海を産んだ時まだ十三歳だった上に、そのお産が原因で死んでいる。その後に子供など生まれたはずはない。それによしんば父親の子供だったとしても、こんなに大きいはずがないのだ。

「おとうとだよおおおおおおおお、君が知らないだけでええええええ、ぼくはおとうとなんだよおおおおおおおおお」

 叫ぶ男はバリバリと自分を引っ掻いて、頬からは徐々に皮膚が剥がれだした。先ほどから滴っていた気味の悪い液体が、まるで水たまりのように足元に溜まっている。

「ぼくのことを受け入れて、受け入れてよぉおおお……上海ちゃんんんんん」

 気がつけば、人集りが出来ている。まずい――!

「お兄さん、血が出てるけど、大丈夫? 救急車……」
「上海ちゃんんんんんんんん、行かないでええええええええええええええ!!!!!!!!!!! ぼくを助けてええええええええええ」
「あんた、まずいよ。血が顔の真ん中から噴水みたいに吹き出してやがるんだ、ちょっと待て。今俺が血を止めてやるからな……!」

 人集りの中にいた小太りの中年男性が、男に近付いてハンカチを顔に当てた。粘液がハンカチを一瞬で染め上げ、それどころかハンカチから漏れ出た液体が中年男性の手を濡らした。その時だった。じゅわ、と音を聞いた時には、中年男性の手からは蒸気があがっていた。

「え?」

 そのハンカチは、まるで焦げたように白く灰のようにボロボロになり、中年男性の手は音を立てながら真っ白く泡立ち始めたのだ。

「ぎゃああああああああああああ、熱い、熱い、あっついいいいいいいいいいいいい!!!!!!!」

 彼は叫びながらハンカチから手を離して、海に向かって走っていく。そして波打ち際に頭から突っ込んで手を海の中に沈めると、塩の痛みで再度絶叫した。

「……はっ、はっ」

 上海は焦り始めた。ヤツは追手だ。逃げた先にもまだ追手が来ているのだ。しかし今回は。先程の男は先に人払いを行ってから襲ってきていた。だが今回は違う。無差別な上に、。あの男は、上海に駆け引きというおままごとを要求しているのだ。

「おねえちゃん、たすけてえええええええええ」

 先程までの愛らしい外見は見る影もない、それは既に人の形を失っていた。
 なにも知らない人々を殺すか――それとも身の危険を承知でおままごとをするか。
 人質を取られているに等しいこの状況――どう打開する?
 上海の頬には汗が伝う。お腹がぎゅるぎゅると鳴る。時間はない、いつヤツが爆発してみんなを襲うかわからない。

「……ナメるなヨ。このShanghaiシャンハイを――!」

 だが、この段にあっても上海の答えは一択だった。
 上海は走り出す。脱兎の如く逃げる、その言葉を体現したようにぶっ飛んで最高速に至る。

「なッ、なにしてんだ、おめえええええええええええええええええ!!!」

 相手が駆け引きを要求しているならば、絶対に付き合わない。リスクとリターンを無理矢理釣り合わせないと同じ土俵に上がれないということなら、それには絶対に付き合わない。

「追いかけテ、ミナ。追いつけないなら、オレの勝ち、だゼ」
「う、うあ、あ……」

 取り残された男は、遠ざかっていく上海の背中を眺めている。瞳に大粒の涙を貯めて、口をへの字に曲げて、目を血走らせたまま恨み言でもいいたそうに、いみじそうに泣いている。

「うわああああ、ああ、上海お姉ちゃんが、逃げた、逃げちゃったぁあああああああああああああああ!!!!!」

 男は置いていかれたことがよほどこたえたのか、泣くのに夢中で上海を追いかけようともしない。観衆は先程の中年男性の腕がまるで火傷のように膨れ上がったことから、もう誰も彼には近付かない。じりじりと距離を取り、半分以上の人間が背を向けて逃げ出し始めた。残った人間も動かないのではない、足がすくんでいるから動けないだけに過ぎなかった。
 やがて泣き止んだ男は、ゆっくりと振り返る。彼の背後には、一人の逃げ遅れた少年がへたり込んでいた。

「なあ。ぼくはかわいそうだよな?」

 男の瞳からは黒目が消えて、チョウチンアンコウのように頬の肉は垂れ下がっていた。長い舌はだらしなく垂れ下がり、瞼が開いたまま閉じなくなっているせいで余計に白目が大きく見える。

「かわいそうだよな?」

 同意を求められている。少年は頭ではわかっているのに、身体が恐れから硬直してしまって動けない。嗚咽《おえつ》しながら肘で上半身を引き摺って、なんとか恐怖の対象から離れようとしているのに、が視界を占める面積が変わらない。

「なあ、かわいそうだろ? ぼくをかわいそうと言えよ」
「あひっ、ひいいいっ、いやだ、いやだあああああ、来ないで、来ないでくれえええええ」

 下がり続ける、なんとか下がりたい。ずるずると下がり続けるうちに手がこすれ、引き摺ったズボンがずり落ちる。だのに、それはどんどん近寄ってくる。高く優しげだった声も、今では地響きのように腹の底から突き上げる振動に変わった。

「どうして、どうして、どうして言わない? 、と言え。そう言っているだけなんだ。ぼくは上海お姉ちゃんに裏切られて、悲しいんだ。どうしてそれをわかってくれない? 君は逃げなかったからいい奴だと思ってたのに、どうして、ぼくをかわいそうだと思ってくれない? 君もあいつらと一緒なのか?」

 口の中に泡が溜まって、話せない。緊張が限界を迎えている。これ以上は下がれない。少年の背中には堤防があった。男はどんどん近付いてくる。

「どうして、なんで、なんでぇ、離れようとしているのに、どうしてええええええええッ!!!」

 絞り出すようなか細い悲鳴が虚空に吸い込まれ、少年は目を背けようと真上を向いた。しかし、そこにも男はいた。
 ぶくぶくと膨れ上がった赤いシャボン玉のような姿だった。高さは雑居ビルくらいで、ぶどうの房に成る果実のようにうず高く積み上がっている。横幅は大型トラックくらいあり、全体像としては大まかに紡錘型ぼうすいがたを取っている。赤い液体が膨らんでは弾け、新たに膨らんできた小さな袋がまた弾ける。何度も弾けた断面からは、整った男の顔が何個も作られ、また赤い液体に沈んで袋になり弾ける。そこで少年はようやく理解した。
 男はこちらへ近付いていたわけではない、炭酸飲料にラムネ菓子を入れた時のように膨らんでいたのだ。その中の顔の一つばかりを見つめていたから、少年は男が異形になり全方位へ肥大化を始めていたことに気が付かなかったのだ。

「ひ、ひいいいいいいぎゃああああああああ!!! ばけ、もの、バケモノだ……!!!」

 バケモノ、その言葉に、無限に湧き上がる顔達は一斉に哀叫した。

「ぼくは、かわいそうなんだ、バケモノなんかじゃない!!! おまえみたいなやつは……許さない!!! 弱いものをいじめやがって……!!! おまえみたいな悪いやつがいるから、世界は良くならないんだ!!! 俺が変えてやる、かえて、ぉぐっ……」

 言葉の最中にも男の顔は歪む。何度も潰れながら発音をするせいで、わんわんと反響して聞き取りにくい。バケモノの袋が破れると、ぶすぶすと液体が吹き出して、少年の足元に飛んだ。その飛沫が少年のサンダルに当たるとむちのように本体と繋がり、少年は引きずられるようにバケモノの方へ引き寄せられた。

「あああああああっ」
「おまえみたいな悪い人間には、制裁を与える……ぼくみたいな弱者を嘲り笑って、足蹴に踏み潰し、あまつさえバケモノなんて言い方をして……!!! 許せない、お前は死んで詫びてもらうからな……! ぼくの栄養となれ……! お前みたいなゴミだってぼくは栄養として活用してやるんだ、お前らみたいな奴らと違って……」

 少年には、そんな覚え一切なかった。むしろ学校では肩身が狭くて居辛くて、必至に影を薄くして耐えている。度胸がないせいでうまく人と話せず、そのせいで妙な誤解をされて悪い方向にばかり転ぶ。そんな自分の弱さを辛く思っているくらいなのだ。そんなこと言われるいわれはない。
 そのまま鞭は、少年の身体を逆さ吊りの姿勢で持ち上げた。紡錘型の頂点の部分が口を開けるように開く。既に少年は抵抗するだけの正気を失って、身体は死後硬直したように固くなっていた。少年の表情は絶望の無気力が張り付いて取れない。死ぬしかない、こんなバケモノに狙われて、襲われてしまったら。今までの人生を振り返ると、情けないことばかりだ。なにからなにまで。それでも最期がこんなバケモノの餌なんて、あんまりだ。神様、神様――。
 鞭がその拘束を解き、少年が自由落下を始める。緩やかに加速しながらすり鉢のようなバケモノの内側に吸い込まれていくその最中、空を滑るように跳躍した小さな影が一つあった。
「――ッ!」
 それは烈しく回転しながら落ち行く少年に向かって飛んだ。灰銀の艷やかな髪が空に螺旋を描く。そして爆発的速度で加速し、少年の影と重なる。次の瞬間だった。
「ごふぁっ……」
 少年の背中には鋭い衝撃が走り、明後日の方向に向かって弾き飛ばされていた。少年はもう、なにが起こったのか理解が出来ていない。唯一わかることは、自分の身体が空中ですごい勢いを持ったまま錐揉み回転をし、今度こそ自由落下が始まったということだけだ。上下左右の感覚も失われ、次の瞬間に何かが自分の身体とぶつかる――ばしゃん。

「……はっ」

 全身に浴びた冷たい感覚は、水だ。ということは、ここは――。
 少年は辺りを見回す。身体は海面に浮いていた。陸地には、先程まで目の前にいたバケモノが相変わらず立っている。しかしこちらは見ていない。アレは今、堤防の方を見ている。少年は視点を移した。そこに誰かがいるはずなのだ。救うためなのかはわからないが、自分を海まで押し出してくれた誰かが。
 堤防の上には、小さな人影がある。髪の長い、二つ括りの少女だ。年齢は小学生くらいに見える。

「嘘だろ」 

 目の前に広がる光景は、少年の予想したものとは大きく違った。
 

 
 
 
 
 
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