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第9話⑤ 到着
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ノーベルの首には、リーンの拳がまっすぐと落ちてくる。それはあたかも流星のように空気との摩擦で赤く瞬き、ノーベルの白い肌に降ってくる。それが当たれば胴体と首はいとも簡単に別れ、人間の器は壊れてしまうに違いない。
誰かがいれば目を覆いたくなるようなその瞬間に、誰も立ち会うものはいなかった。オリンピアの絶対王者、ソーシャルメディアインフルエンサー、女優、輝かしいステージを渡り歩いてきた、人に囲まれて愛されてきた人間の最期というには余りにも呆気ない、残酷な終わりだ。けれど彼女はそれでも構わない。最初から見てほしい人は一人だけだったのだ。
ノーベルの目には、意識の向こう側に薄い藤色の水鏡が見えた。徐々にその水鏡は薄まって消えていく。手を伸ばすと、暖かい水面に触れた。二の腕辺りまで沈んでいる。そこでノーベルは気がついた。それは薄まって消えたのではない。目の前に近付いたからわからなくなっただけなのだ。
死の彼岸だ。どこまでも落ちてゆくしかない。ノーベルは抵抗しなかった。けれど、毅然として受け入れもしなかった。その最後まで死であろうと、自らの魂には触れさせはしない、それが気高さであり、誇りである。やがて胸まで浸かり、顔が浸かる。死が彼女の魂をようやく飲み込もうと口を開けた時、それは現れた。
熱気を纏った風であった。水面が波立って水が捌けていく。水位が下がる。リーンのそれとは違う。水面は波立つのみならず、蒸発まで始めた。藤色の蒸気が辺りを濛々と満たした時、その影はより色濃く映り、手を引いた。
「はっ」
夏の太陽がやけに眩しい。何度もちらついたその視界が像を結ぶまでの数秒の間、耳朶をうつのは金属が擦れるような音だった。ようやく定まった視界は、急激に自らが死の水面から浮かび上がったことを克明に伝えていた。
――ワタシに振り下ろされた拳を、受け止めてくれた人がいる。それは長い髪をして白無垢の仮面を付けて……そして何より目を引くのは、長い金属の爪が付いた手甲だ。
歯車が噛み合うような音で拮抗した両者の力は、一瞬の隙を突いたエアソバットキックがリーンにヒットしたことで破れ、距離が開いた。
「てめェは……! ゼロハル! 腰抜け野郎がなんでこんなとこに!」
ゼロハルと呼ばれた青年は、ノーベルの腰に素早く手を回すと「立てるか?」と聞く。ノーベルはゼロハルの助けを借りて蹌踉めきながら立ち上がって頷くと、仮面の向こうの優しげな視線に気がついて頭を振った。
「え、ええ――ありがとう。ごめんなさい、あなたは」
「話は後だ。下がっていてくれ。できれば距離を取って安全な場所に」
ノーベルは言われた通りにするしかなかった。今の状態では戦えない、湧き上がってきた血痰を吐き飛ばしてみっともなく後退るより他ない。下がったのを見届けると、その前に立ちふさがるように立った零春は厳しい目付きでリーンを睨みつける。二人の間には激しい火花が散っていた。
「気をつけて。知っているかもしれないけど……かふっ……その男はボクサースタイルで戦うわ。不意打ちもしてくるし、急所突き、死んだふりも厭わない。あと、首は効かないみたい。一度かなりクリティカルに蹴ったのだけど、響かなかった」
「ありがとう、マドモアゼル。けれど大丈夫。わたしも慣れている」
マドモアゼル――しばらくの間聞いていなかったその言葉は、ノーベルの胸に不意に郷愁を運んだ。同時にこの男の高潔な精神性が、そこに詰め込まれているような気がして、故郷のプラムの果実の爽やかさを思い出していた。
「ほォう、死にに来たかァ! ゼロハルゥ! まあ、そんな弱っちい力じゃァ無意味な女一匹守るのが精一杯だよなあ。いい顔したくて来たワケだ、お前みたいな実の伴わない雑魚はここで誰かに覚えておいてもらって死のうってわけだ、ハハハ!」
首が増えた、とリーンはより凶悪にその顔を歪めて笑う。逃したはずの獲物が帰ってきたのだ、これほど愉快なことはなかった。
「確かめてみるか? 今俺は――虫の居所が悪いんだ」
「虫の居所が悪いだァ? 虫ケラみたいな雑魚野郎が、俺の前でそんなクチ聞ける立場だと思ってんのか! ァあ!?」
「黙れ。お前のように下劣で、罪を一度も振り返ったことがないような人間は、大きな力を手に入れてはいけない。力とは、責任の所在のことを言うのだ」
冷たく言い放つ零春の言葉をどこまでリーンが理解しただろう、しかしその小難しい言葉の羅列はリーンの逆鱗を逆なでするのに十分だった。
リーンは教育など受けていない、高潔な精神も、高尚な芸術も、全ては拳に劣り淘汰されるものだと学んできた。そして何より、力すらないにも関わらず、私腹を肥やしてふんぞり返る雑魚が嫌いだった。リーンの最初の犯罪は義憤での殺しだった。ストリートボーイに麻薬を斡旋して私腹を肥やすホワイトカラー共、麻薬で友人を失ったリーンは麻薬のブローカーを己の拳で全員叩き壊したのである。力こそが全てだ、力こそが正義である――自分にボクシングを教えてくれた亡き友のために。故に、それを知らぬ魂に、怒りは爆発した。怒りで唇はひくついて、肩はいかり、目はかっ開いて全身の血管はミミズが這っているみたいに何度も何度も脈動した。
「てめぇは殺すッ!!!」
「俺も同じ気持ちだよ。お前のような化け物はここで殺す」
リーンの神速ストレートが翔ぶ。ノーベルはやはり目で追えない。気がつけばステップから腕は伸び切っており、それは零春の仮面に叩きつけ――
「どうした」
「――!」
リーンとノーベルはほぼ同時に同じ反応をした。背筋をピンと張って、目の前のことが信じられないというように刮目した。
ストレートが、届いていない。紙一重、その言葉が正しいだろう。リーンの一撃は、零春の仮面の向こうで伸び切って止まってしまったのだ。
「ヒョウァ!」
零春が叫んだその瞬間、ウェイブのかかった横髪がふわりと空に舞った。弓なりに反った背中から放たれる開襟シャツの胸元には赤く脈動する高密度の筋肉と、それ以上の靭やかさ――ノーベルはそれだけで理解していた。
彼は、ダンサーだ。
踊るように戦う、しかし自らのそれとは全く違う。零春は長く太い足で顎を蹴り上げていた。眉間のまっすぐ下、人間の顎骨の最も前面に突起した頂点の部分である。リーンは噛み締めたままの口を開けることができなくなって、体重ごと空に持ち上げられて吹き飛んだ。口の中を噛んだのか、リーンの口からは血が吹き出して、薔薇のように風と舞った。零春は浮いたリーンに素早く回転を加えて近付く。鋭い鈎爪で首と脇腹に二撃斬撃を加えると、更に血が花弁のように舞い散った。
「余興の花!」
「くかっ――」
残酷で、美しい。その舞踏をノーベルは知っていた。
闘牛だ。半野生の牛と闘牛士が闘う伝統の舞踏であり、また命を賭けた武闘でもある――。興行であるが故に審美性こそが重要である闘牛では、暴れ狂った牛に対してギリギリまで動かずないこと、怯んで逃げ出さないことこそが勇気の証とされる。リーンは血を全身から滴らせて、致命傷を受けたかの如く噴水のように血を遡らせてアーチを架けた。
「……立て」
零春は怒りを孕んだ言葉で起立を求めた。声がリーンを通り抜けた頃、飛沫のように弾けていた血は止まっていた。筋肉の圧力で血管を閉じたのだ。けっ、吐き捨てる声と同時に、頭を支軸にして体を捻ってリーンは立ち上がった。リーンの体表を、血液が不気味にコーティングしている。
「不意打ちは通用しないってか」
「まだ槍士から槍が放たれた程度でしかない。ここからが本番だ」
リーンは冷静にステップを踏み始めた。足元から伝わる平滑な感覚と音、この一定のリズムは常にリーンへ冷静な観察を与えてくれる。なぜ先程のストレートが届かなかったのか、その理由が見当たらない。踏み込みは完璧だったはずだった。それに零春が不気味なほどに地に足を付けて戦っているというその事実にも奇怪さが漂っている。
玄明によれば、零春の力は筋力、跳躍力や反射神経の小規模な増強に留まるまでの貧弱な強化である。本来零春が持っていた跳躍能力から来る高度を活かした攻撃は何度も録画物で見た。玄明は用心深い人間であるから、自らが改造を施した人間の強みと弱みの両方を知っており、対峙する可能性がある三人には零春のことをきちんと紹介していた。現に深夜には零春は逃亡手段に壁面を選び、タオに落とされたではないか。いや――だとするなら。
「……小癪なことをしやがって、ムカつくぜ、ムカつくぜ、ムカつくぜェ!!! 対策なんてしやがって、この、女野郎! 俺がその程度で倒せると、思っていやがるのか! 地に足をつけて俺の知らない行動を取ったくらいで! その程度で! 地上はオレのもんだ! てめえみてえなコウモリ野郎がオレに敵うなんて思い上がりやがってムカつくぜえええええええ」
「事実、お前は動いてすらいない俺に拳を当てられなかった」
ぬっとりと仮面に日差しを受けて、零春は微動だにしないまま事実をリーンへ宣告する。激昂したリーンは思い切り身体を引き絞って、身体を抱え込むように丸まった。そして全身のバネを弾けさせて弾丸のように飛び出した。背後にはスリップストリームの気流が鎌鼬のように真空を生み出し、細い金属片が真空の圧力に耐えきれずねじ切れた。
「それなら、連打しちまえばよおおおおおおお、どっかで当たるよなァあああああああ!!!!」
爆発的な前進が、辺りの塵を巻き上げて轍を描く。まだ残っていたガラス窓が割れていく、ノーベルはようやく理解ができた、この惨状は彼が進んだ痕なのだ。ただこのように、ステップを踏みながら進んだだけ。風がノーベルの髪を巻き上げた時、怖気が背中を駆け上がり、完全に気圧された。勝てるはずがない。進むだけでこんな被害を齎す手合いだ、もし一撃でもその拳が直撃してしまったら――ノーベルの時は、不意打ちだったからまだ軽いストレートで済んだのだ。しかし今彼は渾身の怒りを込めて打っている。一撃でも刺されば、間違いなく死ぬ。
「逃げて!」
声が届く前に既にリーンは踏み切っている。
「しゃぁぁぁああああらあああああああああああああしねええええええええええ」
それは頭突きから始まる、速すぎる連打だった。ヘッドバットはクリティカルに当たった感覚がある。深すぎる踏み込みだったが、先ほど外したならそれくらいで丁度いい。秒間にして百発は下らない、マシンガンのような連打。一撃一撃ごとに爆縮したように大気が吹き飛び、吸い込まれ、円形の衝撃波が飛ぶ。一瞬前に叫んだノーベルは口の中に急激に爆風が飛び込んだせいで、声が詰まってそれ以上の言葉を発することができなかった。踏み込み足の真下から地響きのような振動が伝わり、怪獣映画でも見ているように町並みが傾いていく。
「――」
ノーベルは小さな壁に隠れていたにも関わらず体勢を崩し尻もちをついた。視線はなんとか彼らの方を向けていたが、雷光のような光と激しい振動のせいで、何が起こっているのかを正確に見ることはできない。
ただ、確実なことが一つ。視界内に零春は、いなかった。
「……!」
何が起こっているのかわからない。蒸発したように彼は消えた。
「――懐かしい」
零春は爆発の中心点にいながらにして何も聞こえず、雑念もなかった。死線をくぐる意識はどこまでも高まり、現実と白昼夢の間、すなわちトランスと呼ばれる状態まで至っていた。
初めて猛る牛を相手した十二歳の頃のことだ。相手はまだ子牛で――といっても優に百数十キロはあるだろうが――肩甲骨の間にはバツの印が付けられている。この場所は、生命の急所だ。人間においては脳幹側の脊椎にあたる。隣には祖父がおり、よく狙って突け、でなければ死ぬと脅された。まだその時は、闘牛をわかっていなかった。だから突けば簡単に大人しくなって死ぬと思っていたし、呆気なく子牛の背に刀剣が突き刺さった時、これで自分は牛を殺した。大人になったと確信して誇らしささえ覚えた。
――しかし、子牛は死んでいなかった。わたしの刺突経験の浅さと、祖父の目星のほんの数ミリのズレから、牛は幸運にも急所を外していたのだ。
わたしは達成感から、背を向けて気を緩めていた。これ好機、と怒りでわたしの後ろから猛進してきた子牛は、自らの全存在を賭けてわたしの身体を突き上げて跳ね飛ばした。まだ軽かった身体は簡単に舞い上がり、背中には角が突き刺さった。空で身体が半回転した時、牛の姿が真下に見えた。そのままわたしは下に落ちていく。背中には突き刺さったままの剣が見えた。
「――」
これだ、と身体が勝手に動き始めた。わたしの身体が最初からこうなることを知っていたように、神が手を取り足を取ったように、まるで戦いそのものに操られるように身体が導かれていく。
今、零春の真下にはリーンが見えた。激しい爆風に乗じて飛んできた金属板を踏み切って、リーンの放つ風圧を一手に受けて高空まで跳び上がったのである。リーンの背中には、かつてのように印が付いている。そしてその手には、一族に伝わりし正統なる武器、闘牛士の爪が握られている。
「――ッ」
零春には急所が見えていた。これからは印がなくても突けるだろう。生命を殺すための点は、零春の内側に理解された。
落下の惨劇。いや、これはもう惨劇ではない。
「闘牛士の終幕」
風圧が止んだ後、赤い雨が降り始めた。リーンは拳を突き出したままの格好で、時が止まったように停止している。その隣に着地した零春もまた、停止していた。暖かい血の雨を受けて、白無垢の面だけが汚れていく。爪は一撃でリーンを終わらせていた。苦痛はどこにもない。もう零春を未熟者、と罵る人もいない。
「俺の勝ちだ。リーン。リーン・スピードボール。お前は強い、戦士だった」
誰かがいれば目を覆いたくなるようなその瞬間に、誰も立ち会うものはいなかった。オリンピアの絶対王者、ソーシャルメディアインフルエンサー、女優、輝かしいステージを渡り歩いてきた、人に囲まれて愛されてきた人間の最期というには余りにも呆気ない、残酷な終わりだ。けれど彼女はそれでも構わない。最初から見てほしい人は一人だけだったのだ。
ノーベルの目には、意識の向こう側に薄い藤色の水鏡が見えた。徐々にその水鏡は薄まって消えていく。手を伸ばすと、暖かい水面に触れた。二の腕辺りまで沈んでいる。そこでノーベルは気がついた。それは薄まって消えたのではない。目の前に近付いたからわからなくなっただけなのだ。
死の彼岸だ。どこまでも落ちてゆくしかない。ノーベルは抵抗しなかった。けれど、毅然として受け入れもしなかった。その最後まで死であろうと、自らの魂には触れさせはしない、それが気高さであり、誇りである。やがて胸まで浸かり、顔が浸かる。死が彼女の魂をようやく飲み込もうと口を開けた時、それは現れた。
熱気を纏った風であった。水面が波立って水が捌けていく。水位が下がる。リーンのそれとは違う。水面は波立つのみならず、蒸発まで始めた。藤色の蒸気が辺りを濛々と満たした時、その影はより色濃く映り、手を引いた。
「はっ」
夏の太陽がやけに眩しい。何度もちらついたその視界が像を結ぶまでの数秒の間、耳朶をうつのは金属が擦れるような音だった。ようやく定まった視界は、急激に自らが死の水面から浮かび上がったことを克明に伝えていた。
――ワタシに振り下ろされた拳を、受け止めてくれた人がいる。それは長い髪をして白無垢の仮面を付けて……そして何より目を引くのは、長い金属の爪が付いた手甲だ。
歯車が噛み合うような音で拮抗した両者の力は、一瞬の隙を突いたエアソバットキックがリーンにヒットしたことで破れ、距離が開いた。
「てめェは……! ゼロハル! 腰抜け野郎がなんでこんなとこに!」
ゼロハルと呼ばれた青年は、ノーベルの腰に素早く手を回すと「立てるか?」と聞く。ノーベルはゼロハルの助けを借りて蹌踉めきながら立ち上がって頷くと、仮面の向こうの優しげな視線に気がついて頭を振った。
「え、ええ――ありがとう。ごめんなさい、あなたは」
「話は後だ。下がっていてくれ。できれば距離を取って安全な場所に」
ノーベルは言われた通りにするしかなかった。今の状態では戦えない、湧き上がってきた血痰を吐き飛ばしてみっともなく後退るより他ない。下がったのを見届けると、その前に立ちふさがるように立った零春は厳しい目付きでリーンを睨みつける。二人の間には激しい火花が散っていた。
「気をつけて。知っているかもしれないけど……かふっ……その男はボクサースタイルで戦うわ。不意打ちもしてくるし、急所突き、死んだふりも厭わない。あと、首は効かないみたい。一度かなりクリティカルに蹴ったのだけど、響かなかった」
「ありがとう、マドモアゼル。けれど大丈夫。わたしも慣れている」
マドモアゼル――しばらくの間聞いていなかったその言葉は、ノーベルの胸に不意に郷愁を運んだ。同時にこの男の高潔な精神性が、そこに詰め込まれているような気がして、故郷のプラムの果実の爽やかさを思い出していた。
「ほォう、死にに来たかァ! ゼロハルゥ! まあ、そんな弱っちい力じゃァ無意味な女一匹守るのが精一杯だよなあ。いい顔したくて来たワケだ、お前みたいな実の伴わない雑魚はここで誰かに覚えておいてもらって死のうってわけだ、ハハハ!」
首が増えた、とリーンはより凶悪にその顔を歪めて笑う。逃したはずの獲物が帰ってきたのだ、これほど愉快なことはなかった。
「確かめてみるか? 今俺は――虫の居所が悪いんだ」
「虫の居所が悪いだァ? 虫ケラみたいな雑魚野郎が、俺の前でそんなクチ聞ける立場だと思ってんのか! ァあ!?」
「黙れ。お前のように下劣で、罪を一度も振り返ったことがないような人間は、大きな力を手に入れてはいけない。力とは、責任の所在のことを言うのだ」
冷たく言い放つ零春の言葉をどこまでリーンが理解しただろう、しかしその小難しい言葉の羅列はリーンの逆鱗を逆なでするのに十分だった。
リーンは教育など受けていない、高潔な精神も、高尚な芸術も、全ては拳に劣り淘汰されるものだと学んできた。そして何より、力すらないにも関わらず、私腹を肥やしてふんぞり返る雑魚が嫌いだった。リーンの最初の犯罪は義憤での殺しだった。ストリートボーイに麻薬を斡旋して私腹を肥やすホワイトカラー共、麻薬で友人を失ったリーンは麻薬のブローカーを己の拳で全員叩き壊したのである。力こそが全てだ、力こそが正義である――自分にボクシングを教えてくれた亡き友のために。故に、それを知らぬ魂に、怒りは爆発した。怒りで唇はひくついて、肩はいかり、目はかっ開いて全身の血管はミミズが這っているみたいに何度も何度も脈動した。
「てめぇは殺すッ!!!」
「俺も同じ気持ちだよ。お前のような化け物はここで殺す」
リーンの神速ストレートが翔ぶ。ノーベルはやはり目で追えない。気がつけばステップから腕は伸び切っており、それは零春の仮面に叩きつけ――
「どうした」
「――!」
リーンとノーベルはほぼ同時に同じ反応をした。背筋をピンと張って、目の前のことが信じられないというように刮目した。
ストレートが、届いていない。紙一重、その言葉が正しいだろう。リーンの一撃は、零春の仮面の向こうで伸び切って止まってしまったのだ。
「ヒョウァ!」
零春が叫んだその瞬間、ウェイブのかかった横髪がふわりと空に舞った。弓なりに反った背中から放たれる開襟シャツの胸元には赤く脈動する高密度の筋肉と、それ以上の靭やかさ――ノーベルはそれだけで理解していた。
彼は、ダンサーだ。
踊るように戦う、しかし自らのそれとは全く違う。零春は長く太い足で顎を蹴り上げていた。眉間のまっすぐ下、人間の顎骨の最も前面に突起した頂点の部分である。リーンは噛み締めたままの口を開けることができなくなって、体重ごと空に持ち上げられて吹き飛んだ。口の中を噛んだのか、リーンの口からは血が吹き出して、薔薇のように風と舞った。零春は浮いたリーンに素早く回転を加えて近付く。鋭い鈎爪で首と脇腹に二撃斬撃を加えると、更に血が花弁のように舞い散った。
「余興の花!」
「くかっ――」
残酷で、美しい。その舞踏をノーベルは知っていた。
闘牛だ。半野生の牛と闘牛士が闘う伝統の舞踏であり、また命を賭けた武闘でもある――。興行であるが故に審美性こそが重要である闘牛では、暴れ狂った牛に対してギリギリまで動かずないこと、怯んで逃げ出さないことこそが勇気の証とされる。リーンは血を全身から滴らせて、致命傷を受けたかの如く噴水のように血を遡らせてアーチを架けた。
「……立て」
零春は怒りを孕んだ言葉で起立を求めた。声がリーンを通り抜けた頃、飛沫のように弾けていた血は止まっていた。筋肉の圧力で血管を閉じたのだ。けっ、吐き捨てる声と同時に、頭を支軸にして体を捻ってリーンは立ち上がった。リーンの体表を、血液が不気味にコーティングしている。
「不意打ちは通用しないってか」
「まだ槍士から槍が放たれた程度でしかない。ここからが本番だ」
リーンは冷静にステップを踏み始めた。足元から伝わる平滑な感覚と音、この一定のリズムは常にリーンへ冷静な観察を与えてくれる。なぜ先程のストレートが届かなかったのか、その理由が見当たらない。踏み込みは完璧だったはずだった。それに零春が不気味なほどに地に足を付けて戦っているというその事実にも奇怪さが漂っている。
玄明によれば、零春の力は筋力、跳躍力や反射神経の小規模な増強に留まるまでの貧弱な強化である。本来零春が持っていた跳躍能力から来る高度を活かした攻撃は何度も録画物で見た。玄明は用心深い人間であるから、自らが改造を施した人間の強みと弱みの両方を知っており、対峙する可能性がある三人には零春のことをきちんと紹介していた。現に深夜には零春は逃亡手段に壁面を選び、タオに落とされたではないか。いや――だとするなら。
「……小癪なことをしやがって、ムカつくぜ、ムカつくぜ、ムカつくぜェ!!! 対策なんてしやがって、この、女野郎! 俺がその程度で倒せると、思っていやがるのか! 地に足をつけて俺の知らない行動を取ったくらいで! その程度で! 地上はオレのもんだ! てめえみてえなコウモリ野郎がオレに敵うなんて思い上がりやがってムカつくぜえええええええ」
「事実、お前は動いてすらいない俺に拳を当てられなかった」
ぬっとりと仮面に日差しを受けて、零春は微動だにしないまま事実をリーンへ宣告する。激昂したリーンは思い切り身体を引き絞って、身体を抱え込むように丸まった。そして全身のバネを弾けさせて弾丸のように飛び出した。背後にはスリップストリームの気流が鎌鼬のように真空を生み出し、細い金属片が真空の圧力に耐えきれずねじ切れた。
「それなら、連打しちまえばよおおおおおおお、どっかで当たるよなァあああああああ!!!!」
爆発的な前進が、辺りの塵を巻き上げて轍を描く。まだ残っていたガラス窓が割れていく、ノーベルはようやく理解ができた、この惨状は彼が進んだ痕なのだ。ただこのように、ステップを踏みながら進んだだけ。風がノーベルの髪を巻き上げた時、怖気が背中を駆け上がり、完全に気圧された。勝てるはずがない。進むだけでこんな被害を齎す手合いだ、もし一撃でもその拳が直撃してしまったら――ノーベルの時は、不意打ちだったからまだ軽いストレートで済んだのだ。しかし今彼は渾身の怒りを込めて打っている。一撃でも刺されば、間違いなく死ぬ。
「逃げて!」
声が届く前に既にリーンは踏み切っている。
「しゃぁぁぁああああらあああああああああああああしねええええええええええ」
それは頭突きから始まる、速すぎる連打だった。ヘッドバットはクリティカルに当たった感覚がある。深すぎる踏み込みだったが、先ほど外したならそれくらいで丁度いい。秒間にして百発は下らない、マシンガンのような連打。一撃一撃ごとに爆縮したように大気が吹き飛び、吸い込まれ、円形の衝撃波が飛ぶ。一瞬前に叫んだノーベルは口の中に急激に爆風が飛び込んだせいで、声が詰まってそれ以上の言葉を発することができなかった。踏み込み足の真下から地響きのような振動が伝わり、怪獣映画でも見ているように町並みが傾いていく。
「――」
ノーベルは小さな壁に隠れていたにも関わらず体勢を崩し尻もちをついた。視線はなんとか彼らの方を向けていたが、雷光のような光と激しい振動のせいで、何が起こっているのかを正確に見ることはできない。
ただ、確実なことが一つ。視界内に零春は、いなかった。
「……!」
何が起こっているのかわからない。蒸発したように彼は消えた。
「――懐かしい」
零春は爆発の中心点にいながらにして何も聞こえず、雑念もなかった。死線をくぐる意識はどこまでも高まり、現実と白昼夢の間、すなわちトランスと呼ばれる状態まで至っていた。
初めて猛る牛を相手した十二歳の頃のことだ。相手はまだ子牛で――といっても優に百数十キロはあるだろうが――肩甲骨の間にはバツの印が付けられている。この場所は、生命の急所だ。人間においては脳幹側の脊椎にあたる。隣には祖父がおり、よく狙って突け、でなければ死ぬと脅された。まだその時は、闘牛をわかっていなかった。だから突けば簡単に大人しくなって死ぬと思っていたし、呆気なく子牛の背に刀剣が突き刺さった時、これで自分は牛を殺した。大人になったと確信して誇らしささえ覚えた。
――しかし、子牛は死んでいなかった。わたしの刺突経験の浅さと、祖父の目星のほんの数ミリのズレから、牛は幸運にも急所を外していたのだ。
わたしは達成感から、背を向けて気を緩めていた。これ好機、と怒りでわたしの後ろから猛進してきた子牛は、自らの全存在を賭けてわたしの身体を突き上げて跳ね飛ばした。まだ軽かった身体は簡単に舞い上がり、背中には角が突き刺さった。空で身体が半回転した時、牛の姿が真下に見えた。そのままわたしは下に落ちていく。背中には突き刺さったままの剣が見えた。
「――」
これだ、と身体が勝手に動き始めた。わたしの身体が最初からこうなることを知っていたように、神が手を取り足を取ったように、まるで戦いそのものに操られるように身体が導かれていく。
今、零春の真下にはリーンが見えた。激しい爆風に乗じて飛んできた金属板を踏み切って、リーンの放つ風圧を一手に受けて高空まで跳び上がったのである。リーンの背中には、かつてのように印が付いている。そしてその手には、一族に伝わりし正統なる武器、闘牛士の爪が握られている。
「――ッ」
零春には急所が見えていた。これからは印がなくても突けるだろう。生命を殺すための点は、零春の内側に理解された。
落下の惨劇。いや、これはもう惨劇ではない。
「闘牛士の終幕」
風圧が止んだ後、赤い雨が降り始めた。リーンは拳を突き出したままの格好で、時が止まったように停止している。その隣に着地した零春もまた、停止していた。暖かい血の雨を受けて、白無垢の面だけが汚れていく。爪は一撃でリーンを終わらせていた。苦痛はどこにもない。もう零春を未熟者、と罵る人もいない。
「俺の勝ちだ。リーン。リーン・スピードボール。お前は強い、戦士だった」
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