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第9話① どなたですか

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「やれやれ、困ったぜ」 

 上海は溶けたアイスをしゃぶりながら、最近読んだ漫画に出てきた主人公の決め台詞を言った。今日は学校に行っていない、御鈴波邸の近くの公園をふらついている。お小遣いはじいやにもらった。学校に行かなかった理由は一つだ。ゴッ太郎がいなかったからだ。毎朝ゴッ太郎に起こされて、ゴッ太郎に着替えさせられて、ゴッ太郎に連れられるから学校に行く。学校なんか行ったって大して面白くない、上海は日本語がある程度できるけれど、それだけではの仲間にはなれないのだ。上海にとって当面の課題は、子供相手にバレないように、『普通のこども』の擬態をすることだった。ふと言葉にしてみると混乱するけれど、大人に対して普通のこどもっぽく振る舞うことの方がずっと簡単なのだ。周りの子供に溶け込んでいる感じを出して、ちょっと奥ゆかしくするだけで『恥ずかしがり屋の女の子』になれる。けれどそれ以上に難しいのは、同じ年齢のこどもの目を欺くことだ。彼らのほうが、上海の嘘に敏感だった。ちょっと演技で子供っぽく振る舞うだけではボロが出る。思ってもいない言葉を出すと、空気が凍る。なにもしていないのに、溶け込もうとして話題についていけないだけでずっと疎外感がある。その疎外感のせいで余計に言葉が出てこない――悪循環である。だから学校は嫌いだ。行っても睡眠時間になってしまうだけだから、けれどそう言ってもゴッ太郎はわかってくれない。上海はゴッ太郎が大好きだけれど、そこだけは嫌いだった。思い出すと、ちょっとムカつく。上海の丸くて形の良い眉がきゅっと眉間に寄った。

「こんな息苦しい世の中じゃ、空も飛べやしねえぜ」

 最近の上海のトレンドは、語尾の~であった。そもそもとして日本語ネイティブではない上海は、かなり言語が怪しい。元は海の向こうの大陸に居たわけなのであちらのどこかの言葉がベースとしてあるはずなのだが、正直な話本人にもわからない。母や父が喋っていた言葉がわかるようになった頃には既に上海は一人、ストリートで生活するスカベンジャーになっていたのだから。

「あじゅいぜ……」

 暑いなら御鈴波邸にいれば良かったものをどうして外に出てしまったのだろう――上海は小さな腕を組んで考える。しかしという明確な回答は見つからない。
 かつて路上で生活していた記憶があるせいだろうか、だがそうなると自分の家でゲームをしている間はなんにも辛くないのが説明がつかない。じゃあ誰か嫌いな人間が御鈴波邸にいるだろうかとも考えるのだが、じいやもばあやも好きだし、御鈴波もちょっと言葉はキツイが別に特段きらいじゃない。頼まなくてもどんどん食べ物が出てくる辺りは文句なしに大好きだし、買ってほしいものはなんでも買ってもらえる――じゃあなんで外に出てきたのだろう。
 腕を組んだまま首を傾げると、世界がななめ四十五度になった。なにかが頭の上を掠った。もちろん、
 上海の艷やかな髪が踊る。ぶわり、と灰銀の細い繊維が空を舞うけれど、上海の考え事は終わらない。

 どうして、――?

 ぶうん、ぶうん。扇風機みたいな音が辺りを占める。衝撃波の渦が近くにあるブランコの鎖を断ち切る、太い鉄パイプで作られたアスレチックが斜めにズレる。けれど上海の動きは変わらない――それどころか、辺りの真空を切り裂く高い音が鳴るその度に、上海は思考の深海に沈んで冴えていく。目の前に現れた敵など問題ではない。むしろ上海は無音では考え事ができないタイプだ、心地よいくらいの騒音ならスペシャル・サンクス! 名も知らぬ敵に胸の中で感謝を贈る。

 思いつくことはほんの少しある。上海は、腹痛が嫌いだ。
 もちろん、腹痛が好きな人などいるわけがない。けれど、そういう並大抵な当たり前の気持ちではなくって、結構本気で憎んでいるのだ、腹痛を。親の仇のように――といっても上海は早々に親を捨てた身だからどんな気持ちかなんてわからないが、それこそお腹が痛いのにどこにも手洗いが見つからない時神様に祈ったり悪魔に縋ったりするみたいに、もし一個だけ願いが叶うと言われたら、まず一番最初に腹痛を消すだろう。それくらい絶対に許せないのである。

 ハァ――ハァ!

 誰かの息切れが聞こえる。上海の身体は風に乗るたんぽぽみたいにふわりふわりと柔軟にその拳の筋を避けていく。何度も何度も、正確に打ち込まれる直線を掻い潜る。時にはくるりと地に足を付けて、地面の上をコロコロと転がって距離を取る。その度に追いかけてくれる拳が有り難い。きっと大層高名なファイターに違いない。そう、
 やがて上海は、男のストレートをかわすように錐揉きりもみ回転を起こしながらふわりと浮いた。ものすごく緩慢に、まるでフラフープを回し始めたばかりみたいに心許ない跳躍である。

「――!」 

 今まではただ当たらないだけサンドバッグだと思っていた少女が、急に飛び上がった。男は不意を突かれていた、死んだセミに触ったら飛んだような感覚である。あれよあれよと言う間に上海の影が顔の前に立ち上る。太陽が隠れる。
 男は咄嗟にとっさ腕を持ち上げた、ボクサーの防御姿勢である。バックスウェーによるのけぞて回避は間に合わないだろう。
 であれば、。ガキの一撃くらい、大したことはない。
 そうだ。間違いはない。少し当てにくいだけで、当たれば勝ちだ。安直である。

「つまかえた、ぜ」
「あ?」

 逆さ吊りにでもなったみたいに空中でひっくり返ったまま、上海の腕が男の腕を掴んだ。
 男は息を呑む。
 こいつ、無重力、か――?
 いつまで滞空しているのだろう、あんなにゆるゆると飛び上がったのだ、回転もほとんどかかっていない跳躍がここまで跳びっぱなしなわけがない。なぜ、こいつはまだ浮いている。たっぷり十秒近い滞空のまま、防御姿勢のその上を取った上海は、足で男の首に絡みついた。

「ふんっぜ」

 男は激しい衝撃が背中に走ったのをどこか自分の外側から眺めたような他人行儀な感覚で受け取っていた。身を丸めて頭は守ったが、肉体はバスケットボールを地面に叩きつけたみたいにワンバウンドしてまだ浮かんでいる。圧迫された肺の空気と溜まった唾液が空中に漏れた。

「あがっ――がっ」

 何が起こっている――何が!
 こんなことがあるはずがない。マータによる強化の後だ。随一の進化を遂げた圧倒的な戦闘力だ――ハルアキラにも太鼓判を押されたこの俺が、どうしてこんな小娘一匹に遅れを取っている――!?
 頭を丸めて着地した男は、そのまま後転して五メートル近く距離を取った。お互いの拳が届かないセーフティゾーンである。自ら距離を取ったということは、仕切り直しを申し出たのと同義である。女子供にこれほどプライドを傷つけられたことはない。だが、それ以上に不気味さが警鐘を鳴らすのである。こんな小さな身体で、こんな小さな筋肉で、こんな、こんなにやせっぽっちのガキ一匹になんで――! ありえない、ありえるはずがない――男は冷静さを欠いていた。

「名乗れ」
「……は?」

 少女は神妙な表情で構えを取る。両の手のひらを天に向け振り子のように一周回し、右に一撃刺突、左に二撃蹴り上げ、そのままの回転を活かして鉄山靠てつざんこ。ポケットの中から取り出した携帯端末で銅鑼の音をセルフで鳴らす。
 ぼわああああああ~~~~ん。
 銅鑼のなんとも言えない腹底に響く音が辺りを満たす。

「我が名は上海揚麻婆茄子しゃんはいアゲマーボーナスッ!!! そなた、大層高名な戦士とお見受けいたす。名を名乗り散らせ……! 拙者の目的は散歩。好きなものはゲームとお菓子とゴッ太郎……そちは?」

 背筋をぴんと伸ばして両手を袖に仕舞う。最近読んだ魔界少年☆魔娑斗の決めポーズだ。

「は……」

 決まった……上海は内心満足感でいっぱいになる。相手はもう逃げ出したい気分でいっぱいに違いない……こんなにかっこいい人間を見たことはないはずだ。鼻の穴を膨らまして悦に浸る上海の前には、ゴッ太郎よりもデカい男がいた。真っ黒くて、暴れん坊の熊みたいな凶悪な顔をしている。

「へ、へへ。いいぜ、名乗ってやる……! 俺は、リーン……リーン・スピードボール。玄明の命令でここに来た。好きなものは――てめえみたいなガキを、捻り潰してやることだ……! ぶっ、ムカつくぜテメァ! 決めたァ、脳みそ引きずり出して、あの嬢ちゃんとこにデリバリーで送ってやる!」
「……ふ、ふふふ。かかってこい。黒坊主」

 上海の額には大量の汗が伝っていた。暑いからではない。
 思ったよりも大物が釣れていたことに、今頃気がついたのである。
 滝汗が流れる。やっべえ。震えていた。ついでに、緊張でお腹も痛いかも。
 戦いの銅鑼ゴングを鳴らしたのは、自分だった。
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