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第8話⑥ 凶暴性

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 グルオ――気流の音を言葉で表現するならばそれだ。細い棒を振り回したような、頼りない音ではない。丸太をそのまま振り回したような分厚い音である。誰もその音の主を知らない。どこからともなく響く音を、街角に立つ誰もが聞いた。理由がわからない。騒音でもない、振動だ。誰もが不信に思いながら通りすがる道には、トレーニングジムが立っている。その中でトレーニングに勤しんでいたスポーツマン達は、もっと奇妙な音を聞いていた。

「おい、なんだよこの音――気持ち悪くなるぜ……なんだ?」

 それは金属の上を先が細くて尖った切片が走ったような音だった。近い音で言えば黒板を爪で引っ掻いたような、背筋にぞわりと冷たいものが走る音である。ランニングマシンで走っていた電力会社に勤めているサラリーマンは、この音をどこかで聞いたことがある――しかしそんな音のはずがない……と途中で思考を辞めた。そんなはずはないのだ。だって、その音は。

 鉄の羽根が回る音だ。第一次産業革命時から人間が大きな力を生み出すために使う方法は変わらない。火力発電機によって回されるタービン、熱された水は気体になると液体時に比べて体積比は千七百倍にもなる。その体積比の違いを利用して回される大きな大きな鉄の歯車。それが回り始める時、巨大な音が発生する。力が伝達し切る前、慣性が乗り切る前、最も抵抗の大きい瞬間、そこで最も大きな『軋み』の音が生まれる。彼が想起したのはそれだ。しかしそれがこんな街中で聞こえるはずがない。だから彼は思考を辞めた。聞こえるはずがない、あるはずが――ないのだ。誰もが耳を押さえた次の瞬間、音は止まった。



 同ビル――四階、プライベートトレーニングスタジオ。
 照明を照り返すリノリウムの床は、その男の陰を八方に散らしていた。その陰が重なっている部分だけが濃紺に近い染みとなっている。汗である。天井から吊り下げられたサンドバッグは空中で、真横の姿勢を保ったまま停止している。空中で止まっているのだ。その下でシャドーボクシングのように腕を打ち出す大男が一人。肌は黒く、刈り込んだ髪はメラニンの影響で赤っぽい。彼の腕はほぼ無音だ。時計のように精密なステップで右に一メートル半、次は左に同じ幅。汗が飛び散って出来る放射状の模様の位置が全く変わらない。精密すぎるのだ。

「流石だね。リーン。やはり一番槍として彼らと当たるなら、相応しいのは君だと思っている」

 リーンの背後に立っているのは玄明だ。思い通りか、それ以上に力を持っているだろう。

「まだだ……よく見てろッ」

 リーンの足さばきはさらなる次元の動きが加わる。リーンの身体が深く沈み込みつつ後ろに下がる、次いで迫り上がるような全身にジャブとパンチが合わさる。

「ほう」

 ただ左右だった肉体が前後に変わっただけではない。上半身に捻れるような動きが加わり、更に沈み込みと跳ね、三次元、四次元、更にパンチの音にも変化が現れる。たぱ、たぱ、と水面を叩いたような音だったのが、もっと軽く、もっと早く、コンパクトに変わる。遂にはほとんど音がしなくなった。フェザータッチである。

「まるで曲芸だな。それがどのように役に立つ」
「こうだ」

 玄明は目を見開いた。リーンの拳がいつの間にか顎に届いている。とん、とそっと顎を撫でた彼の拳の音が響いた頃、背後のサンドバッグが弾けた。中身に詰まったシリコンが花びらが散るように舞っていく。凶悪な瞳が玄明を射抜く。

「素晴らしい。君のマータは能力を開花させているようだ」
「そうらしい。俺はなんて興味ねえ、どこまでも強いやつが正義だって知ってる。だからアンタについていけば強くなれるなら、どこまでもついていく。、もっと強い力をくれるんだよな?」
「約束しよう。君の身体が耐えきれればいいんだが」
「ハハハッ関係ねえ。どこまでも強くなるんだ。強くなれなきゃ死んだ方がいい。その時はその時だ」

 この男は、どこまでも狂犬だ。リーンは今までリングの上で十五人を殺している。そのせいで表舞台からは追放になった。けれど地下の闘技場では表よりも拳を振るった。文字通りのデスマッチを続けて来た男である。

「もう一度の強化に成功すれば、君に正式なNo.2の称号を渡そう。君の存在が人類を導くための重要な資産になる――とはいえ、君はそんなしゃらくさいことには興味がないだろうが」

 あるはずがない。そうわかっていながら、玄明はリーンに敢えてその言葉をかける。リーンは嬉しそうに腕を振った。

「へへ、肩書なんかに興味はねえ。だが、タイトルが増えるのは悪かねえ!」
「そうだろうな。では君に強襲の任を与えるよ。生け捕り、殺し、達磨、全部君に任せる。対象は――」

 リーンは邪悪に、凶悪に、無邪気に笑む。首輪の鎖は、外された。
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