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第8話⑤ そうは言っても

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 ぼやりとピントのずれた光の点が遠くに、近くに移動する。部屋中の明るさが二転三転――ゆっくりと像を結んでいく。最後の記憶は……なんだか回転しながら空を飛んでいた記憶があるのだが、どうも安定しない。ぼんやりと、白い天井が映る。

「目ェ覚めたか?」

 声の聞こえた方向に首を傾ける。ベッドサイドにいたのは――後山田ゴッ太郎だった。急激に記憶がフラッシュバックし、脳裏に映像が再生される。

「……!」

 ノーベルは反射的に起き上がって背筋を立てたまま、動揺をとりなすこともできず口元に手のひらを当てて言葉を失っていた。

「怪我なかったみたいで良かったァ~、イーグルに聞いたんだけどよォ、アンタ御鈴波の友達なんだって? ごめんなァ、先に行ってくれたらもっと仕上げてからバトれたのによ。あ、センセー! 目え覚めたみたいだから飲みもん出したげてくれよな」

 カーテンの向こうからは、はぁい、と女性の声が聞こえる。

「……ここは、保健室?」
「ああ、気絶してたからな」

 呆気に取られたまま、ノーベルは目の前の青年を見つめる。思っていたのと大分違う――紳士的でもなければ、嫌味な感じもない、こちらから仕掛けたのにも関わらず責めの一つも出てこない。それどころか、先程の完成度について不甲斐なかったと反省する始末。ノーベルは輝きと消滅を繰り返す第一線、それも剣呑な世界での人間関係を蓄積してきた。馬脚を現せばより大きな代償で支払うことになる世界だ。ゴッ太郎の惚けた返答に蛇のような毒が含まれていてもおかしくない。この負けがどのような意味を持つのか、他でもない御鈴波の耳に届くことを思うと、胸が痛んだ。ノーベルが御鈴波の前で見せる、初めての失態らしい失態だからだ。完璧を装うこと――それが出来ないとなると、あの完璧主義の御鈴波には選んで貰えない。しかし、ここまでやって諦める――そんな選択肢をハナからノーベルは持っていない。

「そう。運んでくれたのもアナタ?」
「おう。投げたついでだしな」

 そんなついで聞いたことねえよ、と横で薬湯を準備していた洋華医師は思ったが、口には出さない。ややネジは緩みがちであるのだが、彼女も大人であった。

「……ごめんなさい、アナタを讃えるべきね。強かったわ――それに運んでくれてありがとう」
 思考がまとまらないまま、ノーベルは素直に称賛を送る。勝者には羨望と賛美が与えられならなくてはならない。堅牢で高潔な精神を持つ彼女にとって、それは今まで受け取ってきたものであるし、彼女の誇りを構成してきた大きな要件でもある、負け惜しみなど許されるはずもない。

「いいや。でも、マジでビビった。最近訓練しててさ、昨日だったら負けてた。今までやった女の中だと一番つええ、けど、一個ミスったな。しゃーねーよあれは」
「……仕方ないことなんてないわ。きちんとやれば勝てていたかも知れないことについて妥協する趣味はない――ワタシの甘さだわ。でも、慰めてくれてありがとう。御鈴波のボーイフレンドって、素晴らしいヒトなのね」
「それ! そこなんだよ」

 穏やかに微笑んだノーベルの言葉に問いかけるように、ゴッ太郎は指摘する。ずっとゴッ太郎の中では意味不明だったのだ。なぜ彼女は戦いを挑んできたのだろう――腑に落ちない。

「アンタからはなんだろう、イヤな目的で狙ってきてる感じがしない。なんでオレのこと殴りに来たの? 玄明の方の差し金、なんだよな?」
「……ハルアキラ?」

 微妙な間である。ノーベルの表情は正に鳩が豆鉄砲という感じで、完全に知らないムード全開である。小首を傾げつつ艶めく唇がoの形を描いているものだから、ゴッ太郎は思わず美しすぎて表情の移り変わりをじっと眺めてしまった。御鈴波が正統派和美人なら、こちらはフランス人形、コッペリアである。

「いいや、俺は賢いんだ。女がこういう時はなんかインボーってやつが関わってるって知ってんだ。上海といっぱいそういう映画は見たからな! ところでなんでここ来たの?」

 陰謀だと思うのであれば、最悪の聞き方である。だがゴッ太郎には尋問の能力などあるはずもなく、結局こうして正直に訊くしかない。

「ワタシは……御鈴波とお家の繋がりがあって――昔から親友なの。でも御鈴波には最近婚約者がいるって聞いたから、それがどんな人か確かめに来たのよ」

 ゴッ太郎は唖然として開いた口が塞がらなくなった。零春はわかる。玄明の手が入っているから強い、イーグルもわかる。技研の力が注がれているのだから。けれどこの女は……ゴッ太郎や上海と同じ、天然なのだ。

「ええ、っと。アンタ、別にエージェントとかじゃないよな。特に暗殺経験とかはございますか?」
「暗殺? エージェント? そんなの映画の中の話でしょう?」
「……!」

 ゴッ太郎の表情は憂いと驚愕の入り混じった得も言われぬ顔色に変わった。そんな風に言われると、ゴッ太郎の人生も上海の人生もどちらとも映画の中の話になってしまう。それにゴッ太郎からしてみれば御鈴波家と家同士の繋がりのあるフランスの城持ちお嬢様の方がお伽話だ。そんなお嬢様でありながら日がな戦い続けていたゴッ太郎とほぼ遜色ない戦闘能力――やはり表情に困った。信じられない。けれどそれ以上の驚きはこの反応からわかる、彼女が玄明の手先ではないという事実だった。そうなると彼女は個人で決めてゴッ太郎に挑んできたということになり、余計に奇っ怪なことになるのだが――一旦そこは置いておこう。

「ま、まあ。そうだな。そういうのは引退したはずの殺し屋が国の危機を伝えられて安定した生活を捨ててもう一度戦場に戻ってくるのが定番だもんな……」
「ふふ、そうね。定番よね。わたしそういう映画に出たこともあるのよ」
「へ~、すっげえ! 映画俳優なのか?」
「そんな感じ、ふふふ」

 配役はスパイ映画にありがちな愛人兼、終盤で裏切るエージェントであった。それなりに日本でも売れていたそうだから、この子に伝えたら驚くだろうか――それはともかく、ノーベルとしてはさっきからややゴッ太郎が話辛そうにもごついていることの方が気になった。促してあげるべきか? そんな逡巡をした矢先、彼は自ら言葉を紡いだ。

「ところでなんだけどさ、今回のこと、お互いに黙っとくってのはどうかな」
「……どうして? 理由がわからないわ」
「アンタ、御鈴波の親友なんだろ? 流石にちょっと外聞悪いっていうか、最近御鈴波、機嫌悪いんだよ。あんまり心配かけないでおきたいなあ、なんて」
「わたしは外聞が悪いなんてことはないと思うけれど……あの子に何かあったのかしら」
「結構厄介なことに巻き込まれててさァ、ちょっと俺の判断では誰にも教えられねえんだけど」

 と、いうか。教えたら怒られるっていうか。頭の後ろに手を回しながら、ゴッ太郎は笑顔を作る。



 声の後に、勢いよくカーテンが開けられる。だがそれが開き切る前から、二人共わかっていた。彼女が来た、と。
 御鈴波途次は、そこに立っていた。その背後ではティーカップを盆に載せた洋華が、額に汗を浮かべつつ笑っている。御鈴波の影がベッドのノーベルを隠すように覆った。既に圧力がかなり高い。

「ノーベル、あなたがわたしの言いつけを破ったことは多めに見てあげる」
「あら……だって言ったら止めたでしょう?」
「止められることはしなくていいの」

 ド正論である。見下ろす彼女の瞳の色は冷え切った鉄球みたいに冴えていて、触れるとこちらまで凍りそうだ。

「そしてゴッ太郎。あなたも。なぜ内密にことを済まそうとしたのかしら。全て報告しなさいと言っているはずよ」
「いや、その、御鈴波に心配をかけまいと……」
「わたしはそんなにヤワな人間に見えるかしら。ねえ。洋華」

 突然振られた洋華は不意を突かれて、危うく盆の上のティーカップ達を落っこちそうになった。ついでに、返答もすごく困った。

「ええ~、そんなことないと思いますけど」
「そう」

 良しとも悪しともされないせいで、ゴッ太郎と洋華はその後の反応に困った。こうなると女帝モードなわけであるから、洋華は速やかに椅子をご用意してティーカップを差し上げる。ついでという風にゴッ太郎とノーベルにもカップが配られ、お茶菓子がテーブルに載せられる。これでは保健室というよりも会議室である。

「さて、ゴッ太郎、どうだったかしら。ノーベルの力量は。顛末は聞いているから、所感だけでいいわ」
「強かったぜ。零春には勝てるんじゃねえかな」
「なるほどね。十分だわ」

 十分、その言葉はピンとこない。けれど御鈴波は落ち着き払ってカップに口を付ける。そして赤く艶めく液体を飲み込むと、一気に言い放った。

「じゃあ、ノーベル。あなたは今日からわたしと一緒にいましょう。もちろん登下校も、お出かけもよ」
「あら、愛人のお誘い? 彼の方が強いことがわかっちゃったから、わたしは帰れとでも言われるかと思っていたのに」
「そうしたいところ山々なんだけど、最近危なくってね」

 ノーベルは目尻を小さく下げた綺麗な笑みを浮かべる。

「弾除けってことね」
「そういうこと。安全は保証しないけど、やる?」
「もちろん」
 
 そびえ立つ山のような圧力に挟まれて、ゴッ太郎は所在なくなった。手持ち無沙汰に掴んでいたティーカップの中身をひっくり返すように飲み込む。

「ぐはっぶっ――まずっ」

 ゴッ太郎は鼻と口から黄色い飛沫を吹き出した。

「え?」

 予想外の出来事に、洋華はティーカップを見比べる。

「あ、やっちゃった。それノーベルちゃんのだわ」

 今日もゴッ太郎は貧乏くじである。
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