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第7話① セオリー

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 翌日は大雨だった。重苦しい天蓋の下で向かい合ったゴッ太郎とイーグルは、互いの間合いに入るや否や一撃ずつ交換するように拳を叩き込み合った。

 肌を滑る重苦しい水しぶきを味わいながら互いに衝撃で後ずさって、二人は間合い外まで離れる。しかし視線は切れない。向かい合っている以上、敵は目前にいるのだ。

「昨日よりもいい一撃だ。挨拶としては上出来だな」
「だろうな。今日の俺は機嫌が悪い」
「そういう顔をしている」

「さァ、始めようぜ」
「いいや、始めない。今日は実践と座学を交えたスクール形式だ」
「始めんだよォ!」

 服を脱ぎ捨てたゴッ太郎は、筋肉を弾けさせた。雨の中弾丸のような速度で斜め上に飛び上がる。だが、そんな簡単な跳びを通すイーグルではない。半月を描くような鋭い飛び蹴りが鳩尾みぞおちに突き刺さり、ゴッ太郎は薄く張った鏡のような水面に沈んだ。

 弛緩しかんした肉体を雨に預けながら、ゴッ太郎は薄ぼんやりとした視界で水面を見つめていた。水面を踏みしめる音が耳元まで迫った頃、イーグルの声が雨とともに降り注いだ。

「ゴッ太郎。立て」
「あい……あい、さー」

 ゴッ太郎は水面に腕を立てようとして手を滑らせると、またもや水面に沈んだ。

「技のキレはいいが、昨日のような覇気がないな。どうした」
「なァ、イーグル……これはたとえ話なんだけどよォ。イーグルが通りすがりの少女にたまたま命を助けてもらったことがあったとする。
 で、後からその少女が敵だってわかって、そいつを殺さなきゃいけないことになっちまったってする。
 もし上手にやったら逃がせるかもしれねェ、でもそうするとエラい人から見捨てられるかもしれねェ。そうなったら、どうするよ」

 イーグルは眉間に皺を刻み込んで、唇を上に引き寄せると口元に手を当てた。

「何が欲しい?」
「は?」
「何が欲しい、と聞いてるんだ。そのイーグルという男は部隊での名誉が欲しいのか。それとも無辜むこの少女の命が救いたいのか。それとも、ただ命を救ってもらった恩返しがしたいのか――」

 ゴッ太郎は水に沈みながら考えていた。しかし考えれば考えるほどに、脳内は絡まった毛糸のように複雑怪奇になり、出口のない迷路に迷い込んでしまったように解決の糸口は見えなくなっていった。

「俺は……何が欲しいんだ……もうわかんねェ」
「わからないのなら、立て」
「立ってどうすんだよ」
「俺の古い友人の口癖を教えてやる」

 ゴッ太郎はゆっくりと雨の中、立ち上がった。

「構えろ」

 構えたゴッ太郎に対し、イーグルは初めてゴッ太郎の腕が届く範囲内まで近付いた。そして拳を握り締めてまっすぐと視線を合わせた。

「お前のタイミングで打て。必殺のタイミングを逃すな」
「いいのかよ」
「構わない」

 雨は一層、雷鳴を伴って降り注ぎ始めた。何度も稲妻が走り、閃光の中に唯一あったのは二人の影だけだった。烈しい水音と雷鳴でも、互いの視線は一瞬たりとも外れない。雷鳴と雨音の騒音でさえ、二人の世界では既に無音と等しい。

 明鏡止水――ゴッ太郎の瞳の先に映っていたのはだった。どのような強者でも、かならず揺らぎが起こる。完璧な構えは存在しない、どこかで破綻を起こす。その瞬間であれば、いかなイーグルであれど守れない。この間合いなら外さない。

 前傾のボクサースタイルに構えたイーグルだが、足は止まっていた。ボクサースタイルは、ステップありきで組まれている、足捌きを重視するスタイルだ。足捌きによって生まれる優れた回避能力と、相手の目測を裏切るステップによる瞬発の複合技コラボレーション

 獲物を狩る猛獣の形意拳と言ってもいい。だが、イーグルのそれは根本が違う。どちらかといえば、空手の構えに近い。相手の動きを見極めて、それに対応する『返し』の型を見ている。

 それにボクシングのフェイスガードを組み合わせているから、急所が固い――独自の構えではあるが、その合理性は一目でわかる。

 動かないボクサースタイル――その言葉は一見すると矛盾しているのに、この男を前にするとその認識が間違いであるということを脳が理解してしまう。そして更に、その構えは極めてに強かった。

 動かないこと、それが隙を生み出さないのだ。ここまで何呼吸の間イーグルと向かい合っているだろう。だが、明確な揺らぎは見えない。そればかりか、ゴッ太郎は自らが何度隙を晒したのだろう、その数ばかりが積み上がっていく。

 眼の前に立ち塞がったその男は、完璧だった。雨と風、そして雷の中でも決して集中力を失わない。だが、あえてゴッ太郎はそこに挑みかかった。完璧の構えが最も美しく、完成されている時、揺らぎが一切見られない時にこそ、ゴッ太郎は撃った。

 拳を握り込み、踏み込みをつけ、相手の間合いごと粉砕する。だが、一点だけ違ったのは、素早く、ことだった。鈍重に腰を据え、全身の筋肉を強張らせて、肉体の重心を真下に限界まで下ろし、まるで地面に向かって杭を打ち込むみたいに大きく振りかぶって、それを振り下ろしたのだ。

「フンッ」

 イーグルは当然それに反応した。素早いカウンターフックがゴッ太郎の顎に飛び、最短距離で着弾した。顎への直撃は、必殺の一撃になりうる。いわんやこの男の一撃である。当然脳は揺れ、振盪しんとうを起こしてゴッ太郎は意識を失う――と、思われた。

 だが――。

「おぁぁあっ」

 ゴッ太郎は、立っていた。顎に刺さったフックは、顎に押し返されて停止したのだ。イーグルは目を見開く。ゴッ太郎の視線は、まだ闘志に燃えてまっすぐとこちらを見据えている。瞬間、イーグルは恐怖を感じて目を見張った。

 ゴッ太郎がゆっくりと拳を打ったのは、イーグルの出がかりを見るためだ。速度では敵わない、それを前提とした『受けながら攻める』というコンセプトの一撃。普段なら『遅すぎて絶対に当たらない』一撃も、、或いは。

 拳のハンマーは落とされる。全身全霊を込めた一撃は、戦いの向こうにあるうっすらとしか見えない希望に向かって振り抜かれる。
 空が割れるような霹靂へきれきが鳴り響いた時、その戦いは終わっていた。

「……Jesusジーザス.なんということだ」
「――か、ァ……はっ」

 雨が止み、風が吹き、雲が晴れる。雲間から舞い降りた光の階段が、ゴッ太郎の拳の先を照らしていた。そこには、クレーターのようにえぐれたコンクリートがあった。隣には、イーグルが立ち尽くしている。構えは崩れていた。

 ゴッ太郎の拳は、イーグルを外してコンクリートに突き刺さっていた。網目状に入った亀裂は、ゴッ太郎の一撃の重さを表していた。

「……なあ、イーグル。答え、後で出していいか」

 差し込んだ日光に身体を大きく開いたまま、ゴッ太郎は全身で風を受ける。濡れた髪を振り回し、水を払って仰向けに倒れ込む。その胸に去来したのは、清々しい朝日のような温かさだった。

「ああ――そうしろ」
「多分俺、イーグルを倒した時……見えるものが、変わる」

 拳を振り下ろすその瞬間に見えた。その先にあった微妙な変化の感覚、それがゴッ太郎の手の中には、まだ握り込まれていた。微かで、これから手を開いた時に消えてしまう。けれど、もし本当に倒せたら。

 その時は、もう二度と離すことはない。

「わかったんだ。戦いの先に、答えがある」

 ブロンドのひげを撫でながら、イーグルは頷く。

「そうか。では、始めようか。今日のプログラムを」
「ああ。やる。教えてくれ」

 ――戦いの先に、答えがある。

 同じだな。ゴッ太郎の立ち上がる背中を見て、イーグルは呟いた。強さを求め、どこまでも進む背中。かつて襲った大きな災厄を、共に払った戦友の姿が思い浮かぶ。
 口下手な彼もまた、同じ言葉を紡いだ。

 もしかすると、この男は、やるのかもしれない。
 晴れた空の下には、今までとは少し違うゴッ太郎がいた。
 
 
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