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第4話⑤ 上海という少女
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威嚇しながら、上海は脱衣所に放り込まれた。服を脱がされると流石の上海も観念したようで、風呂場の扉を開けて自分で中に入っていった。ゴッ太郎も服を脱いで風呂場に入ると、上海が外し忘れたお団子ヘアのゴムを取り払った。
髪を下ろした姿を見ると、未だに上海の姿は初めて出会った日とほとんど変わらない。
「一緒に風呂入るのは久しぶりだな」
「ん……」
不満そうに唸る上海を膝の上に乗せてシャワーをひねる。長い夕陽のシャワールームに温かな湯気が立ち上り小さな虹をいくつも掛かっている。
「じゃあ目ェつむっとけよ~。頭濡らすから」
「うん」
全体を濡らしてマッサージするように頭を撫でると、上海は気持ちよさそうにまぶたを閉じる。ゴッ太郎は水を浴びて恍惚と空を見つめ一息ついた上海を見るたび、雨を受けて立ち尽くす、上海との初対面を思い出す。
路地裏の闇に舞い降りた、雨雲のように自由な白銀の少女――それが何年前なのか、既に正確な記憶は朧気だが、その衝撃は未だに忘れられない。人気のない路地裏に逃げ込んだ少女が、明け方の霧雨の中踊るように舞い、追ってきた人間を次々と薙ぎ倒していく。
地を、空を自由に跳ね回るスーパーボウルめいた軌道は誰にも捉えられない。たった一人残った残党が、慄いて拳銃を取り出したところで、ゴッ太郎はその男を後から投げ倒した。静かになった路地裏で、薄っすらと昇った太陽が掛けた虹の下で目が合った二人は、そこから友人になり、相棒となったのだ。
路地裏へやってきた彼女の目的も、理由も知らない。けれど、ゴッ太郎の目に映る上海という少女は、ただ楽しいことの好きな女の子であることだけが事実だった。だから『上海』という名前すらも、本物なのかどうかすら――ゴッ太郎に確かめる術はない。
ただ知らない国の言葉を話す彼女が最初に『しゃんぐはい』と言ったから便宜上『上海』と呼んでいるに過ぎない。
シャンプーを付けて泡立てると、手に甘えるように上海は小さな頭を擦り付けた。
「かゆいのか?」
「そこ……そこ……」
何度も何度も擦ってやると上海はうっとりとして、眠ってしまいそうな程に瞼を細めた。
「よしよし、やっぱりちょっとかゆかったのか」
「ん~~~」
「ちゃんとお風呂入れないなら一緒に入ってもいいんだぞ。御鈴波は嫌がるかもだけど」
「はいる……ゴッ太郎、しゃんぷ、上手……」
「そりゃどうも。でもちゃんと自分洗えるようになるんだぞ。上手にできるようになったら、御鈴波にも見てもらおうな」
「ん……もう大丈夫……」
「じゃあ流すぞ~」
泡立ったシャンプーを湯で流していくと、上海からは優しい石鹸の香りが立ち上った。
「はい、頭完成。体はどうする? 洗って欲しい?」
「せなかだけ」
「うん。いい子だ。ほらどうぞ」
花びらみたいに小さな手のひらでボディーソープを押した上海の手は、泡立てるとすぐに見えなくなった。上海の後から手を回して、ゴッ太郎も背中を洗う為のタオルを泡立てる。
「背中洗うぞ」
「ん~」
押せば沈み込むほど繊細で柔らかな肌を、傷つけないようにして優しく撫で洗う。面積の狭い背中なものだから、ゴッ太郎の手で洗うとすぐに終わってしまう。けれど上海にとっては、これほど愛らしい体でも広い面積なのだからいじらしい。
「おわった」
「ん。流します」
一連の動作が終わると、上海は犬みたいに体全体を震わせて水を振り払った。そして誇らしげに鼻を鳴らすと、ゴッ太郎の背後に回った。
「俺にもしてくれんの?」
「やるッ」
「サンキュ」
「ゴッ太郎、背中、すごいことになってる」
「おう、自慢の傷だ」
お互いに洗いあって脱衣所に戻ると、玄関の方で音がした。時間も時間だ、御鈴波が帰ってきたのだろう。体を拭き上げてリビングに戻ると、そこにはやはり御鈴波が立っていた。ただ、今日はどこかいつもより余裕がない。
まるで五十メートル走を本気で走り終えた後のような汗が頬に伝い、震えながらこちらを眺めていた。はあ、と大きな溜め息をやっと吐き出した御鈴波は、ゴッ太郎に向かって飛び込んだ。
「ゴッ太郎――!」
「お、おおお……?! なんだ、どうしたんだ」
「なにって、あなた! 聞いたわよ! 玄明とやり合ったんですって!? それに、酷い怪我したって――なんですぐに連絡しなかったの? 聞いてすっごく心配したんだから!」
御鈴波の顔には怒りのような、安堵のような、眉尻を下げながら怒るという並々ならぬ情動の動きが見られた。
あれほど言ったのに……と言いかけて、御鈴波はそれ以上話さなかった。しなだれかかった御鈴波の体を抱きかかえ、ゴッ太郎は俯いた。不甲斐ない――落ちていく夕暮れの中、ゴッ太郎は御鈴波の背中を優しくさすることしかできない。
「ごめん、なんて言い訳するか考えてたんだけど、ないわ。すんません。負けました」
「でしょうね! 当たり前じゃない! でも、そこじゃないのよ」
「玄明の強さはわかったぜ」
「そうじゃなくて、あなたは本当に……なんて無謀なことを……」
絶句する御鈴波の目尻は赤く腫れて、相当心配していたことが伺えた。ゴッ太郎は嬉しさ半分、申し訳無さ半分、複雑な感情で御鈴波を強く抱き寄せた。負けたことに関して怒られるだろうという、ゴッ太郎の予測は外れていた。
最初から勝てると思われていなかったのだ。御鈴波の冷静さは正しいけれど、期待さえされていなかった事実がゴッ太郎はすこし寂しかった。
「……きちんと、勝てないと思ったら逃げなさい」
「……ん。でも、次は勝つ。それより、今日、俺ステーキ食べたい! 晩御飯はステーキにしようぜ」
「あなたって本当に……もう。いいわよ。作ってあげるから、休んでて」
「ありがとな。あ、上海はもう風呂入ったぜ。後はご自由におつかいください」
「うん。わかった」
ごめんな、ゴッ太郎は背中に呟いた。
髪を下ろした姿を見ると、未だに上海の姿は初めて出会った日とほとんど変わらない。
「一緒に風呂入るのは久しぶりだな」
「ん……」
不満そうに唸る上海を膝の上に乗せてシャワーをひねる。長い夕陽のシャワールームに温かな湯気が立ち上り小さな虹をいくつも掛かっている。
「じゃあ目ェつむっとけよ~。頭濡らすから」
「うん」
全体を濡らしてマッサージするように頭を撫でると、上海は気持ちよさそうにまぶたを閉じる。ゴッ太郎は水を浴びて恍惚と空を見つめ一息ついた上海を見るたび、雨を受けて立ち尽くす、上海との初対面を思い出す。
路地裏の闇に舞い降りた、雨雲のように自由な白銀の少女――それが何年前なのか、既に正確な記憶は朧気だが、その衝撃は未だに忘れられない。人気のない路地裏に逃げ込んだ少女が、明け方の霧雨の中踊るように舞い、追ってきた人間を次々と薙ぎ倒していく。
地を、空を自由に跳ね回るスーパーボウルめいた軌道は誰にも捉えられない。たった一人残った残党が、慄いて拳銃を取り出したところで、ゴッ太郎はその男を後から投げ倒した。静かになった路地裏で、薄っすらと昇った太陽が掛けた虹の下で目が合った二人は、そこから友人になり、相棒となったのだ。
路地裏へやってきた彼女の目的も、理由も知らない。けれど、ゴッ太郎の目に映る上海という少女は、ただ楽しいことの好きな女の子であることだけが事実だった。だから『上海』という名前すらも、本物なのかどうかすら――ゴッ太郎に確かめる術はない。
ただ知らない国の言葉を話す彼女が最初に『しゃんぐはい』と言ったから便宜上『上海』と呼んでいるに過ぎない。
シャンプーを付けて泡立てると、手に甘えるように上海は小さな頭を擦り付けた。
「かゆいのか?」
「そこ……そこ……」
何度も何度も擦ってやると上海はうっとりとして、眠ってしまいそうな程に瞼を細めた。
「よしよし、やっぱりちょっとかゆかったのか」
「ん~~~」
「ちゃんとお風呂入れないなら一緒に入ってもいいんだぞ。御鈴波は嫌がるかもだけど」
「はいる……ゴッ太郎、しゃんぷ、上手……」
「そりゃどうも。でもちゃんと自分洗えるようになるんだぞ。上手にできるようになったら、御鈴波にも見てもらおうな」
「ん……もう大丈夫……」
「じゃあ流すぞ~」
泡立ったシャンプーを湯で流していくと、上海からは優しい石鹸の香りが立ち上った。
「はい、頭完成。体はどうする? 洗って欲しい?」
「せなかだけ」
「うん。いい子だ。ほらどうぞ」
花びらみたいに小さな手のひらでボディーソープを押した上海の手は、泡立てるとすぐに見えなくなった。上海の後から手を回して、ゴッ太郎も背中を洗う為のタオルを泡立てる。
「背中洗うぞ」
「ん~」
押せば沈み込むほど繊細で柔らかな肌を、傷つけないようにして優しく撫で洗う。面積の狭い背中なものだから、ゴッ太郎の手で洗うとすぐに終わってしまう。けれど上海にとっては、これほど愛らしい体でも広い面積なのだからいじらしい。
「おわった」
「ん。流します」
一連の動作が終わると、上海は犬みたいに体全体を震わせて水を振り払った。そして誇らしげに鼻を鳴らすと、ゴッ太郎の背後に回った。
「俺にもしてくれんの?」
「やるッ」
「サンキュ」
「ゴッ太郎、背中、すごいことになってる」
「おう、自慢の傷だ」
お互いに洗いあって脱衣所に戻ると、玄関の方で音がした。時間も時間だ、御鈴波が帰ってきたのだろう。体を拭き上げてリビングに戻ると、そこにはやはり御鈴波が立っていた。ただ、今日はどこかいつもより余裕がない。
まるで五十メートル走を本気で走り終えた後のような汗が頬に伝い、震えながらこちらを眺めていた。はあ、と大きな溜め息をやっと吐き出した御鈴波は、ゴッ太郎に向かって飛び込んだ。
「ゴッ太郎――!」
「お、おおお……?! なんだ、どうしたんだ」
「なにって、あなた! 聞いたわよ! 玄明とやり合ったんですって!? それに、酷い怪我したって――なんですぐに連絡しなかったの? 聞いてすっごく心配したんだから!」
御鈴波の顔には怒りのような、安堵のような、眉尻を下げながら怒るという並々ならぬ情動の動きが見られた。
あれほど言ったのに……と言いかけて、御鈴波はそれ以上話さなかった。しなだれかかった御鈴波の体を抱きかかえ、ゴッ太郎は俯いた。不甲斐ない――落ちていく夕暮れの中、ゴッ太郎は御鈴波の背中を優しくさすることしかできない。
「ごめん、なんて言い訳するか考えてたんだけど、ないわ。すんません。負けました」
「でしょうね! 当たり前じゃない! でも、そこじゃないのよ」
「玄明の強さはわかったぜ」
「そうじゃなくて、あなたは本当に……なんて無謀なことを……」
絶句する御鈴波の目尻は赤く腫れて、相当心配していたことが伺えた。ゴッ太郎は嬉しさ半分、申し訳無さ半分、複雑な感情で御鈴波を強く抱き寄せた。負けたことに関して怒られるだろうという、ゴッ太郎の予測は外れていた。
最初から勝てると思われていなかったのだ。御鈴波の冷静さは正しいけれど、期待さえされていなかった事実がゴッ太郎はすこし寂しかった。
「……きちんと、勝てないと思ったら逃げなさい」
「……ん。でも、次は勝つ。それより、今日、俺ステーキ食べたい! 晩御飯はステーキにしようぜ」
「あなたって本当に……もう。いいわよ。作ってあげるから、休んでて」
「ありがとな。あ、上海はもう風呂入ったぜ。後はご自由におつかいください」
「うん。わかった」
ごめんな、ゴッ太郎は背中に呟いた。
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