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第3話③ 許嫁と朝食を
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寝ぼけ眼にベランダから町を見下ろすと、昨日よりも散らかっている気がする。灰色の天井、くすんだトタン、風に流された包装紙、雨に崩れたあばら屋、時折見える斃れ伏した人、朝帰りのだらしない男女の下品な笑い声。
ゴッ太郎にとって、それらは全て嫌いなものだった。緩やかに滅びていくこの景色の、不純物そのもの。あれらがなくなってしまったら、きっとここからの景色はもっと美しいと思わない日はない。
けれどゴッ太郎はわかっていた――それら不純物の堆積結果が、この美しくも汚れた小さな下町、『西院房』の本質であるのだ。あれらがなくなって街が綺麗になれば、この街はすぐに雨風に晒されて、まるで雨に打たれた綿あめのように消えていくだろう。
不純と繁栄は、いつも背中合わせだ。かつては自分もあの中の一部だった。だからそれらを否定したいとは思わない。ただ目に映り幸福と思うか、そうでないかという問題で、ゴッ太郎の好みが違っただけだ。
翻っては、壁の向こうの学園都市。美しくて不気味な産業世界。御鈴波のようにあそこに住めば幸せだろうか。ゴッ太郎の脳裏に答えは出ない。しかし今よりも幸福になることは、少なくともないだろう。
その証拠にこの二日、登校時間の散策が一つの趣味だったゴッ太郎の足は重くなるばかりで、一向に新たな良い場所を発見することができなかった。どこまでも続く綺麗な世界は、どこに居ても居なくても同じだということを浮き彫りにするばかりで、新鮮な風は吹かなかった。
「ゴッ太郎、紅茶がいい? 珈琲がいい?」
「御鈴波と一緒のやつがいい」
「そう。かわいいわね」
「ん、そういえば御鈴波。まだちょっと約束事があって内容は伝えられないんだけどさ。一個伝えてないことがあるってことだけ、知っててほしい」
キッチンでは御鈴波が朝食の準備をしていた。スイッチを入れられた電気ケトルがカコンと音を鳴らす。
「……そんなに大事なことなの?」
「うん。明かせない理由は、男同士の約束ってやつだ。あと、心配ないと思うんだけど、しばらくは電車は使わないでいてほしい。俺が一緒に行ける時以外、送り迎えは車でしてもらってくれ」
「どうしてかしら」
「危ないから。実は、二日前に御鈴波を駅に送ってから一度襲われてる」
「もしかして、学校のエレベーターで襲われたって言ってた人と同一人物かしら」
御鈴波の切り払われた前髪の隙間から、上目遣いの黒目が覗く。どこまでも勘のいい切り込みに、ゴッ太郎は少々驚きながら頷いた。
「……そうだった」
「そう。じゃあやっぱり生徒の中に、あなたや勘解由小路丁子と同じような能力を持っている人間がいるってことね」
「ああ。でも今のところ、そっちは脅威じゃない。全然対応範囲内だ。それに敵対関係ではあるけど、話はわかるやつだった」
「なるほど、早い話が喧嘩して勝ったから情報は握ったけど、交渉材料として他言無用を飲んだってことね」
「……そこまでは言えない」
「まあ、良いわよ。こっちも既に動いてるから。他には?」
「あ、言い忘れてた。昨日、勘解由小路丁子に聞いたんだ。いつから妙な力を使えるようになったかって。そしたら、一ヶ月前くらいなんだと。それも襲われた時に自然と出たらしい」
「へえ、シチュエーションまでわかったのはいいことね」
「……もしかして、最初から知ってる?」
ゴッ太郎が訝しんで聞くと、御鈴波は黙り込んだ。フライパンではハムと卵が大きな声を上げて鳴き始めた。
「……そんで、今更なんだけど、なんで勘解由小路丁子が標的になったんだ?」
「ゴッ太郎、聞いても彼女と今まで通りの関係を続けられる? もしできないなら、聞かないでおいたほうが良いわ」
カウンターキッチンの向こう側から投げられた御鈴波の視線は冷たい。
ゴッ太郎は少々迷いながらも、御鈴波の目を見て頷いた。彼女との関係を築いてしまった以上は――知っておくべきだろう。最後にそれが、死によって破られるとしても。
「大丈夫だ。もう十分踏み込んでる。ここまで来たら、知っておかなきゃいけない」
「うちの財閥がいくつかの技術部門を所持してるのは知ってるわよね。彼女の兄がそこのサンプルボーイなの」
「サンプルボーイ?」
ゴッ太郎が首を傾げると、御鈴波は口を開く。
「特定の因子を持つ卵子と精子を選んで、かつその受精卵の遺伝子を調整することによって優秀な子を生み出すデザイナーベイビーっていうのがあってね」
「うん」
喋りながらテキパキと配膳していく御鈴波によって、机の上には既に朝食が並んでいた。二人は卓につくと手を合わせ、食事を始める。
「今では倫理的な問題があってあんまり迎合されない方法なんだけど、うちの技術研究部門が長い間そこに研究費傾けてたの。でもここまでの研究を埋没させちゃうのはもったいないでしょ。
だから今まで積み上げた様々な研究を元に、『遺伝子的にある程度優れた子』を後天的に天才にしましょう、っていうプロジェクトチームに変わったの。それの適合体に選ばれたのが、彼女の兄」
「へえ、ってことは丁子の兄は遺伝子からド天才なわけか。いいな~」
「う~ん、ちょっと違うわね。ゴッ太郎ほど劣等ではないけれど、むしろ凡庸に近いわ。彼女の家は代々そこまで裕福じゃなくて、遺伝子情報もそこまで優れていない。
祖父、曽祖父の代まで遡っても社会的に高い地位に上り詰めたり、ある一定のスコアを超えて芸術に頭角を現した人は居なかったわ。でも、食うに困って犯罪を起こした人や、精神面に問題を持った人も出てなかった」
「『遺伝子的にある程度優れた子』、なるほど。良識に優れていて、デザイン次第で何にでもなる可能性を秘めてる人間、か」
「そういうこと。でも『デザイナーヒューマン』は悪く取られる可能性がある。だから『サンプルボーイ』」
「理解した。でも、なんでそれが丁子を始末することに関わってるんだ?」
「その兄が、うちの技研の未公開の技術を盗んで彼女に使ったからよ」
「……なんの技術?」
御鈴波は珈琲を傾けると、湯気がくゆって彼女の顔を隠した。一服付いた御鈴波は、口を開いた。
「ゴッ太郎みたいな能力持ちを作る技術」
「……!」
「彼はね、今や優秀過ぎて制御できなくなってしまった。学生で有名人という身分もあるから下手に手を出せない上に、技研から盗んだ技術を格安コピーして使うまでに至っている」
ゴッ太郎にとって、それらは全て嫌いなものだった。緩やかに滅びていくこの景色の、不純物そのもの。あれらがなくなってしまったら、きっとここからの景色はもっと美しいと思わない日はない。
けれどゴッ太郎はわかっていた――それら不純物の堆積結果が、この美しくも汚れた小さな下町、『西院房』の本質であるのだ。あれらがなくなって街が綺麗になれば、この街はすぐに雨風に晒されて、まるで雨に打たれた綿あめのように消えていくだろう。
不純と繁栄は、いつも背中合わせだ。かつては自分もあの中の一部だった。だからそれらを否定したいとは思わない。ただ目に映り幸福と思うか、そうでないかという問題で、ゴッ太郎の好みが違っただけだ。
翻っては、壁の向こうの学園都市。美しくて不気味な産業世界。御鈴波のようにあそこに住めば幸せだろうか。ゴッ太郎の脳裏に答えは出ない。しかし今よりも幸福になることは、少なくともないだろう。
その証拠にこの二日、登校時間の散策が一つの趣味だったゴッ太郎の足は重くなるばかりで、一向に新たな良い場所を発見することができなかった。どこまでも続く綺麗な世界は、どこに居ても居なくても同じだということを浮き彫りにするばかりで、新鮮な風は吹かなかった。
「ゴッ太郎、紅茶がいい? 珈琲がいい?」
「御鈴波と一緒のやつがいい」
「そう。かわいいわね」
「ん、そういえば御鈴波。まだちょっと約束事があって内容は伝えられないんだけどさ。一個伝えてないことがあるってことだけ、知っててほしい」
キッチンでは御鈴波が朝食の準備をしていた。スイッチを入れられた電気ケトルがカコンと音を鳴らす。
「……そんなに大事なことなの?」
「うん。明かせない理由は、男同士の約束ってやつだ。あと、心配ないと思うんだけど、しばらくは電車は使わないでいてほしい。俺が一緒に行ける時以外、送り迎えは車でしてもらってくれ」
「どうしてかしら」
「危ないから。実は、二日前に御鈴波を駅に送ってから一度襲われてる」
「もしかして、学校のエレベーターで襲われたって言ってた人と同一人物かしら」
御鈴波の切り払われた前髪の隙間から、上目遣いの黒目が覗く。どこまでも勘のいい切り込みに、ゴッ太郎は少々驚きながら頷いた。
「……そうだった」
「そう。じゃあやっぱり生徒の中に、あなたや勘解由小路丁子と同じような能力を持っている人間がいるってことね」
「ああ。でも今のところ、そっちは脅威じゃない。全然対応範囲内だ。それに敵対関係ではあるけど、話はわかるやつだった」
「なるほど、早い話が喧嘩して勝ったから情報は握ったけど、交渉材料として他言無用を飲んだってことね」
「……そこまでは言えない」
「まあ、良いわよ。こっちも既に動いてるから。他には?」
「あ、言い忘れてた。昨日、勘解由小路丁子に聞いたんだ。いつから妙な力を使えるようになったかって。そしたら、一ヶ月前くらいなんだと。それも襲われた時に自然と出たらしい」
「へえ、シチュエーションまでわかったのはいいことね」
「……もしかして、最初から知ってる?」
ゴッ太郎が訝しんで聞くと、御鈴波は黙り込んだ。フライパンではハムと卵が大きな声を上げて鳴き始めた。
「……そんで、今更なんだけど、なんで勘解由小路丁子が標的になったんだ?」
「ゴッ太郎、聞いても彼女と今まで通りの関係を続けられる? もしできないなら、聞かないでおいたほうが良いわ」
カウンターキッチンの向こう側から投げられた御鈴波の視線は冷たい。
ゴッ太郎は少々迷いながらも、御鈴波の目を見て頷いた。彼女との関係を築いてしまった以上は――知っておくべきだろう。最後にそれが、死によって破られるとしても。
「大丈夫だ。もう十分踏み込んでる。ここまで来たら、知っておかなきゃいけない」
「うちの財閥がいくつかの技術部門を所持してるのは知ってるわよね。彼女の兄がそこのサンプルボーイなの」
「サンプルボーイ?」
ゴッ太郎が首を傾げると、御鈴波は口を開く。
「特定の因子を持つ卵子と精子を選んで、かつその受精卵の遺伝子を調整することによって優秀な子を生み出すデザイナーベイビーっていうのがあってね」
「うん」
喋りながらテキパキと配膳していく御鈴波によって、机の上には既に朝食が並んでいた。二人は卓につくと手を合わせ、食事を始める。
「今では倫理的な問題があってあんまり迎合されない方法なんだけど、うちの技術研究部門が長い間そこに研究費傾けてたの。でもここまでの研究を埋没させちゃうのはもったいないでしょ。
だから今まで積み上げた様々な研究を元に、『遺伝子的にある程度優れた子』を後天的に天才にしましょう、っていうプロジェクトチームに変わったの。それの適合体に選ばれたのが、彼女の兄」
「へえ、ってことは丁子の兄は遺伝子からド天才なわけか。いいな~」
「う~ん、ちょっと違うわね。ゴッ太郎ほど劣等ではないけれど、むしろ凡庸に近いわ。彼女の家は代々そこまで裕福じゃなくて、遺伝子情報もそこまで優れていない。
祖父、曽祖父の代まで遡っても社会的に高い地位に上り詰めたり、ある一定のスコアを超えて芸術に頭角を現した人は居なかったわ。でも、食うに困って犯罪を起こした人や、精神面に問題を持った人も出てなかった」
「『遺伝子的にある程度優れた子』、なるほど。良識に優れていて、デザイン次第で何にでもなる可能性を秘めてる人間、か」
「そういうこと。でも『デザイナーヒューマン』は悪く取られる可能性がある。だから『サンプルボーイ』」
「理解した。でも、なんでそれが丁子を始末することに関わってるんだ?」
「その兄が、うちの技研の未公開の技術を盗んで彼女に使ったからよ」
「……なんの技術?」
御鈴波は珈琲を傾けると、湯気がくゆって彼女の顔を隠した。一服付いた御鈴波は、口を開いた。
「ゴッ太郎みたいな能力持ちを作る技術」
「……!」
「彼はね、今や優秀過ぎて制御できなくなってしまった。学生で有名人という身分もあるから下手に手を出せない上に、技研から盗んだ技術を格安コピーして使うまでに至っている」
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