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第2話④ 前哨
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丁子が去った静かな保健室には、未だカーテンの開かないもう一つのベッドがあった。
人影はあるのに、ぴたりとも動かない。音も聞こえない。
洋華はそのベッドの仕切りカーテンの前に立ち、声を掛ける。
「零春くん、連れてきてくれた丁子ちゃんも戻ったみたいだし、そろそろ教室戻ったほうが良いんじゃない?」
何度も掛け慣れているのか、洋華の声は程よく気が抜けて、反抗期の子供をあやすような声色だった。その声に反応して、カーテンの向こう側では人影が動く。もそりと上体を持ち上げたのだろう。影は縦に立ち上った。
「先生には、関係ないだろ。それにぼくはちゃんと怪我してる」
「……そうね。でもなんで怪我したのか教えてくれないの? 昨日までそんな酷い怪我してなかったのに」
「顔をぶつけたんだよ。こっぴどくね」
「そんな……」
取り付く島もないような生返事に、洋華は寂しそうに返す。勿論零春が嘯いていることくらい洋華にもわかっている。彼の顔についた傷は鉄球をぶつけられたような酷い腫れで、零春が丁子を連れてきた時、どちらが重症なのか判断に困ったほどであった。
「毎日保健室に来てくれる生徒がそんな酷い怪我を作ってきたら、先生、とっても心配よ」
「そりゃどうも。それならゆっくりさせて欲しいかな。洋華先生」
「……うん。そりゃあ保健室は傷付いた生徒が治療を受ける場所だからいいけれど、それならもっと傷をちゃんと見せてほしいなあ。抗生剤や消炎鎮痛剤は処方できるけど、しっかり見て処置しないと、治った時に後引いちゃったりするのよ。そうなったら……」
「そうなったら?」」
「君はとっても綺麗な顔をしてるのに、もったいないわ」
「それは先生の個人的な好みの問題じゃないですか。ぼくにとっては、こんな顔なんて、どうなったっていいんです」
「……ねえ、零春くん。今日の君は、なんだかおかしいわ。確かに普段からちょっと小生意気で刺々しい部分はあるけれど、そんなに投げやりじゃないもの。何があったの? 先生とお話しない? お菓子、いるかしら」
洋華は落ち着かないままカーテンの前をうろついて、零春の返答を待った。零春は保健室の常連ではあるが、これほどの怪我を拵えてやってきたことはない。
大体の場合は体調不良という名前のサボタージュであるし、彼がカーテンの向こうで何かに苦しみ、呻いている瞬間があることも知ってはいるが、いずれも肉体的なことであった試しはなかった。だからこそ今朝は度肝を抜かれたし、今も気になって仕方がない。
「うるさいですね。先生が妙に全身が伸びることを言いふらしますよ」
「まあ、なんて酷いこと言うの。もし言ったら担任の先生に今までの保健室通いがサボタージュだって報告しますからね!」
「それで退学も、いいかもな……」
あまりにも弱気な発言が続いたせいで、洋華は居ても立っても居られなくなってカーテンを引いた。
「うわっなんですか」
ベッドの上では上裸の零春が仰向けで雑誌本を読んでいた。頬に貼ったガーゼの下は、今も痛々しく内出血のあざが浮いている。
「零春くん、聞き捨てなりません。失礼しますね」
毅然とした顔でベッドサイドに立ち、カーテンを再び引いた彼女は彼の隣に座った。零春は上半身を掛け布団で覆って、顔の上に雑誌を乗せてそっぽを向いた。
「なん……ですか。洋華先生もご存知のはずです、ぼくはテストでは常に上位にいます。ですからどのような形で学ぶかは自由、それがこの学校に校風であるってことを」
「それは知っています。でも、苦しんでいる生徒を放っておけるほど、先生は適当じゃないんです。零春くん、もう先生との付き合いも半年になるのよ。もっと先生のこと、頼ってほしいな」
「……先生、人に頼っても、どうしようもないことはあるんです」
「それって、どんなこと?」
洋華は零春の頭上に被せられた雑誌を拾い上げて、隣に置いた。ちらりと覗いた零春の目元は赤かった。
「自分が、ただ、弱いこと。ただ、それだけなんです。ぼくの悩みは」
「そっか、強くなりたいの。男の子だもんね」
「……男とか、女とか、そういうのじゃないんです。ただ、ぼくはぼくが弱いのが許せないんです」
「うん……先生はちょっとだけなら力になれるけど……いらない?」
穏やかな声色で、洋華は零春の耳元に手を当てた。優しく撫でると、零春は逃げるように頭の上まで布団を被った。
「いりません。先生の怪しげな薬で得られる力は、一瞬だけだ。ぼくが求めているのは――もっとずっと、いつでもどこでも、誰とやっても強い力なんです」
「それは、たしかに先生にはあげられないけど。じゃあ、せめて先生は零春くんのこと応援してるね、がんばれがんばれ☆」
「……もう、子供みたいに扱わないでください」
不貞腐れたように零春は布団の中からくぐもった声を発し、洋華は布団の上から彼の頭を少し撫でて立ち上がった。
「あんまり思い詰めちゃダメよ。人間には成長期が必ずあって、その時が来たら自然と強くなっていくから。その前に負けないでね、零春くん」
無言のまま、零春は布団の中で頷いた。その胸の内には、ゴッ太郎への復讐の念が燃えていた。負けた上に、まるで歯牙にもかけないように扱われたなど――死よりも酷い屈辱だ。こんな悔しさは二度と感じるものか! 強い覚悟を胸に、零春はリベンジを誓った。
人影はあるのに、ぴたりとも動かない。音も聞こえない。
洋華はそのベッドの仕切りカーテンの前に立ち、声を掛ける。
「零春くん、連れてきてくれた丁子ちゃんも戻ったみたいだし、そろそろ教室戻ったほうが良いんじゃない?」
何度も掛け慣れているのか、洋華の声は程よく気が抜けて、反抗期の子供をあやすような声色だった。その声に反応して、カーテンの向こう側では人影が動く。もそりと上体を持ち上げたのだろう。影は縦に立ち上った。
「先生には、関係ないだろ。それにぼくはちゃんと怪我してる」
「……そうね。でもなんで怪我したのか教えてくれないの? 昨日までそんな酷い怪我してなかったのに」
「顔をぶつけたんだよ。こっぴどくね」
「そんな……」
取り付く島もないような生返事に、洋華は寂しそうに返す。勿論零春が嘯いていることくらい洋華にもわかっている。彼の顔についた傷は鉄球をぶつけられたような酷い腫れで、零春が丁子を連れてきた時、どちらが重症なのか判断に困ったほどであった。
「毎日保健室に来てくれる生徒がそんな酷い怪我を作ってきたら、先生、とっても心配よ」
「そりゃどうも。それならゆっくりさせて欲しいかな。洋華先生」
「……うん。そりゃあ保健室は傷付いた生徒が治療を受ける場所だからいいけれど、それならもっと傷をちゃんと見せてほしいなあ。抗生剤や消炎鎮痛剤は処方できるけど、しっかり見て処置しないと、治った時に後引いちゃったりするのよ。そうなったら……」
「そうなったら?」」
「君はとっても綺麗な顔をしてるのに、もったいないわ」
「それは先生の個人的な好みの問題じゃないですか。ぼくにとっては、こんな顔なんて、どうなったっていいんです」
「……ねえ、零春くん。今日の君は、なんだかおかしいわ。確かに普段からちょっと小生意気で刺々しい部分はあるけれど、そんなに投げやりじゃないもの。何があったの? 先生とお話しない? お菓子、いるかしら」
洋華は落ち着かないままカーテンの前をうろついて、零春の返答を待った。零春は保健室の常連ではあるが、これほどの怪我を拵えてやってきたことはない。
大体の場合は体調不良という名前のサボタージュであるし、彼がカーテンの向こうで何かに苦しみ、呻いている瞬間があることも知ってはいるが、いずれも肉体的なことであった試しはなかった。だからこそ今朝は度肝を抜かれたし、今も気になって仕方がない。
「うるさいですね。先生が妙に全身が伸びることを言いふらしますよ」
「まあ、なんて酷いこと言うの。もし言ったら担任の先生に今までの保健室通いがサボタージュだって報告しますからね!」
「それで退学も、いいかもな……」
あまりにも弱気な発言が続いたせいで、洋華は居ても立っても居られなくなってカーテンを引いた。
「うわっなんですか」
ベッドの上では上裸の零春が仰向けで雑誌本を読んでいた。頬に貼ったガーゼの下は、今も痛々しく内出血のあざが浮いている。
「零春くん、聞き捨てなりません。失礼しますね」
毅然とした顔でベッドサイドに立ち、カーテンを再び引いた彼女は彼の隣に座った。零春は上半身を掛け布団で覆って、顔の上に雑誌を乗せてそっぽを向いた。
「なん……ですか。洋華先生もご存知のはずです、ぼくはテストでは常に上位にいます。ですからどのような形で学ぶかは自由、それがこの学校に校風であるってことを」
「それは知っています。でも、苦しんでいる生徒を放っておけるほど、先生は適当じゃないんです。零春くん、もう先生との付き合いも半年になるのよ。もっと先生のこと、頼ってほしいな」
「……先生、人に頼っても、どうしようもないことはあるんです」
「それって、どんなこと?」
洋華は零春の頭上に被せられた雑誌を拾い上げて、隣に置いた。ちらりと覗いた零春の目元は赤かった。
「自分が、ただ、弱いこと。ただ、それだけなんです。ぼくの悩みは」
「そっか、強くなりたいの。男の子だもんね」
「……男とか、女とか、そういうのじゃないんです。ただ、ぼくはぼくが弱いのが許せないんです」
「うん……先生はちょっとだけなら力になれるけど……いらない?」
穏やかな声色で、洋華は零春の耳元に手を当てた。優しく撫でると、零春は逃げるように頭の上まで布団を被った。
「いりません。先生の怪しげな薬で得られる力は、一瞬だけだ。ぼくが求めているのは――もっとずっと、いつでもどこでも、誰とやっても強い力なんです」
「それは、たしかに先生にはあげられないけど。じゃあ、せめて先生は零春くんのこと応援してるね、がんばれがんばれ☆」
「……もう、子供みたいに扱わないでください」
不貞腐れたように零春は布団の中からくぐもった声を発し、洋華は布団の上から彼の頭を少し撫でて立ち上がった。
「あんまり思い詰めちゃダメよ。人間には成長期が必ずあって、その時が来たら自然と強くなっていくから。その前に負けないでね、零春くん」
無言のまま、零春は布団の中で頷いた。その胸の内には、ゴッ太郎への復讐の念が燃えていた。負けた上に、まるで歯牙にもかけないように扱われたなど――死よりも酷い屈辱だ。こんな悔しさは二度と感じるものか! 強い覚悟を胸に、零春はリベンジを誓った。
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