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第1話② 前途洋々

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 都市部の朝は慌ただしい。
 軍靴の如く高らかに響く靴底の音がコンクリートを叩き、行き交う電子音の渦が街を満たしていく。一刻一刻と争うように太陽の影は移動し、それが影を動かして群像を作り出している。そのはるか頭上を突き抜ける空に鳥たちが舞い上がり、地上には顔のない生き物たちが一つの塊になり、離れていく。変わらない日常を示す影絵の中に、その青年は居た。

「暑ィ」

 手のひらをかざして、太陽の直射を遮る。
 路地裏の繁華に立ちいでた暗闇の主――何も代わり映えぬ白い半袖ボタンシャツと学校指定のスラックス。生地の色が濃紺から黒に微妙に変わっているのが、今朝から向かう学校の行き先が変わっていることを示していた。青年は駅の構内へ歩いていく。線路の走る高架の上には、既に電車の発着を告げるアナウンスが流れていた。

 電車がホームに着いた時、既に車内は満杯だった。くすんだクリーム色の扉の向こうには紐で縛り付けたハムのように詰め込まれた人が犇めいていて、青年は思わず眉間を顰めた。エアの音の後に両開きのドアは、無理矢理留めてはち切れたボタンみたいに開き、雪崩れるように人間が溢れた。

「お降りの方優先でダァシャリアス……」

 無愛想な車掌の声がホームに反響する。その音と共にほんの少しの人間が車外に漏れ出て、それを超える人間が再び車内に詰め込まれた。青年にとってその路線は初めてだった。この線路の先は、学園都市に繋がっている。今まで使っていた対向車線のホームには、がらんどうの鈍行列車が止まっていた。
 対向車線が向かうのは工業系地域――学園都市に入れなかった落ちこぼれが行くと言われる、治安と品の良さを投げ捨てた場所である。昨日までの彼はあの電車に乗っていた。

「……」

 めちゃくちゃに詰め込まれながら電車の中央に押し込まれていくと、同じ色の制服の女生徒を見つけた。学園都市に通う生徒は、それだけでステータスがある――と御鈴波は言っていたっけ――と青年は思い出す。学園都市に通うこと、それが既に一つのゴール――英才教育の終着点の一つなのである。それを思うと、この制服に身を包む自分もまた、少し賢くなったような気がした。
 ややあって、完全に詰め込まれた人間たちは学園都市に向かって進み始めた。この光景を宇宙が見たらなんと思うだろう、食用の生き物が運ばれている、そんな風に思うだろうか。彼はそんな詮無きことを思いながら、学園都市が迫ってくる光景に少々胸を踊らせていた。御鈴波からの仕事で何度も学校を転校してきた経緯はあるが、学園都市の中の学校――それも第一線の知性を持つと噂される糺ノ森高校に転校するなど、考えたこともなかった。

 電車が発進すると、昨日まで自分が乗っていた電車も同時に発進した。すれ違っていく車体の背面がどこか名残惜しそうに見えたのは、見間違いだろうか。
 車体が進むと同時に、人混みの向こうに建物がちらついた。青年が元々住んでいた六畳一間のアパートが立ち並ぶ光景から徐々に高層ビルが増え、それを抜けると白い壁に向かって進んでいく。学園都市は都市間を仕切る壁を挟んだ向こう側にあるのだ。
 コンクリートで仕切られた高い壁のトンネルを電車の車輪が駆け抜けていく。陽の光が遮られて青白く不健康そうな光が車内に差し、その影の中で妙に動く人影があった。それは青年の前三メートルほどの人だかりの中で、見れば青年と同じ制服を着ている女生徒であった。

「……」

 女生徒の姿を見ればやけに肩から下を動かして、人波にすり抜けるような小刻みな振動を繰り返しているようで、積載量の限界に詰め込まれた車内では満足に動けていない。にしては前にも後にも足は進んでいないし、それどころか体は前へ後へ揺れるだけでそこから動こうというような意志がないようにさえ見える。
 青年はなんとなくその動きに見覚えがあった――というよりも、薄っすらと垣間見えた彼女の表情が当惑と恐怖で顔色を失くしていたことから、ある考えが脳裏を過ぎったのである。しかし彼女までは三メートルと、目測では二十数センチ――手を伸ばしたとてとても介入できる距離ではない。これは困った、とはいえ、やらない訳にいくまい。困った人がいれば助けなさいとは、死に別れた母の口癖であった。
 青年は軽く体の重心を前に後に揺らした。体の端がゴツゴツと、まるで小さなボウルで芋でも洗うみたいにぶつかった。周りからは嫌な顔をされたが、青年はどこ吹く風、何ら気にしない。それどころか、青年の動きは一層大きくなり――ついには跳躍した。

 満員電車で、真上に垂直跳びである。迷惑どころのハナシではない、傍目から見れば狂人である。振り返った人の頭上には青年の影が落ちた。その表情は、穏やかながら薄ら笑い、どこか奇妙な不穏さがあった。
 青年が跳躍の頂点に達し、自由落下に身を任せて着地した瞬間、青年は諸手を空に振り上げて、を――

「はっ――」

 瞬間、空が切り裂かれるような奇妙な圧縮があり、一部の乗客から小さな悲鳴が起こった。彼らは高所へ登った時のような耳閉じへい感に見舞われたのである。しかしそれっきりで、その場はすぐに落ち着きを取り戻していた。

「……!」

 気がつくと青年の腕の中には、女生徒があった。ぱっちりとした派手な下まつげに、墨を流したような慎み深い青黒の瞳がこちらを見ている。瞳は水鏡の月のように黒い水面の向こうの明かりを金色に写していた。飾りっ気のない少々厚い唇は牡丹の花びらのようで、呆気に取られてほんの少し覗く舌先が震えていた。ふわりとボリュームのある髪は腰より下まであり、ちょうどくびれの辺りでリボンによって留められている。ほんの少しの石鹸と、甘酸っぱい香りがした。

「――ごめん、大きな声出さないでくれよ」
「いっいえ……っそんなこと」

 困惑する女生徒に、仔細を何も告げないまま手を離すと、青年は再び黙りこくった。女生徒といえば、目を瞑ったまま揺れている奇怪な青年を見つめていた。身長は百七十センチ余りで、癖のある髪を垂らして黒縁眼鏡――どこか不感症な顔立ちだが、瞳はやけに穏やかで、先程自分の体を弄りに来ていた不貞な輩とは打って変わって自若とした雰囲気があった。

「学園都市前でダァシャリアス……」

 ややあって望む駅のホームに滑り込んだ電車からは、やはりボタンが弾け飛ぶように人が射出された。

「わあ」
「うわっこれが都会か」

 ぽん、コルク栓を抜くような音とともにはじき出された二人は、急激に動き出した潮流に飲み込まれて離れ離れになっていく。

「あっあの! さっきはありがとうございました! お名前――だけでも」

 人波に飲み込まれながら、女生徒は叫ぶ。しかし青年は困ったように後ろ手に頸を掻き、一つにやりと笑みを浮かべた。

「名乗るほどのもんじゃないからいいよ」

 流れていく彼女を見送って、青年もまた人波に飲み込まれて動いていく。それにしても恐ろしい潮流だ。うっかりしていたら蹴躓いて下敷きになってしまいかねない。そんな場所にこれから毎日通うとなると――これは骨が折れるなあなんてことをぼんやりと思いながら流されていくと、その内勝手に改札から出ていたようで、頭上には抜けるような青空があった。
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