81 / 84
第81話 開放
しおりを挟む「娘が、愛する妻が生きている。友の最期に、逢えた……」
透る光の内側の天蓋が、崖の先の影を二つ伸ばしていた。
「今までと、全く違う顔をしてるな。アンタ」
「……目覚めたのか」
靡く金髪と疲れ切った眼を開けて、ようやく立ち上がったのはしづるだった。
「ああ。なんとか。悪い現実は終わったか」
「俺は、どうする必要がある。何を返せばいい。何を返せば、この世界を享受する資格に足りる」
「……礼香に、もしくは、あなたの大事な人に、返してやってくれ。アンタがこの世界のことを嫌っているのは知ってる、理解してる。だから、世界なんて見なくていい。アンタはアンタの愛した全てにだけ、全てを返してくれ――それが、アンタの受け取るべき報酬だ」
「報酬……お前は、俺を許せなくないのか? 他でもないイチキをお前達から奪った殺人鬼を」
「誰も悪くない。悪いってするなら――それは異端狩りを欺こうとしたあの村の人々の判断だけだ。それよりも俺が、許せないのは」
硬く握りしめた拳が宙を殴りつけて、仮那は驚いて目を見開いた。
「俺が許せないのはっ……あの人をここに連れてこられなかった……俺の、無力さだけだ――!」
「……っ」
纏った覇気が凄みを絡ませ、瞳の裏に血の気を滲ませたしづるの視線が仮那を穿った。
その凄みに拍たれ、半歩後退ったのは無意識だった。
その面影をよく知っていた。
「弱さに、向き合う、か――あの男に、よく、似ている――」
「直に、礼香も目覚めるだろう。一緒に、いてやってくれ。彼女の心の傷が癒えるまで。俺たちももう行くよ」
「……どこに、行くつもりだ」
拳の力を抜いて大きく息を吐いたしづるは、はだけた布のようにゆるゆると歩きだし、悠里の肩を静かに抱きあげた。
「確かめにいかないと。連絡先は、ここに置いていく。礼香も知ってる。ほら、悠里。起きてくれ」
揺すると、その身体はびくりと震えて柔らかな草の上から飛び起きた。
「ん゛~~~っ」
飛び跳ねるように背中を震わせた悠里は、視界いっぱいに拡がった世界の彩りに目を白黒させて、回転力を失ったコマのようにゆるやかな孤を描いて、若草の海に倒れていった。
「あ゛あ゛~~~~~~~~っ゛!!! 急に色が! 色が!!! いらっしゃいませ!!! あ゛あ゛ぁ゛」
「その調子じゃ元気そうで何より。ああ、終わったよ。細かい話は後でしよう。今は行くべき所在がある。車は、あるはずだ」
礼香の頬を一つだけ撫でると、しづるはその体温の暖かさを懐かしみ、踵を返した。
目を白黒させながら仰向けにひっくり返った悠里を抱きしめると、二人の足はのそりのそりと柔らかい草を食む草食動物のように進み始めた。
「すごい、すごいすごい! ほんとに、全部治ってる! あんなにそこら中傷だらけだったのに! おじさんの言ってた通り。それにしても、ねえしーちゃん、礼香ちゃんと仮那さんは置いていくの?」
「二人になるのが必要な時間もあるだろ。そこは俺たちの首を突っ込む場所じゃない。何よりも、やること多いんだよ。お前急に元気になってうるせえ!」
「そっかそうかも。あたしも、そうかも! うるさいくらいがいいだろうがよっ」
しづるは足の遅い悠里をおぶると、車のあるべき位置に向かう。背中で小さくひくつく呼吸があって、しづるは風に撫でられて揺れる足元だけを見ていた。
廃教会の古ぼけた建物が、逆行に包まれて白んでいく。緑のアーチがぼうぼうと音を立てて揺れる。
鳥の鳴き声、風の吹き抜ける音、緑草の匂い。
踏みしめる砂利道の先に、車はあった。
「なんの、傷もないね」
「ああ。そうだな」
「道も、繋がってるんだよね」
「ああ、その筈だ」
「本当に、終わったんだよね」
「……終わった」
「そっ、か。どうりで。世界がこんなに綺麗」
蝉の音が鳴り響く中、車のドアが開いて閉まり、一呼吸置いてエンジン音が続いた。
行くべき場所は、一つだった。
山を抜け、谷間の道を下り、街へ戻る。空に立ち上る積乱雲を追いかけて、雨の匂いのする方へ走る。
徐々に近付いていくる見知った道に、心臓が早打ちしていた。
それがどうなるのか、それが何を意味するのか、それが、どのような意味を生み出すのか。
二人はまだこの未来が、どのような場所なのかを知る術はない。
だからある人の場所へ急いでいたのだ、誰よりも理性的で、誰よりも篠沢一木を知っている、その人の場所へ。
「もどるさん」
「おかえりなさい。二人とも!」
「もどる、さん゛!」
「悠里ちゃん。よく、本当によく耐えきったわね。その身体で――。しづるくんも、よくやりきったわね。辛かったでしょう」
三咲町国立天文研究所、その門の前で待っていたベゴニアめいた髪の女性は、確かに暁月もどるその人であった。
傷もなく、しゃなりとしたその背筋も風体も、優しげな目元も同じである。
「おじさんのものは、残って、ますか?」
「――それがね。どうやら、研究所の責任者が、私の知らない人になっていたの」
「……」
「でも、その人も消息不明みたいで実質的な責任者は私になってた。だから、上がって良いわよ。暑いでしょう。……中も、とっても綺麗なの」
見た目では取り繕っていても声がすとんと落ちて、それに自分で気が付いたのか、もどるは眉を下げて背を向けた。
誰も何も言わなかった。
「……何か、飲むかしら。ほら、ソファに座って待ってて。コーヒーが良いかしら、それともやっぱり紅茶? しづるくんは炭酸水の方が好きなんだったかしら」
何の匂いもしない研究所だった。
ソファに落ちるように座った悠里がもどるに声をかけると、もどるはてきぱきと手を動かしながら、華麗な手付きで準備を進めていた。
ただの会話に意味はない。彼女は二人が何を頼むか先に知っている。知っていて、会話をしている。そのことを二人もまた、どこかで理解していた。
そうしたいからだった。気を、少しでも紛らわしたかったのだ。
「もどるさん。おじさん、かっこよかった?」
「ええ。イチくん、とってもかっこよかった。まるで、ヒーローだったわ。夢みたいな、ヒーローだった」
「おじさんは、満足そうだった、かな」
「……」
「――教えてよ、もどるさん」
言い渋るように、手が止まった。
何かを悩み倦ねて、もどるは緩慢に唇を開いた。
「全然。だったよ」
「え?」
「全然。全く納得なんて微塵もしなかったんじゃないかしら」
予想外の解答に唖然とする悠里に、もどるは緩やかに、それが随分昔のことのように語り始めた。
「イチくんは、イチくんだったよ。最後まで。時間が許すまで、ずっと、一緒に居てくれた。イチくんはね。やっぱり、私の好きなイチくんだった。ヒーローみたいに戦って、ヒーローみたいに傷付いて、ヒーローみたいに勝って。だから本当に全然納得してなかったんじゃない?」
「……」
「きっと、もっとうまくできたはずだって、次こそは、次こそは。きっと、みんなをもっと幸せにしてみせる――そう思ってたんじゃないかな。でも、きっと、これはこれで受け止めたんじゃない? だって、イチくんはきっと。願いを叶えた筈だから」
少し声が上擦って、隠すようにもどるさんが笑った。
「そうなのかな……そうなのかも」
もどるは準備を再開し、悠里はふらりと立ち上がって、休憩室の隣の部屋を開け放った。
なんのこともない、荷物置きだった。ここに荷物を全部置いてくれたのだろう、ようやく、持って帰る時が来たのだった。
ごちゃついた荷物をまとめ始めた。おじさんのいない研究所に来ることは――ないことはないだろうけど、機会は減るだろうから。
屈んでバッグを拾い上げた時、窓が開いていたせいで吹き込んだ風で布が舞い上がって顔を覆った。
「うわっぷ」
顔から布を引き剥がず。
……カンバスを包んできた布だった。
悠里は驚いて辺りを見回した。
カンバスが見当たらない。
廊下に走り出る。
吹き抜けた風と一緒に『理科室』の扉を開け放つ。
こざっぱりとして何もない部屋に、やっぱりカンバスはない。
廊下を走り戻って、もどるに向かって声を掛ける。
なぜだろう、胸の鼓動が早まって、走り回った後みたいにドキドキしていた。
「ねえ、もどるさん! あたしの持ってきた絵、知らない?」
「? 布の中から触ってないわよ。ないの?」
瞳に光が宿って、どこかから甘いような少し煙たくなるような、懐かしい香りが漂ったような気がした。
嬉しい。
そんな単純な気持ちが胸を突き上げて身体を動かしていた。
「……いや、なくって当たり前なんだった」
「悠里、なんだよ。にやにやして」
しづるはいぶかしげにソファから覗き込んで、悠里はそれを尻目に夏の太陽みたいにニコニコしながら玄関を開け放って、青葉を巻き込んだ風の中踊るように日の光の中飛び出した。
「忘れないで持ってったんだ、おじさん」
目を瞑って空を見上げると、太陽に薄く小さな雲がかかった。
頭を撫でられたように薄暗くなって、すぐに雲は飛んでいって、悠里は眼を開けた。
「寂しがり屋さん。そんなに会いたいなら、来れば良いのに。ずっと、大好きだよ、おじさん」
淡くひろがる空色に、滲むように夏の緑と風があり、瞳孔に映る世界は時を忘れるほどに美しい。
それが篠沢一木がくれた世界だった。
「空って、綺麗なんだね。やっと、思い出せた――また、描くからさ。見に来てよ。待ってるね。おじさん」
白衣を翻して、悠里は歩き出す。
色付いていく世界の中を、歩いて行く。
風と時と色、そして思い出を纏う。
全力で、わくわくで、そして――
「にしし。やっぱり、あたしは『こう』じゃないとね」
悪戯っぽく、悠里は笑う。
「おじさん、待ってて。次こそは、最高の夜空を。約束だかんね!」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
リモート刑事 笹本翔
雨垂 一滴
ミステリー
『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。
主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。
それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。
物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。
翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?
翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

聖女の如く、永遠に囚われて
white love it
ミステリー
旧貴族、秦野家の令嬢だった幸子は、すでに九十五歳という年齢だったが、その外見は若き日に絶世の美女と謳われた頃と、少しも変わっていなかった。
彼女はその不老の美しさから、地元の人間達から今も魔女として恐れられながら、同時に敬われてもいた。
ある日、彼女の世話をする少年、遠山和人のもとに、同級生の島津良子が来る。
良子の実家で、不可解な事件が起こり、その真相を幸子に探ってほしいとのことだった。
実は幸子はその不老の美しさのみならず、もう一つの点で地元の人々から恐れられ、敬われていた。
━━彼女はまぎれもなく、名探偵だった。
登場人物
遠山和人…中学三年生。ミステリー小説が好き。
遠山ゆき…中学一年生。和人の妹。
島津良子…中学三年生。和人の同級生。痩せぎみの美少女。
工藤健… 中学三年生。和人の友人にして、作家志望。
伊藤一正…フリーのプログラマー。ある事件の犯人と疑われている。
島津守… 良子の父親。
島津佐奈…良子の母親。
島津孝之…良子の祖父。守の父親。
島津香菜…良子の祖母。守の母親。
進藤凛… 家を改装した喫茶店の女店主。
桂恵… 整形外科医。伊藤一正の同級生だった。
秦野幸子…絶世の美女にして名探偵。九十五歳だが、ほとんど老化しておらず、今も若い頃の美しさを保っている。

この欠け落ちた匣庭の中で 終章―Dream of miniature garden―
至堂文斗
ミステリー
ーーこれが、匣の中だったんだ。
二〇一八年の夏。廃墟となった満生台を訪れたのは二人の若者。
彼らもまた、かつてGHOSTの研究によって運命を弄ばれた者たちだった。
信号領域の研究が展開され、そして壊れたニュータウン。終焉を迎えた現実と、終焉を拒絶する仮想。
歪なる領域に足を踏み入れる二人は、果たして何か一つでも、その世界に救いを与えることが出来るだろうか。
幻想、幻影、エンケージ。
魂魄、領域、人類の進化。
802部隊、九命会、レッドアイ・オペレーション……。
さあ、あの光の先へと進んでいこう。たとえもう二度と時計の針が巻き戻らないとしても。
私たちの駆け抜けたあの日々は確かに満ち足りていたと、懐かしめるようになるはずだから。
ミステリH
hamiru
ミステリー
ハミルは一通のLOVE LETTERを拾った
アパートのドア前のジベタ
"好きです"
礼を言わねば
恋の犯人探しが始まる
*重複投稿
小説家になろう・カクヨム・NOVEL DAYS
Instagram・TikTok・Youtube
・ブログ
Ameba・note・はてな・goo・Jetapck・livedoor
幽子さんの謎解きレポート~しんいち君と霊感少女幽子さんの実話を元にした本格心霊ミステリー~
しんいち
キャラ文芸
オカルト好きの少年、「しんいち」は、小学生の時、彼が通う合気道の道場でお婆さんにつれられてきた不思議な少女と出会う。
のちに「幽子」と呼ばれる事になる少女との始めての出会いだった。
彼女には「霊感」と言われる、人の目には見えない物を感じ取る能力を秘めていた。しんいちはそんな彼女と友達になることを決意する。
そして高校生になった二人は、様々な怪奇でミステリアスな事件に関わっていくことになる。 事件を通じて出会う人々や経験は、彼らの成長を促し、友情を深めていく。
しかし、幽子にはしんいちにも秘密にしている一つの「想い」があった。
その想いとは一体何なのか?物語が進むにつれて、彼女の心の奥に秘められた真実が明らかになっていく。
友情と成長、そして幽子の隠された想いが交錯するミステリアスな物語。あなたも、しんいちと幽子の冒険に心を躍らせてみませんか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる