白い夏に雪が降る【完結済】

安条序那

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第81話 開放

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「娘が、愛する妻が生きている。友の最期に、逢えた……」

 透る光の内側の天蓋が、崖の先の影を二つ伸ばしていた。

「今までと、全く違う顔をしてるな。アンタ」
「……目覚めたのか」

 靡く金髪と疲れ切った眼を開けて、ようやく立ち上がったのはしづるだった。

「ああ。なんとか。悪い現実ゆめは終わったか」
「俺は、どうする必要がある。何を返せばいい。何を返せば、この世界を享受する資格に足りる」
「……礼香に、もしくは、あなたの大事な人に、返してやってくれ。アンタがこの世界のことを嫌っているのは知ってる、理解してる。だから、世界なんて見なくていい。アンタはアンタの愛した全てにだけ、全てを返してくれ――それが、アンタの受け取るべき報酬だ」
「報酬……お前は、俺を許せなくないのか? 他でもないイチキをお前達から奪った殺人鬼を」
「誰も悪くない。悪いってするなら――それは異端狩りを欺こうとしたあの村の人々の判断だけだ。それよりも俺が、許せないのは」

 硬く握りしめた拳が宙を殴りつけて、仮那は驚いて目を見開いた。
 
「俺が許せないのはっ……あの人をここに連れてこられなかった……俺の、無力さだけだ――!」
「……っ」

 纏った覇気が凄みを絡ませ、瞳の裏に血の気を滲ませたしづるの視線が仮那を穿った。
 その凄みに拍たれ、半歩後退ったのは無意識だった。
 その面影をよく知っていた。

「弱さに、向き合う、か――あの男に、よく、似ている――」
「直に、礼香も目覚めるだろう。一緒に、いてやってくれ。彼女の心の傷が癒えるまで。俺たちももう行くよ」
「……どこに、行くつもりだ」

 拳の力を抜いて大きく息を吐いたしづるは、はだけた布のようにゆるゆると歩きだし、悠里の肩を静かに抱きあげた。
 
「確かめにいかないと。連絡先は、ここに置いていく。礼香も知ってる。ほら、悠里。起きてくれ」

 揺すると、その身体はびくりと震えて柔らかな草の上から飛び起きた。

「ん゛~~~っ」

 飛び跳ねるように背中を震わせた悠里は、視界いっぱいに拡がった世界の彩りに目を白黒させて、回転力を失ったコマのようにゆるやかな孤を描いて、若草の海に倒れていった。

「あ゛あ゛~~~~~~~~っ゛!!! 急に色が! 色が!!! いらっしゃいませ!!! あ゛あ゛ぁ゛」
「その調子じゃ元気そうで何より。ああ、終わったよ。細かい話は後でしよう。今は行くべき所在ところがある。車は、あるはずだ」

 礼香の頬を一つだけ撫でると、しづるはその体温の暖かさを懐かしみ、踵を返した。
 目を白黒させながら仰向けにひっくり返った悠里を抱きしめると、二人の足はのそりのそりと柔らかい草を食む草食動物のように進み始めた。

「すごい、すごいすごい! ほんとに、全部治ってる! あんなにそこら中傷だらけだったのに! おじさんの言ってた通り。それにしても、ねえしーちゃん、礼香ちゃんと仮那さんは置いていくの?」
「二人になるのが必要な時間もあるだろ。そこは俺たちの首を突っ込む場所じゃない。何よりも、やること多いんだよ。お前急に元気になってうるせえ!」
「そっかそうかも。あたしも、そうかも! うるさいくらいがいいだろうがよっ」

 しづるは足の遅い悠里をおぶると、車のあるべき位置に向かう。背中で小さくひくつく呼吸があって、しづるは風に撫でられて揺れる足元だけを見ていた。
 廃教会の古ぼけた建物が、逆行に包まれて白んでいく。緑のアーチがぼうぼうと音を立てて揺れる。
 鳥の鳴き声、風の吹き抜ける音、緑草の匂い。
 踏みしめる砂利道の先に、車はあった。
 
「なんの、傷もないね」
「ああ。そうだな」
「道も、繋がってるんだよね」
「ああ、その筈だ」
「本当に、終わったんだよね」
「……終わった」
「そっ、か。どうりで。世界がこんなに綺麗」

 蝉の音が鳴り響く中、車のドアが開いて閉まり、一呼吸置いてエンジン音が続いた。
 行くべき場所は、一つだった。
 山を抜け、谷間の道を下り、街へ戻る。空に立ち上る積乱雲を追いかけて、雨の匂いのする方へ走る。
 徐々に近付いていくる見知った道に、心臓が早打ちしていた。
 それがどうなるのか、それが何を意味するのか、それが、どのような意味を生み出すのか。
 二人はまだこの未来が、どのような場所なのかを知る術はない。
 だからある人の場所へ急いでいたのだ、誰よりも理性的で、誰よりも篠沢一木を知っている、その人の場所へ。

「もどるさん」
「おかえりなさい。二人とも!」
「もどる、さん゛!」
「悠里ちゃん。よく、本当によく耐えきったわね。その身体で――。しづるくんも、よくやりきったわね。辛かったでしょう」

 三咲町国立天文研究所、その門の前で待っていたベゴニアめいた髪の女性は、確かに暁月もどるその人であった。
 傷もなく、しゃなりとしたその背筋も風体も、優しげな目元も同じである。

「おじさんのものは、残って、ますか?」
「――それがね。どうやら、研究所の責任者が、私の知らない人になっていたの」
「……」
「でも、その人も消息不明みたいで実質的な責任者は私になってた。だから、上がって良いわよ。暑いでしょう。……中も、とっても綺麗なの」

 見た目では取り繕っていても声がすとんと落ちて、それに自分で気が付いたのか、もどるは眉を下げて背を向けた。
 誰も何も言わなかった。

「……何か、飲むかしら。ほら、ソファに座って待ってて。コーヒーが良いかしら、それともやっぱり紅茶? しづるくんは炭酸水の方が好きなんだったかしら」

 何の匂いもしない研究所だった。
 ソファに落ちるように座った悠里がもどるに声をかけると、もどるはてきぱきと手を動かしながら、華麗な手付きで準備を進めていた。
 ただの会話に意味はない。彼女は二人が何を頼むか先に知っている。知っていて、会話をしている。そのことを二人もまた、どこかで理解していた。
 そうしたいからだった。気を、少しでも紛らわしたかったのだ。

「もどるさん。おじさん、かっこよかった?」
「ええ。イチくん、とってもかっこよかった。まるで、ヒーローだったわ。夢みたいな、ヒーローだった」
「おじさんは、満足そうだった、かな」
「……」
「――教えてよ、もどるさん」

 言い渋るように、手が止まった。
 何かを悩み倦ねて、もどるは緩慢に唇を開いた。

「全然。だったよ」
「え?」
「全然。全く納得なんて微塵もしなかったんじゃないかしら」

 予想外の解答に唖然とする悠里に、もどるは緩やかに、それが随分昔のことのように語り始めた。

「イチくんは、イチくんだったよ。最後まで。時間が許すまで、ずっと、一緒に居てくれた。イチくんはね。やっぱり、私の好きなイチくんだった。ヒーローみたいに戦って、ヒーローみたいに傷付いて、ヒーローみたいに勝って。だから本当に全然納得してなかったんじゃない?」
「……」
「きっと、もっとうまくできたはずだって、次こそは、次こそは。きっと、みんなをもっと幸せにしてみせる――そう思ってたんじゃないかな。でも、きっと、これはこれで受け止めたんじゃない? だって、イチくんはきっと。願いを叶えた筈だから」

 少し声が上擦って、隠すようにもどるさんが笑った。

「そうなのかな……そうなのかも」 

 もどるは準備を再開し、悠里はふらりと立ち上がって、休憩室の隣の部屋を開け放った。
 なんのこともない、荷物置きだった。ここに荷物を全部置いてくれたのだろう、ようやく、持って帰る時が来たのだった。
 ごちゃついた荷物をまとめ始めた。おじさんのいない研究所に来ることは――ないことはないだろうけど、機会は減るだろうから。
 屈んでバッグを拾い上げた時、窓が開いていたせいで吹き込んだ風で布が舞い上がって顔を覆った。

「うわっぷ」

 顔から布を引き剥がず。
 ……カンバスを包んできた布だった。

 悠里は驚いて辺りを見回した。
 カンバスが見当たらない。
 廊下に走り出る。
 吹き抜けた風と一緒に『理科室』の扉を開け放つ。
 こざっぱりとして何もない部屋に、やっぱりカンバスはない。
 廊下を走り戻って、もどるに向かって声を掛ける。
 なぜだろう、胸の鼓動が早まって、走り回った後みたいにドキドキしていた。

「ねえ、もどるさん! あたしの持ってきた絵、知らない?」
「? 布の中から触ってないわよ。ないの?」

 瞳に光が宿って、どこかから甘いような少し煙たくなるような、懐かしい香りが漂ったような気がした。
 嬉しい。
 そんな単純な気持ちが胸を突き上げて身体を動かしていた。

「……いや、なくって当たり前なんだった」
「悠里、なんだよ。にやにやして」

 しづるはいぶかしげにソファから覗き込んで、悠里はそれを尻目に夏の太陽みたいにニコニコしながら玄関を開け放って、青葉を巻き込んだ風の中踊るように日の光の中飛び出した。

「忘れないで持ってったんだ、おじさん」

 目を瞑って空を見上げると、太陽に薄く小さな雲がかかった。
 頭を撫でられたように薄暗くなって、すぐに雲は飛んでいって、悠里は眼を開けた。

「寂しがり屋さん。そんなに会いたいなら、来れば良いのに。ずっと、大好きだよ、おじさん」

 淡くひろがる空色に、滲むように夏の緑と風があり、瞳孔に映る世界は時を忘れるほどに美しい。
 それが篠沢一木がくれた世界だった。
 
「空って、綺麗なんだね。やっと、思い出せた――また、描くからさ。見に来てよ。待ってるね。おじさん」

 白衣を翻して、悠里は歩き出す。
 色付いていく世界の中を、歩いて行く。
 風と時と色、そして思い出を纏う。
 全力で、わくわくで、そして――

「にしし。やっぱり、あたしは『こう』じゃないとね」

 悪戯っぽく、悠里は笑う。

「おじさん、待ってて。次こそは、最高の夜空を。約束だかんね!」



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