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第77話 遡行
しおりを挟む燐光を纏った因果の光が時を超えて地上に降り注ぐ。
俯瞰する眼前には肥沃な森と、それを這う焔の種子が芽を出している。
青い草の香りと、それに混じる煙の匂い。
|鉄の鎖に縛られた未来を解くため、怪鳥の瘴気に悩まされる空を拭うため、夕暮れの森に存在しなかったはずの未来が空ざまに駆けて地に降りた。
見渡せば時刻はやはり日没の手前を指しており、鷙鳥が十羽となく二十羽となく嘴をがちがちと震わせて飛び巡っているのはここが刑場であるような、幾多の死を孕んできた源泉であるような、そんな不吉な夕暮れを醸していた。
「……なんだ、妙に身体が重いな――悠里? お前」
「いてて、しーちゃん大丈夫――っていうより身体が大人に戻ってる!」
「けほっ、でも、成功、したのかな?」
四人は全員が顔を見合わせて、会釈した。
「大丈夫だ。時間の移動に失敗した形跡はない。記憶を参照として跳んだ時間じゃなくなったから、お前は自分の記憶が持っていた姿に縛られる必要がなくなっただけだ」
「……? なるほど」
「ああ。けれど身体が妙に重いのは事実だ。ひょっとすると時間の深度に合わせて肉体に対する負荷が変わっているのだろう。お前達の方がその自覚症状は大きいはずだ」
やや肉体が重いのは確かにその通りだった。神経が遅れてくるような、まるで低速回線を使用した通信のような、言い計ることの難しい感触が神経を撫でていた。
「この空模様を見るに、あまり時間はない。すぐに俺は出る。お前達はヤツのことを頼む」
「お父さん! あのっ、時間になったらどうすれば」
「時間が来れば自動的に引き戻される。それか無理そうなら……このペンダントは渡しておく。その石に触れて念じればともかくこの時間に残ることはない」
「っ……。オーケー。カリナさん、幸運を」
「ああ。お前達もな。湖の近くに行け。シノサワは村が見える山肌から登ってきたはずだから先に見えるはずだ。来たら、くれぐれも頼む」
カリナは青い時間の裂け目に潜り込むように走り出すと、その速度はぐんぐんと二次元方向へ伸びて薄くなっていき、しまいには視認できないようになった。
「行こう、俺たちものろのろやってる場合じゃない」
「うん、行こ」
「私、ちょっとだけ道わかる気がします。先導しますね」
鬱蒼とした森の中を似合わない火花が飛散する。
空から落下しながら俯瞰した光景と、実際に立ちこめる煙と焔では訳が違う。炎が水を含んでいる筈のまだ若い木の水分を奪いそれを新たな火種に変える。炎は木々の枝から移るのではない、生きている木がそのまま炎になるのだ。
十分かそれ以上か、段差の多い獣道を走り続けると、拓けた水面に風が靡いていた。水鳥の袈裟のような翼峰が天空に引き摺られるように高く伸びて上がって行く。幼い翼が酷く慌てて親鳥に併せられているのは、彼らがまだこの湖以外の安楽の地を知らないことをよく物語っていた。
湖の差し掛かり、三人の足が止まる。
だがそれは同時に一つの気配をどこぞともなく運んでくる音がそこにあるのも事実だった。
「……誰だい」
「――!」
まず最初に反応したのはしづるだった。
その音が一つではないことに気が付いて袖を引いたのは悠里だった。
「アンタたち、ここはもう危険地帯だよ。その服じゃ観光か……? いや、なんだ? 違うな、何者だい」
冷たく凍った言葉を投げたのは、ベゴニアの髪を纏う女だった。黒縁の細いメタルフレームの眼鏡をかけて、身体に張りつくラバーの光沢を身に纏っている。肩には白く豊かなストールが首を覆い、妙に豪奢に見えるのは表情が猛禽じみて獰猛に眉間を引き締めた弩のようだったからだろう。
その風貌は、あまりにも似ている。
知っている。ああ、あの人だ。
心拍数が跳ね上がる。心臓の早鐘が止まらない。
「――」
二人は息を呑んでいた。その人は一木の隣にいつも淑やかに嫋やかに立ち居振る舞い、ほんの少しの彩りを以てその生を豊かに整える、丁寧な生活を擬人化したような人。俺たちは、その人の名を知っている。
「もどるさん――!?」
「ははっ。ハズレ。なんだい、それ。アレのこと知ってんのかい? アンタたちひょっとしてウチの別働隊かい? いや、それなら連絡が来てないとおかしいハズだ、ならどう考えるのがいい塩梅だろうね。異端共かな? だとしたら――」
妹――?
その困惑をよそに赤い髪が吹き上がるように空に揺れる。
「どうせきな臭いんだ。ここでちょぉ~っと尋問してみるのも、悪くない、かも☆ こんな妙な火事も意味不明に起こってることだし、お前らなんか知ってんだろ?」
「しーちゃん!」
どうしよう、悠里の視線がしづるに向いた。
しづるは考えていた。
――違う、あまりにも好戦的すぎる。
しづるの脳裏にあったのはもはや自分が狙われていることではなかった。かつて一木からぼんやりと聞いた気がする台詞の一節が脳内にリフレインを起こしていた。
「待ってくれ。おじさん……いや、篠沢一木はどこにいまいるか教えて欲しい」
「……ん? 随分面白い言葉を出すじゃないか。ここに来る隊長の登録名は暁月一木――つまり戸籍名のハズなんだからさ、あんた達はそれ以前のアイツのことを知ってる知り合いか、それとも、よく調べてきてオレたちに取り入ろうって画策する敵か、どっちかってことだなああ――!?」
唇の紅がにこやかに三日月を描き、落ちた陰が炎に煽られて染まった楓のように揺らめいていた。同じ顔をし、同じ風貌を持っているのにもどるとこの女は全くの逆、両端同士に存在に見えた。彼女の持つ洗練された研ぎ澄まされた覇気ではない。まるで無限の手が貪欲に視界に移った全てを飲み込んでいくような底のない怪物、しかもその冷酷さは純粋で、氷点下の無垢だ。衆目で人を斬り殺すのが罪であるとわかっていながらただ“面白い!”という理由で人を斬ることをやめない真性の悪意。
恐怖が空間いっぱいに拡がっていた。しかししづるだけは違っていた。
だがそれなら、案外なんとかなるかも――直感だった。けれど確かに胸の奥で、そう聞こえていた。
「聞いて欲しい。俺たちは未来から来たんだ」
「ちょっとしーちゃん!?」
「しづるさん!」
二人はしづるの言動に面食らっていた。どう考えてもそうはならない。こんなに剥き出しの殺意を以て今にも襲いかかろうとする正体不明の狂人を前にして、明らかにあり得ない狂言をぶつけるなんて! おちょくられていると取られてしまったら一巻の終わりだ。ただでさえ陥穽に落ちれば石を下とすような凶暴な眼をしているのに、それに油を注ぐようなことを――!
「ははぁん――?」
「今から篠沢一木とあなた、つまりこの作戦の責任者とお話がしたい。俺たちはこの作戦がどういう結果を迎えるのかを識っている。だからそれを変えたい」
「おいおいおいおいおいおいおいおいおい、随分大きく出たな。結構面白いじゃねえの。でも、答えはノー☆だ。お前と話し込んでる時間はねえ。この先に目標がい――」
「いない」
しづるは言葉を断ち切った。紅い瞳の瞼が震えて眉根に皺が入り込んだ。
同時に足下から――石ころだった。
コン、わかりやすい音だった。それがしづるに向かって弾丸めいた速度で発射されていた。振飄石で射かけたように鋭い角度で打ち込まれたそれは、少なくとも人間が事も無げに放っていい熱量のそれを超えていた。
「――ぐぁっ!」
衣擦れの音もなく、しづるが反応する前に正面の脇腹に石ころが命中していた。
気が付いたのはようやく神経が痛みを伝えて膝を折ってしゃがみ込もうとしている最中だった。
「しーちゃん! ダメ、無茶したら」
しづるは前のめりに倒れ込みそうになりながら、脇腹を腕で押さえて立っていた。
石が落ちないことを疑問に感じて礼香はしづるの押さえた手を見ると、そこには明らかに膨らみがあった。赤黒い血の筋が染みを乗り越えて吹き上がっていた。
「ひっ」
「礼香。大丈夫」
「でも、逸りすぎです! 説明してる時間位は――」
しづるは恐怖に慄く礼香の頭をにこやかに笑って撫でてみせたが、その表情にはやせ我慢の色しかないのは誰から見ても明白だった。そしてそっと礼香にそっと耳打ちすると、礼香はそのまま動けなくなって、しづるの背中をどうすればいいのかわからないような顔で見つめるしかできなかった。
「だーれの言葉遮ってると思ってんだ☆ この場において主導権を握ってるのがどっちかわかんねえのか? それともこの場で挽肉にされてえか? 倒れない根性だけは認めてやるから――」
「この後、このまま行けば一時間もせずあなたは死ぬ。十分に説明している時間がなくて済まない、だが頼む」
「このガキ――!!!」
一握り残されていた冷静な表情が消し飛んで、獅子吼に響いた怒声を乗り越えて紅い陰が飛び出した。それは飛び出したというよりも、駆けたという表現が正しいかもしれない。空中の制動であるのにまるで滑らかで精巧に作られた鍵盤の駆動を思わせた。
「はぁ……はぁ……」
やはり、死神の鎌だ。
鮮血にも見紛うその紅さは錆びることも隠すこともない放漫な殺意に裏付けられて、勁の髄から迸った発掌は時の制約にもやはり無垢――なるほど、これなら恐れるのかもしれない。あの規格外の時間の魔法使いも、止まった時間も、これだけ純粋な力と狂気だけが澄んだ一撃なら距離を置かねばならないだろう。しかも一撃では止まるものか、三度――四度は打ち続くだろう。円運動が途切れない、ほんの少しでいいのだ。彼女はそれだけで必殺の打撃を際限なく続けていく、そんな動きだった。
意外にも、しづるの眼にはその工程が全て眼に焼き付けられていた。
そして更に意外だったのは、この絶望的な状況を相手取って冷静な判断を取ることができたことだった。
何度も見てきた青い世界の影、時が止まった世界の片鱗が、しづるの内部から圧倒的に自らより速い者を視認させていた。あり得ないはずのコマ送りと同時にそこに存在する要素の絞り込み――度重なった死の境界が肉体と神経を変化させ、いうなれば、今しづるは『止まった時間を脳の一部で視認していた』。
タキサイキア現象――そう呼べば解決するかも知れない。脳内物質が危険を感じた瞬間の世界を刻み込んで置こうとする走馬灯、だがこれは違った。走馬灯ではない、しづるの身体はその時の中を動いていた。
その走馬灯、圧倒的な短い時間の中で生き残る為に。
「――」
右上方から打ち下ろされた足にあろうことか突っ込んだ。
ガードの上から重すぎる一撃が重心毎吹き飛ばすほどに肉を揺さぶる。脳だった。
守るべきものは意識だった。その為にクラッシャブルゾーンが必要だった。首や鎖骨下の神経や血管を衝撃から守る為に鎖骨は折れやすくできているように、或いは車のバンパーがわざと潰れて座席を守るように出来ているように、今のしづるにはそれ相応のクラッシャブルゾーンが必要だった。腕の一本と右肩だった。
体勢を下げて、腕を上げる。
ただそれだけだった。意識を繋げさえすれば一旦は引かせられる。
その為の備えはあった。いや、それだけでも十分だった。
利き腕が折れる音がする。痛みはまだ来ない。痛みは分散しているのだ。打撲の瞬間で肉体は様々な場所から命令を出している。脳は処理仕切れない。
表情に一瞬の揺らぎが見えた。それが契機だった。驚いているのだ。当たりに来たことを。まるで素人が向かってきたことを。
右腕の感覚が徐々になくなる。繋がっていたはずの尺骨先の感触はもうどこにもない。
だが次撃の間に、活路はある。
照準は、目の前にあっている。
「『メグセ・ヌェウト ――」
「それは――イチキの……いや違う!」
しづるの言葉に紅い女は初めて顔色をなくした。
空間が毳立つように遡る。色が変わっていた。
赤い殺意に満ちた空間が、青い時間の奔流で偏位していく。
光の焦点が現像する位相の世界を明確に破損させながら分断している。
しづるの視線の先にある肉体が既に準備に入った次撃を緊急に取りやめさせていた。
ぶらり、折れた腕が重力に耐えかねて皮一枚であらぬ方向へ倒れていく。
しづるの脳裏には疑問が湧いていた。
瞳の先に映った世界を捉えるこの魔術は、一体なんなのだろう。
この魔術が壊すモノとは一体なんなのだろう。
この魔術が燃やし尽くす破壊とは、どこに繋がっているのだろう。
わからない。だけれどそれが今この瞬間を繋ぐなら。
俺はいつでも、この世界を燃やし尽くす。
口は紡ぐ、その破壊を。
「ゲブラー』」
アーチを描く重力の檻が砕けると、蕾を開くように瞳の先に最も美しい渦を象った。
「ふっ――」
迸った閃光が、消えて現れた。
目を疑う。しかし間違いはなかった。
その閃光は、しづるの死線を超えて放たれていた。
『しづるくん。悠里について、君に伝えておくべきことがあるんだ』
ごちゃついた理科室に斜陽の夕陽が粘性のある液となって部屋の中に満ちている。
銀トレイの光沢に二人の表情は暗い。カラメルの溶けた歪んだ水面に浮かんだ二人は、曖昧になった現実と時間の境界の中に佇んでいた。
『……』
『悠里が侵されていた精神被害を食い止めるために、ぼくの使っているセフィラと呼ばれる刻印を彼女に刻んだ。この事実がどのように作用するのか正しく認識して欲しい――つまり君には、魔術と科学の違いを説明しておきたい』
『魔術と科学?』
ああ――、そう言って一木は話し始めた。
『魔術でモノを燃焼させることと、ライターでモノを燃焼させること、この二つには実は違いが存在しない。モノが燃えた、その事実が内包された時間の帯があるだけだ』
一木はしづるの浮遊しがちな目線を目線で捉えると、二つの同じ長さに切りそろえた包帯を並べて、その隣にライターを置いて見せた。
『ここにある二つの包帯を、一方は魔術、一方はここにあるライターで燃やしてみるとしよう。では、この二つは何が違うと思うかね』
銀トレイの上に切り揃えられた帯を二枚眺める。何の変哲もない二枚の包帯は勿論何も言葉を発することも動くこともない。明確な差違も存在しない。
ゆっくりと思案した後、しづるは二枚の包帯の辿る時間を鑑みると一木にこう言葉を返した。
『……証拠。ライターは証拠が残る。この銀トレイの上の中にあるライターを使用すれば、必ずライターを使った証拠が何かしら残るはずだ。だけど魔術ならそんな証拠は残さない。違うか?』
『流石だね、しづるくん』
一木は緩やかに拍手を贈ると、頷いた。
『魔術を学んだことのない人間とは思えない解答だ。素晴らしいよしづるくん。だが違う。まずイントロダクションとして、科学は解明された物質を力に変換して使用する。一方で魔術では“第三方向からの力”と呼ばれる解明されていない力を変換して使用するんだ。ちょっと癖のある現象を生み出す力でね。だから魔術には明確な行使した痕跡が残る。むしろライターを使用した場合よりも、見る者が見れば決定的な違いが発生するのが魔術だ。では、試してみようか。小学生の実験だ。もし布が焼けた場合、発生する気体は? そしてそれを確かめる為には?』
『勿論CO₂――二酸化炭素――だ。それは石灰水に通せば白濁するからわかる』
『ではやってみよう。しづるくん、その瓶の中でこの包帯を燃やしてみよう。ぼくはこの包帯を魔術的な方法によって燃やしてみる。そして各々で発生した気体を石灰水に通してみる。えーと、石灰水は、lime water ……ここだ、ビンゴ。そしてルーペも』
散らかった抽斗《ひきだし》の中から石灰水の瓶を引っ張り出すと、机の上にはまた新しいごちゃごちゃの材料が並べられた。
『随分丁寧なんだな、結論だけ教えてくれればいいのに』
『魔術のタネ、知りたくないかい?』
『……上手だね』
片眉をつり上げて、一木としづるは各々の作業に取りかかった。一分と掛からず達成された実験材料が机に並んだ。それを楽しそうに傾けてみせるのは、案外しづるではなく一木の方であった。
『君の予想を聞こう』
『ここまで準備したってことはそれ相応の結果があるってことだ。予想するなら当然魔術を行使して燃焼させた布はその証拠となる炭化が起きない――つまり石灰水は濁らない。燃やした証拠は残らない、それが俺の解答だ』
『ではやってみよう』
二つの瓶に石灰水が注ぎ入れられた。たちまちライターで着火した布の気体は白く石灰水が濁ったが、予想通り魔術で燃やした布の方の石灰水は色が変わらなかった。
『予想通りだね。しづるくん。どうしてそう思ったんだい?』
『だって、そうなるだろう。違いなんてあり得るとしてそうしかないんだから』
『ではもう一つ聞こうか。布をこのように燃焼した状態にする為にはもう一つ簡単な方法があるはずだ』
手を顎に置いて一呼吸の後にしづるは鈍く唇を動かすと自信なさげにこう答えた。
『強アルカリ液だ。濃硫酸で焼けばH₂O、水分を奪う。焼いたような状態にできるはず……』
『正解。でもこの中にあるものは残念ながら全然違う。さて、更に理科の話をしようか。布や他物質が燃焼する時、焼けた面にどのような変化が起きるから延焼するんだったかな』
『物質の連結部が分断されて、それが新たな燃焼口になって、鎖を外すように物は延焼していく。だから耐燃素材はその結合が切れないように加工されている物が殆ど……これでいい?』
『そう、その通り。ではこの魔術で燃やした布を見てみようか』
一木は流しに石灰水ごと瓶をひっくり返すと、中からは黒く縮れて燃えたように見える布が現れた。
『君よ、取り給え――ああいや、こんな引用は伝わらないか。まあいい、取って触れて、見てみるといい。石灰水に浸けたからよりわかりやすいと思う』
しづるは恐る恐る魔術焼けした包帯を手に取ると、それが肌に触れた瞬間に違和感を覚えていた。
その黒く焼け焦げたように見える包帯は、決してライターで焼いたように炭化しているわけでもなければ、濃硫酸で水分を奪ったように組織が崩壊している訳でもない。むしろ組織は本当に焼けたのかどうか疑わしい程に、或いは超高温の窯で焼結したセラミックのようにがらんどうになっていた。それでいて外殻にあたる包帯の表面は損壊があるものの、ある程度の柔軟性を残している――例えるなら干したスルメイカだ。のっぺりとしていてかさついているのに組織同士の繋がりは柔軟で、引っ張ってみるとそう簡単には壊れそうにない――触ったこともないそんな奇妙な材質に変性している。
『これは……』
『わかったかい? これが魔術的燃焼を起こした布。どうかな、普通の炭化燃焼とも、強アルカリでの脱水とも違うだろう? では、これで証拠が残らないともう一度言えるかな』
『少なくとも、俺はわかる――』
『その通り、魔術的燃焼を知っている人間ならむしろ“魔術を行使した事実”が浮き彫りになってしまう。それが魔術の証拠になる』
なるほど、だがしづるには更に魔術と科学の違いがわからなくなってしまった。なぜなら分別できない、証拠が残らない、或いは人間には判別不能であるから魔術というものの秘匿は守られているはずなのだ。だがこうして明確に魔術を行使した痕跡が残ってしまうなら、魔術を使用するメリットはどこにも発生しないと言っていいだろう。目眩し程度の子供騙しだ。
『おじさん、魔術と科学って何が違うんだ? 実験を通してむしろわからなくなっちゃったんだけど……』
『しづるくん。それはね、“証拠が残りにくいものが魔術”だよ』
しづるは首を傾げた。散々この証拠を見せておいて、話に一貫性がない。
ならここまでの言論はなんの為に存在したのだろうか。
『……? 何を言ってるんだ?』
『じゃあ、この魔術的燃焼をさせた包帯をこうしてみよう』
ライターに火が付いて、魔術的燃焼を起こした黒くぶよぶよした包帯が着火された。
ろうそくのように細くたなびき点火された炎は、瞬く間にその包帯を燃やし尽くして風に散った。
『――あっ』
『さて、しづるくん。わかったかな?』
『まさか』
『そういうことだよ』
魔術的燃焼から炎での燃焼、二度の燃焼を経てそこにあった包帯は跡形もなく、材質が何であるかさえ想像つかない状態に陥った。
――なるほど。
しづるの表情は納得のそれだった。魔術一つではなし得ないこと、そしてただの自然現象一つではなし得ないことが両輪となって一つの結果を生み出している。
『未解決事件に魔術が関わっていることがある。そしてそれはたいてい現代的な隠蔽道具と魔術的隠蔽の二重の隠蔽が行われている。だから並の方法では見つけられないのさ。そういう事件を解決するためにはどうすればいい?』
『――ここまでの前提を踏まえるなら、魔術的な方法での調査と、普通の科学での捜査がいる』
『その通り。そしてそれがぼくの前職だった』
ため息を一つ吐き、一木は言葉を続けた。
『悠里の症状は正にそれで言うところの普通の方法ではなんとかできない未解決事件なのさ。原因はわかっているのに、どうしてああなっているのかがわからない。だから現代医学によるバックアップと、魔術によるバックアップが必要だった。僕が彼女に刻印を埋め込んだのもそれが理由だ。残念ながら対症療法に留まっているがね。彼女の内部にある問題を止める為に、僕の持っている刻印の殆どを悠里に明け渡している。ひょっとすると、それが原因でこの先何かが彼女の身に起こるかも知れない――』
『だったら俺がなんとかするよ。出来る分だけでも』
『うん――実はそれを頼もうと思っていた。すまない、迷惑をかける』
『いいよ。この腕の傷の代金くらいだしさ』
『……ありがとう。ああ、ここから先は余談なんだけど。しづるくん、覚えているかな』
視線が噛みあう。一木は言いにくそうに眉を顰めながらしづるに向かって言葉を紡いだ。
『僕が君に僕の仕事場に来ないか誘ったことがあっただろう? 覚えてるかな』
『覚えてるよ、あれは振ってごめんな、おじさん』
『いいんだ。それよりも、君を誘った理由を教えておきたい――』
水面に映った一木が消える。
理科室が消える。
ここにあるのは燃え立つ森だ。
砕けた腕と肩だ。
右手の中には、一木から託された鱗があった。
闇が迸っていた。
燃える森に光を喰らう闇の閃光が直射し、縦になぎ払われた時空の断層のような剃刀が、しづるの視線の先に放たれて収束していた。
一木から託されたこの鱗が、何かを引き出していた。
『――君には魔術の才能があるのと、僕の開発した魔術に強い適合性があった。
僕の持っていた魔術の大半は、君なら更に高次元に扱える可能性が高かったんだ。もし僕が研究を引き継ぐなら、君に渡したい、そう思っていた時期があった。君は僕にとって、特別だった』
「ふ――っ……」
放たれた闇、或いは光は、『過去からやってきていた』。
跡形もなく消去された証拠から情報を得るにはどうすればいいか? それは一木にとって永遠の課題だった。物質は二重の隠蔽を経てその形を残さず散ってしまう。どうすればそれを復元できるだろう。
結論から言えば、物質を復元することは不可能だった。
だが一木はある方法を思いついた。
それは『そこにあったはずの光を再現する』という方法だった。
『魔術師は、詠唱の最後に自らの二つ名や自分の持つ属性、好きな言葉、或いはアイデンティティを残す。それによって術を縛るんだ。自らの名においてね。君が扱うならそうだな――こんなのはどうかな?』
研究の末、『それ』が完成した時、そこにあったのは調査の為の魔術ではなかった。
過去から遡ってきた力の収束を発現させる恐るべき力を持った、一つの呪文だった。
一木の生涯使え得る、たった一つの攻撃の呪文。
結果がそこにあった。それは答えだった。
過程のない結果を、人は『無』という。
ではこれは、なんと呼べばいいだろう。
ただ偶然で、間違いから生まれてしまったこれは――。
『因果の海を渡り、時の狭間を超え、理に終を下す――』
――無から孕み、有から帰す。
理を超えた円環の果て――
「『――輪廻』」
爆風と瞬く光と闇が時間と空間、それに連なった景色を瞬間に遡り、消えた。
立っていたのは、女だった。
ベゴニアの髪の房が花びらめいて地面にはらはらと落ち、立ち尽くして茫然となった女は動けずにあった。
「ッあ――」
この男から放たれた“見えない何か”が、首筋の向こう側に飛んだ。いや、正しくは『既に通り過ぎていた』。もしこの男が当てようとしたなら避けられるはずがなかっただろう。だってそれは胡乱などこにもない空間のどこかからやってくる光なのだから。疑うべくもなく、『アイツ』の力、だった。
意図はわかっていた。攻撃を止めるため、ただそれだけの為に自らを差し出したのだ。これ以上はどちらも傷付くしかないという状況で、自らを差し出してその意志を示していた。
常軌を、明らかに、逸していた。
こんな無茶な献身をやってのける人間なんて、アイツしかいない。
似ている。似ている……似ている。
「は――お前、何を、考えていやがる――狂ってんのか……?」
「はぁ……はぁ……ああ。そう言われたって構わない。おじさんに、篠沢一木に、後悔させないためなら――」
「なんだよ、さっきからアイツのこと、ばっか……」
女は血走った獣の気配を喪っていた。
同時に、趨勢が決していたのは明白だった。
「話を、させてくれ。あなたも、助けたい」
折れた腕を地面に横たえて、しづるは女に頭を下げた。
「……くそっ」
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