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第76話 燭光
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やあ、また会えたね。
別世界の友人達。
今、ぼくはそこに向かっているよ。
静けさに包まれた丘は、衣擦れの音だけに満たされていて死んだようだった。
青い光の図形を空に投影する儀式は恙なく一木に引き継がれており、十分に彼らの精神が存在する時間を超えた世界を保護するのに効果を現していた。
想定されていた中で最も簡単なパターン――使用されていたリソースを一木の使役するセフィラに切り替えること――で術式の乗っ取りに成功したのは極めて僥倖であった。本来魔術を扱う者は、自身の仕掛けた魔術が他者に利用されないように術式の起動に本人にしかわからないような制約をかけて術式を変化させる。そういったセキュリティをかけておくことは他者からの術式の乗っ取りを防ぐと同時に、力の根源たる“第三方向からの力”からの干渉により精神への負荷を減らすことに繋がっているのだ。
そもとして魔術は“第三方向からの力”という『巨大な存在と事象の渦』から術式の応じた力を、本人の精神力をスターターとして増幅して扱うという形で本来人間では扱えないような大きな効果を発現させる。そうでもなければカリナの星操術などは一瞬で人間程度の魂を食い潰し、廃人を作り上げてしまうのはわけもないことであるからだ。大きな術を創造するには自身が耐えられる負荷という条件上で、巨大かつ安全に力を扱うための術式、或いは精神の再現性を担保する必要がある。それができなければ“第三方向からの力”の逆行、もしくは術式起動の瞬間に精神が焼き切れての絶命が現実問題としてあり得る。
故にこの場において一木がほぼ即時に術式の乗っ取りに成功しているのは奇跡であった。鍛え上げられた精神力とセンス、様々な儀式を構成と心理傾向として理解できるだけの経験値を一木は持っている。
だからこそ、この簡単すぎるという事実に一木には恣意を感じざるを得なかった。
「……ッ!」
まるで極彩色に織られた幽玄の織物だ。
一木はそう心の中で呟いた。感嘆するほどカリナの術式は美しかった。
施行された式節は綿密に編み込まれた楽譜のように雄弁に奏で、それでいて弾き手側に煩雑を要求しない。細く端まで編み込まれた術糸はきちんとその先端を解れさせずにまとまっており、伏線の冗長でないよく出来た小説のようでもあった。
才能の違い、そう言ってしまえばどこまでもその言葉にしか尽きない言葉でありながら、心の底から震えるほど感動していることを一木は認めざるを得なかった。
自らがどこまでも時間をかけても到達できなかった問題の答えが、こんなにも美しかったなど誰が認めたいだろう。ただ、それが現実だ。現実として、芸術として、そして、これがカリナの人生の密度そのものとして、非の打ち所無く完成されている。
そして、これは――
「誰にでも、扱えるようされている」
これを誰か本人以外が扱うことを想定していたようにしか感じられない。
そうでないと説明が付かない程に簡単だ。簡単すぎる。
だが、一つだけ一木の手には届かない。それはカリナがこの場所を離れてオートメーションで魔術を操縦していたという事実だった。
あの激しい攻撃、或いは時間停止――それをこんな魔術を扱いながら同時にこなしていたのだ。そんなことは、人間業でどうにかなる問題じゃない。
「お前は、本当に、すごいんだな……」
空を見上げる。
美しい銀河が流れている。
帚星が月の下弦を掠めていく。
ただこのまま時が流れるのを待てば良い。
一木の身体も、時間が流れていけばこのまま死に向かうのだ。
そう、星を見ながら、死を待つ。
誰よりも贅沢な死への誘惑があった。
呆けたように笑みが漏れる。
土の匂いに酔いしれる。
後はこのまま、後は――。
「――!」
五体を投地して仰臥していた肉体が跳ね上がる。
地上から数百メートルの位置だった。
空中に文字が出現したのだ。
ヘブライ、クレタ、ヒエログリフ、アラビア数字――いや、0と1で形成されているということはこれはコードであると考えるのが妥当であるのだろうか――それだけではない。大量の文字列が空に並び立ててその列を作っている。
やがてそれは球状に文字を写しだして膨張を始めた。
一木の脳には様々な音律が断続的に鳴り響いていた。
あらゆる言語が広がっていく。恐らく生命誕生以降の全ての音、或いはスキンシップでの連絡、味覚、視覚、聴覚、それらを支配する情報の海。
情報の海の中には、同じリズムがいくつも含まれていた。そして聞き慣れた言葉で、或いはモールス信号のような言葉で、一木が聞いた言葉の意味は何れもひとつだった。
『修正/修正/修正』
「――! どうしてだ……っ」
狼狽する一木の前で、空には文字列が無限に拡散していく。
空を埋め付くさんと増殖する文字列の間から、文字で縁取りされた透明な触手が空を裂いて出現する。
“向こう側”から現れた物はゴムで出来た棒や球、そしてどこまで続く円柱で組み合わさった可変する図形で構成されており、それは胎動するように膨れては沈み、沈んでは膨れた。
そして物理法則を嘲笑うように諤々と揺れると、その核のように見える大いなるクレーターを孕んだ球体は見る物に畏怖と膨大な情報を与え始めていた。
「なんだ、なんだこれは――!」
その時、一つの影が丘に現れた。それは光と同速度で次元を折りたたみ繋げ、青い闇と弾ける焔を纏って一木の背後に立っていたのだ。肌慣れた感触に、独特の術に表出したイントネーション。一木は感じ取っていた。こんな人間は一人しか居ない。
「――博士!」
「我が子よ。待たせたな、術を守れ!」
その声、口調から一木は振り向かなくとも誰かがわかった。
ラバン博士、その人である。
「ヤツを見るな。アレは別次元からの悪魔。未来予知を司る神――アイツは俺が止める。お前は術を守っていろ――!」
「はい!!!」
一木は震えていた。たった一人での孤独の闘争がここに来て最も頼れる人間の助太刀がもらえるなど想定だにしていなかったからである。しかし一つ勘違いもあった。一木はあくまでも、ラバン博士が人類の闘争に勝利しその後でここに来たものだと思っているのだから。この博士は今に息絶えそうで、それでももう一つの神格の雰囲気を感じ取り、たった一秒でもいい、それだけでも構わないと肉体を擲って現れたのである。自らが明け渡した地球の海から今に神格達が這い上がり、星の新たな支配者達に生まれ変わっていく。
ラバン博士は一木の前に立った。
一木はその背姿に息を呑む。老体はしなびたポリ袋が傷だらけになったように肉体で、その背中は遺棄された死体の様相なのである。
「我が子、やれ。それを守り続けろ。情報密度はどんどん上がっていく。無駄でもいい。できるだけ消してやる。お前はやれ」
「ですが!」
「やれ! 未来を繋げ! 愛した未来を繋げ! 俺が、絶対にお前を守ってやる。我が子を守るのは――父たる俺の仕事だ。そして異端狩りの、誇りある仕事だ!」
いつもの軽剽な言い回しも鳴りを潜め、老人はその肉体身につけたチャーム、あるいはアンクや祝福を与えたレンズなどをどこからともなく取り出して空にある言葉一つ一つを壊すために放っていた。老人が擲った呪具は文字を歪めてその膨張を止め、或いはその言葉を溶かして空に埋めて還していく。しかしそれはほんの一分や二分で再構成され、再び世界を侵略する言葉の膨張となっていく。
歯ぎしりの音が聞こえる。
それが悔しさであること、押し寄せる阻喪に耐えながら老爺は認める。
武器もなく、ただ蓄えた呪具を本来とは違う用途で擲ち、それでも一秒でも時間を稼がなければならない――! 自らの身に残る人類誰にも比肩しうる者はない程の精神力はもうやつれて壊れているのに、それでも今ここに身体が進まなければ未来はない。
空に浮かぶ目が光った。
「――こはぁっ……!?」
流星のような一つの言葉が、ラバン博士の片腕を射る。
腕は物理法則を絡め取る網のように空間に沈殿したかと思うと、一呼吸の間を挟んで回転を始める。
「――う、お、お、おおぉ!」
打ち込まれた腕がまるでミキサーにでも袖を巻き込まれたように紐状になって回転し、肉が引き込まれていた。しかしラバン博士はこの現象を肉体の感覚として直感的に理解していた。
異界の図書館に空駆ける駿馬を操り、悍ましいアザトホートの宮殿の膝元にあるその場所で知恵を得た時、黄金に光る蜂蜜酒が宇宙とラバンを宥和させた。次元の狭間にその身を移させ、絶対零度の宇宙空間を駆ける為に肉体の位相を現実から夢の位相に変化させた瞬間の感覚、だがこれはそれだけでは済みそうになかった。これに巻き込まれれば“どこか”に間違いなく飛ばされる。それは即ちこの場に二度と戻ってこられないという最悪の事実を想起させた。一人になった一木はもう身を守る手段がない。よしんばその肉体に不死性があったとして、この攻撃――本当にこれが攻撃と言えるのだろうか? 空に浮かぶ彼の神性にとってはただ邪魔なおもちゃを投げ飛ばすくらいの簡単な作業ではないのか?――はただ移動させているだけだ。死なんてその後に勝手に付いてくる副次的効果でしかない。なら、不死など無価値だ。今は移動させられることそのものが詰みなのだから。
ラバン博士は巻き込まれた腕を切り離した。その瞬間に腕は水が排水溝に吸い込まれていくみたいに渦に捻り込まれて、跡形もなく消えた――。
間もなく空に浮かぶ目のぎらつきは余計に激しくなり、彼にとっての“投げ飛ばせるおもちゃ”への目つきが変わった。
おもちゃが思い通りの動かないことに彼は怒っているのだろう。明確に核の鼓動は早まって、五月雨に飛び回る言葉の海は彼の肉体にいくつもの『タグ』を打ち込もうと執心している様子だった。
「博士……!」
「もう、ここまでか――」
空には無数の言葉が彼を穿ち抜こうと並び、それは万にも億にも届く無限の紹介だ。絶命ではなく、もうそこにいることすら赦さないという“退場せよ”。そのレッドカードが博士の肉体に今突き刺さろうとしていた。
対して博士にもう持ち合わせた武器はない。最後の一つは、ある邪神の名の元に障壁を生み出すことができるだけの迎撃ではない、言うなれば最後の時間稼ぎだった。
「我が子一木、俺は今から死ぬ。この魂、精神力一欠片残さずこれに注ぎ込む。たった一瞬でもいい。それを動かし続けろ。ただそれだけでしか、未来は紡げない。だが恐れるな。やれること、最後まで。これが正攻法だ」
「……!」
老人は一枚のウィジャにプランシェットを置くと、それを空に掲げて墜ちてくる言葉から壁にするよう空に放った。
「相性良いだろ、言葉と、契約だぜ。ウァップァップ!」
ウィジャは砕け、その間から霧とも闇とも取れる触腕めいたものが広がると、壁となって二人を言葉の雨から守っていた。
同時に老人は自らの精神の灼き切れる瞬間の明滅を感じていた。
だがその瞳には人ならざる執念を宿して、燃え盛って決して消えなかった。
触腕が捻れて消えて、再び残った欠片から膨張して二人を守り、また破れて消え去りそうになりながらそれでも再生を繰り返す。
一木はその背中に父を見ていた。
偉大なる父だった。自らの仕事の為に、矜持の為に、もう既に欠けて壊れた肉体と精神を総動員させ、無くなってもそれでも諦めず、灼き切れそうな精神にしがみつく。
守る為に。
己の生き様、神との会合。
手を伸ばす。
恐怖だった、初めは。
ク・リトルリトルに怯えることから始まったこの旅は、やがてその巨大な災禍から仲間を守る為という目的に変化していった。
だが、今ここに残っている純粋な精神は、ここにしがみついている理性を消し飛ばしてしまいそうな熱い波動の根源は。
――俺は、神に、神秘に。もう魅了されていたんだ。なら、この終わり方で、いいかもな。
「YE、YEEEEEAAAAAAAAAAAAHHHHHHHLoooooooooo!!!!!!!!!」
老人が咆哮した。
触腕の増殖は一気に弾け、言葉の雨を押し返して滂沱となって地面を駆けた。
老人は、立っていた。
その背中に圧倒的な存在感を遺したまま。
だが誰から見てもわかった。
その木のような肌から生気はどこにもないことを。
木乃伊、即身仏、それだった。
気高く、そして大往生であった。
彼の死に、神でさえ敬意を払うようにその動きを潜めた。
ぎょろぎょろ動く核が驚いたように老人を捉えて、緩やかに触手を伸ばし丁寧に触れた。
肉体はどこかへ消えて、その触手は一木にも忍び寄るように伸びていた。
死と絶望への誘いだった。
圧倒的な神の前では、人間などただただ小さな存在だと知らされる。
動けない一木の前に、現実と空想の間を生きる神格の手が差し伸べられた。
この一秒後に、人間の肉体はどこかへ消える。
“お気に入りのおもちゃ”の一つになり、どこにも行くことがなくなる。
どこにも繋がらない場所に跳躍させられ、そこで死もなく、永遠もなく活かし続けられるのだ。
その存在が、神と溶け合うまで。
「どうする、どうする。なんとかしなくては――!」
『どうにかしなくては、ね』
その通りだ。
なんとか、しなくては、ね。
さて、随分お待たせした。
君たちの出番だよ。
幻夢郷より出でて、最も勇敢な戦士達よ。
別世界の友人達。
今、ぼくはそこに向かっているよ。
静けさに包まれた丘は、衣擦れの音だけに満たされていて死んだようだった。
青い光の図形を空に投影する儀式は恙なく一木に引き継がれており、十分に彼らの精神が存在する時間を超えた世界を保護するのに効果を現していた。
想定されていた中で最も簡単なパターン――使用されていたリソースを一木の使役するセフィラに切り替えること――で術式の乗っ取りに成功したのは極めて僥倖であった。本来魔術を扱う者は、自身の仕掛けた魔術が他者に利用されないように術式の起動に本人にしかわからないような制約をかけて術式を変化させる。そういったセキュリティをかけておくことは他者からの術式の乗っ取りを防ぐと同時に、力の根源たる“第三方向からの力”からの干渉により精神への負荷を減らすことに繋がっているのだ。
そもとして魔術は“第三方向からの力”という『巨大な存在と事象の渦』から術式の応じた力を、本人の精神力をスターターとして増幅して扱うという形で本来人間では扱えないような大きな効果を発現させる。そうでもなければカリナの星操術などは一瞬で人間程度の魂を食い潰し、廃人を作り上げてしまうのはわけもないことであるからだ。大きな術を創造するには自身が耐えられる負荷という条件上で、巨大かつ安全に力を扱うための術式、或いは精神の再現性を担保する必要がある。それができなければ“第三方向からの力”の逆行、もしくは術式起動の瞬間に精神が焼き切れての絶命が現実問題としてあり得る。
故にこの場において一木がほぼ即時に術式の乗っ取りに成功しているのは奇跡であった。鍛え上げられた精神力とセンス、様々な儀式を構成と心理傾向として理解できるだけの経験値を一木は持っている。
だからこそ、この簡単すぎるという事実に一木には恣意を感じざるを得なかった。
「……ッ!」
まるで極彩色に織られた幽玄の織物だ。
一木はそう心の中で呟いた。感嘆するほどカリナの術式は美しかった。
施行された式節は綿密に編み込まれた楽譜のように雄弁に奏で、それでいて弾き手側に煩雑を要求しない。細く端まで編み込まれた術糸はきちんとその先端を解れさせずにまとまっており、伏線の冗長でないよく出来た小説のようでもあった。
才能の違い、そう言ってしまえばどこまでもその言葉にしか尽きない言葉でありながら、心の底から震えるほど感動していることを一木は認めざるを得なかった。
自らがどこまでも時間をかけても到達できなかった問題の答えが、こんなにも美しかったなど誰が認めたいだろう。ただ、それが現実だ。現実として、芸術として、そして、これがカリナの人生の密度そのものとして、非の打ち所無く完成されている。
そして、これは――
「誰にでも、扱えるようされている」
これを誰か本人以外が扱うことを想定していたようにしか感じられない。
そうでないと説明が付かない程に簡単だ。簡単すぎる。
だが、一つだけ一木の手には届かない。それはカリナがこの場所を離れてオートメーションで魔術を操縦していたという事実だった。
あの激しい攻撃、或いは時間停止――それをこんな魔術を扱いながら同時にこなしていたのだ。そんなことは、人間業でどうにかなる問題じゃない。
「お前は、本当に、すごいんだな……」
空を見上げる。
美しい銀河が流れている。
帚星が月の下弦を掠めていく。
ただこのまま時が流れるのを待てば良い。
一木の身体も、時間が流れていけばこのまま死に向かうのだ。
そう、星を見ながら、死を待つ。
誰よりも贅沢な死への誘惑があった。
呆けたように笑みが漏れる。
土の匂いに酔いしれる。
後はこのまま、後は――。
「――!」
五体を投地して仰臥していた肉体が跳ね上がる。
地上から数百メートルの位置だった。
空中に文字が出現したのだ。
ヘブライ、クレタ、ヒエログリフ、アラビア数字――いや、0と1で形成されているということはこれはコードであると考えるのが妥当であるのだろうか――それだけではない。大量の文字列が空に並び立ててその列を作っている。
やがてそれは球状に文字を写しだして膨張を始めた。
一木の脳には様々な音律が断続的に鳴り響いていた。
あらゆる言語が広がっていく。恐らく生命誕生以降の全ての音、或いはスキンシップでの連絡、味覚、視覚、聴覚、それらを支配する情報の海。
情報の海の中には、同じリズムがいくつも含まれていた。そして聞き慣れた言葉で、或いはモールス信号のような言葉で、一木が聞いた言葉の意味は何れもひとつだった。
『修正/修正/修正』
「――! どうしてだ……っ」
狼狽する一木の前で、空には文字列が無限に拡散していく。
空を埋め付くさんと増殖する文字列の間から、文字で縁取りされた透明な触手が空を裂いて出現する。
“向こう側”から現れた物はゴムで出来た棒や球、そしてどこまで続く円柱で組み合わさった可変する図形で構成されており、それは胎動するように膨れては沈み、沈んでは膨れた。
そして物理法則を嘲笑うように諤々と揺れると、その核のように見える大いなるクレーターを孕んだ球体は見る物に畏怖と膨大な情報を与え始めていた。
「なんだ、なんだこれは――!」
その時、一つの影が丘に現れた。それは光と同速度で次元を折りたたみ繋げ、青い闇と弾ける焔を纏って一木の背後に立っていたのだ。肌慣れた感触に、独特の術に表出したイントネーション。一木は感じ取っていた。こんな人間は一人しか居ない。
「――博士!」
「我が子よ。待たせたな、術を守れ!」
その声、口調から一木は振り向かなくとも誰かがわかった。
ラバン博士、その人である。
「ヤツを見るな。アレは別次元からの悪魔。未来予知を司る神――アイツは俺が止める。お前は術を守っていろ――!」
「はい!!!」
一木は震えていた。たった一人での孤独の闘争がここに来て最も頼れる人間の助太刀がもらえるなど想定だにしていなかったからである。しかし一つ勘違いもあった。一木はあくまでも、ラバン博士が人類の闘争に勝利しその後でここに来たものだと思っているのだから。この博士は今に息絶えそうで、それでももう一つの神格の雰囲気を感じ取り、たった一秒でもいい、それだけでも構わないと肉体を擲って現れたのである。自らが明け渡した地球の海から今に神格達が這い上がり、星の新たな支配者達に生まれ変わっていく。
ラバン博士は一木の前に立った。
一木はその背姿に息を呑む。老体はしなびたポリ袋が傷だらけになったように肉体で、その背中は遺棄された死体の様相なのである。
「我が子、やれ。それを守り続けろ。情報密度はどんどん上がっていく。無駄でもいい。できるだけ消してやる。お前はやれ」
「ですが!」
「やれ! 未来を繋げ! 愛した未来を繋げ! 俺が、絶対にお前を守ってやる。我が子を守るのは――父たる俺の仕事だ。そして異端狩りの、誇りある仕事だ!」
いつもの軽剽な言い回しも鳴りを潜め、老人はその肉体身につけたチャーム、あるいはアンクや祝福を与えたレンズなどをどこからともなく取り出して空にある言葉一つ一つを壊すために放っていた。老人が擲った呪具は文字を歪めてその膨張を止め、或いはその言葉を溶かして空に埋めて還していく。しかしそれはほんの一分や二分で再構成され、再び世界を侵略する言葉の膨張となっていく。
歯ぎしりの音が聞こえる。
それが悔しさであること、押し寄せる阻喪に耐えながら老爺は認める。
武器もなく、ただ蓄えた呪具を本来とは違う用途で擲ち、それでも一秒でも時間を稼がなければならない――! 自らの身に残る人類誰にも比肩しうる者はない程の精神力はもうやつれて壊れているのに、それでも今ここに身体が進まなければ未来はない。
空に浮かぶ目が光った。
「――こはぁっ……!?」
流星のような一つの言葉が、ラバン博士の片腕を射る。
腕は物理法則を絡め取る網のように空間に沈殿したかと思うと、一呼吸の間を挟んで回転を始める。
「――う、お、お、おおぉ!」
打ち込まれた腕がまるでミキサーにでも袖を巻き込まれたように紐状になって回転し、肉が引き込まれていた。しかしラバン博士はこの現象を肉体の感覚として直感的に理解していた。
異界の図書館に空駆ける駿馬を操り、悍ましいアザトホートの宮殿の膝元にあるその場所で知恵を得た時、黄金に光る蜂蜜酒が宇宙とラバンを宥和させた。次元の狭間にその身を移させ、絶対零度の宇宙空間を駆ける為に肉体の位相を現実から夢の位相に変化させた瞬間の感覚、だがこれはそれだけでは済みそうになかった。これに巻き込まれれば“どこか”に間違いなく飛ばされる。それは即ちこの場に二度と戻ってこられないという最悪の事実を想起させた。一人になった一木はもう身を守る手段がない。よしんばその肉体に不死性があったとして、この攻撃――本当にこれが攻撃と言えるのだろうか? 空に浮かぶ彼の神性にとってはただ邪魔なおもちゃを投げ飛ばすくらいの簡単な作業ではないのか?――はただ移動させているだけだ。死なんてその後に勝手に付いてくる副次的効果でしかない。なら、不死など無価値だ。今は移動させられることそのものが詰みなのだから。
ラバン博士は巻き込まれた腕を切り離した。その瞬間に腕は水が排水溝に吸い込まれていくみたいに渦に捻り込まれて、跡形もなく消えた――。
間もなく空に浮かぶ目のぎらつきは余計に激しくなり、彼にとっての“投げ飛ばせるおもちゃ”への目つきが変わった。
おもちゃが思い通りの動かないことに彼は怒っているのだろう。明確に核の鼓動は早まって、五月雨に飛び回る言葉の海は彼の肉体にいくつもの『タグ』を打ち込もうと執心している様子だった。
「博士……!」
「もう、ここまでか――」
空には無数の言葉が彼を穿ち抜こうと並び、それは万にも億にも届く無限の紹介だ。絶命ではなく、もうそこにいることすら赦さないという“退場せよ”。そのレッドカードが博士の肉体に今突き刺さろうとしていた。
対して博士にもう持ち合わせた武器はない。最後の一つは、ある邪神の名の元に障壁を生み出すことができるだけの迎撃ではない、言うなれば最後の時間稼ぎだった。
「我が子一木、俺は今から死ぬ。この魂、精神力一欠片残さずこれに注ぎ込む。たった一瞬でもいい。それを動かし続けろ。ただそれだけでしか、未来は紡げない。だが恐れるな。やれること、最後まで。これが正攻法だ」
「……!」
老人は一枚のウィジャにプランシェットを置くと、それを空に掲げて墜ちてくる言葉から壁にするよう空に放った。
「相性良いだろ、言葉と、契約だぜ。ウァップァップ!」
ウィジャは砕け、その間から霧とも闇とも取れる触腕めいたものが広がると、壁となって二人を言葉の雨から守っていた。
同時に老人は自らの精神の灼き切れる瞬間の明滅を感じていた。
だがその瞳には人ならざる執念を宿して、燃え盛って決して消えなかった。
触腕が捻れて消えて、再び残った欠片から膨張して二人を守り、また破れて消え去りそうになりながらそれでも再生を繰り返す。
一木はその背中に父を見ていた。
偉大なる父だった。自らの仕事の為に、矜持の為に、もう既に欠けて壊れた肉体と精神を総動員させ、無くなってもそれでも諦めず、灼き切れそうな精神にしがみつく。
守る為に。
己の生き様、神との会合。
手を伸ばす。
恐怖だった、初めは。
ク・リトルリトルに怯えることから始まったこの旅は、やがてその巨大な災禍から仲間を守る為という目的に変化していった。
だが、今ここに残っている純粋な精神は、ここにしがみついている理性を消し飛ばしてしまいそうな熱い波動の根源は。
――俺は、神に、神秘に。もう魅了されていたんだ。なら、この終わり方で、いいかもな。
「YE、YEEEEEAAAAAAAAAAAAHHHHHHHLoooooooooo!!!!!!!!!」
老人が咆哮した。
触腕の増殖は一気に弾け、言葉の雨を押し返して滂沱となって地面を駆けた。
老人は、立っていた。
その背中に圧倒的な存在感を遺したまま。
だが誰から見てもわかった。
その木のような肌から生気はどこにもないことを。
木乃伊、即身仏、それだった。
気高く、そして大往生であった。
彼の死に、神でさえ敬意を払うようにその動きを潜めた。
ぎょろぎょろ動く核が驚いたように老人を捉えて、緩やかに触手を伸ばし丁寧に触れた。
肉体はどこかへ消えて、その触手は一木にも忍び寄るように伸びていた。
死と絶望への誘いだった。
圧倒的な神の前では、人間などただただ小さな存在だと知らされる。
動けない一木の前に、現実と空想の間を生きる神格の手が差し伸べられた。
この一秒後に、人間の肉体はどこかへ消える。
“お気に入りのおもちゃ”の一つになり、どこにも行くことがなくなる。
どこにも繋がらない場所に跳躍させられ、そこで死もなく、永遠もなく活かし続けられるのだ。
その存在が、神と溶け合うまで。
「どうする、どうする。なんとかしなくては――!」
『どうにかしなくては、ね』
その通りだ。
なんとか、しなくては、ね。
さて、随分お待たせした。
君たちの出番だよ。
幻夢郷より出でて、最も勇敢な戦士達よ。
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羊嶺(ようれい)高校に通う新高校一年生、仲山秋(なかやまあき)。
探偵を密かに夢見る彼に、ある日人格障害があることが明らかになる。その人格には、十一年前の父の死が関係しているらしい。
そしてとうとう、幼馴染みの柊木美頼(ひいらぎみより)、親友の土岐下千夜(ときしたちよる)と設立した部活、推理問答部で最初の事件が。その後も次々と彼らの周りで事件が起こり始める。
それは仕組まれた学園生活の始まりだった──
──果たして秋は十一年前の事件の真相にたどり着けるのか。
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