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第69話 露命

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 ぎらぎらと照りつける空は奇妙に明るくなり、その光は槍のように降り注いでは逆流を始めていた。
 空に咲く悍ましい生命の誕生が始まっていた。
 時間がない。憔悴は二人を包み込んで離そうとはしない。
 礼香が仮那の放った槍の一本を首元に当てているのを見てしづるはその狙いを受け取っていた。

「悠里、礼香が時間を稼いでくれてる。その間になんとかしないと俺達アサード串に刺されてシュラスコになっちまうぞ!」
「お国がだぁいぶ違うくない? まあでも大丈夫、良い感じの焼け具合。祭り屋台の串焼きくらい」
「こげこげか生焼けのどっちかじゃん……」
「下準備はできてるってこと。後は対話が必要。わかるでしょ」
「わかんねえよ。でもお前がいるならそれはきっといる。経験則的にな!」

 儀式を始めるようだった。
 それは籠に閉じ込められた鳥がその外へ飛び出す時、名残惜しげに籠の中を顧みるようなそんな姿勢だったと思う。ずっと正しい選択肢が見えていたような、導かれるような問いかけだった。
 少なくとも、悠里らしくはない。そんな風にしづるは感じていた。

「思い出したの、しーちゃん」
「思い出す……?」
「うん。おじさんがどういう仕組みで過去に向かって私たちを飛ばすのか説明してく
れたことがあったの。なんでもね、カリナさんの術に割り込んで、その日付の星の並びを上書きしてしまうらしくて」
「……なるほど?」
「元はカリナさんの術で、おじさんはその術を割り込んでここまで私たちを飛ばしてるわけ」
「ああ、それは確か聞いてる」

 頷いてしづるは悠里を肯定する。

「でも、俺達は悠里の記憶に当時の星の並びが記録されていて、お前に雪星の影響があって意識が混濁してるからこそここまで来られたんだろ」
「う~ん……そうなんだよねえ。そこをなんとかできないかなあっていうのが考えてるところ」
「だから三割ってことか――。どうするか……」

 会話の中に沈黙が生まれる。お互いの表情には余裕がない。しかしここで余裕のなさから思考を止めてはならないことは理解できていた。お互いの額を伝う汗を眺めながらも次に繕う言葉を考えていた。

「しーちゃん、私たちの記憶を参照できないかな。そしたらなんとかならない? それとも私としーちゃんはそもそもその日がどこにあるかすら覚えてないしダメかな」
「そんなに都合良く星模様なんて覚えてるもんか? 流石に無理があるぜ」
「……仮那さんはどう!? ひょっとしたらなんとかなるかも」
「いや、術者は無理だと思う。おじさんも悠里にかけるようにしていたし、もし一人でもできるならもう既にしてるはずだ」
「それもそうか!」
「元気だなあお前……」
「勿論! 死ぬ時は笑顔って決めてる! なんとかしよう、なんかないかな」

 細めた目元には紅くなった頬が映えていた。
 しづるはいたたまれない気持ちになり落ち着かないように手遊びをしながら、策を考える為に集中していた。
 周りに気を遣う余裕はない。おじさんに貰ったメモの内容は何か使えないだろうか、記憶を掘り起こしてみても使えそうな破片は見つからない。そもそも合う形がわからない。ヒントが絶対的に欠けているのだ。悠里の言葉を反芻してみてもそのとっかかりになるような言葉は見つからない。

「このままじゃ礼香ちゃんが死んじゃうよ。多分あの子、追い込まれたらなりふり構わず自分の思ったことのために突っ走っちゃうから」
「……ああ」

 礼香と初めて出会った時を思い出す。
 坂道を下る少女、脇目も振らず危険も顧みず、ただ弟に会いたい、その一心で自分よりも大きな鉄の塊にさえ向かって行く少女。もし今彼女が思い詰めたなら――十分にあり得るだろう。いや、するだろう。間違いなく父親の制止も振り切って、正しいと感じた方向に向かって突っ込んで行くに違いない。

「しーちゃん」
「わかってる。わかってる……」

 何か、ないだろうか。
 いや、何かを見つけるんだ。
 冷たい大理石の台に飾られた冷たい肌、あどけない唇が凍っている。
 呼びかけても答えることはない――当然だ。今俺の歩いている時間は、その子の命と引き換えの世界なんだから。
 あの日救えなかった女の子の分を俺は償いながら生きていく。
 確かにあったはずなのに、その答えを見つけることが出来なかった力不足の俺のせいで……。
 今度こそ、そんな言葉に意味は無い。
 起こってしまったことを何かと引き換えることは出来ない――

 しづるは身震いした。
 思わず未来に起こり得る体験に譴責けんせきされている気がしてならなかった。救えなかった少女の未来、失ってはならなかった何かが指先をこぼれ落ちていく幻視に自らを射影したのだ。

「はぁ……は」

 酷使され続けたしづるの精神力はとうに限界を超えていた。それでも耐えられていたのは、少しずつ礼香が自分を取り戻していく様子やおじさんの支えがあってこそのことだった。
 今こうして冠絶の任を任されたなら、その精神が重みに千切れる麻縄のようにきりきりと塗炭の苦痛を呼び起こすのは必然であった。
 悠里の手がしづるの手に添えられようとして空を切る。
 指先が恐怖からか後ろに跳ねたのだ。
 しづるの肉体感覚は、迫り来る重圧に輻輳ふくそうを極めていた。

「何か、ないか? 何か――」

 必死に掻き分けた記憶が重力に従って沈殿していく。
 一枚一枚と塵芥のように断片となった記憶が追従されていく。
 手鏡を眺めていた。しづるは吸い込まれるようにその手首から上をなんともなく眺めていた。降りしきったのは記憶の雨だ。
 血と、破れた表皮。凍傷で紫色に変色した表皮組織、時を超えた影響なのか傷はない。けれど明白に感じる痛みがあった。幻肢痛に近い症状だろうか、指を折り畳み拳を作る。
 拳が緩やかに開かれる。短兵急にだが手応えがあった。この中に“鍵”がある。
  
「悠里、星の並びがあればいいんだよな」
「でも、それがないから今――」
「違う、ないはずだったんだ。だからカリナの口からは出てこないんだ。あるはずのものが」
「“ないはずだった、あるはずのもの”……?」

 しづるに電流が走っていた。見えていたのは死角だった。カリナの持っている視点とこちらの持っている情報との相違とズレがあった。決定的に。
 そして、だからこそ間違いが起こっていた。しづるは手を打つ。できることは、つぶさに情報を精査し証拠を並べて結論を導き出すことだけ。

「俺は見ていたじゃないか。なんで今まで忘れてたんだ。あんなわかりやすいもの」
「もの――?」

 金属の跳ねる音が突然辺りに響き渡った。礼香の持っていた鋒が跳ね飛ばされる。無力にも身体は地面に落ち込み、俯いた視線の先にある感情は絶望だ。
 礼香とカリナの口論に終わりが来たのだ。残された時間はあと僅かだ。悠里の耳元にしづるは囁きかけた。逆転の為の言葉だった。

「もしこれがダメだったら、俺達は絶対殺される。でも、賭けるしかない。本当の最期まで一緒にいようぜ」
「しーちゃん……」
「いや、なんだ……っ悠里、しゃがめ――!」
「!」

 潔く言い放った唇に緊張が走った。気配を感じたのだ。
 しづるの目の端に蹲るカリナが映った。だが、瞳だけは憎悪に燃えてこちらだけを映していた。
 籠のように取り囲んでいた槍が力を失ってぐらついた。重心を失ったように自然落下する鋒は、悠里の真上から降り注いでいたのだ。
 刹那、悠里に指示を送ったしづるはそれが間違いだったとわかっていた。だがもう賽の目は振られていた。
 
「う、あああ、あ――!?」

 間に合わない――!
 悠里は気が付いたようだが、今からでは遅すぎる。
 降り注いだのは五本の槍だった。
 一本は悠里の頭蓋を直線で突っ切る軌道、二本目は右脇腹へ、三本目は左太股への軌道。残り二本の軌道から外れていたが、下手に動けば十分に貫かれる位置にあった。
 幸いにして発射点は近い。
 弾丸、だった。
 しづるの脳内に駆け巡った最期の策は、皮肉にもこの場所にはない――或いは一木と交渉すれば楽に手に入ったかもしれない物理的手段だった。
 
「ゆう、り――?」

 悠里の手が伸びる。
 しづるの手が伸びる。
 届かない。
 二人共が理解している。
 だが、しづるの腕が向かったのはその槍に向かってであった。
 唇には歌でも歌うように言葉が流れて溢れていた。
 無意識、夢のような現実だった。

『メグセ・ヌェゥト・ゲブラー』

 口の端から漏れ出た言葉が空に満たされた時、文字が空に浮かび上がった影が朧気に明滅して見えた。不可思議な現象だった。
 空に散らばった意味の欠片達、世界を構成する要素が手の先に集積されていた。重力が発散し、形而上の純粋な力が空を満たしている。それはプシュケーであり、イデアと呼ばれる現実の影絵を構成する歯車そのものだ。

「――!」
 
 金属が弾けたような高い音を伴って、深海のような闇黒の渦が白絹の髪の頭上で弾けた。恐るべき光景だった。光が遡ったのだ。まるで最初からそこにあったように、とりわけその光景を誰よりも近く、半ば直感で理解していたしづるに浮かび上がった言葉を借りるとするならば、『当たることが確定されてから存在が発生した』ような次元の収縮があった。
 束の間、槍の鋒は壊れて消えた。どっと溢れるような疲労がしづるの肉体を襲った。内側から何かを吸い出されたような、『魂を匙で掬われたような感覚』だった。

『そしてタバコの方は、もし荒事になってしまった時の為に戦うための魔術のメモ――絶対に連発するような真似はしないように。君の精神が灼き切れて廃人になってしまう可能性がある』

 薄ら寒く一木の声が反芻される。たった一度でこの恐怖と脱力が指先を痺れさせている。知らず知らずの内に喉が鳴っていた。

「しーちゃん! 今のは!? てか大丈夫!?」
「ああ……多分、アレがおじさんに渡されたメモの『中身』だ。それより、あった」

 呟くと、懐のポケットにある感覚を確かめた。間違いない。悠里はしづるの手を握って肉体を持ち上げた。幸いにも、立ち上がるに支障は無かったようだった。
 再び悪寒が背筋に走る。殺意がこちらに向かっている。カリナと視線がぶつかった。
 ビリビリと電撃のように震える悪意が、銀玉が地面に転がるように音を伴って爆発した。
 二人共が感じていた。次元がズレるような現実に力場の波が顕現して、現実が直接万力のような大きな力によって歪まされている。
 ここで全てが決まる。

「しーちゃん。愛してる」
「ああ。俺も。お前となら死んでいい」

 もう何も怖くなかった。空を墜ち逝く潰爛かいらんした神性も、例え全てが徒爾とじに終わろうとも、二人で手を取り合って、未来を信じて進めるなら。
 二人の手は硬く握られた。
 天聳あまそそる程の殺気が空気を凍らせた。
 爆縮を起こして空間に断層の真空を生み出したのはカリナの声だ。
 その手には必殺の槍がある。もう生かして返す気はさらさらないだろう。

「殺してやるッ……貴様らァッ!!!」
「待って!!!」

 悠里の声がそれを押し返す。
 しづるは礼香に目配せした。礼香には紛れもなく『安心しろ』そう聞こえていた。
 
「『これ』って、なんなんだ?」

 その手には、礼香から預けられた石のペンダントが握られていた。
 



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