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第62話 隻影
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姿が見えなくなると同時に、ドーム状の光の内部は昏く落ちて代わりにやけに立体的な光の網が内側から溢れてくることに気が付いた。
それはどこかで見覚えがあった。礼香が病室で見せてくれた石からの光と酷似しているのだ。
「あ――」
ガタン、と全体が揺れるような感覚がして、しづるは悠里とそれに繋がれた機械群を押さえつけた。
外では何が起こっているのだろうか。不安と憔悴が溢れそうになって歯を食いしばった。
「礼香、大丈夫か!?」
薄暗い灯りの中、礼香の寝転がったはずの床を触れる。柔らかい肌の感触が伝わり、しづるは安心すると同時に重力が急激に重くなるような感覚によって地面に叩きつけられた。
「ぐぅっ……!?」
しづるはそのまま動けず、目線だけを空に向かって投げかけた。
「ぁ――?」
するとなぜか、視線の先の自分と目が合った。
床に投げ出されて動けない自分がそこにある。
手を伸ばしてみるが届かない。
次いで鼓膜に響くのは空の音だった。
何かが駆け抜けていく。
一つ、二つと群を為して光の列が夜空を裂いて唸っている。
「お前は誰だ?_」
肉体は語りかけた。
浮き上がったしづるは困惑したままに、言葉が手紙に書かれた下手な文字で空に羅列されたことを認識した。
見飽きた自らの文字だ。
「どこに行く?_」
自らの精神は、身体はどこに行くのだろう。
行先は、ひとつだ。
「過去に、行く」
「そうか_」
「ああ。変える必要があるから」
「今を、か?_」
「ああ――。今を」
「じゃあ、さよならだな_」
「あ、ああ。さよなら。さよならなのか?」
「同じ場所の、同じ時間の、違うお前が来るんだろう?_」
「……」
「じゃあな。お前も_」
「じゃあな」
そこから空は黄金の黄昏に支配された。
しづるの肉体は織り込まれるように光の中に撚られて細く長く紐のようになっていき、近付いて徐々に巨大になっていった。やがてそれは点のひとつのようになり、魚眼レンズで覗いたようにアーチ状の世界がぐいぐいと引っ張られるように進んで行く。いつか乗ったゴンドラから見た水面のように緩やかに景色がたなびいて揺れていた。
黄昏は鮮やかな朱に染まり、夜闇と入り交じりながら時折漆黒の無を映し、光は四方八方に拡がりながら目の前の色は虹を真下まで繋ぎきった輪の形になった。
そしてやがて、色の世界が終わりを迎えた。
遠くに世界が遠ざかり、輪は点よりも小さくなった。
同時に、しづるの意識はそこで糸が切れたように失われた。
「しづるくん。先に望遠鏡を下ろして貰っておいていいかい?」
……俺は車窓の外を眺めていた。
代わり映えのしない夜空の景色だった。
その日は妙に暑苦しくて湿気ていて、誰もが少し上を向いて酸素を求めるように呼吸をしていた。
市街地から少し離れたこの丘では湿気は少しマシに感じるけれど、それでも熱帯夜をゆうに超えたこの真夏日の残り香は、九月の差し掛かろうとしている今日でさえも衰えを見ない。
「うん。わかった」
「頼むよ。鍵は念のため閉めて来てくれ。大丈夫だとは思うが」
「う~、大分酔っちゃった。二日酔いのおじさんくらい酔っちゃった」
「……よしよし、悠里、本当に大丈夫かい? 酔い止め飲まなかったのかい?」
おじさんはお姉ちゃんを背負って助手席から連れ出すと、手を取って丘の方角へ歩き始めた。真っ白な長い髪が闇夜の風に紛れて揺れている。大きな手が小さな手を包み込んで引いている。その光景は仲のよい親子にしか見えない。
「忘れてた……王子様のキスでめざめさせおえ……」
「言わんことない」
「そんなこと言ったって、お家からここまで一時間くらいはかかるもん……間に合わなくなっちゃうよ。流星群う゛」
ひとつため息をついて後部座席のドアを開けると、俺はトランクを開けた。
この中にはおじさんが詰め込んだ一番大きい天体望遠鏡がある。今日の天体観測で、俺はやりたいことがあってわざわざ持ってきて貰うようお願いをしたのだ――。
「……落ちつかない」
なんだかずっとそわそわしていて落ち着けない。書きかけの手紙を残してきてしまったからだろうか。
トランクを開けて、小さなトランクから台車を引っこ抜く。
「よっ……っと……おもい」
台車を組み上げると、まだ俺には一抱え分たっぷりとある大きな望遠鏡を足下に気を付けて台車に下ろす。これはおじさんが大事に使っている望遠鏡だ。傷付けたりしたら、おじさんのことだから怒りはしないだろうけど――きっとやっぱり悲しいに違いない。これはお給料を貰って、初めて買った望遠鏡だって言っていたから。
「……ふー」
それにしたって重い。後は三脚とカメラ、お姉ちゃんもきっと飲み物を忘れていってるだろうしそれも確認しなきゃ。
ばたん、と助手席に飛び乗って忘れ物を確認する。やっぱり忘れていってる。
「イチキ――!」
「カリナ――!」
「――」
誰か知らない声が岡の方から聞こえて、俺はそちらへ視線を向けた。
びり、そんな音が正しいだろうか。
耳にかかった空気は層になって震えていたような感じがした。聞き覚えのある音ではなかった。
けれどそれに次いで高い音がこちらに向かって近付いて来ていた。
「飛……行機? ロケット花火かな」
そっと車の影から頭を出して、音の方向を確認する。
目には目映い光が映った。正体は分からない。けれど車のライトを直接浴びたみたいな強烈な光だ。
「――!」
身体は衝動的に伏せていた。一瞬後に強烈な揺れがあって、
「う……わ――?!?」
痛い――!
次にやってきた意識の感覚はそれだった。
左肩、右足、違う、全身だ。
視界がもどってこない。いた、い。
左手にずっと何かが張り付いている。これは、何? 熱い――熱い!
壊れたカメラの映像のように、脳内に砂嵐が広がってぶんぶんと音のない音が
脳を振っていく。
「ぁ――!」
気が付けば身体が地面の上で跳ねたり飛んだりして叩きつけられている。
横隔膜が痙攣して意識が断続的に明滅を繰り返して、意識の中でばちばちと火花が散っている。
かと思うと急に地面がどこにもなくなった。今度は俺の身体はどこまでも落ちていく。
落ちている途中で熱い感覚がなくなった。俺はなんとなくわかってしまった。
「……ぅ」
熱いのが治ったのではなく、『そこがなくなったからだ』ということを。
ぼんやりと空いた瞳には、うつ伏せになって地面が見えた。
恐ろしかった。
なんとなく自分の身体がどうなっているのか想像できるのに、まだ四肢の感覚が残っていることが。
俺は意識の中だけで四肢を動かしている。それだけなのに身体は動いている気がするのだ。
「……しーちゃん! やだ、死なないで。やだやだ、やあー!」
「悠里、静かに。僕の言ったとおりに」
ぼんやりとしていく意識の中、左耳だけから聞こえたのはお姉ちゃんの声とおじさんの声だった。
それを聞いて、どこか安心して目をつぶっていた。痛みも苦しい呼吸も、見えない世界も半分は誰かが居てくれるだけで今はマシだった。
「止血も間に合わないか――! 時間がないぞ……! 悠里、しっかり押さえて!」
「やってる、やってるけど。でも全然止まらないの。全然ダメなの!」
「くそ……!」
悲痛な叫び声は、俺に向けられている。
けれど自らの生命がどんどんこぼれ落ちてそれがもう直に無くなってしまうことは自分が一番感じ取っていた。
ぼやけて焦点の合わなくなる視界、寒くなっていく身体。
断続的に音が飛ぶ聴覚、無くなっていく痛みと触覚。
消えていくことって、こういうことなのか。
意識の身体が眠りの水面を突き破って、深海の先にある死の水面に近付いていく。
「しづるくん。聞こえるかい。このままだと君は助からない」
おじさんの声だ。
「だけれど、生きられる方法がひとつだけある。けれど長く持つかは分からない。もし失敗すれば、君はより長く苦しむかも知れない」
――。
「それでも、生きたいかい」
俺は身体を揺することしかできなかったけれど、頷いた。それが限界だった。意識はそこで断ち切れていた。
「……わかった。では始めよう」
どれくらい経ったのか、ぼやけた世界がぐらり、ぐらり、と揺れたまま、途切れることも出来ず、俺の意識は肉体と精神の狭間で船の上で揺られているように揺蕩っていた。
かろうじて視界があって見分けが付くのは、俺の身体の中に肌色の何かが入り込んで蠢いていることだけだ。
「しづるくん、意識があるかどうかはわからない。PTSDを回避するためにこの記憶は曇らせるが、何かがあって、君がもしこの出来事を思い出した時の為に伝えておく。君の肉体は死ぬしか無かった。けれど悠里の髪を媒体に君の肉体を繋いだ」
これはなんだ――!?
揺蕩っていた意識が急激に現実の水面の際まで引き上げられる。
俺は何をしているんだ。 悠里は? 礼香は?
重なる疑問にしづるの脳は身体を動かそうとするが、指一本動いている感触はない。いや、正しくは動いている気はするのに動いていない。金縛りとよく似ている――。
半覚醒状態の脳だけが夢を見ていたのか――? これは、なんだ。けれどこんな記憶にないことが……?
俺の記憶なのか? 本当に。
溺れそうなくらいにしづるは懸命に腕をもがいて、目の前の一木に真意を問うため手を伸ばす。
「原理は分からなくていい。これで暫くは生きられるけれど、君の精神と肉体は悠里と癒着した状態にある。肉体の癒着はうまくいけばゆっくりと消えていくが、これからずっと精神の癒着は変わらない。君に変調が起これば悠里にも、逆も同じことが起こる。その際に先に精神の異常を訴えるのは悠里の方だろう。彼女が君の核になっている。もしぼくが居なくなって悠里に何か起こったら、その時は悠里を頼む。君が解決してくれ。できればそんなことは起こらないのが最良だが――」
視界が急激に鮮明になり、立体的な触覚が世界とリンクして情報量が膨大に跳ね上がる。
空にはキラキラと雹か雪か、夏には異様な天候を降らせながらその先にあるおじさんと目が合った。
「すまない。ぼくにしてやれるのは、ここまでなんだ」
おじさんは消えていく。
雪の先に向かって、捻れてひしゃげて消えていく。
俺の意識は急速に浮かび上がり、色の虹輪を通り抜けながらあの日の流星群のように空を裂き、時間の限定を無視した。
俺の意識が現実を帯びて地面に降り立った時、耳朶を打ったのはガラスが割れるような音だった。
「――ここが、過去なのか?」
肌を湿度と熱帯夜の風が撫でる。
辺りを見回すと、高い木々が覆い被さり、砂利道の敷き詰められた丘の入り口だった。
「しーちゃん?」
隣から声が聞こえて振り返るが、そこに誰の姿もない。
「あ、あれ……。確かに声が」
「しーちゃん!」
声の方向は少し下だ。視線を下げると――。
「あれ? しーちゃんおっきくない?」
「礼香……? いや、ゆ、悠里なのか?」
「う、うん。見て分かるでしょ? この目、この髪、この匂い、初恋の人でしょ~」
指先で髪を弄んで自信たっぷりなこの笑顔、間違いない。これは悠里だ。
礼香はこんな顔できない。自信を持って言える。
「いや、そうじゃなくて。その――」
「何よ、ちゃんと言ってよ。汗臭かったりします???」
「小さい」
「へっ?」
俺の目の前には、小学生高学年くらいの身長の悠里がいた。
悠里も自分の身体を見て、唖然としている。
この一瞬後に起こるだろう未来が予想できる……静かに耳を塞ぐ。
「な、なんじゃこれァーッ!?」
悠里の幼い叫び声が木々に木霊した。
予想通りの叫び声が木霊を起こし、予想外の声量は耳鳴りとなってしづるは顔を顰めた。
「うるせえ」
「いやだって、じ、自慢の……」
「自慢の?」
「いっぱい育ったおっぱいが……」
「少なくともそこじゃねえだろ。それに要らないって言い続けてた癖に都合のいい……」
悠里は何度もぺたぺたと胸を触って、目をぐるぐるさせながら狼狽えて回って見せた。その姿にしづるは知らず知らず胸をなで下ろしていた。ベッドで死んだように眠っていたあの悠里の姿はとてもではないが見ていられなかったからだ。
「アイツはアイツでいい友人だったんだよ……邪魔だったけどさ、ずっと押さえつけてたけどさ。何も言わずに行っちゃうことないじゃん。いい共生関係築けてたと思うぜ……わたしゃあよ」
「普段から感謝は伝えておかないと言えなくなるって教訓が得られたな」
「いらないよこんなタイミングで!」
「……その調子だと小さくなった以外に問題はなさそうだな」
しづるの心配は杞憂で終わったようだった。このまま精神年齢まで若くなられたらいくらしづるでも手に余ることは間違いなさそうだった。
「うん。体調はすこぶる快調。さっきまでのダルメシアンの縞模様がずっと脳みその中で無限に拡大し続けていくような小宇宙の中とは大違い。自分の意識が自分の五感の上にあるっていうのは良いことね」
「……ダルメシアンは斑模様だろ。俺はその経験してないからわからないが、お前が元気になってるなら本当によかったよ」
「何よ、大きくなったからってそんなお兄ちゃんみたいな顔して!」
「はいはい、わかりましたよお姉ちゃん」
しづるの予想外の言葉に悠里は意表を突かれたように悠里は耳まで赤くなっていた。
「へっ……? なんてえ」
「全部思い出したからいいんだ。俺がここで死にかけてた時、悠里がいたから助かったんだろ。感謝してるんだ」
「……きゅ、急にやめてよね。そ、そんなこと言われたって、お姉ちゃん全然靡いたりしないんだからぁ」
腰をくねらせて顔を手で覆いながら、悠里はしづるの真っ直ぐな瞳を指の隙間から見ていた。その様は年頃の少女を連想させる。悠里は少し目線を俯かせた後、少し間を持ってから口を開いた。
「ねえ、しーちゃん。本当に感謝してるならさ、別に、強制じゃないんだけどさ。ちょっとお顔に私の手がちゃんと届くくらいまで姿勢下げて」
「……? それくらいお安いご用だが」
しづるが姿勢を下げる。悠里は少しずつ近付いて、二人の顔は触れあいそうな程近寄った。お互いの鼓動が聞こえるほど、瞳は輝きを増して互いの心を混じり合わせていた。
「しーちゃん、やっぱり可愛い顔してるね」
悠里は愛しそうにしづるの頭を撫でる。きめ細かい小さな手は、しづるを撫でるには小さく見えた。
「なんだよ、そんなことを言うた――」
「――ふん」
悠里は十分にしづるを引きつけると、腰を少し下ろして平手打ちを放った。それは精確にしづるの頬を捉えると、しづるの体勢は大きく崩れて尻餅をついた。
「いった……え? なんで? 今殴るとこだった? ちょっと今俺なんか褒められてなかった?」
「しーちゃん。お姉ちゃん、気に入らないなあ。なんで急に私が礼香ちゃんくらい小さくなったら急にそんなに態度が大きくなったの? ひょっとしてしーちゃん、ロリコンさんなんですか? 自信がないから自分より小さい相手にしか強気に出られないわけ? だとしたら言いたいことがひとつふたつ――もっとあります」
悠里にはにこにこしながら体勢を崩したしづるに馬乗りになった。
小さな身体で胴に乗り込む悠里には物理的ではない別の迫力が籠もって、しづるは顔を引き攣らせて釘付けになっていた。
「いやいやいやいや違う違う違います、よしんばそうだったとしても悠里と俺の関係だろ、これくらいはいつも通り――」
「なんか違うもん! 私が小さくて可愛くなったのはまあ良いとしてもこんな目線を礼香ちゃんに向けていたとしたら! なんて破つむり恥な! 去勢じゃ去勢! ワシとしたことが甘かった、こんなことならしーちゃんを監禁してでもうおおおおーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!!!!!」
胸ぐらを捕まれたしづるは振り回されるがままに振り回されて、おもちゃのように転がっていた。
「やめろ、やめえ悠里、舌噛むっべ……っ俺はそんな目線誰にも向けてな――ギブギブ、もう極まってんだよ腕ひしぎがよぉ!」
「こちら¥5,480也ーーー!!!!!!!!!!!!!」
「何言ってんだ悠里ー!!!!!!!!!!!!」
しづると悠里は猫が毛糸が絡まったみたいに地面にもみくちゃになっていた。そして草木の影から誰かが歩いてくる音がして、二人は示し合わせたようにぴたりと止まった。
「――やばいかも」
「――しっ」
しづるは悠里を体格に任せて抱きすくめて腕の中に収めると、暗がりの茂みの中にお互いの口を押さえあって闇に溶け込んだ。
ゆっくりと何かを探すようにその足音は近付いてくる。そしてしづるは前方二十メートルの横道に一人の気配を感じ取って、より息を潜めた。
するとその影はまっすぐとこちらに向かって走って来、声を掛けられた。
「な、何してるんですか……? しづるさん! 誰ですかその女の子! う、上から押さえつけるなんて、嫌がってるじゃないですか! 離してあげてください!」
「礼香か!」
「ぷはっ! 礼香ちゃん! 無事だったの!」
しづると悠里は転がり出るように茂みから出ると、礼香に駆け寄った。
礼香は驚いたように二、三歩後ずさると、二人の方を見て立ちすくんだ。
「だ、誰?」
「私よ私。このナイスなプロポーションを見ても……ないんだった!!! やべ、見た目被っちゃった……」
「確かに二人とも本当によく似てるな。悠里の髪も長くなってるし、遠目から見たら見分け付かないぞこれ」
「え、え……? 悠里さん、ってことですか?!」
「そういうこと。二人とも並んでくれ。……悠里の方が若干目の赤が薄いかな。でも服装以外は本当に全然見分け付かないな……いや、悠里の方がちょっとなんかこう、うん。なんか元気そうか……」
「なんか含みがあるなコイツ」
悠里は身体にあった小さな白衣に赤と黒が基調になったオープンショルダーのワンピースを着ていた。昔よく着ていた外着の一着だ。
「悠里さん、可愛いですね……! そのワンピース、私には似合わない気がしますけど、かっこいいです!」
「おんなじ顔だろお前ら……でも確かになんだか言ってることもわかるような気もするな。それなんだっけ、えらく気に入ってたよな」
「ああこれ? 吸血鬼って呼ばれていじめられた時に『負けるのも嫌だしいっちょびびらせてやるか』って思い立って黒の日傘とセットで買って貰ったヤツ。結果は女の子の友達が増えて興味のない男子から告白されただけだったけど」
「そんなこともあったな……」
「すごい……あ、ところでなんで悠里さんはちっちゃくなっちゃってるんです?」
「そこんとこだがわからん。おじさんが悠里の脳内にある星空を参照するとか言ってたからそれが影響してるのかもしれないな。まあ分かったからと言ってなんとかなる話ではないことはそうなんだが」
「うん。わかんない。ま、私としてはなんでもいいよ。それより、この先のことを教えて貰ってもいい? 寝ちゃってたからさ」
悠里は頭の後ろで腕を組んで、しづるに目配せをやった。しづるはひとつため息をつくと口を開いた。しづるは悠里に計画を聞かせ、礼香はしづるの隣に付き添うように会釈を返していた。聞き終わった悠里は頷くと、二人ににこりと微笑み返した。
「ふうん、じゃあ私たちはこのどこかに居る礼香ちゃんのお父さんとお話しして、それでなんとか交渉ないしお願いをすればいいんだ」
「そういうことです! きっとお父さんなら分かってくれると思う、ので」
自信なさげに礼香は俯いた。悠里はそっとその肩を持つと、頬ずりするように抱き寄せた。
「そんなに暗い顔してちゃダメよ礼香ちゃん。あなたのお父さんでしょ。あなたが信じてあげなくちゃ」
「うっ、そうじゃないんですけど。なんだか緊張しちゃって……お父さん、本当に私ってわかるかな……」
「きっと大丈夫。行きましょ。多分この先にいると思う。しーちゃんも思い出したよね?」
「ああ――。俺の身体がばらばらになった事件……改めて言ってみると我ながら悲惨だな。あの日もこの先に仮那さんはいたはずだし、でもなんで襲ってきたのか理由が不透明な部分だけが気になるな」
「おじさんが居たからじゃない? 仮那さんとおじさんは因縁の相手だったわけだし」
「かも、な」
しづるはなんとなく、それだけではないような気がしながらも心当たる部分を見つけることは出来なかった。礼香は落ち着かないようで、こちらを伺いながらも少し先に歩いて哨戒しているようだった。
「行こ、しーちゃん」
「……ああ」
「怖いの?」
「怖くないのか?」
「怖いと思う?」
「質問の質問を質問で返すな」
「そもそも質問を質問で返さないでよ。で、どうなの?」
「怖いよ。この頼りない両肩にどんだけ重いものが乗っかってると思うと震えるさ」
「あっそ。じゃあ一服していきなよ」
悠里はしづるのポケットからタバコの箱と、中に入っていたライターを引っ張り出した。しづるはポケットに入っていたものが残っていることに驚きつつも、出されたタバコを受け取ると咥えて少しかがみ込んだ。
「吸ったことは?」
「学生の時に一度だけ。悠里は?」
「この身体ではまだ」
「だろうな、本体は?」
「ある」
「じゃあ最後に乾杯ってことでいいか」
しづるはもう一本のタバコを取り出すと、悠里に渡して自分のタバコに火を付けた。燻る紫煙が細くたなびき闇に揺れる。悠里はにやりと悪そうに笑ってみせるとそれを柔らかな唇で挟み込み、接吻するようにしづるのタバコの先で点火した。一息吸いあげた穂先には赤黒い火が点り煙が唇の端から漏れて、それがしづるの気怠げな視線を曇らせた。
「悪いこと、しちゃったね。未成年に喫煙なんてお医者さんなのにいけないんだ」
「アホ抜かせ。お前は子供じゃないし、どうせここで起こったことなんてどこにもなくなるんだ」
「……珍しいじゃん、真面目一辺倒、これ一本で食ってますってなしーちゃんがそんなことを宣うなんて。お味はどう?」
「まずい。でも、悪くない。特に決戦前となると余計に」
「あらそう。お気に召したならよかった。肩の力は抜けましたか?」
「……ああ」
しづるは短くなったタバコをもみ消すと、奥に向かって歩き始めた。
「行こう。礼香が待ってる」
「うん。おじさんの為にも」
「そして、俺達のためにも、か」
それはどこかで見覚えがあった。礼香が病室で見せてくれた石からの光と酷似しているのだ。
「あ――」
ガタン、と全体が揺れるような感覚がして、しづるは悠里とそれに繋がれた機械群を押さえつけた。
外では何が起こっているのだろうか。不安と憔悴が溢れそうになって歯を食いしばった。
「礼香、大丈夫か!?」
薄暗い灯りの中、礼香の寝転がったはずの床を触れる。柔らかい肌の感触が伝わり、しづるは安心すると同時に重力が急激に重くなるような感覚によって地面に叩きつけられた。
「ぐぅっ……!?」
しづるはそのまま動けず、目線だけを空に向かって投げかけた。
「ぁ――?」
するとなぜか、視線の先の自分と目が合った。
床に投げ出されて動けない自分がそこにある。
手を伸ばしてみるが届かない。
次いで鼓膜に響くのは空の音だった。
何かが駆け抜けていく。
一つ、二つと群を為して光の列が夜空を裂いて唸っている。
「お前は誰だ?_」
肉体は語りかけた。
浮き上がったしづるは困惑したままに、言葉が手紙に書かれた下手な文字で空に羅列されたことを認識した。
見飽きた自らの文字だ。
「どこに行く?_」
自らの精神は、身体はどこに行くのだろう。
行先は、ひとつだ。
「過去に、行く」
「そうか_」
「ああ。変える必要があるから」
「今を、か?_」
「ああ――。今を」
「じゃあ、さよならだな_」
「あ、ああ。さよなら。さよならなのか?」
「同じ場所の、同じ時間の、違うお前が来るんだろう?_」
「……」
「じゃあな。お前も_」
「じゃあな」
そこから空は黄金の黄昏に支配された。
しづるの肉体は織り込まれるように光の中に撚られて細く長く紐のようになっていき、近付いて徐々に巨大になっていった。やがてそれは点のひとつのようになり、魚眼レンズで覗いたようにアーチ状の世界がぐいぐいと引っ張られるように進んで行く。いつか乗ったゴンドラから見た水面のように緩やかに景色がたなびいて揺れていた。
黄昏は鮮やかな朱に染まり、夜闇と入り交じりながら時折漆黒の無を映し、光は四方八方に拡がりながら目の前の色は虹を真下まで繋ぎきった輪の形になった。
そしてやがて、色の世界が終わりを迎えた。
遠くに世界が遠ざかり、輪は点よりも小さくなった。
同時に、しづるの意識はそこで糸が切れたように失われた。
「しづるくん。先に望遠鏡を下ろして貰っておいていいかい?」
……俺は車窓の外を眺めていた。
代わり映えのしない夜空の景色だった。
その日は妙に暑苦しくて湿気ていて、誰もが少し上を向いて酸素を求めるように呼吸をしていた。
市街地から少し離れたこの丘では湿気は少しマシに感じるけれど、それでも熱帯夜をゆうに超えたこの真夏日の残り香は、九月の差し掛かろうとしている今日でさえも衰えを見ない。
「うん。わかった」
「頼むよ。鍵は念のため閉めて来てくれ。大丈夫だとは思うが」
「う~、大分酔っちゃった。二日酔いのおじさんくらい酔っちゃった」
「……よしよし、悠里、本当に大丈夫かい? 酔い止め飲まなかったのかい?」
おじさんはお姉ちゃんを背負って助手席から連れ出すと、手を取って丘の方角へ歩き始めた。真っ白な長い髪が闇夜の風に紛れて揺れている。大きな手が小さな手を包み込んで引いている。その光景は仲のよい親子にしか見えない。
「忘れてた……王子様のキスでめざめさせおえ……」
「言わんことない」
「そんなこと言ったって、お家からここまで一時間くらいはかかるもん……間に合わなくなっちゃうよ。流星群う゛」
ひとつため息をついて後部座席のドアを開けると、俺はトランクを開けた。
この中にはおじさんが詰め込んだ一番大きい天体望遠鏡がある。今日の天体観測で、俺はやりたいことがあってわざわざ持ってきて貰うようお願いをしたのだ――。
「……落ちつかない」
なんだかずっとそわそわしていて落ち着けない。書きかけの手紙を残してきてしまったからだろうか。
トランクを開けて、小さなトランクから台車を引っこ抜く。
「よっ……っと……おもい」
台車を組み上げると、まだ俺には一抱え分たっぷりとある大きな望遠鏡を足下に気を付けて台車に下ろす。これはおじさんが大事に使っている望遠鏡だ。傷付けたりしたら、おじさんのことだから怒りはしないだろうけど――きっとやっぱり悲しいに違いない。これはお給料を貰って、初めて買った望遠鏡だって言っていたから。
「……ふー」
それにしたって重い。後は三脚とカメラ、お姉ちゃんもきっと飲み物を忘れていってるだろうしそれも確認しなきゃ。
ばたん、と助手席に飛び乗って忘れ物を確認する。やっぱり忘れていってる。
「イチキ――!」
「カリナ――!」
「――」
誰か知らない声が岡の方から聞こえて、俺はそちらへ視線を向けた。
びり、そんな音が正しいだろうか。
耳にかかった空気は層になって震えていたような感じがした。聞き覚えのある音ではなかった。
けれどそれに次いで高い音がこちらに向かって近付いて来ていた。
「飛……行機? ロケット花火かな」
そっと車の影から頭を出して、音の方向を確認する。
目には目映い光が映った。正体は分からない。けれど車のライトを直接浴びたみたいな強烈な光だ。
「――!」
身体は衝動的に伏せていた。一瞬後に強烈な揺れがあって、
「う……わ――?!?」
痛い――!
次にやってきた意識の感覚はそれだった。
左肩、右足、違う、全身だ。
視界がもどってこない。いた、い。
左手にずっと何かが張り付いている。これは、何? 熱い――熱い!
壊れたカメラの映像のように、脳内に砂嵐が広がってぶんぶんと音のない音が
脳を振っていく。
「ぁ――!」
気が付けば身体が地面の上で跳ねたり飛んだりして叩きつけられている。
横隔膜が痙攣して意識が断続的に明滅を繰り返して、意識の中でばちばちと火花が散っている。
かと思うと急に地面がどこにもなくなった。今度は俺の身体はどこまでも落ちていく。
落ちている途中で熱い感覚がなくなった。俺はなんとなくわかってしまった。
「……ぅ」
熱いのが治ったのではなく、『そこがなくなったからだ』ということを。
ぼんやりと空いた瞳には、うつ伏せになって地面が見えた。
恐ろしかった。
なんとなく自分の身体がどうなっているのか想像できるのに、まだ四肢の感覚が残っていることが。
俺は意識の中だけで四肢を動かしている。それだけなのに身体は動いている気がするのだ。
「……しーちゃん! やだ、死なないで。やだやだ、やあー!」
「悠里、静かに。僕の言ったとおりに」
ぼんやりとしていく意識の中、左耳だけから聞こえたのはお姉ちゃんの声とおじさんの声だった。
それを聞いて、どこか安心して目をつぶっていた。痛みも苦しい呼吸も、見えない世界も半分は誰かが居てくれるだけで今はマシだった。
「止血も間に合わないか――! 時間がないぞ……! 悠里、しっかり押さえて!」
「やってる、やってるけど。でも全然止まらないの。全然ダメなの!」
「くそ……!」
悲痛な叫び声は、俺に向けられている。
けれど自らの生命がどんどんこぼれ落ちてそれがもう直に無くなってしまうことは自分が一番感じ取っていた。
ぼやけて焦点の合わなくなる視界、寒くなっていく身体。
断続的に音が飛ぶ聴覚、無くなっていく痛みと触覚。
消えていくことって、こういうことなのか。
意識の身体が眠りの水面を突き破って、深海の先にある死の水面に近付いていく。
「しづるくん。聞こえるかい。このままだと君は助からない」
おじさんの声だ。
「だけれど、生きられる方法がひとつだけある。けれど長く持つかは分からない。もし失敗すれば、君はより長く苦しむかも知れない」
――。
「それでも、生きたいかい」
俺は身体を揺することしかできなかったけれど、頷いた。それが限界だった。意識はそこで断ち切れていた。
「……わかった。では始めよう」
どれくらい経ったのか、ぼやけた世界がぐらり、ぐらり、と揺れたまま、途切れることも出来ず、俺の意識は肉体と精神の狭間で船の上で揺られているように揺蕩っていた。
かろうじて視界があって見分けが付くのは、俺の身体の中に肌色の何かが入り込んで蠢いていることだけだ。
「しづるくん、意識があるかどうかはわからない。PTSDを回避するためにこの記憶は曇らせるが、何かがあって、君がもしこの出来事を思い出した時の為に伝えておく。君の肉体は死ぬしか無かった。けれど悠里の髪を媒体に君の肉体を繋いだ」
これはなんだ――!?
揺蕩っていた意識が急激に現実の水面の際まで引き上げられる。
俺は何をしているんだ。 悠里は? 礼香は?
重なる疑問にしづるの脳は身体を動かそうとするが、指一本動いている感触はない。いや、正しくは動いている気はするのに動いていない。金縛りとよく似ている――。
半覚醒状態の脳だけが夢を見ていたのか――? これは、なんだ。けれどこんな記憶にないことが……?
俺の記憶なのか? 本当に。
溺れそうなくらいにしづるは懸命に腕をもがいて、目の前の一木に真意を問うため手を伸ばす。
「原理は分からなくていい。これで暫くは生きられるけれど、君の精神と肉体は悠里と癒着した状態にある。肉体の癒着はうまくいけばゆっくりと消えていくが、これからずっと精神の癒着は変わらない。君に変調が起これば悠里にも、逆も同じことが起こる。その際に先に精神の異常を訴えるのは悠里の方だろう。彼女が君の核になっている。もしぼくが居なくなって悠里に何か起こったら、その時は悠里を頼む。君が解決してくれ。できればそんなことは起こらないのが最良だが――」
視界が急激に鮮明になり、立体的な触覚が世界とリンクして情報量が膨大に跳ね上がる。
空にはキラキラと雹か雪か、夏には異様な天候を降らせながらその先にあるおじさんと目が合った。
「すまない。ぼくにしてやれるのは、ここまでなんだ」
おじさんは消えていく。
雪の先に向かって、捻れてひしゃげて消えていく。
俺の意識は急速に浮かび上がり、色の虹輪を通り抜けながらあの日の流星群のように空を裂き、時間の限定を無視した。
俺の意識が現実を帯びて地面に降り立った時、耳朶を打ったのはガラスが割れるような音だった。
「――ここが、過去なのか?」
肌を湿度と熱帯夜の風が撫でる。
辺りを見回すと、高い木々が覆い被さり、砂利道の敷き詰められた丘の入り口だった。
「しーちゃん?」
隣から声が聞こえて振り返るが、そこに誰の姿もない。
「あ、あれ……。確かに声が」
「しーちゃん!」
声の方向は少し下だ。視線を下げると――。
「あれ? しーちゃんおっきくない?」
「礼香……? いや、ゆ、悠里なのか?」
「う、うん。見て分かるでしょ? この目、この髪、この匂い、初恋の人でしょ~」
指先で髪を弄んで自信たっぷりなこの笑顔、間違いない。これは悠里だ。
礼香はこんな顔できない。自信を持って言える。
「いや、そうじゃなくて。その――」
「何よ、ちゃんと言ってよ。汗臭かったりします???」
「小さい」
「へっ?」
俺の目の前には、小学生高学年くらいの身長の悠里がいた。
悠里も自分の身体を見て、唖然としている。
この一瞬後に起こるだろう未来が予想できる……静かに耳を塞ぐ。
「な、なんじゃこれァーッ!?」
悠里の幼い叫び声が木々に木霊した。
予想通りの叫び声が木霊を起こし、予想外の声量は耳鳴りとなってしづるは顔を顰めた。
「うるせえ」
「いやだって、じ、自慢の……」
「自慢の?」
「いっぱい育ったおっぱいが……」
「少なくともそこじゃねえだろ。それに要らないって言い続けてた癖に都合のいい……」
悠里は何度もぺたぺたと胸を触って、目をぐるぐるさせながら狼狽えて回って見せた。その姿にしづるは知らず知らず胸をなで下ろしていた。ベッドで死んだように眠っていたあの悠里の姿はとてもではないが見ていられなかったからだ。
「アイツはアイツでいい友人だったんだよ……邪魔だったけどさ、ずっと押さえつけてたけどさ。何も言わずに行っちゃうことないじゃん。いい共生関係築けてたと思うぜ……わたしゃあよ」
「普段から感謝は伝えておかないと言えなくなるって教訓が得られたな」
「いらないよこんなタイミングで!」
「……その調子だと小さくなった以外に問題はなさそうだな」
しづるの心配は杞憂で終わったようだった。このまま精神年齢まで若くなられたらいくらしづるでも手に余ることは間違いなさそうだった。
「うん。体調はすこぶる快調。さっきまでのダルメシアンの縞模様がずっと脳みその中で無限に拡大し続けていくような小宇宙の中とは大違い。自分の意識が自分の五感の上にあるっていうのは良いことね」
「……ダルメシアンは斑模様だろ。俺はその経験してないからわからないが、お前が元気になってるなら本当によかったよ」
「何よ、大きくなったからってそんなお兄ちゃんみたいな顔して!」
「はいはい、わかりましたよお姉ちゃん」
しづるの予想外の言葉に悠里は意表を突かれたように悠里は耳まで赤くなっていた。
「へっ……? なんてえ」
「全部思い出したからいいんだ。俺がここで死にかけてた時、悠里がいたから助かったんだろ。感謝してるんだ」
「……きゅ、急にやめてよね。そ、そんなこと言われたって、お姉ちゃん全然靡いたりしないんだからぁ」
腰をくねらせて顔を手で覆いながら、悠里はしづるの真っ直ぐな瞳を指の隙間から見ていた。その様は年頃の少女を連想させる。悠里は少し目線を俯かせた後、少し間を持ってから口を開いた。
「ねえ、しーちゃん。本当に感謝してるならさ、別に、強制じゃないんだけどさ。ちょっとお顔に私の手がちゃんと届くくらいまで姿勢下げて」
「……? それくらいお安いご用だが」
しづるが姿勢を下げる。悠里は少しずつ近付いて、二人の顔は触れあいそうな程近寄った。お互いの鼓動が聞こえるほど、瞳は輝きを増して互いの心を混じり合わせていた。
「しーちゃん、やっぱり可愛い顔してるね」
悠里は愛しそうにしづるの頭を撫でる。きめ細かい小さな手は、しづるを撫でるには小さく見えた。
「なんだよ、そんなことを言うた――」
「――ふん」
悠里は十分にしづるを引きつけると、腰を少し下ろして平手打ちを放った。それは精確にしづるの頬を捉えると、しづるの体勢は大きく崩れて尻餅をついた。
「いった……え? なんで? 今殴るとこだった? ちょっと今俺なんか褒められてなかった?」
「しーちゃん。お姉ちゃん、気に入らないなあ。なんで急に私が礼香ちゃんくらい小さくなったら急にそんなに態度が大きくなったの? ひょっとしてしーちゃん、ロリコンさんなんですか? 自信がないから自分より小さい相手にしか強気に出られないわけ? だとしたら言いたいことがひとつふたつ――もっとあります」
悠里にはにこにこしながら体勢を崩したしづるに馬乗りになった。
小さな身体で胴に乗り込む悠里には物理的ではない別の迫力が籠もって、しづるは顔を引き攣らせて釘付けになっていた。
「いやいやいやいや違う違う違います、よしんばそうだったとしても悠里と俺の関係だろ、これくらいはいつも通り――」
「なんか違うもん! 私が小さくて可愛くなったのはまあ良いとしてもこんな目線を礼香ちゃんに向けていたとしたら! なんて破つむり恥な! 去勢じゃ去勢! ワシとしたことが甘かった、こんなことならしーちゃんを監禁してでもうおおおおーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!!!!!」
胸ぐらを捕まれたしづるは振り回されるがままに振り回されて、おもちゃのように転がっていた。
「やめろ、やめえ悠里、舌噛むっべ……っ俺はそんな目線誰にも向けてな――ギブギブ、もう極まってんだよ腕ひしぎがよぉ!」
「こちら¥5,480也ーーー!!!!!!!!!!!!!」
「何言ってんだ悠里ー!!!!!!!!!!!!」
しづると悠里は猫が毛糸が絡まったみたいに地面にもみくちゃになっていた。そして草木の影から誰かが歩いてくる音がして、二人は示し合わせたようにぴたりと止まった。
「――やばいかも」
「――しっ」
しづるは悠里を体格に任せて抱きすくめて腕の中に収めると、暗がりの茂みの中にお互いの口を押さえあって闇に溶け込んだ。
ゆっくりと何かを探すようにその足音は近付いてくる。そしてしづるは前方二十メートルの横道に一人の気配を感じ取って、より息を潜めた。
するとその影はまっすぐとこちらに向かって走って来、声を掛けられた。
「な、何してるんですか……? しづるさん! 誰ですかその女の子! う、上から押さえつけるなんて、嫌がってるじゃないですか! 離してあげてください!」
「礼香か!」
「ぷはっ! 礼香ちゃん! 無事だったの!」
しづると悠里は転がり出るように茂みから出ると、礼香に駆け寄った。
礼香は驚いたように二、三歩後ずさると、二人の方を見て立ちすくんだ。
「だ、誰?」
「私よ私。このナイスなプロポーションを見ても……ないんだった!!! やべ、見た目被っちゃった……」
「確かに二人とも本当によく似てるな。悠里の髪も長くなってるし、遠目から見たら見分け付かないぞこれ」
「え、え……? 悠里さん、ってことですか?!」
「そういうこと。二人とも並んでくれ。……悠里の方が若干目の赤が薄いかな。でも服装以外は本当に全然見分け付かないな……いや、悠里の方がちょっとなんかこう、うん。なんか元気そうか……」
「なんか含みがあるなコイツ」
悠里は身体にあった小さな白衣に赤と黒が基調になったオープンショルダーのワンピースを着ていた。昔よく着ていた外着の一着だ。
「悠里さん、可愛いですね……! そのワンピース、私には似合わない気がしますけど、かっこいいです!」
「おんなじ顔だろお前ら……でも確かになんだか言ってることもわかるような気もするな。それなんだっけ、えらく気に入ってたよな」
「ああこれ? 吸血鬼って呼ばれていじめられた時に『負けるのも嫌だしいっちょびびらせてやるか』って思い立って黒の日傘とセットで買って貰ったヤツ。結果は女の子の友達が増えて興味のない男子から告白されただけだったけど」
「そんなこともあったな……」
「すごい……あ、ところでなんで悠里さんはちっちゃくなっちゃってるんです?」
「そこんとこだがわからん。おじさんが悠里の脳内にある星空を参照するとか言ってたからそれが影響してるのかもしれないな。まあ分かったからと言ってなんとかなる話ではないことはそうなんだが」
「うん。わかんない。ま、私としてはなんでもいいよ。それより、この先のことを教えて貰ってもいい? 寝ちゃってたからさ」
悠里は頭の後ろで腕を組んで、しづるに目配せをやった。しづるはひとつため息をつくと口を開いた。しづるは悠里に計画を聞かせ、礼香はしづるの隣に付き添うように会釈を返していた。聞き終わった悠里は頷くと、二人ににこりと微笑み返した。
「ふうん、じゃあ私たちはこのどこかに居る礼香ちゃんのお父さんとお話しして、それでなんとか交渉ないしお願いをすればいいんだ」
「そういうことです! きっとお父さんなら分かってくれると思う、ので」
自信なさげに礼香は俯いた。悠里はそっとその肩を持つと、頬ずりするように抱き寄せた。
「そんなに暗い顔してちゃダメよ礼香ちゃん。あなたのお父さんでしょ。あなたが信じてあげなくちゃ」
「うっ、そうじゃないんですけど。なんだか緊張しちゃって……お父さん、本当に私ってわかるかな……」
「きっと大丈夫。行きましょ。多分この先にいると思う。しーちゃんも思い出したよね?」
「ああ――。俺の身体がばらばらになった事件……改めて言ってみると我ながら悲惨だな。あの日もこの先に仮那さんはいたはずだし、でもなんで襲ってきたのか理由が不透明な部分だけが気になるな」
「おじさんが居たからじゃない? 仮那さんとおじさんは因縁の相手だったわけだし」
「かも、な」
しづるはなんとなく、それだけではないような気がしながらも心当たる部分を見つけることは出来なかった。礼香は落ち着かないようで、こちらを伺いながらも少し先に歩いて哨戒しているようだった。
「行こ、しーちゃん」
「……ああ」
「怖いの?」
「怖くないのか?」
「怖いと思う?」
「質問の質問を質問で返すな」
「そもそも質問を質問で返さないでよ。で、どうなの?」
「怖いよ。この頼りない両肩にどんだけ重いものが乗っかってると思うと震えるさ」
「あっそ。じゃあ一服していきなよ」
悠里はしづるのポケットからタバコの箱と、中に入っていたライターを引っ張り出した。しづるはポケットに入っていたものが残っていることに驚きつつも、出されたタバコを受け取ると咥えて少しかがみ込んだ。
「吸ったことは?」
「学生の時に一度だけ。悠里は?」
「この身体ではまだ」
「だろうな、本体は?」
「ある」
「じゃあ最後に乾杯ってことでいいか」
しづるはもう一本のタバコを取り出すと、悠里に渡して自分のタバコに火を付けた。燻る紫煙が細くたなびき闇に揺れる。悠里はにやりと悪そうに笑ってみせるとそれを柔らかな唇で挟み込み、接吻するようにしづるのタバコの先で点火した。一息吸いあげた穂先には赤黒い火が点り煙が唇の端から漏れて、それがしづるの気怠げな視線を曇らせた。
「悪いこと、しちゃったね。未成年に喫煙なんてお医者さんなのにいけないんだ」
「アホ抜かせ。お前は子供じゃないし、どうせここで起こったことなんてどこにもなくなるんだ」
「……珍しいじゃん、真面目一辺倒、これ一本で食ってますってなしーちゃんがそんなことを宣うなんて。お味はどう?」
「まずい。でも、悪くない。特に決戦前となると余計に」
「あらそう。お気に召したならよかった。肩の力は抜けましたか?」
「……ああ」
しづるは短くなったタバコをもみ消すと、奥に向かって歩き始めた。
「行こう。礼香が待ってる」
「うん。おじさんの為にも」
「そして、俺達のためにも、か」
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