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第59話 宵

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「……」

 礼香は未だ一木を睨み付けながらてとてとしづるに近寄ってひし、と腕に抱き付いた。
 しづるはその頭をあやすような手付きでそっと撫でた。

「よかったな。礼香」
「はい。任せてください……!」

 一木の不安と期待の混淆した石の凝り固まったような表情筋が綻んだ。
 待望していた変化、それは想定外のタイミングで現れた。これは正しい道か、それを検証する時間はもうどこにも存在しない。
 けれど一木に、不思議と不安はなかった。想定していた血が流れざるをえない状況からどこか抜け出したような、身の毛もよだつ悍ましい未来からほんの少しでも愛しい子達が遠ざかったような、しかしそれでおわりではないような、そんな迂遠で曖昧な憶測がぼんやりと胸中に去来したからだ。だがそれが却って新鮮に感じてしまって一木は気が付けば微笑んでいた。
 
「先行きの見えない不安、か」

 本来ならばこれこそが未来だったのだ。ずっと予定調和の過去を繰り返し続けていたことの方が異常であるのだから。

「当たり前だ、未来なんて見えないものなんだからね。ふふっ僕はそんなことも忘れてたのか。――けれどそれも、悪くないね。ああ。悪くない。特に今は、そうだ」

 一木は言葉を心で噛み砕いて、胸の中にあった煩悶が解き崩されて奔命の疲れが肩から抜けていくのを感じていた。そしてそれは干戈を交える前の一服の昂揚に近くもあった。

「今日も星が綺麗だな。勿体ないくらいだ」
「うん、そうだね。全く以てこんな修羅場に立ち会わせるのが憚られるくらいの空だ」
「明日も綺麗かな」
「どうかな? ガスくらいはかかってもおかしくない状態ではあるが……」
「おじさん、そこは『綺麗だといいね』って言うとこだろ」
「ああそっか、ごめん」

 一木はくしゃりと前髪を掴んで『ああぼくとしたことが』と呟くと、示し合わせたようにしづるは一つため息をついた。

「……明日も綺麗だといいな」
「僕のラボの予報では18時頃から小雨が降るかな」
「あーもう! 知ってたなら先に言ってくれよ!」
「はっはっはっ。ああそうだ。悠里、君に預けていいかい?」
「……はいよ。汗臭いな……」
「起きてたらぶっ飛ばすよ! って凄まれてたぜ」
「……寝てるからな」
「そりゃそうだ」

 礼香は二人の顔を眺め比べて、一木の表情にあった仄暗い影が抜けていることを気付くと同時に、しづると悠里の会話している時の表情を脳裏に重ね合わせていた。
 ああ、似ている。
 信頼し合った人間同士の顔だ。意地を張ることも、どこか後ろ暗いこともなくなった人間同士の表情だ。
……この人も、ただ必死だったのかもしれない。
 お父さんの言いつけ通りにあの場所にいればどうなっていただろう。お父さんと再会できただろうか――それとも熱風に捲かれて逃げ出して、ただ一人孤独に死んでいただろうか。
 私が生きていられたのは……認めたくないけれど。

「礼香……?」

 礼香はぐっとしづるから離れて杖をついて一人立ち、一木に視線を向けた。

「篠沢さん――聞いてください」

 驚いたように身体を翻して、礼香の方に向き直る。
 
「なんだい?」

 眦を決したように見つめる表情に、一木は少々驚嘆したように眼を細めた。

「ありがとう、ございました。あの火事の日、私を助けてくれて」

 礼香は深々と頭を下げた。

「――思い出した、のかい」

 一木は今度こそ瞳孔ごと見開いて驚いていた。

「私に、ずっとずっと償ってくれてたんですね。両親を奪ったから、って」
「そんなにできたことじゃない……僕は代償を後払いをしていただけだ」
「じゃあ、もう一つ――聞いてもいいですか」
「なんだい」

 恐ろしかった。
 今から聞くことは決して知らないべきことだ。
 そんなことはわかっているけれど知らないといけない。
 なかったことにはできない。あの子は――私のもう一つの心だったから。
 あの子が、誰よりも私と一緒に居てくれたから。
 だから――怖いけれど、震えているけれど、涙が出るけれど。
 どれだけ恐ろしくても、知らないといけない。
 答えはそこにあるのだから。

「蕾、は――一体。何者、だったんですか」

 歯を食いしばって涙を堪えながら、背筋を伸ばして礼香は聞いた。

「私の弟、御園蕾は――!」
 
 わかっている。元々自分に名字なんてないのだから。
 だって外国の、それも村外れのはぐれ者だから。
 それを名乗るあの子が血の繋がった姉弟でないことくらい。
 それでも、一番私と繋がっていたあの子だから。

「……君に何かあった時の為に護って貰うための子だった。ぼくが手配して君にあてがった。親のいない子だ」
「うぅっ――」

 耐えきれずに礼香の表情は曇りきって、俯いた。
 泣かないように耐えようとしたけれど、やっぱり涙が零れるのを止められなかった。

「ありが、とう。蕾、に、会わせてくれて。あの子と一緒に、一緒に生きてて。とっても、とっても楽しかったから。だから。ありがとう、ございました」

 一木は話すことすら忘れていた少女がここまで成長していたことを初めて知った。そして心の中に蟠っていた行き場のない憎しみが薄らいでいくことを感じた。
 彼女を見捨てることができなかった自分と、その過去に重ね合わせた自分。変えようとした自分、失敗した自分。

「あの子が、いたから。私、家族、を。愛してくれる人を、知れた――」

「――そうか、君は。あの子と一緒にいて、愛を知ることが出来たのか。良かった。あの子が、無意味じゃなくて、本当に良かった。あの子と一緒にいてくれて、ありがとう」

 星屑を両手にいっぱい集めたような涙が光っていた。一木はそれを掬い取るように礼香を抱きしめた。 

「すまない。君をもっといい形で助けてやれたら良かった。今は、そう思うよ」
「いい、もういいんです。あの子に最後、きっと会えたはずだから――。私は、あの子のねえねだから」




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