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第54話 誰何

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 淀んだ夜風が頬をぬるりとなで上げる。
 無形なる霞がかった記憶が意識の空を切り、乾いた胸中は蠢くように悪寒が這いずっている。
 夜闇の向こうには、遠い月と星の記憶が散らばって、寂光に煌めくアスファルトには自分の影だけが映り込んでいた。

「お父さん……お父さん――私、今、行くから。会いたい……お父さん……」

 動悸に誘引され反芻されるのは廊下で立ち聞いた悍ましい言葉だけだった。

「お父さんがそんなことしてるなんて嘘だ……お父さんは……」

 緩やかに脳裏に巡る記憶には、顔の思い出せない優しいテノールの声があった。
 心地よい湖畔の風に誘われて、大きな手はいつでも離れないように私の手を握ってくれていた。
 夜の美しい湖には星がよく映り込み、さながら星空の沈むような水面にただ二人だけが風に揺られていた。
 礼香には信じられなかった、自分の父親が世界を巻き込んでそんな大それたことをしている訳がない。できるはずなんてない。
 きっと何かの間違いに決まっている。その前に自分が父を止めればいい。危惧しているようなことは起こらないようにすればいい。

「お父さん……ぐっ……」

 先ほどからつま先に力が入らない……それどころか足に力さえも入らない。
 回復しきらない足を今朝から行使し続けたことが原因であることは明白だったが、それでも行かなければならない。
 脅迫じみた平仄ひょうそくの合わない思考であることは、礼香自身が最も理解しているはずだった。自分が行って、もし上手くいって父親が居たとして――自分に何ができるだろう。もう十年近くもあっていない娘のことを、果たして父は娘と見てくれるものなのだろうか。それにもししづるや一木の言っていたことが合っていたとしたなら――自分の言葉は父に届くのだろうか。
 なんの保証もない衝動だった、それでも心はしがみつくように父に会いたがっている。それだけしか理由がないのに、肉体はまだ動きたがっていた。
 街灯の明かりもとうに無くなった山道を、できるだけ足を庇って歩いていく。時折痺れるような鈍麻な痛みが全身を駆け巡って、その度に礼香の身体は擦り傷だらけになっていった。
 傾斜がきつくなればなるほど歩みは止まり、もはや肉体をろくに支える役目を失いかけている両足はより烈しく震えた。
 だれもがその光景に賽の河原を想起せずにはいられなかっただろう、それでも悲壮な涙と決意を以て、礼香は前へ前へと進み続けた。

「私は……どうして……」
 
 朧気に残る記憶にあったのは、父親が最後に遺した言葉だった。

『絶対に何かあった時はここから動かないこと、月の一番高い場所に昇るまでに誰かがここに来ても、絶対について行っちゃダメだ。隠れているんだよ。迎えに来るから』

「どうして、この前も後も、何も、何も憶えていないの――?」
 
 継ぎ接ぎに映る、切り取られた断片の記憶が一様に繋がりきらない。想い出そうとする度に脳の中に灼けた鉄棒が押し込まれているように耐えがたい吐き気と疼痛が襲ってくる。けれどその痛みも惹起させるのは一様に失われた記憶の足音、手がかりにもならない切れ端ばかりであった。
 
「う――ううぅっ――!」

 舗装の切れた土と小石の斜面を精一杯掴み上げる。指先に突き刺さった枝の切れ端さえも意に介せず、立ち上がった。
 その時だった。

「――!」

 眩しすぎる前照灯が闇の斜面を切り裂いて、同時に車のドアが開いた。
 二足で降り立ったのは、やはり桜庭しづるであった。

「礼香、大丈夫か」

 前照灯の灯りに照らされた少女の姿は、誰が見てもぼろきれ同然であった。
 擦過傷で黒ずんだ膝に、衣服は泥に塗れて汚れきっている。膝は立つだけで笑っており、その表情には涙の筋が何本も首筋まで乾いて跡が付いている。
 しづるは近寄ろうと一歩踏み込んだ。
 
「来ないでッッッ!!!」

 その踏み込みに柳眉を逆立て怒鳴ったのは礼香だった。
 瞳は燎原の火の如く赤く妖しく燃えさかり、おとなしそうな体躯を逆立てて必死に威嚇している。裂帛の気合いを載せて放った怒号に、ほんの少しの間呼吸することも忘れていた。

「しづるさん――全部、全部嘘だったんですね。幻滅しました、あなたは……みんな助けたいって言ったのに……だから信じたのに、なのにお父さんを、うぅ……お父さんを――」

 たった一握の言葉を零すだけで、礼香の瞳からは紅涙を絞るように滂沱となって零れ続けていた。それでも瞳は切れ味を衰えず、純粋な敵意をぶつけていた。わからなかったのだ、どうして自分がこれほど悲しんでいるのか。けれど礼香にとって明確にわかるのは目の前のしづるが父を殺すために自分の前に現れて、その説得に来たのだろうということだった。だからもう、この先の言葉は聞きたくなかった。これ以上、しづるを見損ないたくなかった。

「わた……し、しづるさんのこと、しんじたかった、なのに、どうして……どうして」

「礼香、聞いてくれ。君と話しに来たんだ。礼香を救いたい、だから追ってきた」

「話さないで――!!! もう、嫌! もうたくさんなの……! いっそ殺して……殺して!!! お父さんは、殺させない、絶対にやだ!!! もしやるっていうならここで私が相手になりま――」

 震える膝がかくんと折れて地面に膝をついた。立ち上がろうと足掻いても膝が動かなかった。しゃくりあげるばかりの腕は棒きれを拾う指先でさえおぼつかなくなり、礼香は行き詰まったようにしづるを睨み付けた。

「……ううっ」

 しづるはただ何も言わず、暗闇の斜面をここが先途と言わんばかりに真っ直ぐと進み、礼香の一歩前に立った。

「明日なんて要りません。だから、来ないで。 私は……もう――」

「礼香、あの時手を取ってくれてありがとう。でも今回は譲れないんだ」

 残酷にも、しづるは礼香を見下ろしてこう言い放った。礼香はその言葉に酷くしゃくり上げながら、前のめりに蹲り手をついた。

「お願い、します。お父さんを……殺さないで、ください。私からこれ以上、奪わないで……ください、どうして、どうしてお父さんが――」

 一方、礼香も嘆願は意味が無いことも理解していて、それでもなおこれしかできなかった。足は既に動かず、ただ蹲ることしか許してくれない。あまりの惨めさに礼香は歯噛みしていた。
 指先から奪われていく感覚とあがる呼吸、視界が太陽のハロみたいに揺れて曇って、鼓膜からは情報が漏れ出ていく。指先が冷たく、鉛になって動けない。

「どうして、私や蕾やお父さんは……こんな風に苦しまなくっちゃいけないんですか。私ばっかり、蕾も……お父さんも……。こんなの、ずるい。嫌い。世界なんて、全部私から奪っていくばっかりだ。何一つだってくれたことも無い癖に……どうして……どうしてこんな最悪な形で、ずっと夢だったことも奪われないと、いけないの。ねえ、どうして――私たちの血が悪いんですか……? 生まれてこなかった方が良かったんですか……どうして? いっそこんな世界なんて、私なんて消えちゃえばいいのに」

 やりどころのない呪詛と共に大粒の涙が頬を零れ落ちていく。およそ今まで他害の言葉は出さなかった礼香は、ついに耐えきれなくなったように歔欷きょきに噎いだ。

「礼香は一つ勘違いしてる」
「何がですか!? お父さんを殺さなきゃ、どうしようもないんでしょう?! しづるさんは明日を迎えたい、悠里さんを助けたい! その願いを叶える代償にお父さんを殺すつもりなんでしょう!?」

 鋒が闇を切り裂いて鼓膜を通り抜ける、それは心と心に通じる言葉の刃だった。烈しい敵意であることは疑りようもない中で、むべなるかな、と構えたのはしづるであった。

「俺はまだ確かめてない」
「何を、訳の分からないことをいって煙に巻くつもりですか!」
「いや、そのままの意味だ。俺は、カリナさんと会ったことがないからわからないんだ。言葉も見た目も知らないし、もちろん性格も知らない」

 落ち着いた声のトーンでしづるは語り始めた。聞いて欲しかった。しづる自身が、自らの心を礼香から決して遠ざけていないことを知って欲しかった。
 例えば礼香が悠里を間接的に死に至らしめる要因となった時、その時も礼香を恨まずにいられるだろうか――そんなことはないだろう。
 うわべでは何とでも言えたとて、その実際は驟雨の如き抑えきれない怨恨で彼女のことを見てしまうに違いない。
 けれど、そうせざる理由があってそれを知っていたなら? その時俺は彼女を恨んでいいのだろうか。
 彼女が父親と一緒に生きたいと願っていたとして、その願いを自らの願いが背反して潰しているとしたら?
 もちろん、この解答には二通りの答えがある。前者は理由があったなら仕方ないと諦め恨まないこと、後者は例え理由があったとしても悠里は帰ってこないのだからと恨むこと。
 ……解答にすれば、あっけらかんとして人間味のない解答だ。だが、現実問題としてこの二通りの解答通りに行動する人間はいるだろうか。
 それはきっと極少数派だ。人はそう簡単には偏りきれない。
 ひとの心は複数の色の絵の具を流した筆洗のように、斑を描き混じり合って、双極がお互いに相克し合おうとしてどちらかに転んでみようとはする。しかし、やはりどうしてもどちらか一方だけが顕在化することはないし、できない。苦痛に対して脳内麻薬が分泌されるように、憎しみにも自己嫌悪から来る自己否定が必ず含まれているのだから。
 だとするなら、しづるの答えは二つの中から自ずと外れることになった。

「俺はまだわからないんだ。礼香の言うように悪い人じゃないのかもしれないし、おじさんが言うように悪い人なのかもしれない。
 つまり何が言いたいかって話なんだけど……俺は君のお父さんを悪い人じゃないって思いたいんだ。何か理由があってさ、それでこんなことをせざるを得なくなってしまった、その可能性だって無いわけじゃない」

 それにしては大がかりすぎるし、敵愾心も十分感じるが……と付け加えてしづるは礼香の為に持ってきた杖を蹲った頭の前に置いた。それはあくまでも手助けではなく、意思の確認めいた儀式という意味を感じさせる置き方であった。
 
「だから、俺個人としては戦いたくはないし、もちろん殺すなんてもってのほかなんだ。できれば穏便に利用方法と効果を聞いた上で判断したい。おじさんはバディを君のお父さんにやられた経歴と、その過去を知っているから危害を加えようとしているものだと思って最初からかかっているのだろう……君のお父さんが極めて大きな力を持っていることもその裏打ちになっているのかもしれない」

 しづるの表情は変わらなかった。
 二人の距離は開いたまま、置かれた杖には手はかからない。

「嫌だ……お父さんと戦わないで。怪我しちゃったら、どうするんですか。とっても、痛いんですよ……それに間違いがあったら、死んじゃう、かも、しれないんですよ。そんな、そんな傷だらけの、体で。死んじゃったら、どうするんですか。死んじゃったら、なにもかも、終わりです。終わり、なんですよ」

 項垂れる頭から絹のような細髪が月明かりに円弧を描いていた。仄かに揺れた肩からは滅紫の色にも似た独特の雰囲気があり、彼女の感じている責任感とも執着心とも取れる眦を決した空気感を孕んでいた。
 相対してしづるの振る舞いは、緩やかに描いた雲か霞か、そういったものに近かった。半ば諦めに近いのかもしれないと思わせるその飄々とした喋り口調には、とても緊張の色は見えなかった。

「ああ……死ぬかもしれない。けど、何もしないなら戦うしかなくなってしまう。だから俺は何かすることを選ぶよ。俺は礼香のお父さんが悪い人じゃないって信じたい。だから礼香も一緒に来て欲しいんだ」
「でも私には何もできない――」

 そんなことはないよ、と確信めいた語勢でしづるは言葉を割り込んだ。 

「礼香じゃないとできない。赤の他人の俺やおじさんじゃできない。話し合いにするにしても、絶対に礼香が必要なんだ。戦わない為には、礼香が必要なんだ」

 しづるは強く言い放ち、礼香は潤んだ瞳のまま袖でぐしぐしと顔を拭いて顔を上げた。

「私じゃないとできない……ですか?」
「ああ。俺やおじさんが君の父さんと戦わない為には、礼香がいる。双方の話を取り持つためには絶対に必要だ。俺やおじさんにとっては君の父さんは止めなきゃ行けない標的だけど、君にとっては大事な傷付いて欲しくないお父さんだ。俺達は礼香と戦いたくない」

 礼香の双眸には涙がいっぱいに零れて落ちて、磨いた水晶が壊れるように土の斜面に跡を付けた。

「だから礼香が今、単独でお父さんに会いに行ってしまったら……それで止められなかったなら、俺達は確実に君の父さんと戦わなければなくなってしまう。礼香にとってそれは絶対に望んでいないことだ。言わなくたってわかる。だから、俺は礼香を止めるためにここに来た。少しでも、誰もが傷付かないために――」

 戦うことは痛いことで、悲しいことで――それでも最終的に互いの意見が通らなければしなければならない。
 けれど忘れてはならないのはそれは『超えてはいけない最後のラインを超えた後のこと』なのであって、どうにかこうにか回避できる手段があるならそれを全て講じてからでないといけないことだ。きっとみんな忘れているのだ。全員がこの異常な状況に巻き込まれ、慣れ馴染んでしまったが故に。 

「もし礼香がこれでも納得できないなら、俺にもう礼香を止める材料はない。追いかけることもしない。その杖を渡すからお父さんに会いにいくといい。俺は後ろを向いておくから」

 そう告げて、しづるは礼香に背中を見せた。
 しづるは空を見上げた。
……綺麗な夏の終わりの夜空だ。これを見上げるのも最後になるかもしれない。避けられない終わりまで抗ってみせるつもりだが、それはあくまでもうまくいけばの話だ。
 少なくとも俺の一存で礼香が最後をどう過ごすかなんて決められないのだから、彼女がどう動こうとも、誰も責められたものではないだろう。……そして、これで彼女が自分の決めた道に進むのであれば、俺はそれを見送ってやることしか出来ない。

 ――杖が柔らかい土を突く音が遠ざかっていく。
 長いような短いような、酩酊したような夏の終わりの香りがした。流れ星が一つ落ちて、辺りには静寂と風の音だけが残った。

「行ったかな……。バッテリーが上がっちまう」

 泥と傷に塗れた新車は、今にして思えば必死に走り回った勲章だ。欲を言えばもう少し位は長持ちさせたかったが、案外これだけの冒険をくぐり抜けてきたのだから十分なのかもしれない。
 楽しい夏休みだった、そう手放しでは喜べない。
 けれど一つため息をしてみれば、いい夏休みだった。そんな風にも思える。
 おじさんとも悠里とも会えて、新しい出会いと発見があって、こうして終わりを迎えようとしているのは大好きな星空の下なのだから。
 けれど、悔い無しとは言えない。俺は失ってばかりだ。また、特別になれなかった――誰かを救ってやることができなかった。
 また星が落ちていく、次も、次も。線香花火の火花みたいに星が空から零れて光って消える。空に居られないことを惜しむように尾を引いて、燃え尽きて消えるまでを繰り返してはまた流れてを繰り返す。

「そういえば……今日は、流星群の日なんだったな」

 流星群の映る瞳から、星屑のような涙が零れた。
 行かなければならない。恐らくこうなった以上、未来はひとつしかないのだろう。それでも行かなければ。
 そこに可能性が微塵にでもあるならば、俺はおじさんや悠里、そして俺の未来の為に諦めるわけにはいかない。
 星を再生するのは、俺しかできないのだから。

 涙を拭いたその時、背中から誰かが腕を回して抱き付いていた。
 誰かなんて、考えるまでもなかった。

「しづるさん。約束してくれませんか、最後まで手を尽くすって」
「……約束する」

 細い腰に手を回して、幼さの残る体躯を抱き上げた。
 潤んだ瞳に映るのは、泣いている情けない俺だった。
 礼香は俺の首にお父さんから貰ったという石のペンダントを掛けると、柔らかな指先でぎゅうと抱き付いて耳元で囁いた。

「それ、約束の証です。絶対になくさないでくださいよ。絶対、全部終わったら返して貰いますからね」

 礼香は指先で俺の毛先を遊ばせながら、恥ずかしそうにそう呟いた。



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