上 下
52 / 84

第52話 償却

しおりを挟む
「過去に戻って世界を再生する!?」

 ひときわ大きな声が理科室に響き渡った。
 一木は柔らかにああ、と答えて言葉を続ける。 

「しづるくん、廃教会で雪が降ったのを覚えているね。それがどのような影響を世界に与えたのかを教えよう。しづるくん、生命の行動は概ねどのような区分で制御されているかについては?」
「ああ――記憶のパッケージと、意識のパッケージが二つが相互に作用して……意識は記憶に基づいて構成される短期処理の分野だ。これが行われることが変化であり、その積み重ねがいわゆる“人格”とか“癖”って呼ばれるヤツだな。それがどういう関係?」

 そう、その通り、と一木はしづるをビシと指した。

「まあまあ答えは待ちたまえ。降った雪は、意識のパッケージを溶かしていくような能力を持っている。いわばあらゆる生命を無気力にすることができる能力だと思ってくれ。一度なら大丈夫なんだが、何度も食らうとそれだけ意識を浸食されていく」
「非物質の意志?」

 ふむ、と一木は斜め上に眼球を動かした。

「一見存在しないようにも見えるがね、木や草も大きな時間の括りで見るとせわしなく動いているのと同じように、意識パッケージといってもいい“流動する性質”がある。それを奪うのさ」
「……直感的な話じゃないな」
「なるほど、じゃあ続けてこう言おう。今、『一番雪星に影響を受けているのは何だと思う?』」

 一木は隣の蛇口から水を出しながら、地球儀を引っ張り出してシンクに栓を着けた。

「体面積が狭い生き物とかじゃないか、虫とかバクテリアは大量に吸い込むことになる」
「残念、しづるくん、こういうことなんだ。シンクを見たまえ」
「――!」

 シンクには、満面の水が張られていた。
 一木の手元によって栓が抜かれ、渦を巻いて水は排水溝に吸い込まれていくはず、だった。

「これは……」

 しづるが見たのは、渦の全くないまま滝壺に落ちるように流れていく水だった。その水はコリオリの力の影響を受けて回転することはなく、真っ直ぐに下に向かって流れていくのである。

「さて、少し前、君に地球の自転が遅れているという話をしたね。今は完全に止まっている状態なんだ」
「じゃあ、一番影響を受けているっていうのは」
「そのとおり。気が付いていないかもしれないが、一日分の時間も既に随分と変わってしまっている。」

 一木としづるの視線はかみ合った。

「被害が甚大なのは、長い年月を掛けて浸透していった地球そのものなんだ。だからこそぼくはこのままでは救えないと言っているんだ。ヤツを倒しても、失われた意志が戻ることはない――。だからこの場所ちきゅうはどん詰まりの袋小路なんだ」

 しづるは深く困惑していた。
 終わってしまった世界をどうにかする、それは今の彼には余りにも規模が大きすぎる話だった。

「そして敵将のカリナは、『星辰』と呼ばれるこの世界の運命設計図のようなものがあるんだがね、それを動かすことが出来る術をもっているんだ」
「世界の運命が向かう方向を自由に操れるってことなのか?」
「そう言い換えてしまっても構わない。そしてそれは本来はごく小規模にしか作用できないはずのものなんだ。地球が回っていると、自分の望んだ位置に星辰を動かしていても、必ずズレている物だからね」

 そこでしづるは合点がいった。

「だから地球の方を止めたのか」
「ご名答。ヤツは雪星を招来させて、地球の動きを鈍らせたんだ。そこに星辰を投影して、意識の弱くなった人間を、“それまで行ってきた行動の記憶”に縛り付けてしまった――」
「……心憎いけど一挙両得のいい策だな。本当にそんなことが出来るって言うんなら」

 言葉の端に懐疑を滲ませながらも、しづるは話された現状を飲み込みつつあった。

「……そうだ! 星辰ってなんでもできるのか!? じゃあ世界を元に戻したりっていうのも」
「物理的な損傷や、死体を蘇らせることも可能だろうね。けれど、失われた意志を再生させることは出来ない、それだけはできないんだ。奪われてしまった意志は戻らない。例え星辰を操って未来を描こうとしても、その先を全てを術者が描かねばならない。それは“生きている”とは到底言えないことだ」

 しづるは悠里へ振り返った。
 安らかに眠り続ける彼女は、今にも飛び起きてきそうにも見える。
 けれど叶わない未来なのだろう。
 今、悠里の肉体は、精神は。
 目覚めたいと思いたくても思えないのだ。
 暖かな頬に手のひらを寄せる。いつもなら驚いて飛び起きてきそうなものなのに、ぴくりともしない。

「過去に戻るって――タイムマシンでもあるっていうのか」
「……そうだ。記憶のパッケージがむき出しになって目覚めることが出来なくなった悠里の記憶を元にして、そこから得た『ある日の』星の並びを仮那の式に上書きするように投影する。そこから君たちは侵入して式の内側から星辰を直接参照し、過去に飛ぶ。うまく過去を上書きできればこの場所に戻ってくることが出来る」

 しづるは眉間に皺を寄せて、動かない悠里の表情を眺めたまま動けなかった。

「わかりにくいかな、つまり君には、初めて雪星が降る前の時間に戻って貰う。そしてそこにいるカリナを討って欲しい。そうすれば雪星の襲来を止めつつカリナの計画を潰すことが出来る」

 いつかどこかでこうなる予感がしていた。
 電話で一木から仮那のことを聞いた時から、必ずやどこかで巡り合わせる予感があったのだ。
 嫌な予感ほどよく当たる――しづるの脳裏にあったのは礼香のことだった。
 父親がこんなことをしていると知ったらどう思うだろう。追い求めた肉親が世界を破壊しようとする首謀者だって? 嫌な冗談に決まっている。けれど、やらなければこちらの後はもうない。
 しづるは気持ちだけなら、『嫌だ、礼香はもう十分に辛い思いをしてきただろ!』そう言ってしまいたかった。礼香の苦悩は誰か安心して一緒にいてくれる人がいるだけでずっとよくなるものだと直感していたからだ。それが肉親で追い続けた父ならば――最もいいに決まっているじゃないか。
 けれど同時に、二者択一。それが桜庭しづるの知る世界の真理だった。

「俺が、やらないといけないのか。礼香の父親を」
「ああ。君しかいないんだ。ぼくともどるさんは君たちの保護と制御に回る必要がある。そして、それしか方法もない。それがぼくの全身全霊を以て作り上げた計画だ」

 しづるは言葉を失って俯いた。

「……やるよ。もう覚悟はできてんだ」
「すまない。辛い役目をさせてしまっている。君が一番レイカちゃんと長い時間を共にしていたことも知っている。君が誰よりも平和を望んで誰も傷付けたくないことも……」
「いいんだ。いい。いいんだ」

 これがわがままであることは知っていた。
 気の遠くなるような時間を旅してきたおじさんの解答は、これだったのだのだから。『俺がやってやる。安心してくれ、絶対に俺が殺してみせる』そう言ってやりたかった。けれど、いざ口を開いても重さが胸を押し潰すばかりで、乾いた息が漏れて声にはならなかった。

「ごめん、おじさん。少し、手を洗いに行ってもいいか」
「ああ……」

 しづるは素直にはいと言えない自分のことを恨んだ。けれど、それでも言えないものは言えなかった。
 長い廊下を抜けて、生温い空気の流れ込む帳を歩いて、休憩室に辿り着いた。
 休憩室の扉を開けようとして、手が止まった。
 この先には礼香がいる。
 そして俺は今――彼女の父親を殺す話をしていたんだろう。
 手は震えて止まって、扉を開けるという動作が酷く億劫に感ぜられた。
 磨りガラス越しに見える調度品の家具の影だけが映っている。夜に差し掛かった空に、電灯のついていない部屋はぼんやりと月影を湛えている。

「礼香」
 
 返答はない。

「礼香」

 返答はない。

「礼香?」

 反応はない。磨りガラスの向こう側には、動き一つない。

「礼香、いるか!?」

 休憩室の扉を開けると、そこに人影はなかった。
 代わりのテーブルの上にメモが一枚落ちていただけだった。
 それを拾い上げると、震える字で書かれている礼香の文字が綴られていた。

『お父さんを止めに行きます。
 絶対にお父さんならわかってくれるはずです。
 お父さんは絶対に殺させません。
 もしお父さんを殺そうとするなら、絶対に許しません。
 追わないでください。
 今まで、ありがとうございました。こんな最後でごめんなさい。』
 


しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

冬の水葬

束原ミヤコ
青春
夕霧七瀬(ユウギリナナセ)は、一つ年上の幼なじみ、凪蓮水(ナギハスミ)が好き。 凪が高校生になってから疎遠になってしまっていたけれど、ずっと好きだった。 高校一年生になった夕霧は、凪と同じ高校に通えることを楽しみにしていた。 美術部の凪を追いかけて美術部に入り、気安い幼なじみの間柄に戻ることができたと思っていた―― けれど、そのときにはすでに、凪の心には消えない傷ができてしまっていた。 ある女性に捕らわれた凪と、それを追いかける夕霧の、繰り返す冬の話。

パンツを拾わされた男の子の災難?

ミクリ21
恋愛
パンツを拾わされた男の子の話。

魔法使いが死んだ夜

ねこしゃけ日和
ミステリー
一時は科学に押されて存在感が低下した魔法だが、昨今の技術革新により再び脚光を浴びることになった。  そんな中、ネルコ王国の王が六人の優秀な魔法使いを招待する。彼らは国に貢献されるアイテムを所持していた。  晩餐会の前日。招かれた古城で六人の内最も有名な魔法使い、シモンが部屋の外で死体として発見される。  死んだシモンの部屋はドアも窓も鍵が閉められており、その鍵は室内にあった。  この謎を解くため、国は不老不死と呼ばれる魔法使い、シャロンが呼ばれた。

失った記憶が戻り、失ってからの記憶を失った私の話

本見りん
ミステリー
交通事故に遭った沙良が目を覚ますと、そこには婚約者の拓人が居た。 一年前の交通事故で沙良は記憶を失い、今は彼と結婚しているという。 しかし今の沙良にはこの一年の記憶がない。 そして、彼女が記憶を失う交通事故の前に見たものは……。 『○曜○イド劇場』風、ミステリーとサスペンスです。 最後のやり取りはお約束の断崖絶壁の海に行きたかったのですが、海の公園辺りになっています。

婚約破棄されたので、契約不履行により、秘密を明かします

tartan321
恋愛
婚約はある種の口止めだった。 だが、その婚約が破棄されてしまった以上、効力はない。しかも、婚約者は、悪役令嬢のスーザンだったのだ。 「へへへ、全部話しちゃいますか!!!」 悪役令嬢っぷりを発揮します!!!

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

三度目の庄司

西原衣都
ライト文芸
庄司有希の家族は複雑だ。 小学校に入学する前、両親が離婚した。 中学校に入学する前、両親が再婚した。 両親は別れたりくっついたりしている。同じ相手と再婚したのだ。 名字が大西から庄司に変わるのは二回目だ。 有希が高校三年生時、両親の関係が再びあやしくなってきた。もしかしたら、また大西になって、また庄司になるかもしれない。うんざりした有希はそんな両親に抗議すべく家出を決行した。 健全な家出だ。そこでよく知ってるのに、知らない男の子と一夏を過ごすことになった。有希はその子と話すうち、この境遇をどうでもよくなってしまった。彼も同じ境遇を引き受けた子供だったから。

【か】【き】【つ】【ば】【た】

ふるは ゆう
ミステリー
姉の結婚式のために帰郷したアオイは久しぶりに地元の友人たちと顔を合わせた。仲間たちのそれぞれの苦痛と現実に向き合ううちに思いがけない真実が浮かび上がってくる。恋愛ミステリー

処理中です...