白い夏に雪が降る【完結済】

安条序那

文字の大きさ
上 下
50 / 84

第50話 衡量

しおりを挟む
 ――あの日、燃え盛る森の中でぼくは振り返ることなく走った。

「一木ィ、言い忘れてたんだが。もどるのことを頼むぜ。アイツ、誰かにこき使われてないと安心できない変なヤツだからよ。あと……ごめんな。色々と」

 十年以上も一緒にいた彼女は、絶対に謝らなかった。このまま死ぬまで謝らないと思っていた。
 身重だったけれど、いつも通り傍若無人に振る舞い、仕事だって以前と変わらずにこなしていた。毎日のように暴れて怒るのも変わらない。
 そんな彼女が、しおらしく謝った。
 その言葉を聞くまでは、どこかで彼女が帰ってくると思っていた。
 誰よりも強かった彼女、誰よりもわがままだった彼女、誰よりも――ぼくの隣にいてくれた彼女。
 ぼくたちの世界は、いつでも死による別れが付きまとう。
 だからはじめから覚悟していた。お互いに、別れさえ言えれば後の悔いはない。
 そう思っていた。
 相手とタイミングが悪かった、そういえば一言で終わるだろう。
 哨戒は未帰還で定時を越えていた。部隊での扱いは死亡扱いである。
 次いで想定していなかった大規模の山火事によって視界は喪失。
 本来は簡単な任務だったはずで、経験の若い隊員は散り散りになり、装備はゴミ同然だった。
 その上で標的はぼくらの前に立ちはだかった。
 対峙して一合の間に、ぼくと彼女以外の全員は仕留められた。ぼくもただ運が良かっただけで、本当なら死んでいたはずだった。
 何度でも思い出す。手練手管尽くした反撃が悉く潰され、それどころかよりヤツの動きを高速化させるだけの潤滑剤としか機能しなかったことを。
 ぼくでは彼女を逃がすための時間稼ぎにすらならなかったろう。それくらい、ぼくだってわかっていた。……わかっていたさ。
――異端狩りには鉄の掟があった。
 それは、『自分よりも劣った者を庇ってはならない』。ことだった。
 異端狩りは、実力だけがものをいう場所で、ぼくはそのことを彼女から学んだのだ。
 けれど、彼女はぼくを逃がすために戦った。
 忘れられない。真紅に染まる焔の中で、にこにこ、ほとんど見たこともないような恥ずかしそうな笑顔で――薬指から指輪を抜こうとして、やめた。

「なぁ、一木ィ。これ、付けたまんまでいいかな」

 ぼくは、頷いたことを憶えているけれど、彼女になんと言ってやれたかは今になってもわからない――



「説明をする前に、告白するよ。しづるくん、ぼくは君に嘘を吐いていた。職業のことや、ぼく自身のことを」

 しづるは神妙に頷いた。

「ぼくの職業はね、異端狩り機関という非公開の組織なんだ。超常的な現象の調査や、人為的な神秘災害の防止、対策を行いこれを遂行すること。必要があれば、標的の命を取ることもある。ぼくの仕事は、以前まで専らそっちだった」
「人を、殺してたのか……?」
「必要があれば。それが多くの命を救うことになるなら。今回の事件は、そこに端を発する」

 一木は恬として答え、しづるはやり場なさそうに視線を泳がせた。

「これはその仕事をしていた十年ほど前のことになる。ぼくは北欧の山嶺の麓にある小さな村から組織のツテで依頼を受けた。依頼の内容は、『北の湖に、不思議な力を使って人を呪い殺しているバケモノがいる』というものだった。しづるくん、悍ましいまでに科学の発展したこの世界だが、まだ観測されていない神秘は多い。人のいない場所ではそういった神秘が現存して……或いは眠りから覚めていることがある。もちろん、与太話や別に問題が潜んでいることもあるんだがね。閑話休題それはさておき、小さな異変ではあるが、ぼくらが調査をしているのは、そういったものだった。当時、ぼくは小さな部隊を率いて世界中を飛び回っている若手の管理職だった。だからさほど危険がないだろうと予測されている任務に当てられ、当該地域に、まだ日の浅い新人達を連れて、ぼくとぼくのバディが向かうことになった」
「……ああ」
「その村は、ぼくの向かった当時より更に十年ほど前に激しい寒気が止まず、ヘリコプターすら近寄れない強風と吹雪で飢饉に陥ったことがあった村だった。けれどぼくらが到着した頃は、そんなことがあったとは感じさせないほど誰もが幸福そうに生きている、目立つ大きな建物が一つあるだけの、普通の山間の村だった。ぼくらは村人に話を聞き、その依頼についての内容の精査をしていたんだ。すると、ある事実がわかった。村人の殆どが、きっと『亡霊の仕業だ』と言ったのだ。……その村には、身寄りのない子供を預かってみんなで少しずつ分け合って育てている孤児院のような自助施設があったのだが、飢饉の折り、食うに詰まってその子供たちを食ってしまうという恐ろしい計画があったようだ。……実際に十五人いた全ての子供が殺害されたことを、当時の狂行を悔いていたある村人が告白してくれた。だから、その子供達が地獄の底から復讐に現れた、というのが村の定説だったのだ」

 しづるは気分悪そうに顔を顰めた。我が子を食らうサトゥルヌスの絵画を脳裏に思い起こしたのだ。

「村ぐるみで身寄りのない子供を食うって……そんなこと本当にあったのか……?」
「ああ、残念だが。自然界の中でも食べるものがなくなれば自らの卵に手を付けたり、我が子を食べて次に繁殖できる時期を狙う生き物がいる。人間が理性を保っているのは、教育もあるが……やはり満ち足りているから、というところに依るものが多い。自分の子供は殺したくないから、他人と子供を交換して絞め殺して食ったという話もある。気持ち悪いかもしれないが……人肉食はまだ残っている可能性が十分にある文化なのさ。ともかく、その村では実際に人間を食べて生き残った人間が暮らし続けていた。子供達は行方不明になった、という暗黙の了解でね。だから、それが原因だと思っていたのさ。ぼくらはその子供達の墓に向かった。共同墓地に食べにくかった頭骨などの分厚い骨は埋めて供養したらしい。そこに刻んである名前の数は十五人全員だった。ぼくは夜の間に宿を抜け出して、その墓を掘り起こした。興味からではなく、話してくれたことが本当かどうかを確かめるためだ。……地面の中には、確かに子供の欠けた頭骨が入っていた。どの頭骨も、恐ろしいことに歯形と思しき跡が付いていた、彼らは本当に食うに困っていたことが理解できたよ。だけれど、全ての頭骨を掘り起こしてようやくぼくは違和感を覚えた。……数が足りなかったんだ。あった頭骨の数は十四。誰かが生きている可能性があった。墓を埋め戻したぼくは念のため、墓に刻まれた十五人の名前にメモを取りぼくは宿に戻って夜を明かした」
「なんてことしてるんだよ……」
「仕事だからね。夜が明けた後、ぼくはその孤児院へ調査に向かった。その孤児院はもう既に封鎖されていてね。管理はされ続けていたが、後ろ暗くて誰も近付くことが出来なくなっていたんだよ。だから鍵を借りて、その孤児院を調査していた。子供の共有スペースには噛み跡付きのおもちゃや、歯形の付いた柱が大量にあった……きっと最終期は孤児院に回す食料なんてどこにもなかったんだろう、だから必死に飢えを紛らわせようとなんにでも噛みついて満足感を得ようと足掻いていたに違いない。子供達が共食いを始めるのも時間の問題だったはずだ。それを確認した上で、ぼくは子供達の個室に向かった」
「……」
「全員の分、個室があった。きっと裕福な時には本当に幸せな村だったんだろう、とても孤児院とは思えないような綺麗にあつらわれた部屋だった。ほとんどの部屋の壁には助けて、を意味する言葉や神への祈りを書き殴ったペイントがあった。ぼくは部屋の押し入れなども入念に調べ始めた。彼らの中で、誰かが生き残っている可能性があり、それこそが災いの元凶になっている可能性が高いと睨んだからだ。そして、彼らの日記を発見した。全員の分があった。そしてそれを読んだ上でぼくはある事実を突き止めた。。彼らは自分が殺されることを先に知っていたのだ。けれど全員では逃げられない。吹雪の中、十五人の年端もいかない子供が森の中へ進出する――それが自殺以外の何も意味しないことは、彼らだってわかっていた。だから、彼らは一人に望みをかけた。その孤児院の中ではリーダーだった少年だ。ありったけの食料と防寒具と薪をソリに積んで、おそらく村で一番多くの食料と薪を手に、吹雪の中、森へひとりぼっちで逃げていった。……後の孤児院で、彼らが殺されるまで飢餓による惨劇が起こることも、もう既に理解できていたに違いない」

 しづるは言葉を失いながらも、じっと黙って聞いていた。

「同時に、逃げることができた彼の名前がわかった。それが――カリナだった」
「カリナ――前におじさんが言ってた!」
「ああ。そうだ。ぼくが今回の騒動の原因と言った男だ。ヤツの名を知ったのは、それが初めてだった。悲劇の中を生き延びた少年は、生きていた。ぼくは日記を見て確信を持った。だから恐らく生きているのであれば森の中にいるはずだと村人達に伝えた。村ではかなりのざわめきがあった。でも彼を捜すのが先決だと感じたんだ。ひょっとして彼が村の人たちを恨んでいたとしても、段階によっては穏便な方法で件を解決できると考えたからだった。村人の中でも詳しい者に案内してもらい、湖の方へと作戦の為に物資の運び込みを行っていたところで、事件は起きた。丁度出発して一日近くが経ったところで、森の上空に不自然な白い煙が立ち上っているのを見たのさ。ぼくはピンと来た。山火事だ、それも村に近い方向でのことだった。ここから村へ戻ることはできない。標高も上がっているし、もう物資は途中まで運び終わっている。湖までほとんど距離はない。そこでぼくは、進行する者と後退する者で部隊を二手に分けた」
「それで人手は足りてたのか?」
「少なくとも、頭数は想定内だった。むしろ多すぎたくらいだったんだ。だから分ける決断をした。それからぼくたちの隊は進行した。半日ほど歩き、湖の近くまで進行したぼくたちはテントを立て、その間に哨戒を出した。湖に人影があるか、危険そうな場所はあるかの確認を念入りに行っていたんだ。その間、村の方向を見るとまだ火の手は収まる雰囲気はなかった。むしろ酷くなっているようにさえ感じた。それでも、もうここから下山することはできなかった。下山のルートは一つしかなかったからね。荷物のない後退組は、早ければ半日もあれば村にたどり着いて、しかるべき場所に救援が求められるはずだった。しかし、その救援は、いつまで経っても来なかった。そうこうしている間に哨戒との連絡時間が過ぎ、自分たちもこの火事に巻き込まれるのではないかと恐怖が隊員達の表情に見えたよ。そしてある若者が単身で調査に乗り出した。さっさと仕事を終わらせてとんずらしよう、その方が安全だと思ったのだろう。けれど彼に感化されて離隊した若者達は、その後決して本隊に戻ってくることはなかった。山火事が一気に風に煽られて、今まで見下ろしていた森から炎が上がってくるのが見えた。ぼくら本隊も全く安全ではなくなった。ぼくは撤退を決めていた。炎の煽りを避けるために、数時間はかかるが谷を通って山の逆側に出るのが隊員の命を守るためには必要だった。調査は燃えた後でやればいい。哨戒たちが帰ってこないのが気になったが、谷に向かうには一旦湖を通るしかない。ぼくらは急いで湖に向かった。深い緑の斜面には、野生動物たちがぼくらと一緒の方向に向かって走っていくのが見えた。湖にさしかかる頃、違和感があった。湖の周辺の方が激しく燃えていたからだ。出火はどう見ても村の方向からだったはずだ。なら、なぜ直線距離で最も遠いはずの湖がこんなに燃えているのだろう――」
「――」
「ぼくらは湖を横切るためにその脇を通っていたんだ。炎はどんどん強くなっていく。その時だった、湖に小さな家が見えたんだ。ぼくは誰かがいないか確認するためにバディを伴って本隊を離れた。この湖畔に住んでいる人間がいるのは聞いていなかった。ひょっとすると標的のものかもしれないが、標的だってバカじゃない。命に関わる火災を目の前にして交戦を選ぶはずはない――。そう考えて、ぼくは家屋の中に人がいないかを捜した。しかし人はいなかった。形跡として人間二、三人がこの場所で生活していたように見えた。子供がいるのがわかった。きっとこの家に住んでいた家族は逃げ出したのだろう、そう思って家を出た矢先だった。ぼくの目に信じられない光景が映った」
「信じられない光景?」
「目の前の湖に、ぼんやりと立っている女性がいたんだ。半透明の羽虫のそれに似た羽根があった。人の姿をしていたが、人の貌をしていたかはわからない。奇妙な光景にぼくは立ちすくんだが、ぼくはできるだけほとりに近付いて呼びかけた。『ここにいては危ないんだ! 逃げてくれ!』その時だった。女性がこちらを向いた、と思った。けれどぼくはどこかから攻撃されて視界を失って倒れ込んだ。身体が横向きに吹き飛んだのがわかったよ。とにかく起き上がって素早く周囲を確認すると、バディがぼくの隣に立っており、真っ黒い髪をした男がぼくらの三メートル先にいた。その男は血走って充血した目をしており、一目でぼくはその男がカリナだとわかった。ぼくがさっきまで立っていた場所にはひしゃげた金属片のようなものが大量に刺さっており、バディはぼくを守ってくれたのだと気付いた。その男は、『娘はどこだ! なぜ森に火を放った! そこまで俺が憎いのか!』と剣幕で叫んだ。もちろんぼくらはそんなことは知らない。けれど彼の瞳には交戦の意志があった。服装でよそ者だと理解して、ぼくらが犯人だと決めつけているのだろうが仕方がなかった。命に関わるとしても、撤退は難しい。こちらには地の利がない。腹を決めて、ぼくとバディは仕掛けた。人数差がある時は仕掛けた方が有利になるからね」
 息をのむ音が聞こえた。
「結果から言う。ぼくはカリナに負けた。完膚なきまでに負けた。バディはぼくを逃がすために戦ったが、火事で亡くなっただろう。――カリナは特殊な術を身に着けていた。人体の限界を超えた、時計の針を早回しにしたような動きをしたんだ。バディはその筋の天才肌だったからなのか、インチキじみた動きにも付いていっていたが、ぼくには無理だった。……凡庸だったからね。ぼくは負けて逃がされて、ようやっと谷へ向かうことができた。けれど森に入って、若い隊員達の死体を見つけた。ここまで来る途中でカリナに殺されたのだろう。ぼくは一人になって、必死に谷を伝っている時のことだったところにまた異変が起こった」
「……」
「爆発の音があった。岩肌の犇めいた青い尾根からそれを見ていたぼくは、眼下の湖が爆発と共に決壊して、水が轟きを伴って土砂を巻き込んで、村を飲み込んで行く様子が見えた。絶望的だった。村の立派な小高い孤児院は最初は土石流に耐えていたが、ぼくが尾根を登り切る頃には、跡形もなく消えていた。生き残っている者はいなかっただろう。その頃には夜のとばりが降りていた。村の最後の火が飲み込まれて消えた頃、ぼくは目指していた場所に辿り着いた。そこには、小さな穴蔵のような一晩過ごせそうな岩洞があった」

 一木は息を入れて、決心して言葉を紡ぐ。

「ぼくが入ろうとすると、怯えた少女がいた。その子はね、ボロボロの服と傷だらけの身体でぼくのことを睨み付けていた。白い髪に、ピンクの瞳――」
「!」

 抑えきれずに声が漏れた。

「ああ。それが彼女だったんだ。礼香ちゃん。あの山火事では誰も生き残らなかっただろうと思い、ぼくは夜間に彼女を背負って反対の斜面を時間をかけて下山した。そこで組織の人間に連絡を取って帰還したんだ」
「探しに、いかなかったのか――? バディって、大事な相棒だったんだろ」

 瞳を絞って、一木は穏やかに応えた。

「行きたかったさ。でもぼくがバディなら、絶対に行かない。だから行かなかった。ぼくには生存者を生き残らせる義務があった。それに、ぼく一人では何も見つけられない。後はきちんと段階を踏んだ機関員達が処理してくれる――」
「でも――おじさんは……」

 しづるは一木の目線が深く沈んでいるのが見えて、口を噤んだ。

「ごめん」
「いいんだ。後に詳細が渡された。生存者はなし。土石流が酷すぎてほとんどが行方不明者で処理された。けれどいくつかの証拠から、事件の全貌はおおよそ紐付けられた。組織に対して処理を頼んでいた村人達はそもそも湖を焼いて爆破して埋めてしまおうという計画があって、準備自体は進んでいたようだった。とにかく調査してもらおうということになってぼくらが派遣されるわけだが、それによって食人や残ったカリナの事実が明るみになってくると、村人達はその事実ごと隠蔽してしまおうとぼくらの隊が発った後に湖に火を放ったんだ。けれど何かの不幸があったんだろうね――村も一緒に燃えてしまって、なんとか無事な平野に逃げ込んでいた人たちはみな誘爆した湖の土石流で埋められてしまった」
「酷、すぎる……」
「ぼくはその後三咲町に帰還した。レイカちゃんを連れて。彼女のケアをしつつ、一人で生活できるように」

 しづるは言い淀んで、ようやく口を開いた。

「なあ……なんであの子を一人にしてたんだよ、おじさん」
「ぼくが、彼女と居るのが辛かったからだ。彼女は見捨てたくない。やっと助けられた一つだけの命だ。あんな状況下で幸運にも一人だけでも逃げ切った、利口で勇敢な少女だ。それに、悠里に似てる――。けれど、ぼくのバディを殺した人間の娘だと思うと、ぼくは……どうしても彼女を直視できなかった。分からないと思う、君には。憎いんだ。ぼくには。なんの罪もないあの子がね。でも助けないわけには、どうしてもいかなかったんだ――」

 しづるは一木を見つめた。歪曲してまで謹厳にある一木の心がよく今まで崩壊せずにここに辿り着いたのか、それが不思議でならなかったからである。同時に、これは始まりでしかないことも理解していた。

「おじさん。でも、カリナは生きてんだろ――」
「ああ――。生きている。だから、更に続けよう。続けるしかない物語を」
 

「本部から送られてきた情報はそれだけではなかった」

 そう前置きして、再び一木は口を開いた。

「これはカリナ個人ついてのことだった。ぼくが見た異常なまでの彼の戦闘力、そして湖で見た謎の女性のこと。まず一にカリナの力、これはぼくらが研究しているタイプの力とは全く違う体系で現実に作用している、つまり未知のシステムで動いている術であることがわかった。焼け残った資料からは、あの湖が淀んだ超自然的な力を鎮めるための人工の湖であること、何かとの“契約”を未来に遺すためのものであったことは読み取れた。残念ながらその仔細については残っていないから、“何か”が何者であるかはわからなかったけどね。でも、まだ謎が残ってる。レイカという少女は誰の子供であるのか、という点だ、ぼくが見た湖の女性である確証がないものでね」

 しづるは一つ思い当たっていた。

「礼香さ、父親に聞いたことがあるらしいんだ。『私のお母さんって、お父さんの命を救ってくれた妖精さんらしい』ってさ。それで、お父さんが魔法使いになれたのはそのお母さんが魔法を教えてくれたからだって」
「……なるほど。超自然的存在に師事していたのか。それならある程度はぼくらでは見たことのない術を使っていても納得は出来る。しかしあの驚異的な力は、本人のセンスによるものが大きいだろう……」

 一木は考え込むように顎に手を置いた。

「でも、じゃあそうすると礼香は……半人半妖精ってことになるのか? でも、そんな交雑あり得るのか……?」
「……一応、動物図鑑に乗っていない生き物と人間の交雑が起こったという研究は見たことがある。そこについてはぼくは疑問を抱かないよ。より問題なのは――そうだな。レイカちゃんの肉体的に人間と違った部分があるのかないのか、という部分だね」
「ある。昨日の夜のことだったんだけどさ、礼香と北の湖に行ったんだよ。その時、あの子湖の上を歩いてさ、湖の水が凍っていくほどの冷気を発生させたんだ。……この傷跡はその凍傷の痕だ」

 しづるの包帯が剥がれると、赤く肉の剥がれかけた鮮やかなピンクの組織が見て取れる腕が露わになった。

「――くっ。いってぇな……」
「しづるくん……これは」

 一木は一目で腕の凍傷が二度以上のものであることが理解できた。真皮がズタズタに引き千切れて、恐らくこうして外気に触れているだけでも酷く痛むに違いない。

「これ、本当に何にも持ってない礼香がやったんだぜ。ギリギリで止められたんだけどさ、後一秒か二秒遅かったらここに帰ってこられなかった。多分、その――っ」
「しづるくん、手当を。気休めだけれどね。少し待ってくれ」

 一木は席を外してテーブルの上にクロスを敷き、しづるの腕を載せた。
 治療用具を奥の棚から取り出し消毒を行うと、一木はしづるの腕にゴムバンドを捲いた。
 注射器に小型の瓶を目視すると、それは誰が見ても分かる局所麻酔薬であった。

「ここまでしなくてもいいって……」
「ダメだよ。しづるくん、これはさっさと治療しないと腕を落とすことになる凍傷やけどだ。ここまでの範囲を損傷しておいて熱傷ショックがなかったのは幸運だよ。全く」
「一応ちゃんと融解はしたんだぜ、これでも……いっ――!」
「抗生物質は飲んだかい?」
「飲んでない……」
「腕が腐り落ちるぞ、このままだと。無菌室はないから、仕方ないけどここでやろう」
「ごめんなさい……」

 一木は処置を始め、しづるはばつの悪そうに外を眺めていた。
 鋏や薬液のふれあう無機質な音が、時針の代わりに空間の音を支えていた。
 一木は懐かしさに目を細めた。膝小僧をすりむいて涙目になったしづるを思い出したのだ。

「ごめんね、しづるくん。……元を辿れば、この傷だってぼくのせいだ」
「……んなことねェよ。誰が予想できるんだよ、助けた子供がこんな力を持ってるなんて」
「予想は出来なかったさ。でも、ぼくが全うに全部面倒を見切れていたら――こうはならなかったろう」
「ううん、その答えは違う。こうはならなかったかもしれないし、なったかもしれない、だ。わかんねえよ。もしもの話は」
「そうだね、ぼくたちは神様ではないからね」

 ガーゼに鋏が通り、肉に糸が通っていく。一木の手は精確に動き、淀みなく手当は進んでいた。

「それよりさ、気になったことがあるんだ。礼香が冷気を放った時、青い石を持ってたんだ。透明でさ――そう、礼香が握って念じると星空を空中に映し出すことが出来るんだよ。礼香はお父さんに貰った物だって言ってたな。……で、冷気がどうやらその青い石を媒介にして発生してたんだよ。叩き落とすと冷気が止んだんだ。悪い……全然まとまってないな。これって役に立つ情報?」
「もう少し教えて欲しい、それはレイカちゃんにしか扱えない物なのかい。あと材質とか、普段の温度とか」
「……手で触れた感じだと普段は常温、材質は不明だけど……そういえば切り出したままの原石みたいにゴツゴツしてたのに、中で光が屈折してるようには見えなかったな。……そう考えると特殊な物質なのかも。扱えるかどうかに関して、少なくとも俺には無理だった。父親から使い方を教わったらしいから父親は使えると推測しても良さそうだけど」
「なるほど、それは大きな情報だ。ひょっとするとレイカちゃんの母親であるところの妖精――彼女と人が交信するための重要なパーツだったか、或いは彼女にとっての核になるものだったか――まさかここで初めて聞いた情報があるとはね。ぼくもまだまだだな。ほら、治療はもう終わるよ。けど安静にしておくこと。後は……本物の医者に診て貰うべきだな」

 処置が終わり、二人は顔を見合わせて、しばし時が止まった。

「ちょっと思ってたんだけどさ、やっぱり無免許?」
「うん。無免許。実戦経験の五年以上の医者と麻酔科医に師事して教えて貰って、現場でも何度もやってるから安心してくれ」
「なんか妙に設備があるな~って前に思ってたんだけどさ。なにしてんの?! ってかこんな薬品類までどうやって……」
「一部免許以外は大体もどるさんが取得してるからね。因みに医師免許も持ってるそうだ」
「なんでもどるさん呼ばなかったの!?」
「いやだって、ぼくでもできるし、今頼み事してるし」

 しづるは頭を抱えた。あり得ない……高い学費をローンして免許を取りに行って残業代も入らないまま長時間の実習を今もなお続けているのに、こうしてそつなく重症患部の切除や縫合をこなしてしまう無免許の存在を知ると、免許の意義を考えさせられてしまう。

「ここは野戦病院かよ……」
「まあ、人類最後の砦だからあながち間違いではない気もするし、今回のは特別だよ」
「因みにぼくに教えてくれたのももどるさんだ」
「なんで教えてんだよあの人ォ! めっちゃ法令遵守しそうな顔してるのに! なんで!?」
「いやぁ、キツかったよ。腹腔鏡鉗子ってあるだろ、あの先のひん曲がって少しだけ挟む部分がついてる小さなバールみたいなヤツだよ。アレで規定誤差以内で折り鶴を七分以内に折れるようにならないと外科処置は教えないって言われてね。必死に折り紙折ったなぁ」

 処置の終わりを告げるように、ガーゼがひらひらと舞った。

「めちゃくちゃ器用だ……現役の人でもなかなかその速度では折れないぞ……」
「お陰で今では仕事の片手間小指と薬指だけでドラゴンが折れるようになった」
「いや気持ち悪ッ。折り紙の種類でドラゴンなんか聞いたことねえよ。それにこれ完全に小指と薬指が分離して動く前提の話なんだよ。普通は動かねえんだよ」
「そうかい? 訓練すれば動くようになるもんなんだぜ。それにただ折るのだけじゃつまらないだろ。飽きちゃうし」
「……もう突っ込まねえよ。おじさんはすごいなあ。ほんとに、掛け値なく……」

 呆れかえったようにしづるは表情を撓ませて、真新しい包帯に巻かれた腕を眺めた。
 ムラもなく圧迫も十分、お手本のような仕事ぶりに見える……。

「しづるくん、君は分かっているのを承知で言っておくが。普段は絶対やっちゃダメなんだぜ。緊急事態だからこそ許される運用なんだ」
「うん、わかってる。ありがとう、気持ち幾らか楽に感じるよ」
「どういたしまして。さて、随分緊張が解けた顔になったね」

 にこりと微笑みかけて、しづるははっと顔をあげた。

「力みすぎもダメだよ。何かあったのかい?」

 その言葉に、しづるが思い当たったのは『あのこと』だった。
 俺の日常はどこにあるのだろう――これが終わっても、終わるのか? あの場所に帰る――どこに?
 どこにも。どこにも帝都は、もう。

「帝都を、見に行ったんだ。何をするわけでもなく、見たくってさ。ここでの一件が終わったら――終わることが出来たら、また辛い研修が始まる。帝都でだ。そしたら、帝都は……」

 しづるは歯ぎしりしながら、拳を振り上げてテーブルに叩きつけた。

「っつーーー!!! ってぇ!!!!」
「落ち着いて。言葉にするんだ」
「滅んでたんだ!!! ガラクタの山だったんだ……!!!」

 どこにもやり場ない声が理科室に響いた。

「……くそっ。ああ。もう、俺の夏休みは、終わらないんだ! 終わりたくないって駄々こねてた夏休みが――終わらなくなったんだ!!! 俺は、やっぱり安心してたんだ、あの日常に。不安な瞬間にさ。だから、力が欲しいって思ったんだ。救いたかったんだ……」
「しづるくん。安心したまえ」

 眼球が一木を捕らえた。
 空は蒼く染まり始めた。夜のとばりはどこまでも深淵に空の向こうを描き出す。
 夕間暮れに万華鏡の天球達が一斉に戦慄くように瞬いた。

「どういう、意味だよ」
「良かったよ。君に日常に戻りたいという意志があって。この長い時間……雪星に浸食されながら、よくもここまで保ってくれた。意志を奪い、人を――世界を意志のない再生装置へと変える雪星の権能をここまで制限できたのは、ヤツにとっても、ぼくにとっても誤算だった。けれど不思議だね。この世界は常に誤算こそが最も大きな要素で、必然なんてその半分にも満たない要素でしかない。人間の限界を超えた奇跡の集積体、言葉にするなら運命。運命か――嫌いな言葉だ。ぼくにとっては。けど、きっとこれから好きになれる。君が変えてくれたから」
「――おじさん、何を言って」
「しづるくん。君が全てを得る方法はたった一つだ。ぼくが君にしてやれることも、たった一つなんだ。結論から言おう、この世界を壊したのは雪星だ。そしてそれを降らせたのはカリナだ。もう雪星の降ってしまったこの世界に未来はない。だからしづるくん」


“君が過去に帰って世界を、分岐させるんだ”


“切り捨て、再生する。世界を、書き換えよう”




しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

聖女の如く、永遠に囚われて

white love it
ミステリー
旧貴族、秦野家の令嬢だった幸子は、すでに百歳という年齢だったが、その外見は若き日に絶世の美女と謳われた頃と、少しも変わっていなかった。 彼女はその不老の美しさから、地元の人間達から今も魔女として恐れられながら、同時に敬われてもいた。 ある日、彼女の世話をする少年、遠山和人のもとに、同級生の島津良子が来る。 良子の実家で、不可解な事件が起こり、その真相を幸子に探ってほしいとのことだった。 実は幸子はその不老の美しさのみならず、もう一つの点で地元の人々から恐れられ、敬われていた。 ━━彼女はまぎれもなく、名探偵だった。 登場人物 遠山和人…中学三年生。ミステリー小説が好き。 遠山ゆき…中学一年生。和人の妹。 島津良子…中学三年生。和人の同級生。痩せぎみの美少女。 工藤健… 中学三年生。和人の友人にして、作家志望。 伊藤一正…フリーのプログラマー。ある事件の犯人と疑われている。 島津守… 良子の父親。 島津佐奈…良子の母親。 島津孝之…良子の祖父。守の父親。 島津香菜…良子の祖母。守の母親。 進藤凛… 家を改装した喫茶店の女店主。 桂恵…  整形外科医。伊藤一正の同級生だった。 秦野幸子…絶世の美女にして名探偵。百歳だが、ほとんど老化しておらず、今も若い頃の美しさを保っている。

意味がわかると怖い話

井見虎和
ホラー
意味がわかると怖い話 答えは下の方にあります。 あくまで私が考えた答えで、別の考え方があれば感想でどうぞ。

呪縛 ~呪われた過去、消せない想い~

ひろ
ホラー
 二年前、何者かに妹を殺された―――そんな凄惨な出来事以外、主人公の時坂優は幼馴染の小日向みらいとごく普通の高校生活を送っていた。しかしそんなある日、唐突に起こったクラスメイトの不審死と一家全焼の大規模火災。興味本位で火事の現場に立ち寄った彼は、そこでどこか神秘的な存在感を放つ少女、神崎さよと名乗る人物に出逢う。彼女は自身の身に宿る〝霊力〟を操り不思議な力を使うことができた。そんな現実離れした彼女によると、件の火事は呪いの力による放火だということ。何かに導かれるようにして、彼は彼女と共に事件を調べ始めることになる。  そして事件から一週間―――またもや発生した生徒の不審死と謎の大火災。疑いの目は彼の幼馴染へと向けられることになった。  呪いとは何か。犯人の目的とは何なのか。事件の真相を追い求めるにつれて明らかになっていく驚愕の真実とは―――

フェイタル・アトラクション~「長い旅の始まり」が意味するもの

夢織人
ミステリー
昨年、謎の死をとげた韓流スター、ソン・ジェリムに関する考察であり、ミステリー小説。そしてエッセイです。 私は彼の死を、メディアで報道されたり、噂されていたようなものではなく、命をかけた愛の告白だったと思っています。そして実在した人物なので、創作という形でしかその真実に迫ることは出来ないと思い、こうして書いています。 前途有望だった韓流スターは、なぜに自ら死を選ぶような決断をしたのか? 「ダビデの再臨」と謳われたモデル出身の美青年が、本当に恋して愛した心の恋人は、いったい誰だったのか?

規則怪談:漆黒の山荘

太宰菌
ホラー
温泉山荘の規則は以下の通り、厳守してください。規則を守らない者は、それに同化され、永遠に山荘から離れることができない!

心を病んだ魔術師さまに執着されてしまった

あーもんど
恋愛
“稀代の天才”と持て囃される魔術師さまの窮地を救ったことで、気に入られてしまった主人公グレイス。 本人は大して気にしていないものの、魔術師さまの言動は常軌を逸していて……? 例えば、子供のようにベッタリ後を付いてきたり…… 異性との距離感やボディタッチについて、制限してきたり…… 名前で呼んでほしい、と懇願してきたり…… とにかく、グレイスを独り占めしたくて堪らない様子。 さすがのグレイスも、仕事や生活に支障をきたすような要求は断ろうとするが…… 「僕のこと、嫌い……?」 「そいつらの方がいいの……?」 「僕は君が居ないと、もう生きていけないのに……」 と、泣き縋られて結局承諾してしまう。 まだ魔術師さまを窮地に追いやったあの事件から日も浅く、かなり情緒不安定だったため。 「────私が魔術師さまをお支えしなければ」 と、グレイスはかなり気負っていた。 ────これはメンタルよわよわなエリート魔術師さまを、主人公がひたすらヨシヨシするお話である。 *小説家になろう様にて、先行公開中*

処理中です...