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第46話 残滓
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「しづるさん、お話したいことがあるんです」
家に戻った礼香は、雨滴を頬から伝わせてそう言った。
「私、しづるさんにちゃんと伝えていなかったことがあるんです。私の両親のことで、伝えるべきだったこと……」
「え……なんだ?」
固く口を引き絞って真っ直ぐとしづるを突き詰めた瞳はしづるを怯ませるものではあったが、余勢を駆る程の眼力は逆にしづるを安心させるものでもあった。
「私、お父さんが魔法使いだったってお話はしましたよね」
「ああ、そう言ってたな」
「もう一つだけ家族のことで知ってることがあります。隠してたわけじゃないですけど、蕾と喧嘩した理由だったから、なんとなく言い淀んでました」
妙にあっけらかんと言い放つ礼香に少々驚きつつも、彼はその言葉に頷いた。
「な、なんですかその顔。私の顔に何か付いてますか? なんでそんなにちょっと腫れ物を見るような目で私を見るんですか。やっぱり急に走り出したから『このクソガキが……』とか思っていらっしゃるんですか。そうですよね、身体に無理いわせて踏切まで来てくれたんですもんね、ごめんなさい……昔から要らないことばかりするからよく怒られてたのは覚えてるんです……気を付けてたのに、またやっちゃったんだ……」
凜とした顔でへにょへにょといつも通りの調子に戻っていく背中に、一抹の礼香らしさを感じながらしづるはほんの少し微笑み、またしづるもなんとか空気を弛緩させようと口を開いた。
「ああいや、全然悪く思っちゃいないよ。むしろいつもよりも落ち着いて話してたからなんだか礼香らしくないなって思ったんだ。それで、その、なんだ家族のことについてまだあったんだな。できることなら知っておきたいから話してくれないか? もう何があっても驚かないぞ、もう既に大体の驚くことは経験してるからな。今ならヴント錯視が実は線を歪めて作っていたやらせだって聞いてもオブラートが実は食べられない紙だったって聞いても驚くことはない」
しづるは背筋をぴんと張り、わざとらしく言葉を待ち受けた。
「……っ。じゃ、じゃあ話しますよ? いいですね」
「ああ、大丈夫だ。なんでも来い」
「お父さんが言ってたことなんですけど、私のお母さんって、お父さんの命を救ってくれた妖精さんらしいんです。お父さんが魔法使いになれたのは、その妖精さん――まぁ、私から見ればお母さんなんですけど――が魔法を教えてくれたからでって。だから、なんていうか、その。私も完全に信じ切っているわけではないんですけど、もしお父さんの言葉が本当なら私って、妖精さんと魔法使いの子供になるわけで……いや、その」
言葉の途中でしづるはふらりと揺れた。それにしづる自身が気付いたのは、一呼吸置いての後のことだった。思考は礼香が湖で放ったあの冷気のことに焦点が合っていた。しかし同時にそこが限界でもあった。
「ごめん、足が痛くてさ。ちょっと、座ってからでもいいか――?」
「あっそうですよね、ごめんなさい……っつつ」
礼香はしづるに歩み寄ろうとして、足が動かずにその場で尻餅をぺたんとついた。
「うッ――」
しづるも靴を脱ぎ框を踏んだ瞬間にぐらりと吸い込まれるようにフローリングに倒れ込んだ。
「はなし、後にするか、ごめん」
「そうしましょう……私も、なんだか、動けないや……」
――――――
「イチくん、いいかしら」
ノックをしたが反応はない。
「イチくん、時間よ」
もどるは外鍵をマスターキーで開けると、部屋の中で額縁を見つめて茫洋と立ち尽くす一木を認めた。
「悠里ちゃんは?」
「今は眠っている」
「その絵は?」
一木の眼前には深海の瑠璃のグラデーションに螺鈿の煌びやかな粉末を散らしたような夜空が描かれている一枚の絵画があった。ゴッホの星月夜をイメージさせる書き味だが、画材は絵の具を少々にほとんどは色鉛筆とマーカーだ。けれど時折見慣れないアクセントがある。マーカーの上に顔料を載せて描いたようだ。
筆致は――はっきり言って駄作のそれである。焦った指先の『よれ』を随所に感じる。コンディションが完全でなかったのだろうか、意図しない滲みが色彩の境界を侵している。即興絵画にも見えないことはないが、それにしては持っている雰囲気が丁寧すぎてちぐはぐである。
「――いい絵だろう。ついさっき、ぼくの終生の宝物になった絵なんだ」
「……もしかして、それ悠里ちゃんの持ってきた」
「ああ。ぼくのために書いてきてくれたんだ。もうほとんど雪の影響で前も見えなかったろうに」
一木はただ一人誰にも聞かれていないように呟いて、振り向いた。光の加減か瞳が輝いているように見えた。
「そう、それで星の絵なのね」
「悠里を助けたい」
「私もよ。きっとしづるくんもそうでしょう」
廊下に出た一木の後ろをもどるが付いていく。
コツコツと反響する音は二つだ。余りにも聞き慣れた音で、もう直に聞けなくなる音だった。
「日が昇ってきたね」
「ええ、最後になるのかしら」
「明日の朝日は拝めないだろうなあ。……いや、むしろぼくは拝みたくないのだけどね」
背伸びをしながら一木はもどるに視線をやった。
「でしょうね。それができれば長い長い悲願の達成なのだから。あなたも罪な人ね」
「その分の罰は受ける覚悟があるさ。死後の世界なんて空想が存在すればの話だけれどね」
「あら、あって欲しいの?」
「ごめんだね。きっと購い切れないし、それにヤマでもオフルマズドでもぼくの裁きには結構な調査時間を要するだろう。途中で投げちゃうかも」
「まあ、それはそうかしら。ところで、教会のハイパーボリアンの基地のことなのだけれど――」
家に戻った礼香は、雨滴を頬から伝わせてそう言った。
「私、しづるさんにちゃんと伝えていなかったことがあるんです。私の両親のことで、伝えるべきだったこと……」
「え……なんだ?」
固く口を引き絞って真っ直ぐとしづるを突き詰めた瞳はしづるを怯ませるものではあったが、余勢を駆る程の眼力は逆にしづるを安心させるものでもあった。
「私、お父さんが魔法使いだったってお話はしましたよね」
「ああ、そう言ってたな」
「もう一つだけ家族のことで知ってることがあります。隠してたわけじゃないですけど、蕾と喧嘩した理由だったから、なんとなく言い淀んでました」
妙にあっけらかんと言い放つ礼香に少々驚きつつも、彼はその言葉に頷いた。
「な、なんですかその顔。私の顔に何か付いてますか? なんでそんなにちょっと腫れ物を見るような目で私を見るんですか。やっぱり急に走り出したから『このクソガキが……』とか思っていらっしゃるんですか。そうですよね、身体に無理いわせて踏切まで来てくれたんですもんね、ごめんなさい……昔から要らないことばかりするからよく怒られてたのは覚えてるんです……気を付けてたのに、またやっちゃったんだ……」
凜とした顔でへにょへにょといつも通りの調子に戻っていく背中に、一抹の礼香らしさを感じながらしづるはほんの少し微笑み、またしづるもなんとか空気を弛緩させようと口を開いた。
「ああいや、全然悪く思っちゃいないよ。むしろいつもよりも落ち着いて話してたからなんだか礼香らしくないなって思ったんだ。それで、その、なんだ家族のことについてまだあったんだな。できることなら知っておきたいから話してくれないか? もう何があっても驚かないぞ、もう既に大体の驚くことは経験してるからな。今ならヴント錯視が実は線を歪めて作っていたやらせだって聞いてもオブラートが実は食べられない紙だったって聞いても驚くことはない」
しづるは背筋をぴんと張り、わざとらしく言葉を待ち受けた。
「……っ。じゃ、じゃあ話しますよ? いいですね」
「ああ、大丈夫だ。なんでも来い」
「お父さんが言ってたことなんですけど、私のお母さんって、お父さんの命を救ってくれた妖精さんらしいんです。お父さんが魔法使いになれたのは、その妖精さん――まぁ、私から見ればお母さんなんですけど――が魔法を教えてくれたからでって。だから、なんていうか、その。私も完全に信じ切っているわけではないんですけど、もしお父さんの言葉が本当なら私って、妖精さんと魔法使いの子供になるわけで……いや、その」
言葉の途中でしづるはふらりと揺れた。それにしづる自身が気付いたのは、一呼吸置いての後のことだった。思考は礼香が湖で放ったあの冷気のことに焦点が合っていた。しかし同時にそこが限界でもあった。
「ごめん、足が痛くてさ。ちょっと、座ってからでもいいか――?」
「あっそうですよね、ごめんなさい……っつつ」
礼香はしづるに歩み寄ろうとして、足が動かずにその場で尻餅をぺたんとついた。
「うッ――」
しづるも靴を脱ぎ框を踏んだ瞬間にぐらりと吸い込まれるようにフローリングに倒れ込んだ。
「はなし、後にするか、ごめん」
「そうしましょう……私も、なんだか、動けないや……」
――――――
「イチくん、いいかしら」
ノックをしたが反応はない。
「イチくん、時間よ」
もどるは外鍵をマスターキーで開けると、部屋の中で額縁を見つめて茫洋と立ち尽くす一木を認めた。
「悠里ちゃんは?」
「今は眠っている」
「その絵は?」
一木の眼前には深海の瑠璃のグラデーションに螺鈿の煌びやかな粉末を散らしたような夜空が描かれている一枚の絵画があった。ゴッホの星月夜をイメージさせる書き味だが、画材は絵の具を少々にほとんどは色鉛筆とマーカーだ。けれど時折見慣れないアクセントがある。マーカーの上に顔料を載せて描いたようだ。
筆致は――はっきり言って駄作のそれである。焦った指先の『よれ』を随所に感じる。コンディションが完全でなかったのだろうか、意図しない滲みが色彩の境界を侵している。即興絵画にも見えないことはないが、それにしては持っている雰囲気が丁寧すぎてちぐはぐである。
「――いい絵だろう。ついさっき、ぼくの終生の宝物になった絵なんだ」
「……もしかして、それ悠里ちゃんの持ってきた」
「ああ。ぼくのために書いてきてくれたんだ。もうほとんど雪の影響で前も見えなかったろうに」
一木はただ一人誰にも聞かれていないように呟いて、振り向いた。光の加減か瞳が輝いているように見えた。
「そう、それで星の絵なのね」
「悠里を助けたい」
「私もよ。きっとしづるくんもそうでしょう」
廊下に出た一木の後ろをもどるが付いていく。
コツコツと反響する音は二つだ。余りにも聞き慣れた音で、もう直に聞けなくなる音だった。
「日が昇ってきたね」
「ええ、最後になるのかしら」
「明日の朝日は拝めないだろうなあ。……いや、むしろぼくは拝みたくないのだけどね」
背伸びをしながら一木はもどるに視線をやった。
「でしょうね。それができれば長い長い悲願の達成なのだから。あなたも罪な人ね」
「その分の罰は受ける覚悟があるさ。死後の世界なんて空想が存在すればの話だけれどね」
「あら、あって欲しいの?」
「ごめんだね。きっと購い切れないし、それにヤマでもオフルマズドでもぼくの裁きには結構な調査時間を要するだろう。途中で投げちゃうかも」
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