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第45話 燐火

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 異変に気が付いたのは、自由には動けないはずの少女と自分という傷病人しか居ないはずの家で、ドアが烈しく開けられた音を聞いたからであった。
 昨晩明けてなお重傷だった桜庭しづるは、ふと気になって階段の上から玄関のドアを見たのである。
 ドアは開きっぱなしになっており、重苦しく湿った熱風が空を切り、二階まで上昇気流を伴って青い渦を巻いていた。

「礼香――ッ」

 しづるは礼香が思い詰めた可能性を考えた。
 昨日の夜、礼香には彼女の弟の遺品であるだろう手紙を渡していたのだ。

「くそっ……俺のせいか――!」

 桜庭しづるも、身体を引き摺って駆け始めた。
 ドアから出ると、そこには潮の香りと淡く昇った燐光を放つ太陽があった。

「どっちだ……!」

 辺りを見回すと、もう既に礼香は遠くに見えた。
 普段の足ならばいざ知らず、凍傷に侵された肉体にはその道のりは過酷だ。
 だが桜庭しづるはその背中を追った。
 篠月交差付近を通り抜け一過。珍しく雨は降らない。礼香はその先へその先へ真っ直ぐと、迷わず駆けていた。
 その背中はもう既に終えない距離にある。
 光に刹那の影が宿る。桜庭しづるは、ある光景を追想していた。

「初めて出会ったあの踏切――。あの場所だ」
 
 轟音を立てながら近寄る車輪がレールの赤錆びた轍を噛んでいる。
 打ち棄てられたくず鉄がバラストに馴染んで所在を消した。
 道行く人たちはどこにかいかんと忙しく歩き、時計の針が進むのは早い。
 瞳には時計が映る。ドットで、或いは液晶で、或いは時針が指し示すものを。

「あっ」

 そこに居合わせた全ての人が一様に同じ声を上げた。
 そして居合わせた全ての人の時が一様に止まった。
 警報の鳴り響く踏切の中、少年がぽつんと一人、呆然と立ち尽くしていたのだから。
 ある賢明な男性は非常停止ボタンを探した。
 ある恐怖に捕らわれた女性はその場で目を塞いだ。
 ある悪意ある人はその姿に崇高な高貴を見た。
 この踏切は、これより数秒後に時が止まる。
 それは凄惨な事故が起こるからだ。この事故の現場に居合わせた人の中には、PTSDによるフラッシュバックで二度と電車に乗れなくなった人さえいる。
 ――今から語るが、これはあえて詳細を記述しないでおこうと思う。
 それは俺が見ている光景が、あくまでも後に調べてわかった事実とその場所で確かに見た夢のような現実をすりあわせただけの凡そ推測に近い現実度で語られたことであるからだ。

 礼香に置いていかれたまま動けなくなった俺は、そのまま車に乗り換えることにした。
 行く先は既に一つであることが言外にわかったからだ。
 礼香が何を握ったのか、それはあの子に渡した手紙を読んでいない以上俺には知りようもないことだが、彼女が家のどこに居たのかは、開け放たれたドアから想像が付いた。
 物置だろう、中の抽斗からは地面へアルバムが落ちておりそれはどうやら彼女とその弟、御園蕾を映したものであることがわかった。
 指先で一枚ページをめくってみると、そこには少年が姉に宛てた小さなメッセージがあった。
 もう一枚めくり上げると、汗だらけになって映る少年の写真があった。日付には八月二十三日――
 そういうことか、と納得して車に乗り込み、俺は急いで踏切へ向かった。
 しかし、決してあり得るだろうか? 既に起きてしまった事故の現場へ走って行くなど。
 到底正気とは思えない行動だが、彼女にとってそれほどのメッセージがあの中にあったのだ。
 そこから踏切前までのことについて、特に語ることはない。
 告げられた異常な世界のあり方も、今この場の俺へと影響は与えていなかった。
 むしろ余りにも静かでいつも通りのこの世界は怖いくらいに古色蒼然としていて、もし何も言われなければ俺もこの世界の一員となって左右へ流れていく人並みと何も変わらぬ時間を送っていただろう。
 俺は踏切に至る曲がり角で車を駐めた、ここからなら踏切まで歩いて行けるだろう。
 体中の軋む痛みを堪えて進む。角を曲がると、視界は開けた。呆けたような空だった。
 細く棚引いた雲のどこまでも続き、朝の日差しは緩い楕円を描いて遠くへ弧を伸ばしている。
 その地上には、傾斜のきついなんら変わらぬ見飽きた踏切の姿があった。
 礼香も少年もいないように見えた。通勤の時間帯で往来の人通りは騒がしい。
 俺はほんの数十メートルの移動であったが、息がかかっていた。
 人通りの多い場所では流されてしまうのも必定であろうと考えて、表通りから一本入り組んだ場所で待機して後から来るであろう礼香を待ち受けていた。
 赤茶けたアーケードの手すりに腰掛けて、踏切を見渡す。

「……」

 その時のことだった、踏切の正面はまるで薄いシャボン玉の膜が掛かったように燐光して見えた。
 俺はその時の視界情報については、自分の疲れを疑っていた。……実際に重労働が続いたし、怪我も酷かった。
 けれどやがて、それは視界情報の齟齬ではないことが理解できた。
 その膜は押したり寄せたりしながら踏切を包み込み、その間を通りすぎる人やもの飲み込んだり吐き出したりするのだが、その度にその場所を通った人々の服装や髪型を変えていたからだ。
 その光景はまるで特殊な映像加工を施したような珍奇なものであると同時に、俺の思考の中にある予感を感じさせるものであった。
 ともかくも観察を続けていると、俺はその膜の『向こう側』にある光景についてある閃きを得た。
 通り過ぎる人々は、一様にある規則性を持って通り過ぎていく。
 つまり、こういう光景であった。
 あちら側からこちら側に来る人の身なりは流行り物に替わり、こちら側からあちら側へ行く人の身なりは一昔前に戻っているわけである。
「膜を起点にしてあちら側に映っているものは――過去の映像になるのか。実際に存在しているかを確かめに行くべきか? ……いや、危険だ」
 できれば調査したいところではあったが、何が起きるか分からない以上アレに触れることは得策ではない。
 観察だけに済ませるのが吉であろう結果に至った辺りに、俺は遮断機の音が鳴り始めたのを聞いた。
 カン、カン、カン。
 赤い踏切灯が点る。
 遮断機が下りる。
 これでこの線路内は立ち入り禁止となった。文字通り、誰も立ち入ってはならぬ領域である。

「雨――!?」

 奇妙にも降り始めた雨は、急激に勢いを強めた。
 妙な緊張感があった。

「起こらない。そんなことは……決して、その筈だろう……」

 膜――過去の映像を映している。写真――本日を指す記載。そして時間――この時間は。

「礼香と俺たちが、会った時間の、たった一分前、か」

 手が冷たい汗で濡れていた。全ての状況証拠がそれの到来を示唆していたが、そんなことは起こりえない。
 だが、俺はもう心で否定することはできなかった。
 それが目の前で起こることは、この数日で嫌というほど分からされてきた。
 最初の異常は、膜の向こう側の背景で起こった。
 怒号だった。遮断機の音に掻き消されて内容は分からない。
 それでもこの位置からなら、青年達が踏み切り前で所狭しと並んだ人混みに迷惑にも突っ込んだことは確認できた。
 隻腕の青年、背高のっぽとその足下で進もうとこじ開ける小柄な青年。
 彼らは踏切の先頭に押し入ろうと必死に人混みを散らせては掻き分けて前へ進む。

『蕾――ッ! こっちを見――っ』

 なおも高く鳴り響く遮断機に、鉄が鉄を噛む音が加わった。か細い少年達の叫びは消え入った。
 地響きに近く不気味な鉄塊が正面に駆けてくる。
 俺の身体は自然に前へと乗り出して踏切へ向かっていた。
 次にやってきたのは、その場に居合わせた人間の悲鳴の連鎖だった。
 響めくような声が踏切を満たした。
 誰しもがその少年を見守っていた。
 なぜ飛び出したの――? どうして今この瞬間――? 
 あらゆる疑問が刹那に飛び交い、誰もがその少年に注目していた。
 銀色の車体が少年の真横から進行していた。その間はどれくらいあったろう。
 明らかに誰も間に合わない。
 そこには医師、救急救命士、スポーツ選手、サラリーマン、青年、学生、あらゆる人間がいた。
 けれど一様にみな、その命に目を閉ざした。みなが哭してその様を見守るしかなかった。
 誰が見ても不可能であったのだから、そうするしかなかった。
 けれど、桜庭しづるという男はそこから動いていた。
 彼を救ってやりたい。
 誰もが見捨てたって、俺は助けてやりたい。
 病的な衝動であると自覚していた、それでも一線は越えない――俺には理由があるから。けれど目の前にした時、そんな一線は吹き飛んでいた。
 助けてやりたい。その気持ちが何に替えられる。きっとできる、できないはずがない。
 膜の向こう側では先ほどの青年の一人が遮断機の間から飛び出そうとしているところだったが、二人に羽交い締めにされて叫んでいた。
 急ブレーキの金属を引き裂いたような嘶きが更に悲鳴を大合唱にして絶望を振りまいた。
 けれど俺はもう止まれなかった。
 ここで止まったら、助けられないのだから。
 俺は、そんな生き方は――できない!
 全速で駆ければ、俺は無理でも御園蕾くらいは重傷で済むかもしれない。

「蕾――!」

 高い声と同時に脇を誰かが抜けた。
 艶めく銀色の髪を振り乱して、その絢爛たる瞳には決意の紫電を纏わせている。

「礼香……っ」

 俺の足は瞬間的に速力が落ちた。
――間に合わない。
 本能的に悟っていた。
 けれど礼香は必死に駆けていた。
 壊れそうなガラスの足で轍を踏み抜き、死も恐怖も擲って走った。
 世界の時計を追い越して、礼香は飛び出した。
 目の前に広がるシャボン玉の膜一枚の先に少年はいた。
 俺は確かに見たのだ。
 その少年が礼香を認めると、薄く小さな花弁の唇を震わせて確かに呟くのを。
 愛しそうに、『ねえね』と呼び慣れたその形で。
 そして俺に一瞥だけをくれて、笑顔と共に『御園蕾』という少年は俺に一縷の意志を託して――。

「――ッ!」
 
 
 
『今日は、生きていて一番悪くて良い日でした。
 夢なのか、現実なのかわかりませんが、ねえねにもう一度、もう一度だけ会えました。
 ぼくが誰なのかも知ることが出来ました。
 願いは全て叶いました。
 ただ、ぼくはもう生きていることはできないようです。』

 何も見えません。
 身体はどこも動きません。

「蕾ッ! 大丈夫か!? おいオオスカ早くしろ! 安心しろ、なァ、すぐ助けてやっからな――絶対だ! 約束してやる」
「やってるァ! けどもう全然動かねェんだァ――! 動け、動けェ……!!!」

 痛みもありません。
 けれど仲間の声が聞こえます。

「血が止まらねえ――っっっっっっっくそぉおおおおッ! 止まれ……止まれよ――ッ!」
「蕾、しっかり気を持て。『ねえね』のところに帰るんだろう? ほら、気をしっかり持てッ! ほら! こんなところで寝てる場合じゃないんだ。俺の命令だぞ!」

 嬉しいなあ。
 ぼくのためにこんなに必死になってくれる人が、この世界にはいっぱいいたんだ。
 
『今、少しだけ後悔があります。
 それはねえねにもっと思いを伝えることができなかったことです。
 大好き、ありがとう、元気でいてね、一緒にいるよ。
 きっとあの時もっとねえねと話せていれば――
 少しでもこの現実が変えられたんじゃないかなって。』

「ダメだ――どんどん心臓の、心臓の動きがァ……うぅッ」
「諦めるな! また仲間を失うつもりか! 中西と同じことは二度と許さんぞ! 俺達は前に進むのだ――!」
「くそっ蕾――ッ! 死ぬなっ……死ぬなっ……もう一回……ッもう一回目を開けろ――!」
 
『少しでも、ねえねに何かを遺したかった。
 ぼくが御園蕾であれる内に。
 ねえねと一緒に向日葵の前で笑っていられた内に。
 ただ今ぼくがねえねにできることは――』

 何も聞こえない。
 けれどきっと仲間達が呼んでくれている。
 ぼくは一人じゃない。
 ねえねも、一人じゃない。
 きっと、一緒にいます。

『今までありがとう、きっと、元気でいてください。
 ぼくはねえねに願いを懸けて――この思いが届きますように』
 

 あの光景を、俺――桜庭しづる――はいつまで経っても上手く説明できないだろう。
 礼香を引き留めて、けれど余力で礼香の指先が膜に触れた瞬間のことだった。
 膜は一瞬で破れて消え去り、その直後には電車の行き過ぎる轟音が酷く耳を劈き、路傍の植え込みに飛び込むように俺達は倒れ込んだ。
 瞬間の気絶の後に目を覚ました俺は、視界の先にやはりいつも通りの踏切を見た。
 雨の中に二人だけが取り残されてしまったように、礼香は唇を噛んでこちらを見た。
 肩を震わせて、まっすぐと見つめて。

「しづるさん――!」
「……あぁ」
「……行き、ましょう」

 それ以上礼香は何も喋らなかった。
 失意に捕らわれて言葉を失っていた俺に比べて、礼香は泣きも呻きもしなかった、ただ唇を噛んで、肩をふるわせて懸命に立ち上がり、ゆっくりとでも足を引き摺って歩き出した。
……きっと泣き出したかったに決まっている。きっと叫んで気が済むまで暴れて、動けなくなるまでおかしくなってしまえた方が楽だったに決まっているのに。
……それでも彼女は泣かなかった。ただ、前に歩き続けた。

「礼香、強いんだな」
「――お姉ちゃんだから。わたし、蕾のお姉ちゃんだから!」

 震えた声で礼香は言い放って、俺達は踏切を後にした。
 空に虹は架からない。
 立ちこめた暗雲は消えない。
 それでも今は、受け取った思いがここにある。
 ……進むのだ。
 


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