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第37話 沖天
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「ミソノライくん。――。御園蕾くん――おはよう、目覚め給え」
激しい逆光に網膜を焼かれる。その大人はぼくの頭に左手で緩やかに掴んでいた。
「君は誰か、どこから来たか覚えているかい?」
人間がいた。真っ黒いシルエットに小さく眉根を寄せて頬に皺が寄っていた。
片眼だけが開いていた。その瞳は恐ろしく冷たかった。死体のようだった。
「ぼくは蕾――。御園蕾。ぼくは欧州の小さな森の中の村から来た。姉がいる。帰らないといけない」
刻み込まれた皺は緩やかに解け、その男は左手を離した。
「餞別だ、持って行き給え。尤も、それを使う段になれば君ではなく僕が出ることになるだろうがね――」
男は小さな紙に書かれた文字列をぼくのポケットに突っ込んだ。
メグセ・ヌェゥト・ゲブラー――日本語ではない。しかしそれは始めてみた瞬間からぼくの脳に刻み込まれていた。
「さあ、君に今から御薗礼香への家の地図を渡す。そこに向かうんだ。地図はあるから、それを頼りに家へ帰るんだ。ああ、君はそういえば、姉のことをなんと呼んでいたっけ。『ねえね』だ。そう……思い出したかね?」
「はい。早く、帰らないと――ねえねが寂しがってる」
「――ああ。行き給え」
「っと――」
空が白み始めた頃、ぼくは旧駅舎の拠点で靴紐を結び直していた。風通しの良い旧駅舎は、夏の暑い日でも余り熱が籠もらない。予め持ってきた洋服の予備も、破裂した水道管を使用すればある程度新鮮な水で洗うことが出来た。
今回家から出るにあたって既に食料の備蓄は済ませてあった、既にぼくは一人で行動することを決めていたからだ。今回の家出は、明確な目的があった。それはぼくが何者なのかを確かめること――記憶の中にあったあの大人は何者なのかを探り当てること――そこにあった。もう御園家には帰らないつもりだった。恐らく、ぼくがねえね――御園礼香と共に過ごしていられる時間はもう終わりを迎えたのだ。そして脳裏にこびりつくこの映像、ぼくの最初の記憶に現れたあの大人――。それがこのぼくの出自に大きく関わっていることには間違いなさそうだった。
その為には、誰にも見つからない拠点が必要だった。旧駅舎にはルール上誰も立ち入らない。ぼくと同じくらいの子供たちはやってくることがあるが、それは特段気にならなかった。彼らがぼくを見て家出してきた少年と疑ったところでなにも起こらない。それにここに来る彼らは賢かった、ある意味大人よりも目の前にいる人間がどのような状態にあるのか、それを察することができていた。最悪、世間知らずの少年に大人たちを呼ばれたら、そのときはもう一つの拠点に移ればいい――。
もちろん、そんなヘマをするワケはずもない、ぼくはそう確信していた。だってこんな学校のある朝っぱらから、閑散とした旧駅舎に学校という用事のある学生が――
「……いるのか」
ポツポツ、と廃線になった線路に青年たちが三人たむろっていた。彼らは煙をまとっていた。タバコである。
ぼくは目を見開いた。同時にそれは興味深い刺激でもあった。この白昼、青年たちは学校にも行かずこの何もない場所で何をしているのだろう。
……おっと、いけないいけない。ぼくの本業を見失うところだった。
今はそれ以上にするべきことがあるだろう、何を見失っているんだ――。
「おい、お前何してんだよ」
「……」
高校生くらいに見える青年が、こちらに手を振って声をかけてきた。
「来いよ!」
左右を見渡しても誰もいない。
「……ぼくに言ってるの?」
「ここにお前以外誰がいんだよ」
意外な誘いだった。ここで彼らに混ざるとどうなるのだろう。
「何かしてるの?」
「いや、んならいい。来る気がないならいいンだ!」
ぼくは無言で青年の後を追いかけた。
彼らは僕に少しずつ目を配りながら日陰のがれきの近くまで行き、どっかりと座り込んだ。
「お前、小学生だろ。どうしてこんなとこいんだよ」
彼らの中では一番小さく、少しパグのような目の離れた青年の一人が僕に声をかけた。
「ちょっといろいろあって。君は?」
青年は面食らったようにその反応を見て、ほかの二人を顔を見合わせた。
「『ちょっといろいろあって』だってよ。あはは、おもしれーぞこいつ!」
「『君は?』か、悪くねーな!」
隣にいた、背の高い痩せた大根のような青年はパグの青年と顔を見合わせて笑い始めた。
ぼくはその勢いに首を傾げ、その様を見て彼らはまた笑った。
「そんなに面白いかな?」
「いや、いや。なんでもない! げほっ。それで、そのいろいろってなんだよ」
「やめろ」
パグの青年が聞いてきた言葉は、今まで一言もしゃべらなかった真ん中の青年が低くさえぎった。
二人はその声にぴたっ……と止まって笑うのをやめた。
「いいさ。『いろいろ』あんだろ。俺たちも『いろいろ』あるんだ。不干渉としようぜ。お前も『セケンシラズ』だとは思われたくないだろ」
「……うん。いいよ。ここでは何をしてるの?」
彼らは、ここでたむろって何かをしているようだった。けれど少なくとも、彼らのなりからそれは推測できる領域はなかった。
「ここはな、秘密基地なんだよ、俺らの!」
「そう、秘密基地! 小学生ならこういうの好きだろ?」
「俺はたまらないねえ!」
「俺もだぁ! 家より快適だぜ!」
バンバンと背中を叩かれる。いわゆる男子が喜ぶ、と言われるものだろうがぼくはあまり惹かれたことがない。
「静かにしろ」
二人は低く放たれた声に萎縮するわけでもなく口をつぐんだ。
再び鎮静化された二人は、脇を締めて彼の一言を待った。
「ここではな、俺たちは次にやる大事の会議をしてるんだ」
「おおごと? かいぎ?」
「まあお前にはわからんくても無理はない。いいさ」
「そうだぜ。ボスと俺たちはこの秘密基地で日夜会議にいそしんでるんだ。大事を起こすために!」
「世界をあっと言わせるためにな!」
あっ、との部分にアクセントを持たせて、彼らは顔を綻ばせた。
「学校を休んで?」
「学校よりも俺はここが好きだね。学校は息が詰まる。あそこは生きているのに殺されてるみたいな空間だ! 死! なんと甘美な響きであろうか! その思念たるや我が心の斑紋さえ無条件で救済し、その上この恨みさえ果たしてくれんとす! ああ! 死よ!」
「学校よりもここは脅威がない。テストもなければ生活指導も、帰宅を無理強いをする教師もいない! オマケに瓶切の練習してても怒られないと来た! ああ、なぜ今頃になってあんな牢獄に? 俺はわからないね!」
饒舌に言葉を繋いでいく彼らは、心底ここで行われている大事と呼ばれている何かに陶酔しているらしかった。
「やかましいぞ」
「はいっ、ボスゥ」
二人は戯曲めいて踊りつつ歌い上げるように宣言し、すぐにボスの青年の制止に応じ止まった。
「……お前、行くアテがないんだろ。あの様子だと、ずいぶん朝方から構内に居たと見てる。俺たちのアジトだが、一室、貸してやってもいいぜ」
「貸す……?」
「ああ、貸してやってもいい」
言葉の意味理解できずに後ろを振り返る。ほとんど大きなコンクリートの塊となった旧駅舎が、赤さびた鉄骨をむき出しにしてそびえていた。少なくとも、誰かに管理されているとは思えない。
「あれは、君たちのなの?」
「いいや、だが俺たちの管轄だ」
「管轄?」
「そう! 管轄だ。ボスには従っておいた方がいいぜ。痛い目を見ることになる!」
「ああ、うちのボォスは強いんだぜ? お前くらいの小学生、キャベツでも踏みつぶすみたいにぺしゃんこだ!」
「断ったら?」
ボスと呼ばれた青年の顰蹙を買ったらしい、彼は不機嫌そうに足を鳴らし詰め寄った。
「俺に逆らうってのか?」
「いや、どうなるのか知りたくって」
「ぎゃは! やめておけ! 本当にやめとけ! ろくなことねえゾ!」
「構わん」
ピシャリ、とボスは言い切った。目線はおよそ十秒に渡ってぶつかり続けた。顔の相に浮き出ていたのは、怒りだけの相には見えなかった。
「勝手にしろ」
「でもボスぅ」
「貸してやらないとやっぱり、やばいんじゃ」
急に二人はまごまごとし始めた。何が不具合だと言うのだろう。けれどそれ以上を教えてくれるようにも思えなかった。
「知らん。そいつの選んだことだ。何が起ころうが関係ない」
「……教えてくれないの?」
真っ白い顔がひしゃりと萎びた。
「ごめんよぉ、本当になぁ」
「――だ。行くぞ!」
聞こえないほどの小さな声で彼は何かを呟き、三人組は僕から離れていった。が、二人は何度も振り返りながら離れていこうとし、やがてパグだけが振り返って近寄ってきた。
「あのね、坊や。二階のエスカレーター上のレールに銭湯の鍵みたいなのがあるんだ。もし今夜使うなら、絶対にそれを誰にでも見える場所に置いて寝るんだ、いいね? いいかい!」
「テメエ! 遅れるな!」
「はいっ! ボスッ!」
一喝を入れられると、彼は逃げるように意味不明なアドバイスを残して走っていった。
僕は夏空の廃墟の下にぽつんと取り残された。セミの鳴き声だけがやけにレールの金属に反射して、夏を強調していた。
「……ぼくも行かなきゃ」
アテのないほど青い空の下をぼくは走り出した。
目的は記憶にある大人を探し出すこと。どこにいるかもわからない誰かを探し出すこと。
ほとんど眠る必要はないとはいえ、休まずに動き続けることはできない。よって、そんなに時間の余裕があるわけではないことは明白だった。
走り続けて、まずは海岸線にやってきた。
ここは三崎町の中でもそれなりに高い位置にあたる。
三崎町は中央が盆地になっており、海抜よりも低い地域がほとんどなので、海岸線の堤防から町の風景を軽く眺めることが可能だった。
「んしょっ」
堤防をよじ登って、慣れ親しんだ三咲町を慣れ親しまない角度から睥睨する。
背後には潮騒と潮風の煽りがあった。緑と西側の低い山と東の高い山の高低差による町と自然の調和――実に風光明媚な景色と言えた。
けれどなぜか、ぼくはその景色を受け入れられずにいた。ぼくが知っているはずの、ぼくの知らない町。
ハーフパンツが潮風で揺れる度に、本当にぼくの探しているモノがここにあるのかを疑いたくなる。
「……」
とはいえ、この景色が何かの記憶につながっている気がしていた。何の根拠もない、ただそんな気がするだけだった。
「……ぼくは記憶を探さなければならない――だのに、こんなにアテもないことをしなければならないのか……」
海鳥の鳴き声が鼓膜を揺らすたびに、憂鬱が心を押し込めていた。
あの逆光の光は、一体いつの日差しであったろう。 蕾はぼんやりと考え込んだ。
一体何時であれば、あのように日は差し込むだろうか……。
太陽は高く昇っていた。まんべんなく三咲町は光線を浴び、陽炎を揺らめかせていた。
少なくとも、12時に近い今ではない。斜に構えた太陽が上った時でないとああはならない。
そしてぼくがあの家に着いたのも、確か朝の範囲だったはずだ。ということは、朝に斜めから光が差し込んでいた時だろう。
「ふむ、となると……朝に東側の窓がある家でぼくはああなったと考えるべきなのか」
……。
どれだけあるのだろう。この三崎町の中で東向きの朝日が差し込む家なんて、本当にいくらでもあるはずだ。
その中から一軒を当てるのはどう考えても現実的ではない。
思考を一旦ニュートラルギアに引き戻す。
「おーい君! どこに登ってるんだ! 降りてきなさい」
「おっと」
五メートルほどの足下には、制服を着た警官がこちらに向かって叫んできていた。
「やば」
捕まらないように走り出すと、そのままテトラポッドの方向へ跳んだ。
手のひらと足の裏で衝撃を逃がしつつ、水際の堤防を走り始めた。
「待て! 待ちなさい!」
警官は途中までは追いかけてきていたが、砂浜を越えるまで走り続けた頃には、居なくなっていた。
「さて……」
市街地に差し掛かった。周りを確認しながら、東側に窓のある家を探して歩き回った。もしかしたらピンとくる家があるかも知れない。
そんな風に思いながら、ずっと歩き続けた。けれど、結果は芳しくなかった。
初日でめぼしいモノが見つけられるなんて思っては居ない。当たり前ではあるけれど、その事実に直面した今、心にはどこか名残惜しいような気分が湧いていた。そのせいで暗くなっても諦められなくて歩き続けていた。
空が赤くなって、空が夕暮れに沈んで海底の色となり、星が落ちるようになっても、まだ歩いていた。
「蕾、こんなところに居たの!?」
ふと、聞き覚えのある声に呼ばれた気がして振り返った。
暗い道には闇がたたずんで立っていただけだった。目を擦ると、踵を返して歩き出した。
「今日は……このくらいにしておこう」
そう思ったのは、駅前の人間が少なくなって時計台の針が真上を刺した頃の話だった。
肉体の疲労がたまっているのは間違いないことだったし、暗くなってしまった以上、ここから先の効率は上がるはずもなかった。
帰路に着く足は、重かった。今はいったい何時だろう。それもわからない。
正面から人の気配がした。そっと道の端に避けた。
影から伺うと、誰か大人が歩いて過ぎていった。
大人にはできるだけ見つからないようにしないといけないだろう……昼間から大人を無意識に避けていた行動はおよそ正解であった。
何時間か歩き、ようやく旧駅舎に着いた。床で休みたい気分だった。
寝床に這い上がって、地面に体を横たえた。コンクリートの冷たい感覚が気持ちよかった。けれど、どこかが物足りなかった。
ふと脳裏に過ぎったパグの言葉を思い出した。
「二階のエスカレーターのレール上……」
ぼんやりと靄がかった頭でエスカレーターのレールを見ると、確かにいくつかの木製はめ込み錠の鍵がかかっていた。それを手に取った。
「……? これがどうしたっていうんだ?」
無造作な木錠には、特段凝った意匠も嵌める場所の地図もない。これだけが置いてあることは、極めて不自然に感じた。
「……一応、持って行くか」
ポケットの中に入れると、階段を駆け上がり再び寝床に向かった。
暗くて明かりのない段を上っていく。自分の足音だけがこだまする中に、何かの異音が混じっていることに気がついた。
ずうり、ずうり、何かが這っているような音だった。
そのまま進んで行く。やはり誰も居ない。
寝床までやって来る頃には、その異音も聞こえなくなった。
寝床の近くの水道管のように破裂しているパイプがあったのだろうか。
「……」
ようやく今度こそ床に転がった。家にあったベッドとは全く違う寝心地だったが、それに関しては覚悟していたことだった。
熱を持った思考プロセスを整えていく……意識を切らしているわけではないが、肉体は休めていた。これは『眠り』だ。
五感は多少弱まっており、意識と世界の境界――内省と外的刺激へのチャンネルの切り替えが行われた。
時間の感覚が弱まっていき、外的刺激に対して鈍麻していく。まるで自分の四肢が欠落したような円状の意識が形成され、それがゆっくりと消耗した肉体の再生を助けていく。
誰も来ないだろう、『眠り』の深度を深めよう。日の出には動き出した方が効率が良い。
そう予定立て実行しようとした瞬間だった。ずうり、ずうり、と何かが耳元に聞こえた。
「――ッ!?」
急激に鈍麻な刺激が太ももを駆け上がった。
「かっ」
刹那に目を見開き、刺激のあった脚部へ視線をずらす。
そこには、真っ赤な肌をした不潔な男がいた。
老人はこちらの足首に汚らしい靴を乗せて、その手に持っていた瓶を振りかぶった。
「ぐぅっ」
緊急に上半身へ重心をずらして蹴り上がる。このままではもう一撃分が叩きつけられることは間違いなかった。
「うぉぁッ!?」
蹴り上げようとしたにも関わらず、踏まれた足がひくついたまま動かない。
瓶が目の前に迫る。
「――っ」
手を交差させ、仕方なく一撃を受け止める。ヒビがあったのか瓶は砕け、茶色く汚れた破片が降り刺さった。
「ぐうあぁっ」
なぜ、なぜ急にぼくを攻撃するんだ……?
何があってこちらに対して攻撃を? どうしてだ――!
まとまらない思考を必死に処理する隙間にも、老人は割れた瓶を更に振りかぶった。
今度はあの破片がモロに刺さる――!
足は相変わらず痙攣していた。よほど当たり所が悪かったらしい。
「くそっ」
それでも距離を離そうと片足で跳んだ瞬間、体勢はより後ろに崩れた。
躙り寄って老人は、こちらに表情を見せた。目は充血している、まるで肉食獣のようだった。
暗がりの表情が壊れかけの電気線の光で浮かび上がる。
笑っていた――。ぼろぼろの歯をにんまりと三日月に逆立てて、そいつはまるで楽しむように振りかぶっていた。
かた――。
何かがポケットからこぼれ落ちた。
「――やるしかない」
腹を決めて左拳を握りしめた。蕾は体重を左右に動かして、動かない左足を庇うように座り込んだ。
老人は足を引き摺りながら少しずつ間合いを詰める。やがて老人は間合いに入ったとみるやいなや、覆い被さるように体重を込めて振り下ろした。
「ふっ……」
少年の間合いと老人とはいえ大人の間合いの差は余りにも大きい。
絶望的な状況のまま、瞬間が膠着する。瓶の欠け口は少年の顔面に突き刺さり、鮮血が辺りを染める――老人は不浄にももう一度打撃を加える――はずだった。
瓶が壊れる高い音が響き、血飛沫が噴き出した。
「Aa――? k……」
概ね想定されていた結末とは裏腹に、言語にならない声を上げていたのは老人の方だった。
見れば、老人の顔には深々と瓶の切り口が突き刺さっている。
当たる寸前だった。少年の手は瓶の側面を老人の顔側に押し出しながら、瓶を引っ張ったのだ。
片足しかなかった支えでは老人は肉体の勢いを制御できず、重心の制御を失って前屈みになったところに、蕾が押し返した瓶が突き刺さったのだった。
「――悪いけど」
蕾は躊躇いなく瓶を半回転させた。
肉の抉れる音が響き、老人が瓶の中で呻く籠もった声が響いた。
「お、おデのけぇ、おメ、ア、オイ。ぁア。ゆるさデ、エ? てメ」
「味わいな」
少年が瓶の注ぎ口側を顔面に押しつけるように殴りつけた。
老人は壁に向かって小石でも投げつけるような勢いで吹き飛んだ。
「ァ――」
まだ意識があるのか、老人は自ら瓶を外した。顔面は無残にもひしゃげて瞼は切れて地面に転がっており、眼球がむき出しになっていた。
それでも、老人は蕾が食事にでも見えているように、にじり寄ろうとした。
「なんだ……こいつ――」
「うーーーっふーーーーっ!」
急に老人は素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。その叫びにはくぐもった恐怖が明確に感じ取れて、蕾は辺りに目を配った。
「――誰か来るのかっ」
走り出した老体は引き摺った足を地面にバウンドするほどの速力で階段へ向かった。
蕾はむき出しになった老人の眼球を追うと、それは自分の足元にあるのだと気がついた。
「! これは」
木錠を見ている――のか。
蕾が気づきを得た一瞬の間に、老人は転がるように階段を落ちながら降りていった。音は急速に遠くなった。
『あのね、坊や。二階のエスカレーター上のレールに銭湯の鍵みたいなのがあるんだ。もし今夜使うなら、絶対にそれを誰にでも見える場所に置いて寝るんだ、いいね? いいかい!』
……パグの彼の言葉が脳内にリフレインしていた。こういうことだったのか――。
蕾は静かに息をついた。ようやく静寂に包まれた空間だったが、どっと押し寄せてくるモノがあった、それは傷の痛みであった。
「……うう」
破片の刺さった足と頬は熱を持って痛んでいた。
持ってきていタオルで頬の欠片をそっと抜いて、そのまま痛む場所を水で冷やしたタオルで巻いた。
付け薬などは持ち合わせていない。物資はこれだけ――今は眠るしかなかった。
「あの三人、ぼくのことを気遣ってくれてたのか……」
ぼんやりと天井を見つめて呟くと、今度は背中の冷たさが妙に物寂しく感じて仕方がなくなった。
酷く痛む体を抱くようにしながら、空が明けるまでもう一度休息をした。
さっきみたいな敵がやってきたらどうしようか――落ち着いて肉体の回復に専念はできなかったが、時間は経ち朝日は昇っていた。
薄暗い影と世界の乖離があった――。
浅い呼吸のまま天井を見上げていたぼくは、それが昨日の三人組の内の下僕の二人であることにようやく気がついた。
激しい逆光に網膜を焼かれる。その大人はぼくの頭に左手で緩やかに掴んでいた。
「君は誰か、どこから来たか覚えているかい?」
人間がいた。真っ黒いシルエットに小さく眉根を寄せて頬に皺が寄っていた。
片眼だけが開いていた。その瞳は恐ろしく冷たかった。死体のようだった。
「ぼくは蕾――。御園蕾。ぼくは欧州の小さな森の中の村から来た。姉がいる。帰らないといけない」
刻み込まれた皺は緩やかに解け、その男は左手を離した。
「餞別だ、持って行き給え。尤も、それを使う段になれば君ではなく僕が出ることになるだろうがね――」
男は小さな紙に書かれた文字列をぼくのポケットに突っ込んだ。
メグセ・ヌェゥト・ゲブラー――日本語ではない。しかしそれは始めてみた瞬間からぼくの脳に刻み込まれていた。
「さあ、君に今から御薗礼香への家の地図を渡す。そこに向かうんだ。地図はあるから、それを頼りに家へ帰るんだ。ああ、君はそういえば、姉のことをなんと呼んでいたっけ。『ねえね』だ。そう……思い出したかね?」
「はい。早く、帰らないと――ねえねが寂しがってる」
「――ああ。行き給え」
「っと――」
空が白み始めた頃、ぼくは旧駅舎の拠点で靴紐を結び直していた。風通しの良い旧駅舎は、夏の暑い日でも余り熱が籠もらない。予め持ってきた洋服の予備も、破裂した水道管を使用すればある程度新鮮な水で洗うことが出来た。
今回家から出るにあたって既に食料の備蓄は済ませてあった、既にぼくは一人で行動することを決めていたからだ。今回の家出は、明確な目的があった。それはぼくが何者なのかを確かめること――記憶の中にあったあの大人は何者なのかを探り当てること――そこにあった。もう御園家には帰らないつもりだった。恐らく、ぼくがねえね――御園礼香と共に過ごしていられる時間はもう終わりを迎えたのだ。そして脳裏にこびりつくこの映像、ぼくの最初の記憶に現れたあの大人――。それがこのぼくの出自に大きく関わっていることには間違いなさそうだった。
その為には、誰にも見つからない拠点が必要だった。旧駅舎にはルール上誰も立ち入らない。ぼくと同じくらいの子供たちはやってくることがあるが、それは特段気にならなかった。彼らがぼくを見て家出してきた少年と疑ったところでなにも起こらない。それにここに来る彼らは賢かった、ある意味大人よりも目の前にいる人間がどのような状態にあるのか、それを察することができていた。最悪、世間知らずの少年に大人たちを呼ばれたら、そのときはもう一つの拠点に移ればいい――。
もちろん、そんなヘマをするワケはずもない、ぼくはそう確信していた。だってこんな学校のある朝っぱらから、閑散とした旧駅舎に学校という用事のある学生が――
「……いるのか」
ポツポツ、と廃線になった線路に青年たちが三人たむろっていた。彼らは煙をまとっていた。タバコである。
ぼくは目を見開いた。同時にそれは興味深い刺激でもあった。この白昼、青年たちは学校にも行かずこの何もない場所で何をしているのだろう。
……おっと、いけないいけない。ぼくの本業を見失うところだった。
今はそれ以上にするべきことがあるだろう、何を見失っているんだ――。
「おい、お前何してんだよ」
「……」
高校生くらいに見える青年が、こちらに手を振って声をかけてきた。
「来いよ!」
左右を見渡しても誰もいない。
「……ぼくに言ってるの?」
「ここにお前以外誰がいんだよ」
意外な誘いだった。ここで彼らに混ざるとどうなるのだろう。
「何かしてるの?」
「いや、んならいい。来る気がないならいいンだ!」
ぼくは無言で青年の後を追いかけた。
彼らは僕に少しずつ目を配りながら日陰のがれきの近くまで行き、どっかりと座り込んだ。
「お前、小学生だろ。どうしてこんなとこいんだよ」
彼らの中では一番小さく、少しパグのような目の離れた青年の一人が僕に声をかけた。
「ちょっといろいろあって。君は?」
青年は面食らったようにその反応を見て、ほかの二人を顔を見合わせた。
「『ちょっといろいろあって』だってよ。あはは、おもしれーぞこいつ!」
「『君は?』か、悪くねーな!」
隣にいた、背の高い痩せた大根のような青年はパグの青年と顔を見合わせて笑い始めた。
ぼくはその勢いに首を傾げ、その様を見て彼らはまた笑った。
「そんなに面白いかな?」
「いや、いや。なんでもない! げほっ。それで、そのいろいろってなんだよ」
「やめろ」
パグの青年が聞いてきた言葉は、今まで一言もしゃべらなかった真ん中の青年が低くさえぎった。
二人はその声にぴたっ……と止まって笑うのをやめた。
「いいさ。『いろいろ』あんだろ。俺たちも『いろいろ』あるんだ。不干渉としようぜ。お前も『セケンシラズ』だとは思われたくないだろ」
「……うん。いいよ。ここでは何をしてるの?」
彼らは、ここでたむろって何かをしているようだった。けれど少なくとも、彼らのなりからそれは推測できる領域はなかった。
「ここはな、秘密基地なんだよ、俺らの!」
「そう、秘密基地! 小学生ならこういうの好きだろ?」
「俺はたまらないねえ!」
「俺もだぁ! 家より快適だぜ!」
バンバンと背中を叩かれる。いわゆる男子が喜ぶ、と言われるものだろうがぼくはあまり惹かれたことがない。
「静かにしろ」
二人は低く放たれた声に萎縮するわけでもなく口をつぐんだ。
再び鎮静化された二人は、脇を締めて彼の一言を待った。
「ここではな、俺たちは次にやる大事の会議をしてるんだ」
「おおごと? かいぎ?」
「まあお前にはわからんくても無理はない。いいさ」
「そうだぜ。ボスと俺たちはこの秘密基地で日夜会議にいそしんでるんだ。大事を起こすために!」
「世界をあっと言わせるためにな!」
あっ、との部分にアクセントを持たせて、彼らは顔を綻ばせた。
「学校を休んで?」
「学校よりも俺はここが好きだね。学校は息が詰まる。あそこは生きているのに殺されてるみたいな空間だ! 死! なんと甘美な響きであろうか! その思念たるや我が心の斑紋さえ無条件で救済し、その上この恨みさえ果たしてくれんとす! ああ! 死よ!」
「学校よりもここは脅威がない。テストもなければ生活指導も、帰宅を無理強いをする教師もいない! オマケに瓶切の練習してても怒られないと来た! ああ、なぜ今頃になってあんな牢獄に? 俺はわからないね!」
饒舌に言葉を繋いでいく彼らは、心底ここで行われている大事と呼ばれている何かに陶酔しているらしかった。
「やかましいぞ」
「はいっ、ボスゥ」
二人は戯曲めいて踊りつつ歌い上げるように宣言し、すぐにボスの青年の制止に応じ止まった。
「……お前、行くアテがないんだろ。あの様子だと、ずいぶん朝方から構内に居たと見てる。俺たちのアジトだが、一室、貸してやってもいいぜ」
「貸す……?」
「ああ、貸してやってもいい」
言葉の意味理解できずに後ろを振り返る。ほとんど大きなコンクリートの塊となった旧駅舎が、赤さびた鉄骨をむき出しにしてそびえていた。少なくとも、誰かに管理されているとは思えない。
「あれは、君たちのなの?」
「いいや、だが俺たちの管轄だ」
「管轄?」
「そう! 管轄だ。ボスには従っておいた方がいいぜ。痛い目を見ることになる!」
「ああ、うちのボォスは強いんだぜ? お前くらいの小学生、キャベツでも踏みつぶすみたいにぺしゃんこだ!」
「断ったら?」
ボスと呼ばれた青年の顰蹙を買ったらしい、彼は不機嫌そうに足を鳴らし詰め寄った。
「俺に逆らうってのか?」
「いや、どうなるのか知りたくって」
「ぎゃは! やめておけ! 本当にやめとけ! ろくなことねえゾ!」
「構わん」
ピシャリ、とボスは言い切った。目線はおよそ十秒に渡ってぶつかり続けた。顔の相に浮き出ていたのは、怒りだけの相には見えなかった。
「勝手にしろ」
「でもボスぅ」
「貸してやらないとやっぱり、やばいんじゃ」
急に二人はまごまごとし始めた。何が不具合だと言うのだろう。けれどそれ以上を教えてくれるようにも思えなかった。
「知らん。そいつの選んだことだ。何が起ころうが関係ない」
「……教えてくれないの?」
真っ白い顔がひしゃりと萎びた。
「ごめんよぉ、本当になぁ」
「――だ。行くぞ!」
聞こえないほどの小さな声で彼は何かを呟き、三人組は僕から離れていった。が、二人は何度も振り返りながら離れていこうとし、やがてパグだけが振り返って近寄ってきた。
「あのね、坊や。二階のエスカレーター上のレールに銭湯の鍵みたいなのがあるんだ。もし今夜使うなら、絶対にそれを誰にでも見える場所に置いて寝るんだ、いいね? いいかい!」
「テメエ! 遅れるな!」
「はいっ! ボスッ!」
一喝を入れられると、彼は逃げるように意味不明なアドバイスを残して走っていった。
僕は夏空の廃墟の下にぽつんと取り残された。セミの鳴き声だけがやけにレールの金属に反射して、夏を強調していた。
「……ぼくも行かなきゃ」
アテのないほど青い空の下をぼくは走り出した。
目的は記憶にある大人を探し出すこと。どこにいるかもわからない誰かを探し出すこと。
ほとんど眠る必要はないとはいえ、休まずに動き続けることはできない。よって、そんなに時間の余裕があるわけではないことは明白だった。
走り続けて、まずは海岸線にやってきた。
ここは三崎町の中でもそれなりに高い位置にあたる。
三崎町は中央が盆地になっており、海抜よりも低い地域がほとんどなので、海岸線の堤防から町の風景を軽く眺めることが可能だった。
「んしょっ」
堤防をよじ登って、慣れ親しんだ三咲町を慣れ親しまない角度から睥睨する。
背後には潮騒と潮風の煽りがあった。緑と西側の低い山と東の高い山の高低差による町と自然の調和――実に風光明媚な景色と言えた。
けれどなぜか、ぼくはその景色を受け入れられずにいた。ぼくが知っているはずの、ぼくの知らない町。
ハーフパンツが潮風で揺れる度に、本当にぼくの探しているモノがここにあるのかを疑いたくなる。
「……」
とはいえ、この景色が何かの記憶につながっている気がしていた。何の根拠もない、ただそんな気がするだけだった。
「……ぼくは記憶を探さなければならない――だのに、こんなにアテもないことをしなければならないのか……」
海鳥の鳴き声が鼓膜を揺らすたびに、憂鬱が心を押し込めていた。
あの逆光の光は、一体いつの日差しであったろう。 蕾はぼんやりと考え込んだ。
一体何時であれば、あのように日は差し込むだろうか……。
太陽は高く昇っていた。まんべんなく三咲町は光線を浴び、陽炎を揺らめかせていた。
少なくとも、12時に近い今ではない。斜に構えた太陽が上った時でないとああはならない。
そしてぼくがあの家に着いたのも、確か朝の範囲だったはずだ。ということは、朝に斜めから光が差し込んでいた時だろう。
「ふむ、となると……朝に東側の窓がある家でぼくはああなったと考えるべきなのか」
……。
どれだけあるのだろう。この三崎町の中で東向きの朝日が差し込む家なんて、本当にいくらでもあるはずだ。
その中から一軒を当てるのはどう考えても現実的ではない。
思考を一旦ニュートラルギアに引き戻す。
「おーい君! どこに登ってるんだ! 降りてきなさい」
「おっと」
五メートルほどの足下には、制服を着た警官がこちらに向かって叫んできていた。
「やば」
捕まらないように走り出すと、そのままテトラポッドの方向へ跳んだ。
手のひらと足の裏で衝撃を逃がしつつ、水際の堤防を走り始めた。
「待て! 待ちなさい!」
警官は途中までは追いかけてきていたが、砂浜を越えるまで走り続けた頃には、居なくなっていた。
「さて……」
市街地に差し掛かった。周りを確認しながら、東側に窓のある家を探して歩き回った。もしかしたらピンとくる家があるかも知れない。
そんな風に思いながら、ずっと歩き続けた。けれど、結果は芳しくなかった。
初日でめぼしいモノが見つけられるなんて思っては居ない。当たり前ではあるけれど、その事実に直面した今、心にはどこか名残惜しいような気分が湧いていた。そのせいで暗くなっても諦められなくて歩き続けていた。
空が赤くなって、空が夕暮れに沈んで海底の色となり、星が落ちるようになっても、まだ歩いていた。
「蕾、こんなところに居たの!?」
ふと、聞き覚えのある声に呼ばれた気がして振り返った。
暗い道には闇がたたずんで立っていただけだった。目を擦ると、踵を返して歩き出した。
「今日は……このくらいにしておこう」
そう思ったのは、駅前の人間が少なくなって時計台の針が真上を刺した頃の話だった。
肉体の疲労がたまっているのは間違いないことだったし、暗くなってしまった以上、ここから先の効率は上がるはずもなかった。
帰路に着く足は、重かった。今はいったい何時だろう。それもわからない。
正面から人の気配がした。そっと道の端に避けた。
影から伺うと、誰か大人が歩いて過ぎていった。
大人にはできるだけ見つからないようにしないといけないだろう……昼間から大人を無意識に避けていた行動はおよそ正解であった。
何時間か歩き、ようやく旧駅舎に着いた。床で休みたい気分だった。
寝床に這い上がって、地面に体を横たえた。コンクリートの冷たい感覚が気持ちよかった。けれど、どこかが物足りなかった。
ふと脳裏に過ぎったパグの言葉を思い出した。
「二階のエスカレーターのレール上……」
ぼんやりと靄がかった頭でエスカレーターのレールを見ると、確かにいくつかの木製はめ込み錠の鍵がかかっていた。それを手に取った。
「……? これがどうしたっていうんだ?」
無造作な木錠には、特段凝った意匠も嵌める場所の地図もない。これだけが置いてあることは、極めて不自然に感じた。
「……一応、持って行くか」
ポケットの中に入れると、階段を駆け上がり再び寝床に向かった。
暗くて明かりのない段を上っていく。自分の足音だけがこだまする中に、何かの異音が混じっていることに気がついた。
ずうり、ずうり、何かが這っているような音だった。
そのまま進んで行く。やはり誰も居ない。
寝床までやって来る頃には、その異音も聞こえなくなった。
寝床の近くの水道管のように破裂しているパイプがあったのだろうか。
「……」
ようやく今度こそ床に転がった。家にあったベッドとは全く違う寝心地だったが、それに関しては覚悟していたことだった。
熱を持った思考プロセスを整えていく……意識を切らしているわけではないが、肉体は休めていた。これは『眠り』だ。
五感は多少弱まっており、意識と世界の境界――内省と外的刺激へのチャンネルの切り替えが行われた。
時間の感覚が弱まっていき、外的刺激に対して鈍麻していく。まるで自分の四肢が欠落したような円状の意識が形成され、それがゆっくりと消耗した肉体の再生を助けていく。
誰も来ないだろう、『眠り』の深度を深めよう。日の出には動き出した方が効率が良い。
そう予定立て実行しようとした瞬間だった。ずうり、ずうり、と何かが耳元に聞こえた。
「――ッ!?」
急激に鈍麻な刺激が太ももを駆け上がった。
「かっ」
刹那に目を見開き、刺激のあった脚部へ視線をずらす。
そこには、真っ赤な肌をした不潔な男がいた。
老人はこちらの足首に汚らしい靴を乗せて、その手に持っていた瓶を振りかぶった。
「ぐぅっ」
緊急に上半身へ重心をずらして蹴り上がる。このままではもう一撃分が叩きつけられることは間違いなかった。
「うぉぁッ!?」
蹴り上げようとしたにも関わらず、踏まれた足がひくついたまま動かない。
瓶が目の前に迫る。
「――っ」
手を交差させ、仕方なく一撃を受け止める。ヒビがあったのか瓶は砕け、茶色く汚れた破片が降り刺さった。
「ぐうあぁっ」
なぜ、なぜ急にぼくを攻撃するんだ……?
何があってこちらに対して攻撃を? どうしてだ――!
まとまらない思考を必死に処理する隙間にも、老人は割れた瓶を更に振りかぶった。
今度はあの破片がモロに刺さる――!
足は相変わらず痙攣していた。よほど当たり所が悪かったらしい。
「くそっ」
それでも距離を離そうと片足で跳んだ瞬間、体勢はより後ろに崩れた。
躙り寄って老人は、こちらに表情を見せた。目は充血している、まるで肉食獣のようだった。
暗がりの表情が壊れかけの電気線の光で浮かび上がる。
笑っていた――。ぼろぼろの歯をにんまりと三日月に逆立てて、そいつはまるで楽しむように振りかぶっていた。
かた――。
何かがポケットからこぼれ落ちた。
「――やるしかない」
腹を決めて左拳を握りしめた。蕾は体重を左右に動かして、動かない左足を庇うように座り込んだ。
老人は足を引き摺りながら少しずつ間合いを詰める。やがて老人は間合いに入ったとみるやいなや、覆い被さるように体重を込めて振り下ろした。
「ふっ……」
少年の間合いと老人とはいえ大人の間合いの差は余りにも大きい。
絶望的な状況のまま、瞬間が膠着する。瓶の欠け口は少年の顔面に突き刺さり、鮮血が辺りを染める――老人は不浄にももう一度打撃を加える――はずだった。
瓶が壊れる高い音が響き、血飛沫が噴き出した。
「Aa――? k……」
概ね想定されていた結末とは裏腹に、言語にならない声を上げていたのは老人の方だった。
見れば、老人の顔には深々と瓶の切り口が突き刺さっている。
当たる寸前だった。少年の手は瓶の側面を老人の顔側に押し出しながら、瓶を引っ張ったのだ。
片足しかなかった支えでは老人は肉体の勢いを制御できず、重心の制御を失って前屈みになったところに、蕾が押し返した瓶が突き刺さったのだった。
「――悪いけど」
蕾は躊躇いなく瓶を半回転させた。
肉の抉れる音が響き、老人が瓶の中で呻く籠もった声が響いた。
「お、おデのけぇ、おメ、ア、オイ。ぁア。ゆるさデ、エ? てメ」
「味わいな」
少年が瓶の注ぎ口側を顔面に押しつけるように殴りつけた。
老人は壁に向かって小石でも投げつけるような勢いで吹き飛んだ。
「ァ――」
まだ意識があるのか、老人は自ら瓶を外した。顔面は無残にもひしゃげて瞼は切れて地面に転がっており、眼球がむき出しになっていた。
それでも、老人は蕾が食事にでも見えているように、にじり寄ろうとした。
「なんだ……こいつ――」
「うーーーっふーーーーっ!」
急に老人は素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。その叫びにはくぐもった恐怖が明確に感じ取れて、蕾は辺りに目を配った。
「――誰か来るのかっ」
走り出した老体は引き摺った足を地面にバウンドするほどの速力で階段へ向かった。
蕾はむき出しになった老人の眼球を追うと、それは自分の足元にあるのだと気がついた。
「! これは」
木錠を見ている――のか。
蕾が気づきを得た一瞬の間に、老人は転がるように階段を落ちながら降りていった。音は急速に遠くなった。
『あのね、坊や。二階のエスカレーター上のレールに銭湯の鍵みたいなのがあるんだ。もし今夜使うなら、絶対にそれを誰にでも見える場所に置いて寝るんだ、いいね? いいかい!』
……パグの彼の言葉が脳内にリフレインしていた。こういうことだったのか――。
蕾は静かに息をついた。ようやく静寂に包まれた空間だったが、どっと押し寄せてくるモノがあった、それは傷の痛みであった。
「……うう」
破片の刺さった足と頬は熱を持って痛んでいた。
持ってきていタオルで頬の欠片をそっと抜いて、そのまま痛む場所を水で冷やしたタオルで巻いた。
付け薬などは持ち合わせていない。物資はこれだけ――今は眠るしかなかった。
「あの三人、ぼくのことを気遣ってくれてたのか……」
ぼんやりと天井を見つめて呟くと、今度は背中の冷たさが妙に物寂しく感じて仕方がなくなった。
酷く痛む体を抱くようにしながら、空が明けるまでもう一度休息をした。
さっきみたいな敵がやってきたらどうしようか――落ち着いて肉体の回復に専念はできなかったが、時間は経ち朝日は昇っていた。
薄暗い影と世界の乖離があった――。
浅い呼吸のまま天井を見上げていたぼくは、それが昨日の三人組の内の下僕の二人であることにようやく気がついた。
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