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第36話 掌
しおりを挟む舞台装置――それは物語の歯車を担う存在、しかしその性質は無機質な人格のない執行者だ。
既に舞台に立ってしまった役者は、舞台装置の執行を免れない。
例えばそれがここまで積み上げてきたもの全てを奪われることでも、あらゆる人生の軌跡が押し流され、不純物の論理が組み合わさった化合の人生となることでさえ。
知らぬうちに自分が今までとは違う同じ役割を持つものになり、それが当たり前のように世界は創造される。
それに異議を唱えることなど出来はしない。あらゆる運命を司る圧倒的な星辰の前に、人間のあゝ! なんと無力なことか! 悲痛な叫びなど意にも介せぬだろう、神々よ――いや、神々でさえその星辰に、或いは混沌を似姿に貼り付けた邪の根源にはひれ伏すのだ。
しかし、その運命に逆らうものは二つあった。
一つは瞬間の永遠を切り取り続けるもの。
一つは永遠の瞬間を繋ぎ合わせ続けようとするもの。
皮肉にも、どちらも或いは、何にかへ向かう階となる存在であった。
舞台装置に対抗するためには、自身を舞台装置と対を成すものに変化しなければならない。
互いが同じ解を立て、走り始めた。しかしその過程は正反対だった。
紡がれた二重螺旋は相克の最果てに至り始めていた。
ほんの0.0001度傾いただけの直線も無限に伸び続ければいつかは曲線の終点で円になるように、二つの螺旋は重なり、一本の離れない運命となってあらゆる終わりを内包した――そう、言葉にするなら物語の終わりに近付いていっていた。
お互いが意識していた。終わりに向かう運命の音を。
形而上――などという人智に依った傲慢な認識の外――からくる絶対的な命令が聞こえてくる。
脳裏に影がある。振り向いても何もいない。けれど精神の向こう側に確かに何かがあり、音が聞こえる。
「随分長い道のりだった――」
「短い、あまりにも短い道のりだった――」
頭を決して垂れぬ、終わりにさえ仇なす存在はひた歩いていた。
お互いに顔さえ見れぬ中競い合っていた。
『己こそが正義である』と。言葉ではなく、心と体で証明し続けていた。
来る終わりに向けての音色は甘美に響いていた。しかし二人の表情は塵とも緩まなかった。
もう既に『終わり』を渇望することはなかった。その先――即ち終わりさえ屠ることを誓っていたからである。
ただ二人には、決定的な違う点があった――。
「体は――大丈夫じゃないみたいだね」
「おじさん……おかえりなさい」
焦点の定まらない姪、その脇に転がった小さな瓶。
一木はその様を見て安堵とも悲嘆ともとれぬ嘆息をした。
「ただいま――未来が、変わったみたいだ」
一木は倒れこんでいた悠里を抱きかかえた。
瓶の中身にあった小さな発光装置は壊れていた、もう二度と元に戻すことはできないだろう。
「えへへ」
一木はぎこちない笑顔を向ける悠里の顔を見て、初めて泣きそうになった。
「ごめんね、一人にさせて。不安だったろう、怖かったろう」
「いいの。全然あたし怖くない。おじさんもしーちゃんも、あたしがダメになったら助けに来てくれるもの。信じてたし、今も来てくれたもん」
「……すまない」
「ううん。それよりおじさんにね、聞かなきゃいけないことができたの」
「なんだい」
悠里の細い指が、抱えていた一木の手に触れた。
「あたし、まだ全部じゃないけど思い出したの。あの丘――廃教会の丘にしーちゃんとおじさんとね、行ったことがあるの。その時にね、しーちゃんがバラバラになっちゃったのを覚えてるの――。あれは夢じゃない――本当のことなんでしょ」
「……ああ。君が思い出したことは間違っていない。ぼくはしづる君を――守れなかったんだ」
「けど、しーちゃんは生きてる。きっとおじさんが直してくれたの。『魔法使い』――あたしね、そんな風に覚えてるの。あの日も、雪、降ったんだよ――」
「ああ、ああ。そうだ。あの日、始めて雪が降った」
悠里の瞼はいつの間にか閉じられていた、小さく動く胸の上下に合わせて静かに呼吸だけをしていた。
「ね、きっとあたしがこんな大切なことを忘れちゃったのって、どうやったのかはわからないけれど、おじさんのせいなんでしょ」
「……」
「ようやくわかったの。ずっと、ずっと。昔のこと、思い出せなかったの。中学生になるよりも前、私が髪が長かった頃の話。あの日、一緒に星を見に行った次の日にね、しーちゃんからお手紙貰ったの。ラブレター。それに書いてあったんだよ。『昨日、星を三人で見に行って思いました。やっぱりぼくは悠里お姉ちゃんが大好きです』って。ふふ……笑っちゃうよねかわいくてさ」
「そう、だね」
「でも、その手紙に書いてあったことに身に覚えなかったし、いつの間にか忘れちゃってたの。文面については書き間違いかなあって思ってたんだけど、よく考えたら違う。跡形もなくさっぱり忘れちゃってたんだ。そしてその手紙は、いつの間にか『星を見に行ったこと』についてが黒塗りになってた。手紙の内容の中でも星を見に行ったのを消したのは誰で、どうしてなんでしょうね? きっと理由は一つしかなかった」
口元だけがいつも通りのいたずらっぽい笑みを浮かべていた。この子は感が冴えている自覚がある時、そういう顔をする。
決まって述べることは正鵠を射るのだから、一木は姉の――篠沢の血を感じずには居られなかった。
「それは隠したいことがあるから。あたしに手がかりを与えたくなかったから。死んでしまったしーちゃんのこと、覚えていたら――今まで通りにしーちゃんと一緒に居られたかはわからないもの」
「……どうしてそう思うんだい。ぼくがそうやったと」
「それはね、あたしのつらいことが何かわかっているから。手掛かりになることはできるだけ全部消したかった。そうじゃないとあたしが今まで通りの『日常』を続けることが出来なくなるって思ったから。違う?」
「……正解だ」
一木は静かに頷き、悠里はそれを感じ取ったように眉を顰めた。
「やっぱり、そうだったんだ。おじさん、ごめんね」
「……どうして謝るんだい」
「ずっと、ずっとひとりぼっちにさせてたから。ごめんね。ずっと一緒にいたのに、あたしなんにも知らなくって……あたし、見てたのに全部忘れて、おじさんだけずっと一人っきりで――寂しかったよね。ずっと、ずっとあたしの為にこんなに大事なことを一人だけで抱え込んでるのなんて」
閉じたままの瞼の端から伝うようにこぼれた涙が、一木の手のひらに刻まれたいくつも傷跡に沿って流れた。
涙が流れ落ちる度に古疵はじくりじくりと痛んだ。
「ううん。ぼくが望んだことなんだ。だから僕が苦しむのは当たり前なんだ――君は何も悪くない」
「でも」
燃える木々の香り、鉄錆びた服の滑り、生暖かい体温。
壊れた肉片――。
あの場所にあったのは僕の世界だった。
――この子たちは知ってはならない。血と硝煙、誰もどこにも骸の跡さえ残らない死の匂いを。地上の地獄のことなど。
「いいんだ。いいんだよ悠里。これはね、全て――僕が望み、僕が仕掛けたことなんだ。だから君は謝らなくて良い。謝らないでくれ。僕は大丈夫だから」
一木は奥歯をかみしめてそう呟いた。己の無力が心を裂いて、後悔ばかりを募らせていた。
そんな気持ちを、この子に知られるわけにはいかなかった。
「いーやっ」
鋭く、悠里は拒否の声を上げた。
「え?」
一木は呆気にとられて素っ頓狂な声を上げることしか出来なかった。
「いやって言ったの」
悠里は丸く頬を膨らませて、すねたような顔をして見せた。
「おじさんは強いけど、さみしがりだもん。そのくせにひとりぼっちになろうとばっかりするの。ずるいよ。痛いのも悲しいのも……一緒にいさせてよ。もっとおじさんの心の中、教えてよ。いっつもいっつも、ずるいんだもん。もっとおじさんが辛い時に一緒にいさせてくれないとやだ。それくらいしかできることもないんだもん、あたしにもおじさんを助けさせて。ずっとずっと守られることしかできないなんてやだ。おじさんがひとりぼっちになりたいって言うなら、あたしもひとりぼっちでいい。そのまま死ぬならひとりぼっちで死んだってかまわないの……」
「……悠里――」
言葉に詰まった一木は、どうすれば良いのか分からなくなった。
今まで封印してきた全ての過去――全ての秘密、全ての痛み――それを告げる運命の刻が来ていた。
『誰か、殺してくれ。僕という無力な人間を殺してくれ。僕が抱えたものを背負いきれなかったばかりに、僕が片付けられなかったばかりにこの子にさえ苦しみを分け与えなくてはならなくなるのなら――』
心の中で叫びをあげた。空しく、誰も聞こえることがない己の叫びが自分の耳の奥でだけ何度も反響する。
あゝ――ぼくは、ぼくという人間はなんと。
“無力”なことだろう――。
もう既に、一木は自身に後がないことを理解していた。この巻き戻りが終わった時、この体はどうなるか――未踏の領域である、どうなるかなどわからなかった。
悩もうと悩ままいと、許される瞬間はその先にどこにもない。
「悠里――君に、僕の隠してきた全てを話そうと思う」
夜はどこまでも静寂に満ちていた。知らずの内に、心は悠里と一緒にいることを選んでいた。
「うん、教えて。おじさんの考えたことを、思ったことを」
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