28 / 84
第28話 赫々
しおりを挟むイーゼルには布がかけてあった。
指は少しずつそれを剥がしていた。
布が羽の様にふわりと浮いて、三日月のように形を変えながら埃を舞い上げていく。
昼間の月がはたりと音を立てて地平に落ちた。
あたしは一つため息をつくと、最低限の身支度を用意して無言で部屋を飛び出した。
「あれ、コンタクトないや……」
外は青天井の夏空だった。
明るすぎて眼の前が白んで揺れている。自分の周りに半円を描くようにだけ視界が許されている。懐かしい光景だった。外に出る時は遮光コンタクトを付けて、視界を確保するようにしていたから。
ここから少し揺れて見える山に向かって歩こう。交差点の辺りを通るから、雨も降ってて視界はまだいい方かな。
体中に不快な感じはあったけれど、それはいずれも少し前まで断続的に起こっていた症状よりも軽い。
「……えへへ」
体調が良いわけではないけれど、あたしは随分嬉しくなっていた。今なら死んでもいいや。
ずっと秘密にして言えなかったこと、なんだか言えちゃったし。おじさんは『絶対助ける』って言ってくれたし……。
「――よかった。あたしが急に居なくなっても、おじさんやしーちゃんはもう理由を知ってる」
仰ぐ空は何も見えないほど明るくて高い。けれどそこには昼月があり、雲の先には宇宙があり星がある。
小さな頃、明るくて大きな空の下に立つのは怖かった。この先に何があるかなんてあたしにはちらりとさえ見ることができない。なのにこの靄は生き物のようについてずっとついて回ってイタズラをしてくるのだ。そこには何か大きな怖いものがいるような気がして、それが空を覆う白い光の靄全体のような気もして。
同級生に『おい、後ろにデカい虫いんぞ。お前追いかけられてやんの』なんて言われて怖くて泣いちゃった時もある。けれど、泣きそうな時は決まって先回りしてしーちゃんが待っていて、お手々を繋いでお家まで連れて帰ってくれてた。思えば、あの頃からしーちゃんは気難しそうな顔してたなあ。お家にはお父さんもママもいないから、そのまま一緒にしーちゃんのお家で毎日一緒にいて、夕方になったらおじさんがお家に迎えに来てくれてたんだっけ。
夜になるとおじさんが近くの公園でお空について教えてくれて――『悠里、人間はわからないものが怖いんだ。恐怖は常に自分の操作できない場所から訪れる。でも、怖いものをよく知ればその怖さがわかるようになる。すると、怖くなくなってくる。空はね、怖い場所じゃなくてすごく夢の詰まった自然の芸術なんだよ。ほら、適当な星を指さしてごらん。星の名前を教えてあげよう。ああ、アレはスピカ。太陽の何万倍も熱い星でね。乙女座の星だ』――それが終わるとお家でママがごはんを作って待ってて。お仕事が忙しくない時はおじさんも一緒に食べてくれてたし。寝る時はよくわかんない本で寝かしつけてくれて……遮光コンタクトもおじさんが買ってきてくれたんだっけ。そういえばあれから光の靄が消えてお外が怖くなくなったんだ。
「あたし……ほんとに貰ってばっかりだ」
早くお返ししたいな。おじさんにいっぱい、いっぱいお返ししたいな。幸せすぎて死んじゃうくらい――それくらいあげないとダメだよね。
でもどうすればいいんだろう。何をすればお返しになるんだろう。ここでいつも詰まってしまって、考えている内に眠くなるんだ。せめて今日くらいはちゃんと答えを出そう。
「よし。悠里ちゃん完璧です。できる子できる子」
大きな望遠鏡? でもおじさんは既にいっぱい持っているし、ごはんはもどるさんがとっても上手で全然適わないし。お菓子は……いっつもお土産買っていってるし特別感が……。
う~んう~ん。悠里ちゃんバカだから全然思いつかないや。世に生きるシャレオツな女子はどうやっておじさんを喜ばせているのだろう。手編みのマフラー……夏だぜ? いや冬に間に合わせる。でも編み物とか全然上手じゃないしなんか古くさい……。
そもそもおじさんくらいの歳の男の人って何が好きなんだろう。でもおじさんもなんていうか趣味一徹な人だし、そこら辺の人とはやっぱりちょっと違う気がするな。
どうやって同世代の女の子は、とっても大好きなおじさんを喜ばせているんだろう……。おじさんに何かあげたいなーって思った時、何をあげることにしているのだろう……。
悠里ちゃんは頭が悪くて全然何も思いつきません……。
「おやや」
頭上にぽたたと水滴が滴っていた。
どうやらもう交差点が近いようだ。暗い雲がかかっているおかげで視界が随分広い。
「えいっ」
傘を広げて、雨の中を進む。
その時、微かに視界の違和感があった。殆ど直感に近いような。
何かが来ている。あたしの中で何かが起こっている気がする。
瞬間、足下に絵の具が流れ込んだようにコンクリートの煮詰まった灰色と黒点の粒が現れた。その表面には透明な輝く水が塗り込められ、草木は瑞々しい滴のペンキに若草色に生まれ変わっていく。
空は複雑に白と黒が点描されて、雷鳴の走る稲妻の白色が激しいタッチで描画されていく。
「……これは」
視界はやがて一枚の絵画になり、視界のカンバスに納められ急激な完成を見せた。
瞬いた瞼の裏に血液の色が見える。見える。
見える見える見える! なんで!?
「うわーーーっ!?」
あたしはびっくり仰天してすっ飛んでいた。
もう何年も見たことがないくらいのフルカラー立体視界だ。しかも匂いまでついて感覚までバッチリ。温度も湿度も匂いもします。
ええ本当です嘘ではありません神に誓っていいでしょうウワーーーッ!
「ほんとに? なんでェ!? キエーーーッ! ってうるせえあたし。少し落ち着け
ばかものがよ。は? キレそうなんだテメー、一人で喋るな」
★※$/*+%&★~!!”#|――!
「は、はあ」
一通り騒ぎ終わると、あたしはここが礼香ちゃんの家の近くであることに気がついた。
雨はより勢いを増して、相対的にあたしの世界は広がった。
小さな赤い屋根の玄関に、車庫のついた広めのお家。
玄関の先には少し長い廊下があって、リビングを抜けるとキッチンが。裏に小さなお庭があって、その中には季節の織りなす一年草の花々――。
「あれ」
なんであたしこんなに仔細に思い出せるんだろう。
そんなにこの家の中は見回っていないはずなんだけれどな。
……家の電気はついてない。恐らく誰もいないのだろう。
雨の中を通り過ぎて、雨のヴェールが空から剥ぎ取られていく。
徐々に光が強くなって、あたしの世界は狭まっていく。
足下に小さな虹がかかっていた。今日は不思議な日だ。綺麗で不思議な、とってもいい日だ。
交差点を抜けて、傘を閉じる。光に反応してか切れかけの電球のように色彩がちらついて、再びぼんやりと世界が着彩されていく。
狐につままれたような顔をしながらぼんやりと歩いている中、一つ思い立った。
「……そうだ、ここってヴィシャップの近くか」
バー、『ヴィシャップ』はあたしがキャンバスを売っているバーの一つだ。
昼間からやっているほぼ二四時間営業の変わったバーなのだが、むしろキャンバスはそういう場所の方が売れる……気がする。マスターには気に入って貰ってるからワークショップも時折開いたりキャンパスを置いて貰ったりしているのだ。
特段寄る意味も無さそうだったが、少し顔を出してみたい気分でもあった。
一つ脇道に折れて、バーの分厚い木製の扉を叩く。
「……マスター、やってる?」
返事はなし。けれど鍵はかかっていない。営業はしているということだろう。
重くて軋む扉を開けると、ドアベルが一つ小気味良い音を奏でた。マスターはピクリ、と背を震わせたけれど一瞥もしなかった。
外の陽光を完全に遮断した陰湿な空間が一面を支配している。シックだとか大人とか色々言い方はあるけれど、この湿気っぽくて暗い空間を表す言葉をあたしは陰湿しか知らなかった。
「ちょっと奥借りるね」
返事はなかったが、そもそもここのマスターは返事をしない。無視してもいい。何かまずければ外につまみ出されるからわかる。
重苦しいカーテンで仕切られた一見ただの壁に見える小部屋に入っていくと、そこにはあたしの画材が雑多に積み込まれていた。
あちゃーなんて首を掻いてみるけれどそうです、これはあたしがやりました。ごめんなさいね本当に。
描きかけのキャンパスも放りっぱなしだ。しかもこれ、ちょっと前のヤツ。
堀っくり返してみるけれど、その度にあたしの指は震えていた。
理由はもうわかっている。
わかっているけれど、それは余りにも直視したくない事実だった。
「どうして。どうして」
この絵は、楽しげに笑っている人々の絵のはずだ。暖炉を囲んで――。
この絵は、マツリカとカラスウリの花。夜に咲く花をできるだけ淑やかに描いたはずだ。
この絵は、この絵は、この絵は。
どれも、違う。
描きたかったように描けていない。どれも色彩が壊れている――。
花は枯れた後に腐っていた。土留め色の絵の具を塗りたくったように。
人々は青ざめていた。手には赤よりも深く褥瘡の鬱血した色の液体を飲み込んでいた。
どれも、どれも。どれもが怖かった。あたしの描いたものを見て、あたしは胸の内に湧き上がる恐怖のような怒りのような、ただつっかえて溶かせない感情を抱えて蹲ってしまうことしかできなかった。
アンフォルメルや前衛芸術を劣悪にしたような洗練されてない絵。抽象にも現実にも沿わない半端物。線も所々震えたように無意味にうねっている。
「うぅ――う」
部屋のキャンパスを見た時、わかっていたことなのに。
わかっていたはずなのに。
頬に涙が伝った。自分の積み上げてきた時間が全部意味のないことだった。絵が自分にそう語りかけて聞こえた。悠里はここまで生きてきた殆どの時間をこの筆に賭けていたのに。辿り着いたのは『これ』だったのだと。
絵はあたしそのものだった。なのに、なのに――。
「あぅう……くそ、くそお。くそお。負けねぇ……悲しい時こそ――ぐすっ」
椅子を立てて、キャンパスを構える。
決めた。あたし、決めました。この少しの時間だけ持たせてください。神様。ほんの少しだけあたしから色を奪わないでください。
せっかく今、この目で描けるんだ。この時間は、全て捧げます。ここまで来させてくれた神様に捧げます。
だから、描かせてください。この絵をあげたい人がいるんです。きっと最高に喜んでくれる人が、いるんです。
だから、お願いします。
袖で涙を拭き潰すと、決心は既に固まっていた。
「あたしは絵が好きです。でももう二度と描けなくなってもいい。今この間だけでも、あたしを作ってくれた大事な人の為だけを思って描く絵、それだけの間だけ、見逃してください――」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
赤い部屋
山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。
真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。
東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。
そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】Amnesia(アムネシア)~カフェ「時遊館」に現れた美しい青年は記憶を失っていた~
紫紺
ミステリー
郊外の人気カフェ、『時游館』のマスター航留は、ある日美しい青年と出会う。彼は自分が誰かも全て忘れてしまう記憶喪失を患っていた。
行きがかり上、面倒を見ることになったのが……。
※「Amnesia」は医学用語で、一般的には「記憶喪失」のことを指します。

秘められた遺志
しまおか
ミステリー
亡くなった顧客が残した謎のメモ。彼は一体何を託したかったのか!?富裕層専門の資産運用管理アドバイザーの三郷が、顧客の高岳から依頼されていた遺品整理を進める中、不審物を発見。また書斎を探ると暗号めいたメモ魔で見つかり推理していた所、不審物があると通報を受けた顔見知りであるS県警の松ケ根と吉良が訪れ、連行されてしまう。三郷は逮捕されてしまうのか?それとも松ケ根達が問題の真相を無事暴くことができるのか!?
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる