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第25話 飆転

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 空には流星雨が流れている。天幕を遮る混沌の夕暮れ――その先には夢幻と永遠の自律世界が存在する。
 人が空の先を知らなかった時、向こう側には神々の黄昏に記された世界が眠っていると考えたように、今も人は『宇宙の先』にあるものを表すための言葉を探している。
 そこに『神』を、求めている――。

「おきてぇ」

 ゆらゆらと世界が揺れる。激しい地震だ。しかしなぜだ、空も揺れている。
 ――またあの奇妙な夢の中なのか……!? そんな、まず――

「おきてえしづるさぁーーーん!!!」
「うわっ」
「おきておきてえ、あのお、あのあのあのあのあの」

 ここはどこ……知らない部屋、なんだったっけ。
 頭がまだぼんやりするな、それより、さっきの声の主は……どこだ。
 辺りを見回しても、誰も人は居ない。あれ――?

「あぁ、はうあ……お願いだからしづるさん――そこをどいて、じゃないとぉ……」
「はっ」

 礼香。
 腕の中に礼香がいる……ああそうか、そういえばそうだったな――。

「ごめん寝てた。それにしても顔が赤いぞ礼香、大丈夫か? どうしたんだ」

 礼香は腰をもぞもぞと動かしながら、足の指先をピクピクとさせて半開きになった口でこちらを見ていた。

「しづるさん、しづるさんんん……んーっ――重くて動けないの……力入れたら、あ……もうダメ――あ」
「?」
「あ……ああ――」

 礼香の顔はみるみる赤から青に変わっていく。
 しまった、眠ってしまっている間に何があっただろう……傷病人をおいて眠っちまうなんて!
 正面からお互い寄りかかるように抱えていた礼香の体を横にする為に礼香の体を引き寄せて少し浮かせる。こういうときは何事も速度、まずは速度を大事に……。

「……あぁっダメダメダメです、今動かしたら、あっああ――!」

 妙にふともも辺りが熱い感じがする。というより、濡れているというか。礼香を乗せていた腰辺りにも妙な温かさが広がっていく。あとなんか音が……。
 ん? これってアレじゃん。えっ。

「……もしや」
「……ああ……あ……」

 そのまま抱き上げてベッドの上から一旦飛び退く、これだけの湿気ではベッドが乾くのが遅くなるだろう。それに何より、自分の経験則から言うと『ベッドの染み』ほど己の恥ずかしさをかき立てるものは無いからだ――!

「――お姉ちゃんなのに……わたし、お姉ちゃんなのに、しちゃった……」

 放心したように、礼香は俯いたまま微動だにしなかった。ただ、染みだけが風流な模様を描いているのが理解できた。同時に申し訳無さと『やべえ』という感情語だけが脳裏を支配していた。

「ごめんな……礼香」

 体が冷えていたのもあっただろう……もう考えが回っていればなんとかできたところだったが、悔やんでも仕方がない。

「しらない……しづるさんの、バカ。もう、しらな、い……何回も何回も起きてって言ったのに――おしっこ漏れちゃうって恥ずかしかったのにちゃんと言ったのにー!!!」

 大きな息遣いと腰の震えが収まった頃、掛ける言葉に困っていた俺に対して涙目の礼香は徐に肘を振り上げた。――肘!?
 拳ではない、肘だった。
『拳』――喧嘩といえば思いつくのは『拳骨』即ち、指を折り畳み中手骨の先にあるMP関節部による突きの打撃がまず一番に思いつくだろう。しかし、本来人間の手の形は掴み取る為に進化したものであり――その手で殴りつけるために進化したものではない。
 そのため、壊れやすい――拳とは、先程も言った通り関節部による打撃、つまり軟骨組織を打ち付けているのである。拳と拳でボックスを作り殴り合う競技『ボクシング』――そのプロである『ボクサー』拳闘でのプロたる彼らがなぜグローブを付け殴り合うのか。
 それは、拳を守るためである。何度も繰り返される激しい打撃戦――その連打をベア・ナックルすでで耐えられるほど、人間の拳には耐久度がないのである。そのため空手や柔道、他武道では拳の他に手の側部の『手刀』、固め鍛えた指先による『急所突き』、手のひらを扱う『掌底』――拳を使用しない戦闘方法を用意している――。中でも至近距離において速度、攻撃力、そして角度、その全てが揃っているのは『肘』――。
 俺が驚嘆したのは躊躇いなく肘を選択した礼香の判断の速さであった。同時に、両手の塞がっている俺の急所は現在がら空きであった。そういう意味で、最もヤバい一撃は、既に振り下ろされ加速を始めていた。

「ま、待てっ早まる」

 ぶんっ、風をきる音が伝わってくる。抱き上げられたまま腰の回転を活かしきり、人体工学の理にかなったあわやトミーガン機関銃のドラム回転機構めいた捻りを加えた、明らかに素人ではない肘打ちを――

「ジャストッ――ミートっ……!」

 きれいに――顎に……入ってる――。
 頭蓋内部で脳が揺れている、脳震盪――っこれは……っ――!
 天井……突き抜けっ――――ッ!

「ぐぁあああーーーッ」

 間抜けな自分の声だけが聞こえて、俺の精神は宇宙の向こう側に吹っ飛んでいった。
 吹っ飛んでいった先は、見知らぬステージだった。そして、スポットライトが当てられた席があった。俺はなんとなくそこに座ると、上部には横断幕があった――『特異点』。

「全選手入場ォォオオオオーーーーッ!!! 自分を常識人だと思っている永世中立優男――!!! 軍事力はナシ! 国境見境なんにもなしのなんでもありーーーーーッ!!! 桜庭ぃいいいいいっしづるだぁあああああああーーーーっ!!! 幼女を誑かした報いを受けろッ!!!」

 ボクシングの入場曲のようなメロディーとスポットライトがもう一つ照射され、俺の隣には女が現れた。耳を塞ぎたくなるほどの爆音で見覚えのない紹介をしたのは、金髪で白衣を着てペストマスクをつけた、見覚えのあるこの女だった。

「悠里?」
「? 誰ですか悠里ちゃんって、ここで女の名前を出して帰ろうっていうの? 『俺には大事な彼女が故郷で待ってるんだ』ってわけ? まあ悠里ちゃんがとても大事なのは知ってますがこんな場所までそんな個人的な意見を持ち込まないでほしいですね。あと死亡フラグをこんなところでまで立てないでもらえます? ここ、いわゆるゲームオーバー後のヒントルート扱いなので。それとあたし仕事にしか興味がないのでプライベートの話は断ります」

 まくしたてるような早口を一息で言い終わった女は、俺の口元にマイクを当てる。

「ところでコンテニューしとくか? しーちゃん」
「コインは何枚いる……?」
「108枚、煩悩をお祓いしておく必要があるからね、あと未成年と淫行はマジでダメだかんね。キ〇タマを4つにされたくなかったらしっかり考えといて」
「キン〇マを4つ!? 減るじゃなくて増えてるじゃん――そんなに増やしてどうすんだよ」
「半分はカレーの付け合わせに、もう半分は新しく竿を差し木にして増やす」
「発想こわっ! まだ増えんの!? てか〇ンタマって竿さしたら増えんのかよ」
「ナスだって増えるんだし根性のあるキンタ〇ならいけるだろ」
「いけねーよ! そっちも乳増やせねーだろ!」
「知ってるか……しー。『副乳』って言うんだがな……? 人間さ、実は脇の下とか腹のあたりとか、低確率で乳首が追加導入されてる人、いるんだぜ?」
「マジか――」
「うん、マジ」
「で、おまえの話、よく考えたらめちゃくちゃ棒だけ増えていかない? ちゃんと収穫してくれんの?」
「きたねーからゼッテーやだ」
「なんだこいつ……」

 あんまかわんねーだろ……。と胸の内だけで悪態を吐く。

「それを言っちゃぁおしまいだぜブラザー! そろそろ時間だな、ほら、タイトルコール頼むぜ。ここは『特異点』だからね。この先は違う空があると信じて『ア〇ザースカイ』!」
「それア○トーーーーーッ!!!」
「伏せ字いる? あ、そう。ポケットの中に入ってる黄色のきったない布きれ、それいつまで持ってるつもり?」
「布きれ……?」

 急激に覚醒の波が来て、目が覚めた。

「はあ、はあ……」

 ……俺はこの短時間で何度気を失えば済むのだろう――。
 というより、気絶してたのに夢を見てたのか。いや、走馬灯なのかもと詮無く思索し終わったところで、俺は周りを確かめた。
 見覚えのある天井だ……。いや、この短時間でできてしまったというべきか。

「う、うう」

 体をのっそりと起き上げる。もう既に外は暗くなっていて、静寂に満たされていた。俺はどうやら床の上で薄いブランケットを掛けられたまま寝かされていたようだ。
 そっと布団の中をのぞくと、どうやら腰にはタオルが巻いてあるようだった。下着まで全部剥ぎ取られている様子を見ると、相当堪えたのだろう……。

「まあ、仕方ないか――」

 案外、寝起きは悪くなかった。妙な夢――いや、気絶状態では夢なんて見ないはずだ。レム睡眠もノンレム睡眠もあったものじゃないのだから。
 ではなんだろう……走馬灯? しっくり来る、けれど初めて見た走馬灯があんなにやかましくて奇怪なものというのは――なんだかイヤな話だった。
 それよりも、肉体の疲労がずいぶん取れていたのも事実だった。きっかけはどうあれ休むことができたのは良かったのかも知れない。
 ドアの隙間から、暖色の電灯の光が差し込んでいる。懐かしい光景だった。暗い子供部屋に一人佇んで、俺はリビングの方を眺めている。寝る時間と言われて閉じ込められたまま外に出ることもできず、こうして通路の電灯の明かりとなんともなくにらめっこしている。そんな光景の焼き直し……不変な記録。
 そうしてずっとにらめっこしていると、どこから入り込んできたのか部屋の前に影が現れる。ぼんやりと立ち上った影がそっと扉を開ける。俺は親が来たのかと思ってベッドの中に隠れてみるけれど、そうじゃない。
 それは足音をそっと猫のように忍ばせて、眠ったフリをした俺の頬をつついてこういうのだ。

『遊ぼ、しーちゃん』

「しづるさん、起きましたか」
「はっ……」

 幻影が打ち破られて、廊下の光は一条に差して礼香を逆行に映し出していた。

「ごはん、作ってたんです」
「あ、ああ――。動けたのか、礼香」
「お姉ちゃんですから。それより。ごめんなさい。思わず――」

 逆光の中、礼香は俺に向かって詫びた。その立ち居振る舞いは先ほどよりも冷静で、紳士的な印象を持たせた。一人きりの時間ができたことで、多少心の余裕が生まれたのだろうか。

「いや、いや、いいよ。俺が悪かったんだ。それより、何作ってたんだ?」
「カレーです。簡単に作れて食べられるものをって考えたら、それくらいしか思いつかなくって。嫌いじゃないですか?」
「好きだよ。そっか、まだ松葉杖突いてるのに器用にやったんだな」
「はい、いいとこ見せなきゃって。しづるさんには悠里さんっていうお姉ちゃんがいますから! 負けないくらい私もお姉ちゃんなとこ見せなきゃって! 腕によりをかけて作りました」
「お姉ちゃんって……あいつが料理作ったことなんてないよ。いっつも二人になると俺が作ってるくらいでさ。あいつも下手なわけじゃないんだけどな」
「ええ、意外ですね。家庭的なのかなって思ってました」

 それは……観察のミスではないだろうか。少なくともあいつがそう見えるなんて――。いや、案外外から見るとそうなっているのかもな、なんて思いつつ膝から立ち上がる。

「うわっと」

 少しよろめいた礼香を支えながら廊下に出ると、確かにスパイスの匂いがした。

「これは楽しみだな」
「期待してください」

 俺たちはリビングに移動して、礼香の作ってくれたカレーを食べ始めた。

「うまい」
「ほんと……?」

 心配そうに上目がちに伺った礼香に笑顔で返す。掛け値なしに家庭のカレーの味になっている。野菜の大きさも火の通り具合も全く問題ない。

「本当だ。上手なんだな」
「えへへ。いっぱい作ったことがあるので、得意なんです」

 本当にうまい……。ここのところ食べてなかったり適当な店屋物てんやものばかりで胃腸が若干疲れ気味だったのもあって、こういう家庭の味が本当にありがたかった。

「おかわりってあったりする?」
「もちろんいっぱい作ってますよ」

 俺が食べているところを礼香は幸せそうな顔でじっと眺めていた。きっと俺の席には本来蕾くんがおり、それを眺めていたのが彼女だったのだろう――。
 少し俺は目を伏せた。

「あの後、少し考えてたんです。蕾のこと」

 先に口を割ったのは、礼香の方だった。

「私、蕾のこと一緒に暮らしてたのに、全然知らなかったなあって。『御園礼香の弟』だって名乗って急にやってきたけど、あの子はお父さんの名前も知ってたしとってもいい子だったしでそれを理由も無く信じていました。もちろんずっと一緒の時間を一緒の家で過ごしてきたから他の人よりはあの子のことを知ってます。靴紐は左から結ぶこととか、嬉しいとぎゅーってして欲しそうに寄ってくるとか、火が怖いから台所に近寄らないとか――けど、あの子の過去のことに、触れようとしなかった。私も昔の記憶がほとんどないんです、だからあの子もそうなのかなって思って、無意識に避けていたところもあったんです。だからあのときの私は、家族の話になったときに蕾を受け止めることができなかった。怖かったんです。あの子と私の間に膿んだ傷ができて一人になるのが。知らないでいいことを知ってしまって、たった一人の一緒に居られる肉親を失うのが」

 礼香は、言葉の節々を震わせながらそれでも泣いていなかった。むしろ、冷静に取り繕って話すのではなく、それがどういう意味か自分の中でかみしめるようにしながら俺に聞かせていた。それはどこか蛹が蝶に羽化するために背中から羽を伸ばし始めるような、そんな趣を持たせながら新しい彼女の訪れを感じさせていた。

「私今、失って初めて、覚悟ができたんです。私は、『御園蕾』が知りたい。例えどこにも居なかったとしても、絶対に蕾は居たんです。だから、知りたい……。荷物もない、跡形もない。なんにも――ひまわりくらいしか残っていない。でも知らなきゃならない。あの子のお姉ちゃんとして、あの子がなんだったのか。私は、この思い出だけで『御園蕾』を諦めるのは嫌なんです。例えば、例えば――もし仮に、もし仮に」

 震えながら、礼香は口を開こうと何度も息を吸い込んでいた。それほど彼女が思い詰めている理由はわからないでもなかった。けれどそれは――俺と悠里も一度辿り着いていたことで、隠し通そうとしたことであることは間違いなかった。

「私の――私の、ただの幻想だったとしても――。それでも、それでもあの子は……御園礼香の姉弟で、私の弟だったんですから」

 礼香の瞳はまっすぐと、現実よりも奥ののどこかを見ていた。けれどその瞳の輝きの名を、俺は知っていた。
 『覚悟』――。その輝きは太陽よりも明るく、暖かく、それでいて易しくはなかった。強いものは、脆い。燃えやすいものはすぐに灰に変わり風に呑まれる。
 それでも進むと決めた退くことを捨てた者――退路を捨てた者だけが知っている目をしていた。そしてそれは……俺のできない瞳だった。だからこそ、俺は好きだった。
 暗く冷え切った夜の中、一人は凍えて床に蹲り太陽を待った。一人はアテは無くとも太陽を探して歩き始めた。俺は前者だろう、けれど――俺の好きな人間はいつも後者を選ぶ。
 言葉だけではなく、魂の方向がそう向かうと決められているように。そうなるように運命に引き寄せられるように――。

「例えば、礼香。何かを捨てなければたどり着けない場所がある。代償は、『真実』と『事実』だ。『真実』とは、その人にとって都合のいいものだ、幾らでもでっちあげることができる。対して『事実』は一つしかない。極めて不合理で辛くて、多くの人間は受け容れられない。だから多くの人間は――都合のいい『真実』を選ぶ。けれど意図して『真実』を選んだ者は、もう二度と『事実』を受け容れることができなくなる。都合の良さだけで『真実』を作り出し、痛みを無かったことにしようとする――。もし君が『真実』を選ぶのなら、今しか無い。これ以上進むなら、どう転ぼうともきっと君は今まで以上に辛い思いを必ずする。君は今、『事実』を選ぼうとしている。なあなあで『あのとき何もできなかったなあ』って思いながら生きるのは、実は簡単だ。本当の痛みを知らずに生きていける、最も賢い方法の一つだ。多くの人がそちらを選び、小さな胸の痛みをずっと持ったまま大きな痛みを分散して生きている。君は今、誰もが踏み込めない領域に踏み込もうとしている。その先で壊れればもう二度と戻れない。その痛みは決して消えない。それでも、君は御園蕾という『事実』を選ぶのかい」

 礼香は、俺の言葉を聞いて安心したように笑顔になった。俺は驚いて、彼女の顔を見つめることしかできなかった。殉教者――そんな言葉が脳裏に過ぎり、同時に少女の姿がどこまでも気高く見えた。人間という所詮は肉と骨が臓器の機嫌によって動いている生き物――それがこうまで美しく見えたのは、実にいつぶりだったであろうか。それほど礼香は今、背をぴたりと死の境目に貼り付けてなお、それを安心していた。その痛みこそ、自分を今まで支えていたのだといわんばかりに。

「私は、お姉ちゃんなんです。だから、できます。あの子が居なくても、今胸の中にある『逢いたい』って気持ちを信じてるんです。私は――『御園蕾の為なら死ねる』んです。『お姉ちゃんだから』――そんな端から見たらきっとどうしようもない下らない理由で、私、幸せをいっぱい感じることができたんです。だから、だから。死ねます。死よりも辛いことがあっても、それでも私は、『御園蕾』という弟が大好きだったんです」

 迷いなく言い切った言葉は、既に信用するに値する覚悟があった。

「ああ――わかった」

 この少女を助けられて良かった――。俺は、心の底から運命の巡り合わせに感謝していた。

 二人には広すぎるリビングの中、俺はある思考に達していた。
 俺は彼女に包み隠さず真実を伝えるタイミングがあるとすれば、ここが最後になるだろうことを直感していたのだ。
 例えこの先がどんな結末を迎えようと、今よりもお互いに落ち着いて向かい合うことはできないだろう――出来たとして、心に整理をつける時間を取ることは難しいだろう。

「礼香、今の君に話しておくことがある。信じられないことかもしれないが、聞いてほしい」
「なんですか……?」
「これからのことに関わる重要なことだ――」

 これまでは時間がランダムに巻き戻るという奇妙な動きをしていたこと、これからは違うことが起こること、雪星というものを止めるのが必要だということ、そのために動いてくれている人がいること……そして、あと二日に解決できなければもう打つ手がなさそうだということ――。個人名を伏せて俺はできるだけ礼香に分かりやすく伝えた。どれくらい彼女が受け止めることができただろうかわからない。けれど礼香は真面目にその話を聞いていた。俺にとっての説明責任……手を束ねることしかできない存在の最低限にできること、これもその一つに違いなかった。端倪すべからざる情況だと礼香は飲み込んでくれるだろうか。

「それで病院から抜けて出てきたんですね……私なんだか誰かに狙われてでもいるのかと」
「まあ、周りにあるもの全部が何をしでかすかわからないという面ではその言い方もなまじ間違っちゃいない」

 話を聞いた礼香は、案外落ち着いていた。寧ろある程度納得――というわけではないだろうが得心のいった顔ですらあった。

「思ったよりもびっくりしないんだな、意外だ」
「えへへ……実感がまだなくって。あと、なんだか私今、安心してるんです。今までは色んなことがバラバラで――蕾が居なくなって音沙汰がなかったことも、家に蕾のものが残っていなかったことも、ひまわりが枯れちゃってたことも。でも、今それが一点を中心にして繋がった感じがするんです。ずっと暗くて寂しい場所にいたけれど、今はちゃんと夜明けに道が繋がっている。そんな気がするんです、今は一人じゃないから」
「随分信用されたもんだな……」

 苦笑しながら、水を一杯飲み干した。

「信じろって言ったのはしづるさんですよぉ」

 礼香は頬を膨らませて、不満そうに頬杖をつく。
 
「……うん、そうだな」
「しづるさん……」

 礼香は机を杖代わりにしながら回り込んでこちらに来ると、少し両の腕を開いて抱きついてきた。

「どうした」
「わかんない」
「わかんないって……」
「あの後、しづるさんが気を失ってる間に色々考えたんです。あと……その……片付けてたら否が応でも冷静になっちゃったっていうか……」

 歯切れ悪そうに礼香は胸に顔を埋めたままもごもごとごちた。さっきの大洪水の件を言っているのだろうが、こちらから言うべきことでもない。

「そうか……」
「私、しづるさんに抱き締めて貰ってるとき、すごく安心してたんです。初めてだったんです。人って、こんなにあったかいんだなあって。それだけじゃなくって、しっかりしてて、落ち着いてて――」

 つま先立ちになるほど俺に体重を預けきった礼香はそのまましなだれかかってきて、俺は受け止めた。礼香の体温は暖かかった。心臓の鼓動は早かった。肺が動く度、礼香の体温が肌の上を通って俺の中に流れ込んで来ていた。

「わからないんです。この感情、知らないから――私、こんなに人といっぱい触れ合ったことって、なかったから。だから今こうしてしづるさんと一緒にいるとどきどきするんです。こうやってずっとしてたいって……おかしくなっちゃったのかな、私」

 半呼吸ほどの緩い沈黙の先に、言葉を返した。なんとなくこの先の予測ができたからだ。

「おかしくはない、と思う。吊り橋効果、わかるかい。一緒に緊張の大きな修羅場をくぐり抜けた二人の間に深い絆が生まれるって効果。俺はその説を推すよ」

 そっと頭を撫でながら礼香を抱き寄せた。聞くに、彼女にこうしてやったのはやはり俺が初めてだったのだろう。だから彼女は、今すごく俺に恋情に近い感情を覚えている――そう考えるのが普通だ。無意識下で憧れていたのかも知れない、誰かに掛け値なく大事にして貰いたい――誰かに抱き締めて貰いたい。ただそれだけの、一定以上の幸福な家庭に生まれていれば誰しもが叶うだろう願い。それをしてやれたのが他人である俺だったから、きっと勘違いを起こしているのだ。……それが、人の心に携わる大人としての俺の見解だった。だからこれは受け取れない。礼香には時間が必要だからだ。

「でも、でも違うんです。本当なの。今この気持ちは――」

 礼香の指が服の裾を握った。

「礼香」

 言葉の途切れ目を狙って、礼香の言葉を堰き止めるように割り込んだ。

「全部が終わって、それでも本当ならもう一度聞かせてくれ」
「でも、もう時間もないって……もし、このまま世界が終わっちゃったら――私……」

 世界が終わる。
 なぜだろう、俺が無意識で避けていた言葉を、礼香は神託を与える天使のように純真に告げた。
 そう、この場所は夜になった三崎町。
 時間の輪から外れたもう一つの空の円環の向こう側で。
 俺のよく知る音と風景に象られた一つの世界――生まれ育った空の下が終わろうとしている。
 けれど、それは本当に世界の終わり――終末の炎なのだろうか。実は同時に始まりで、またどこかから始まった世界は知り得ぬどこかで終わりを迎えるのかも知れない。
 そうして進み、戻り、繰り返す中でまた俺と礼香はこうしてリビングで抱き締め合って、今の繰り言を返すのかも知れない。それとも、既にこれがその何回目かなのかさえ、俺には知る由もない。
 けれど、だとすれば、今の俺たちがここにいる意味はなんだろう。二人がここに居られた理由は、運命に意味があるのだとすれば、それは。

「終わらない」

 いや、運命に意味なんてない。次なんてない。
 今この瞬間、俺と礼香が同じ場所にいて礼香がそう思っていること、それが現在なんだ――。
 必要なのは希望でも、未来の約束でもない。今、俺が礼香の未来を望んでやること。それだけが答えだ。

「……」
「終わらせない。その為に俺も悠里も、みんな今頑張ってるんだ。だから礼香、信じてくれ。どんなに不利でもどんなに非現実的でも、俺たちはこの先へ辿り着く。礼香も一緒に行くんだ。ここでは世界は終わらない。絶対に終わらせない。礼香の世界がこのままで終わることなんて絶対にさせない。だから、待ってくれ」

 ひとりぼっちの少女の薄暗い空。
 灰色の不安な言葉に満ちた世界、ささやかな理想すらも押し潰した現実という同調の渦。
 その中に礼香を再び置いていくことなんて、絶対にできなかった。何があったって、絶対に。それはもはや、俺のプライドの問題だった。
 俺は見過ごさない。
 俺は後悔しない。

「俺は礼香を助けるよ。約束する。だから、まずは全部終わったらだ」
「しづるさんはそればっかりでずるい、ずるい……ずるいよ」
「ごめん、ごめんな礼香」

 礼香は声を上擦らせて、余計に強く頭を押しつけた。俺にできることは、信じるこれくらいしかなかった。俺に特別な力や知識はない。望んでも手に入りはしない。
 だからこそ、それだけは決して捨ててはならないことを知っていた。そこに光があること、それだけは失わない――何度も自分に言い聞かせた言葉だった。

「ばか、ばか。きらいきらいきらい。知らない」
「ごめん、ごめん、ごめんってば」
「許しません。許しません許しませんゆるしません。約束全部守ってくれるまで、ぜーーーったい! 許しません!」
「手厳しいな」
「しづるさんは大人だもん、わたしのこと子供扱いするもん」
「してないしてないっての。ってか大人な礼香さんだったら言うこと聞いてくれるよな!?」
「また子供扱いしたーーー! お姉ちゃんなのに!」
「そこ関係ないだろ……!」
「あるもんあるもん、知らない知らない」

 怒ったように離れない礼香を持ち上げた。

「わあっ……」
「……星、見に行くんだろ。駄々こねてないで行くぜ」
「……むー。お洗濯ものは乾燥機の中で乾いてますよ」

 ぷい、とそっぽを向いた礼香をそっと下ろしてやると、台所で洗い物を始めた。

「作ってくれたのもあるし足も痛いだろ、それくらいやるぜ」
「いいです。要りません。お姉ちゃんなので」
「そっか、頼もしいな」
「か……代わりに後でちょっと面貸せ……」
「何を言おうとして間違えたの?」
「いいから貸してください!」
「はいはい」
 
 そのままリビングを抜けて、脱衣所の方に向かう。
 礼香を風呂に入れたときに家の中の構造は粗方調べておいたのだ。
 乾燥機を開けて、乾いた洋服を取り出す。

「……っと。糸くずだらけになってるな。ポケットの中になんか入れたままにしたっけ」

 指先でポケットを開いてみると、破れてボロになった黄色い布があった。

「これ……あの丘の教会の地下で拾った布きれ――」

 28日の未明、教会の地下。
 あの部屋は確か……そうだ。手術台のようなものがあったな。それに酷く入り方も入り組んでいた。その中にこれがあったのだった。

『ところでしーちゃん、何かあったの?』
『いや。ちょっとな。妙に新しい服の切れ端みたいなのがあってさ。それで気になっただけ』

「……今考えてみると、この布きれがあったのは奇妙だな」

 ぼんやりと思索の海を動かし始めるが、特段思い当たる節もない。

「それより今は……そうだな」

 手早く着替えると、脱衣所から抜け出した。


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ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

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