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第24話 囚隷
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「――死刑囚!
ところで、それがどうしてだめなのか。何かの本で読み、ためになったのはその一文だけということをよく記憶しているのだが、人間は皆、無限定の執行猶予がついた死刑囚なのだ。そうだとすれば、私の状況に何か変化があるだろうか。
私に判決が下されて以降、長く生きるつもりでいたどれだけの人が亡くなったことだろう!若く、自由で、健康で、ある日私の首がグレーヴ広場で切り落とされるのを見物するつもりだった人が、どれだけ私より先に死んだことだろう!今は戸外を歩き、大気を吸い、自由に家を出入りする人がどれだけ、おそらくこれから処刑日までの間に私より先立つことだろうか!」――ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最後の日』より
「一木ィ、こんな暗い中でまたなんか読んでんのか? 動きたくないなら手柄は全部アタシのモンだぜ」
暗い理科室の中、ぼんやりと浮き上がる人影が二つあった。
片方は明かりも付けずに、聖書を胸に抱える神父のような影でぼんやりと佇んでいた。
もう一方はそれに相対するように片方に垂らしたおさげを風に纏わせて快活に笑んで見せていた。
おさげが一層揺れた――そう思った瞬間には、影は空中に飛び上がっていた。そして十メートルはあろうかという散らかった床々を一足に荒々しくも雄々しく跳び越えると、もう一つの影がもたれ掛かっていた机の上に着地した。周りに置かれていた紙の束が、白鳥の群れが飛ぶように舞い上がっていた。
「ほらよ、しィけたツラしてっから持ってきてやったぜ。味わいな」
ようやく本を机に置いた影は、ゆったりと動き言葉を紡いだ。
「もどるさん――。慣れないことをするね。君らしくもない」
「……バレちゃったか。イチ君、おかえり。コーヒー持ってきたの。ちょうどこれくらいかと思ってね。けどあんまりぼんやりしてるからイタズラしたくなったのさ。隙あり」
首筋に軽く手刀で触れてカップを机の上に置くと、もどるはすんなりと机から降りてどこからか取り出した布巾を手慣れた袱紗のように扱い、机を拭いた。着地は激しい衝撃だったにも関わらず、一木が啜ったそのコーヒーには波紋一つさえなかった。
「君はいつも通りだね。本当にどうやったらそんなに元気でいられるんだい」
「適切な運動と、適切な食事、後は自分に与えられた仕事を全うにこなしきること。使命感が私に力を与えてくれるわ。今は……あなたの残した仕事を片付けること。報酬は低いけど、今までで一番好きな仕事」
「それならよかった。ぼくのような凡庸があの暁月家の娘を小間使いにしていると触れ回られたら……一瞬で首が飛びかねない」
「卑屈になっちゃダメよ。イチ君。君は良くやってる。いずくちゃんだってそう言ってくれる」
二人の影絵が静かに重なり合っていた。夕刻を示す帳が、ゆっくりと空を支配し始めていた。
世界が終焉を迎えるその時が近い。二人して知っているその終焉も、今だけはお互いが目を逸らしていた。
「……ありがとう」
「時間がないわ。そろそろ、限界よ。予定から三分と十二秒遅れてる」
「うん……」
暁月もどるは今の一木の顔を見て、出会ったばかりの頃を思い出していた。
おどおどした態度で伏し目がちに施設の廊下を眺めては、手のひら大の赤い鱗の塊を抱き締めて泣いている少年の背姿。
家族を失い、行き場所を失い、剰え命さえをも奪われかけた悲惨な過去を知っていた。
けれどそれ以上に語るのも憚られるほどの大きな悲しみが彼を包んだことを知っていた。それはもどると一木、二人ともが抱えていかなくてはならない事だったからだ。『過去』にすることすらも、二人にはできなかった。それは『過ぎ去る』ことはない、そう知っていて、それでも二人は向き合うことをやめなかった。ただそれだけが、二人の心の溝を埋めていることをお互いが理解していたからだった。
「行ってらっしゃい。大丈夫よ。あなたは本当に頑張り屋さんだもの。できるわ」
「うん。行ってくる。悠里をお願い」
「事前準備の資料は車の助手席に置いておいたの。確認しておいて」
「ありがとう」
もどるは首筋と頬に口付けをして、送り出した。
「……」
笑顔で手を振って、振り返った。赤いタバコの吸い残しからは、馴染んだ匂いがした。大嫌いな匂いだった。
赤い空が紫煙燻るままに蒼く燃えている――。
『もどる、おまえ、いっつもこんな役回りばっかだな。偶には自由にしてみたらどおなんだ?』
「うるさいわね。心配されなくても好きにしてるわ。私はいつも好きにしてるの」
手際良く片付けながら、紫煙に宿った幻影を消し去った。幾度言い合ったかわからない言葉も、今では既にこうして幻影としか張り合うことはない。
既に人払いは済ませている。ここから先は……イチ君と私、そして彼の愛する子供達のみだけが好ましい。
ふいに、一木の置いていった本に目線がいった。タイトルは『死刑囚最後の日』とあった。
「あら」
守衛室の方が鳴っている。許可証が無い人間が入ったということだ。
「悠里ちゃんかしら」
もどるは手一杯にゴミや紙束の類いを抱えると、それを運び出しつつ正門に向かった。
ところで、それがどうしてだめなのか。何かの本で読み、ためになったのはその一文だけということをよく記憶しているのだが、人間は皆、無限定の執行猶予がついた死刑囚なのだ。そうだとすれば、私の状況に何か変化があるだろうか。
私に判決が下されて以降、長く生きるつもりでいたどれだけの人が亡くなったことだろう!若く、自由で、健康で、ある日私の首がグレーヴ広場で切り落とされるのを見物するつもりだった人が、どれだけ私より先に死んだことだろう!今は戸外を歩き、大気を吸い、自由に家を出入りする人がどれだけ、おそらくこれから処刑日までの間に私より先立つことだろうか!」――ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最後の日』より
「一木ィ、こんな暗い中でまたなんか読んでんのか? 動きたくないなら手柄は全部アタシのモンだぜ」
暗い理科室の中、ぼんやりと浮き上がる人影が二つあった。
片方は明かりも付けずに、聖書を胸に抱える神父のような影でぼんやりと佇んでいた。
もう一方はそれに相対するように片方に垂らしたおさげを風に纏わせて快活に笑んで見せていた。
おさげが一層揺れた――そう思った瞬間には、影は空中に飛び上がっていた。そして十メートルはあろうかという散らかった床々を一足に荒々しくも雄々しく跳び越えると、もう一つの影がもたれ掛かっていた机の上に着地した。周りに置かれていた紙の束が、白鳥の群れが飛ぶように舞い上がっていた。
「ほらよ、しィけたツラしてっから持ってきてやったぜ。味わいな」
ようやく本を机に置いた影は、ゆったりと動き言葉を紡いだ。
「もどるさん――。慣れないことをするね。君らしくもない」
「……バレちゃったか。イチ君、おかえり。コーヒー持ってきたの。ちょうどこれくらいかと思ってね。けどあんまりぼんやりしてるからイタズラしたくなったのさ。隙あり」
首筋に軽く手刀で触れてカップを机の上に置くと、もどるはすんなりと机から降りてどこからか取り出した布巾を手慣れた袱紗のように扱い、机を拭いた。着地は激しい衝撃だったにも関わらず、一木が啜ったそのコーヒーには波紋一つさえなかった。
「君はいつも通りだね。本当にどうやったらそんなに元気でいられるんだい」
「適切な運動と、適切な食事、後は自分に与えられた仕事を全うにこなしきること。使命感が私に力を与えてくれるわ。今は……あなたの残した仕事を片付けること。報酬は低いけど、今までで一番好きな仕事」
「それならよかった。ぼくのような凡庸があの暁月家の娘を小間使いにしていると触れ回られたら……一瞬で首が飛びかねない」
「卑屈になっちゃダメよ。イチ君。君は良くやってる。いずくちゃんだってそう言ってくれる」
二人の影絵が静かに重なり合っていた。夕刻を示す帳が、ゆっくりと空を支配し始めていた。
世界が終焉を迎えるその時が近い。二人して知っているその終焉も、今だけはお互いが目を逸らしていた。
「……ありがとう」
「時間がないわ。そろそろ、限界よ。予定から三分と十二秒遅れてる」
「うん……」
暁月もどるは今の一木の顔を見て、出会ったばかりの頃を思い出していた。
おどおどした態度で伏し目がちに施設の廊下を眺めては、手のひら大の赤い鱗の塊を抱き締めて泣いている少年の背姿。
家族を失い、行き場所を失い、剰え命さえをも奪われかけた悲惨な過去を知っていた。
けれどそれ以上に語るのも憚られるほどの大きな悲しみが彼を包んだことを知っていた。それはもどると一木、二人ともが抱えていかなくてはならない事だったからだ。『過去』にすることすらも、二人にはできなかった。それは『過ぎ去る』ことはない、そう知っていて、それでも二人は向き合うことをやめなかった。ただそれだけが、二人の心の溝を埋めていることをお互いが理解していたからだった。
「行ってらっしゃい。大丈夫よ。あなたは本当に頑張り屋さんだもの。できるわ」
「うん。行ってくる。悠里をお願い」
「事前準備の資料は車の助手席に置いておいたの。確認しておいて」
「ありがとう」
もどるは首筋と頬に口付けをして、送り出した。
「……」
笑顔で手を振って、振り返った。赤いタバコの吸い残しからは、馴染んだ匂いがした。大嫌いな匂いだった。
赤い空が紫煙燻るままに蒼く燃えている――。
『もどる、おまえ、いっつもこんな役回りばっかだな。偶には自由にしてみたらどおなんだ?』
「うるさいわね。心配されなくても好きにしてるわ。私はいつも好きにしてるの」
手際良く片付けながら、紫煙に宿った幻影を消し去った。幾度言い合ったかわからない言葉も、今では既にこうして幻影としか張り合うことはない。
既に人払いは済ませている。ここから先は……イチ君と私、そして彼の愛する子供達のみだけが好ましい。
ふいに、一木の置いていった本に目線がいった。タイトルは『死刑囚最後の日』とあった。
「あら」
守衛室の方が鳴っている。許可証が無い人間が入ったということだ。
「悠里ちゃんかしら」
もどるは手一杯にゴミや紙束の類いを抱えると、それを運び出しつつ正門に向かった。
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