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第16話 空谷

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「はっ」

 ここは……どこだろう。
 そもそも、あたしさっきまで何してたんだっけ?

「思い出せんな……ほッ」

 上体を起こして、腕から腰、そして太もものスプリングを体重の円運動に任せて上空に向かって叩きつけ、跳躍する。
 体が地面の逆位置に吹っ飛んだ。つかの間の浮遊感、髪の内側に感じる落下のエアー、重力からの解放、力みからの逃走。感じる――宇宙、コスモ……。

「気持ちいい――はッ」

 すたっ、とな。地面を足が捉えた。心地いい重力だな、まるで悠里ちゃんを待望してたみたいだ!
 痛快な高揚感と、あっつい夏の日差しの真下。
 目の前にはコンクリートブロックのように聳える、三咲駅旧駅舎があった。ところどころ赤茶けた錆が金属を支配していて、後ろにある真っ白い程に映える太陽とは逆光になって今度はコントラストが痛いほど目に突き刺さる。廃線になった線路のバラストの上には幼い雑草たちの群れが少しずつ侵入を始めていて、インダストリアルデザインの中に鏤められたアクセントのような、そんな冴えた自然のメッセージを感じる――。

「あれ? そもそもあたし、なんでこんなに見えてるんだろ」

 う~ん、視力はそんなに悪くなかったはずだけど(いや、そりゃ普通の人と比べりゃ悪いんだけどね)、なんか普段と違う気がするな。虫眼鏡。

「ま、いっか!」
 この辺をうろついていれば何か思い出すかも知れないし、とりあえず元気な悠里ちゃんはお散歩といこうかな。

「それにしても懐かしいなあ。新駅舎ができる前はこっちにもいっぱいお店が~入ってたよね~」

 あたしは日向を避けるように、旧駅舎の中に踏み入れる。壊れた非常灯の明かりが、今もあたしを歓迎して慇懃にシグナルを飛ばしてくれている。もう既にどこもシャッターは閉まっているけれど、その中に光る二つの宝石みたいなものが浮いていた。ぼんやりと影には綿毛みたいな模様が見えるから、四つ足ちゃんかな?

「ん……?」

 なんだろ、あれ。
 生き物っぽかったけど、すぐ隠れちゃった。

「ねえねえ、待って」

 通路の奥にいったのかな? ちょっと追いかけてみよっと。
 暗いところは得意だ。明るいところでは全然見えない光の層が視界の中にくっきりと現れて、それが遠近感を示してくれるから距離を見誤ることがない。明るいと足下も何もかもが全部真っ白になってしまうから、余計に見えなくって危ない。普通の人とはどうやらこれが逆みたい。
 奥に行けば……そうだ階段があって上階と地階に続いてるんだっけ。
 地下行きの階段はどうなったんだっけ? 危ないから通行止めにしてあるのかな、営業してた時もなんだかんだ危なそうだなと思ってたし。
 こーん、こーん。かちゃ、かちゃ。
 踵が地面を叩く音が遠くで反射して帰ってくる。何もない空間の残響はあたしと、見知らぬ四つ足ちゃんの爪の音だけを返しては拡散させている。

「四つ足ちゃ~ん。どこ行くの~?」

 大きな階段と、止まったエスカレーターのあるホールまでやってきた。
 爪の音は階段を上っていく、薄暗い旧駅舎の明るい屋上に向かっていく。

「もう、逃げないでよう」

 止まった下りエスカレーターを駆け上がる。なんだか背徳感。
 ショッピングモールとして昔はいっぱいのお店が入っていた二階フロアーは、もう全てが空っぽになっていた。いやまあ、ここはもう誰もいない駅舎なんだもんね。当たり前、当たり前なんだ。けど、ちょっと寂しい――なんだかね。
 二階に上がると、左手に一際大きな丸い空き地があった。あそこのはす向かいには書店とおもちゃ屋さんとゲームセンターが並んでて……そういえばおじさんにはよく連れてきて貰ったんだっけ。

「悠里、姉さんには内緒だぞ?」

 ん? なんか聞こえたかな、今。
 辺りを見回す。
 人の姿はやはりない。思い違いかな、おじさんの声だった気がするんだけど……。

「おっかしいな」

 ともあれ反対を向いて、あたしは何をしに来てたんだっけ?
 そうだ、なんか四つ足ちゃんを探してたんだ。また上に行っちゃってるなあ、ついて来いって言ってるみたい。
 踵を返したその時、背後に薄暗い電灯の点ったキャンディマシンの動く気配を感じて、思わず振り返った。
 内緒で買って貰った当たり付きキャンディ棒――。

「――……」

 気のせいか。
 いやでも案外、実は本当に動いてたりして。
 旧駅舎って、廃屋になっちゃった今でも悪ガキの遊び場だし、時々なんだか恐い噂もあったりするもんね。そういえばなんだったっけ?
 旧駅舎の噂と言えば、ここでコンクリートに埋まって死んだ男の子の幽霊が出るって噂だったっけ。
 まあでも死んだ人間だって動くんだもん、電気が通ってなくっても動く時は動くか。
 それにしたって今頃ながらあたしってこんなとこに来てたっけ?
 そもそもここに来る前何してたんだっけ? 今朝から記憶がないや。
 沈黙の旧駅舎。
 ところどころから漏れ出した光が、塵と埃の立った空中に反射してストライプを描いている。
 焦点のずれた光の粒子はシャワーを打ったように散大したり収斂したりして地面の上を遊んでいるようにさえ見えた。
 佇んでいたのは、あたしだけだった。
 建物の中を全て見たわけでは無いけれど、そんな予感があった。

「追って……みよっかな」

 どうせやることもない――なかったっけ? まあいっか。こんなにお日和の午前なんだもの、陽気のせいでぼんやりしてたって言ったって誰も怒らない……怒るかな? 一応新しく描いてるカンバスは布かけてたはずだし、鍵は……かけたっけ? 電気は消したっけ? そもそも最近電気なんか点けたっけ……? あ、冷房は欠けっぱなしだったかも、いっけね~またやっちゃった~。でもいっか、ついにあたしにだってパトロンが付いたんだった。あいや、でも先生が言ってたっけ芸術家はお金が入り始めると急に破滅するって。庶民感覚が大事なんだよね、庶民感覚って何?

「ま、いっか!」

 三階に躍り上がって、辺りを見回しては深呼吸をする。

「ここってなにがあったんだっけ?」

 何度も何度も遊びに来た場所なのに、何も思い出せない。
 そこは、テナントすらない空間が広がっていた。コンクリートの表面のザラついた壁模様も、地面に染みついた人の歩いた後も、埃が積もった跡もない。まるで豆腐の中を綺麗に正方形に刳り抜いた中に立っているみたいだ。

「なんでだろ、ここだけ使われてる、なんてことあり得ないよねえ。でも使われてるなら――」

 手を軽くパチンと叩く。
 四方八方から反響した音の波がぶつかって、ぶれてずれていくつもの数に分かれて帰って来る。いち、にいさんよん、ご……ろく。

「う~ん、これだと反響がありすぎて音が出るようなコンテンツは無理そうかな。ってなると静かで更に四角いスペースでできること。絵を描くとかかな、でも絵を描くのにこんなスペースはいらないから違うと思うし。じゃあ占いの人のスペース? そんなわけないか。となるとやっぱりわかんないなあ。どうして忘れちゃったんだろ~」

 何度も何度も来た場所のはずなのに。
 それとも、“あたしの記憶が間違ってる”のかな?
 ん? あたしってば何を考えてるの?

「あたしの記憶が間違ってても三咲駅の旧駅舎の三階ががらんどうってことにはならないでしょうよ、悠里ちゃん。そんなこと言ってたらおじさんに突っ込まれちゃうよ?」
「ほんとだよ、天才の悠里ちゃんだっていうのに、これじゃ面目躍如だよ。あれ? 意味あってたっけ?」
「えっそんなこと聞かれても聞いたことしかないよそんな言葉」

 くるりと踵を返す。

「いま、悠里ちゃんって言った?」
「言いました。あたしこそ、悠里ちゃんです」

 そこには、確かにあたしがいた。
 左手中指の第二関節のタコ、右目だけちょっと傾いたまなじりに、それに白衣からあたしの匂いがした。
 この自信に満ちた気風と毛並み、そして何より、何かが違うのだけれど、
 その何かがとっても可愛い! そしてそれはもちろん、あたしなのでした。

「ねえ、あなたどうしたの? 悠里ちゃんにしては随分凜としているけれど、まるでパーティにお呼ばれしたみたいに。それともアレかしら? あなたはひょっとしてあたしありのままなのかしら? いつもあたしはこうしているのかしら?」
「ミズ・悠里ちゃん。その質問には答えられないわ。けれど、きっとあなたは理解しているはずよ。あたしの風貌がどうしてこんなにしゃなりしゃなりとまるで鈴が鳴るように揺れる小さな花のようなのかは」
「!」

 すごい語彙力だ。まるであたしだとは思えないくらいに、あたしのことだとを理解できない程にあたしの語彙力はとても高かった。

「ねえ、あなた……あぇっと。悠里ちゃん……違うな、なんて呼べばいいのかな、あなたのこと。えへへ」
「そんなに気にしちゃダメだよ。ここはあたし達しかいないんだから。ここはあたしの領域で、あたしはあなたの領域なんだから」
「なにそれ、トトロロジーってやつ?」
「トートロジーって言いたいの?」
「あ、それ! あなた本当にあたしなの? それにしては随分博識で語彙力豊富で、糅てて加えて、なんだかママみたい」
「ははっ、あたしだってそんな古くさい接続を使うんじゃん……。――そう、あたしって、ママみたいなんだ」

 ほんの少し、声色から表情がなくなった。
 どうしてだろう、あたしの憧れはずっとママとおじさんなんだから、もっと喜んだっていいはずなのに。

「ともかく、あたし。ここがどこか、探検しに行こ。そしたらきっと、全部わかるから」
「うん、でもあたしね、さっきまで四つ足ちゃんを追いかけてたの。黒くて小さな四つ足ちゃん、宝石みたいな二つの目をしていて、爪の音が良く響くの。知らない?」
「知らない。そんなのここにはいないよ。だから行きましょ」

 目の前のあたしはくるりと振り向いて、止まった上りエスカレーターを降りていく。
 上りエスカレーターを下ると、悪いことをしてるみたいでわくわくする。昔は良くやったっけ、エレベーターを昇り続けて鬼ごっこの鬼を撒くの。

「いたんだけどなあ、四つ足ちゃん……」
「旧駅舎なんてなんにもないから、出ちゃおうよ」
「そう? 確かにもう何もないけど、昔はいっぱいあったよ。いっぱいおじさんとも来たもん、覚えてるよ」
「そうだね、昔は、そうだったね」

“あたし達”は暗い旧駅舎のよく見える道を引き返して、明るくて見えない夏空の下に出た。
 肌を刺す光の雨が降り注いで、遠くの雨に虹が架かっていた。

「ねえ、あたし」
「な~あに」

 あたしは輝く夏の日差しの中、どこかぼんやりとあたしを見つめていた。

「ここはどこまでが、あたしの世界なんだと思う?」
「急に難しいことを聞いてくるわね」
「あなたしか知らないことだから」

 あなたしか知らないこと……? けどあなただって、悠里ちゃんなんだからそんなことはないでしょう。
 とはいえ、考えてみれば不思議な話でもあるのは本当……本当だと思う、多分。
 だって、こんなにお空は明るくて青いのに、その先には夜に見える星空達が待っているのだ。夜にはあんなに手に届きそうなお月様がかかっているのに、お昼はこんなにも真っ青だ。太陽の光がお月様を照らしているってことは教えて貰ったけれど、そんなことアタシには確かめる術がない。試しにお家の屋根まで登ったり、高い山の上で手を伸ばしたことはあるけれど、届かなかった。だからアタシは……どこまで、何を知っているのだろう。
 どこまでがあたしの世界なのだろう。いや、どこまでがあたしにとって、世界であるのだろう。
 あたしは、地球が丸くて、その更に大きな宇宙が楕円の形をしていて、まるで眼のように穴が空いているところまでは知っている。おじさんに教えて貰ったから、そこまでの世界を知っている。でも、それがあたしの世界なのだろうか。自分の知っている限界が、あたしの世界なんだろうか。あたしの世界は――。

「わからない。けど、あのお空までがあたしの世界だよ。あの虹が架かって、雲の合間に消えてなくなってるところ、それかその虹の更に向こうの、霞んでうまく見えないくらい遠くの、あたしが見える限界のところまで」
「でもどこまでも、空はあるんじゃないの? その先の宇宙も、その先の銀河の終わりも、その先の事象の地平線も、あなたの教えて貰ったあなたの世界なんじゃないの?」
「うん、確かにあると思う。遠いお空の果ての、全ての始まりの場所と、全ての終わりの場所。でも、それを知っていてもね、あたしの空はあそこまでなの。そこから先は見えないから、そこから先はあたしには描けないの。見たことがないから」
「見たことがあるところまでがあたしの世界で、あなたの世界なの?」
「うん。あたしはね。そうなんだと思う、見える限りを描くの。その先にあるものは、あるかもしれないんだけどなくって、その前にあるものは本当はそこにないのかも知れないけど、アタシの世界の中にはあるの。あたしの目に映ったものはね、なんでもそこにあるの」
「そっか、だからあたしはあなたの中に映っているのね」
「どういうこと?」
「事実から濾し取った像は、決して正しい現実の像を映さない――高速で回る車輪の内側が、淡くぶれて円形に塗りつぶされて見えるように。或いは流れ星という一つの石が、一条の光線となって地上に降るように」

 しれっと背中で言い切ると、コツコツと歩み進めるアタシ。

「……なにそれ、かっこいいじゃん」

 あたしは目の前の旧駅舎前広場を線路側に横切ると、全く気にも留めずに我が物顔で線路に進入していった。

「ワオ、あたしったらワイルド」
「誰も来ないし、そもそもここは廃線だしね」
「確かに、悪ガキ共もここでよく遊んでるもんね」
「うん、それに線路の方がね、好都合なの。だって、あたしの見たものは覚えているんだから。地道なんて行っちゃったら、ずっとその先に道が出来ちゃってそれこそ時間が足りなくなっちゃう」
「どういうこと?」
「その内、わかるよ」

 あたし、その内わかるって言われたことなんてわかった試しがないんだけどな、なんて思いながら後ろを子鴨みたいにひっついていくと、一歩進むごとに日がゆっくりと傾いて世界が赤く染まっていく。もう夕方になっちゃうのか。

「ここはそういうところなの?」
「そういうところでもあるの。というよりも、今はそうなっているの」
「今は?」
「さて、と」

 空が燃えている。
 あたしはぼんやりと立ち止まって、あたしの背中を眺めた。
 急いでなんてないじゃん。そんな気がした。
 こつ、こつと踵が枕木を叩いて、その下のバラストを踏みしめた音を立てている。その音はとっても軽快で、優雅で――なんだか違う気がした。

「ねえ、あたし」
「な~あに」
「あなたは本当にアタシなの?それにしてはさ、やっぱりかっこよすぎだよ。あたしってね、あなたは知らないかも知れないんだけど、もっとどんくさくってさ、前に向かって歩くのもえっちらおっちら危なくってね、本当にのろっちい子なんだよ。……だからね、こんな風に思わせぶりだったりね、辞書の開き跡のついたページにたまたま書いてあったような難しい言葉をしれっとお話しの中に混ぜたりはできない……って思うの」
「もっと、あなたの考えや、思いを教えて」
「……うん。ちょっとずつなんだけどね、考えが追い付いてきたの。……やっぱりおかしいんだよ。あたしはここに二人も居られないはずなの。だって、アタシはここに居るんだもの。そもそも、あたしがあたしの背中を見つめられるはずがないんだもん。それとも、あたしはもう死んじゃったの? だからこんな夢を見ているの? だから、ここに来る前のことが思い出せないの? 旧駅舎だってもっと思い出せた気がするの。三階に何も無いなんてあり得ないはずなの」

 目の前のあたしは、背を向けたまま空を仰いで恬として立ち、そよ風に毛先が舞い上がるくらいで他は像みたいに動かなかった。

「それにね、アタシは――」

 思い出していた。
 言葉を綴ってバラバラになっていた思いや考えを繋げていく。今まで曇天に濁った意思が雪がれていくのを感じて、まるで眠りから静かに覚める瞬間のように体温がゆっくりと下がっていくのをアタシは理解していた。

「もう既に、世界から色を失っているはずなの」

 いつからか、アタシはゆっくりと世界から色を失っていた。それは高校生になるずっと前からゆっくりと始まっていたし、大学生になる頃にはそれまで見たことのない新しいものの色彩と形がわからなくなった。
 知らないものを新たに理解することができなくなったようにアタシの世界はあそこで一度閉じてしまった――だから、ここにあるものはおかしい。こんなに色とりどりの世界は、もうアタシの見ている世界のどこにもないはずなのに。

「教えて。アタシは今、どこにいるの?」

 目の前のあたしは、その場に止まった。
 呼吸の動きに合わせて肩から肩甲骨のラインが浮き沈みしていき、指先からゆっくりと力が抜けていく。
 それと同時に辺りに霧が立ち込め始めると、今まではバラストと赤錆びた線路に支配されていた夏の黄昏が急激に光度を失っていった。

『この世界には忘れておいた方が良いこと、そして知らないほうがいいこと、知らなかったほうがいいことも沢山ある』

「くっ……!おじさんが言ってたこと――」

 正面からダウンバーストのような激しい気流が渦のように逆巻いてこちらに向かって襲いかかった。

「ぐうっ」

『このまま何も思い出さないで居た方が楽だよ。もう、諦めなさい』

「――」

 頭にきた!

「うるせえ~~~~~!!!!! 悠里ちゃんは、何も諦めないんだよォ!!!!! 頭悪いから!!!!! 諦め方とかわかんねーし、それにアタシが、アタシだけがママの子供でおじさんの自慢の姪っ子ちゃんなんだぞォ~~~~!!!!! それにおじさんの声でそんな事言うな!!!!! おじさんは絶対悠里ちゃんに『諦めなさい』なんて言わないんだからっ!!!!!」

 はあ、はあ。
 声をからして大絶叫したからか、正面から吹き付けてきた風がいつの間にか収まっていた。いや、絶対そんな訳ないんだけど、でも実際そうだった。
 瀑布のような風に閉じていた瞼を開けると、そこにはあたしがいた。
 髪が黒くて、星明かりが髪色に移らないあたしがいた。

「……アウトバースト、アトラス彗星――そして、手紙」

 目の前の背中が振り返った。
 その瞬間、さっとカーテンが引かれたように、映画館で上映が始まる瞬間のように、夜の帳と共に星は降り、ぬるい夜風と潮の香りが辺りに立ちこめた。
 月のない、星明かりだけの暗い夜。懐かしいけれど、それだけじゃない。
 この匂いは、知っている。青い草の香りが蒸発した雨の後の残香だ。

「――ここで、『すべての関係は、内的なのか、外的なのか』という争点に片が付けられる」
「……あなたは、誰なの」
「もしもかりに世界に実体がないなら、『ある命題に意味があるかどうか』は、『別の命題が正しいかどうか』に左右されるだろう」
「……もしもかりに左右されることになるなら、世界の像を正しく、または間違ってスケッチすることは、不可能だろう」

『全部の現実が、世界である』

『像は、現実の模型である』

「ねえ、なんで」

 星を見るための夜、その漆黒の天蓋の下にアタシたちは向かいあった。

「それ、寝かしつけられる時に読まれてた本。覚えてるよ」
「そう、あなたも覚えているのね」

 はじめましょうか、そろそろ。
 目の前のあたしがそういった、静かな空気が重みを持って鳥を空から落とすように、ぎこちなく笑った。
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