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第10話 鬼胎

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「それがですね、昨日の深夜、御薗さんが病院を抜けだしたみたいなんです」
「……!」

まさか、あの状態で抜けだしたのか――

「あの怪我、まともに歩けるような状態じゃなかったように記憶してるんですが」
「はい、それが、そうなんです。でも、とにかく今朝方に浜辺で倒れているのを見つけられまして、気を喪っていたらしく、すぐ運び込んだんですが……」

俺は絶句しながら、なぜ連絡が俺に来たのかについて、なんとなく理解できていた。

「他に、連絡を取れそうな保護者の方は?」
「それがいなくて、ですね……」
「そうですか……。とにかく、すぐ準備して出ます。本当にすみません」
「いえ、こちらこそこんなお時間にすみません……」

軽く礼を言って電話を切る。
電話を切って、屋上を後にした。
気がつけば登っていた日は汗ばむ陽気をまき散らして、夏の一日がもう始まっていることを告げていた――。この不安定な夏休みが、始まりを告げていた。

扉をノックして、部屋を開け放つ。

「悠里、起きてる……」

朝の白い光に満たされた寝室の中、悠里は体を起こして窓の外の太陽を見つめていた。
くしゃくしゃになった髪をそのままに、ベッドに座っている。

「なんだ、起きてたのか。今日は早いんだな。めずらしい」
「きのうね、わすれちゃってたんだ…………」

そんな風にぼんやりと呟いて、悠里は右に少し揺れる。
はだけた衣類のシワが体を支えている指に絡まって、布団に絡まってシーツに倒れ込む。

「なにを忘れてたんだよ」
「なんだっけ……」

どうやら、微睡みの中を意識が低空飛行しているだけのようだ。
書き置きでも残していけばそれでいいだろう。
それよりも、病院に急ぐべきだ。
御園礼香、確かに変わっている雰囲気はあったけれど、急に病院を抜け出すような子には見えなかった、すくなくともあの時点では。
何か理由があるのかも、知れないな――。
それとも、もしかしたらあの事故にあったって言ってた弟のことが関係しているのかも。
その時、悠里は再び起き上がって、ゆらりと瞼を開いて、胡乱にこちらを見た。

「ねえ、しーちゃん……まっしろだよ」
「なに言ってるんだよ。やっぱ昨日からおかしいぞ悠里、本当に大丈夫なのか?」

昨日も譫言を言ってたっけ、なんだ、考えていることのわからないヤツだ。
枕元の書き物机に転がっている黒色のボールペンを拾い上げて、悠里の目の前に出してみる。

「これ、何色だ?」
「くろ……」

なんだ、わかってるじゃないか、やっぱり寝ぼけているだけか。

「悠里、これは?」

目の前にパステルオレンジのペンを突き出す。
ふらふらと揺れる悠里は、そのまま差し出されたなんの変哲のないペンをぼんやりと見つめたまま、なんとか姿勢を保っている。

「これ、何色かわかるか? すごく分かりやすい色だからな」
「しろ、くろ。ねずみ……なんだろ、わかんない」
「わかんないってことないだろ。なんだよ、急に視力でも下がったのか?」
「ぐ……」

そう言うと、悠里は後ろ向きに倒れ込んでそのまま眠りについたようだった。

「やっぱ、寝ぼけてるだけってことかな――」

静かな寝息が聞こえてくる、置き手紙でも残していってやるか。

「悠里、じゃあ、行ってくるからな。朝飯は置いて行くから、それ食べといてくれよ」
「うぐぐ」

悠里は白い手を、窓に向かってぐっと伸ばした。

「眩しいのか?」

後ろ手にかけていた手を離して、窓のカーテンを閉めるために歩いて行く。
ベッドの上に膝をついて、悠里の上を跨いでカーテンに手を伸ばす。

「よっ」
「キャッチ」

伸ばした手に、異様に重いおもりが載った。

「うわっ」

体を伸ばしていただけに、制御が効かずにそのままベッドの上に投げ出される。
そのまま半回転して、ベッドの上に横たわる。

「残念、外れでした。悠里ちゃんの勝ち~」

その表情は、してやったりと言わんばかりの、いつも通りの悪戯っぽい微笑みだった。

「……くっだらねえ。なんだよ」
「せっかく休みなのに、どこ行くの……ふわあ。今日は悠里ちゃんと一緒にだらだらしてくれるんじゃなかったの?」
「いや、お前が思ってるようなそんなに楽しい用事じゃないよ。昨日の礼香って女の子、いただろ。その子が病院から抜け出したらしくってさ。それで、頼れる大人がいないからって、俺たちに来て欲しいんだって」
「そうなんだ……。悠里も行った方がいい?」
「そうだな――まあ、よければってとこかな。でも、無理に来いとは言わないよ。そもそもは、俺が首を突っ込んだこと、なんだし」

とはいえ、あの子と俺の関係はそこまでいいわけではない。
できれば、来て欲しいのは事実だった。

「ううん、悠里も行く。礼香ちゃん、心配だし、ふわ……」
「じゃあ、用意してくれ」


悠里の目覚ましを勝手に切ると、部屋から出た。
さて、悠里の準備している間に、俺はもう一つしなければならないことがある。
居間に移動する。
電話の画面を見つめて、着信履歴を眺める。

『8月30日 04:36:29 敷原つむり』

思えば、昨日もことの始まりは、一本の電話からだったな。
悠里が倒れて、病院に搬送されて、それで一通り終わった後に、ようやく落ち着いてたら敷原から電話がかかって来たんだっけ……。
いつもここから……というわけじゃないが、それでもここから始まったような気がしないでもない。そもそも、俺がこんなにわかに信じられない現象に立ち会い始めたのは、敷原の電話がその始点だったはずだ。
……。
心を決めて、画面に触れる。
一度目のコール音。
メールの真相と、俺の知るべき、その答えを。
……。
二度目のコール音。
じれったい、余りにもじれったいその心に、見えない尻尾に炎が点いているみたいだ。
三度目のコール音が、途切れる。
心臓が跳ねる。

「桜庭か」

継いだ言葉に、安心した。

「俺だ、しづるだ」

そう言って、言葉が切れた。
どう言おうか詰まって、吐息が漏れた。

「っ……。敷原。夢、あれは……」
「夢? なんの話をしてるんだ?」

息を飲む。
知らないのだ、夢の話を。
心の中で拳を握りこんだ。大丈夫だ。帝都では、何にも起こっていない。
俺の不安が、俺にあんな夢を見させていただけなんだ。
なら、そう、きっと――

「それにしても、何年ぶりだ。そしてこんな出し抜けな会話、お前らしくない。もっとおっかなびっくり生きていたように見えたんだけどな」
「は――」

何年ぶり? 後頭部を殴られたような衝撃で、脳内の映像がひび割れる。

「あ――」

そんな、嘘だ。

「今はそうか、帝都大病院の精神科医だったな。どうした?……お前から俺に連絡してくることなんて、本当に思いつかないぜ」

焦る――。

「敷原、冗談きついぞ。お前、っはは。だって二日前にお前、かけてきてるじゃないか……。お前、やめろって。本当に……」
「そんな記憶無いぞ」

……。

「敷原、最後、の仮説ってヤツは」

電話越しにため息が聞こえる。

「わかんないヤツだな……。人違いだぜ、桜庭。それか、なにかあったのか? もしやなんか起こってるのか?」

血の気が、引いた。

「いや、いい」

電話を切った――。

「――」

気が付けば、奥歯を噛みつぶしていた。
おかしい、おかしい。
おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい。
何かがおかしい。
こんなこと、あり得ない。
どうしてだ、何が起こってる?
出来事の歯車、記憶と世界の架け橋が、音を立てて崩れていく。
世界と自分の間の空間が、燃え尽きていく。
日常が、離れていく。
帝都が離れ、敷原が離れ、次は、誰だ、何だ――?
次は俺の世界の、どこが壊れるんだ?
歩いている現実の階段が、一歩ずつ溶けている。
まるで雪でも溶けているように、足下がぬかるむように。
次は、俺か? それとも。

「しーちゃん、お待たせ」

朝の白い光の中に、ピンクの瞳が笑っていた。
雪の欠片みたいに真っ白い幼馴染みが、俺を玄関で待っている。

「ああ、今行く、悠里」

踏み出した途端、視界に砂嵐が飛んだ。
視界の映像が四つに切れて、重力が反転する。

「うッ……?!」

世界が破れて、辺り一面が昏くなった。

「うおっ……」

鞄の中をひっくり返したように、世界が輾転とした後、俺は空を見ていることに気が付いた。
夏の八月終わりの空。
ここは、どこだろう、左はゴツゴツとした岩の露出した斜面が見える。
背中には、細かい砂粒が食い込む音がする。
木々の隙間に、ペガサス座の一団が覗く。
星に向かって、どうしてだろう、手を伸ばす。
しかしその手は視界の中に現れない。
ただそうしたいと願っているだけだ。
どこにも現れない。
俺は何をしていたのだろう。
――ああ、星を見に来たんだっけ……。

『――ちゃん! しーちゃん! お願い、死なないで――』

悠里の声……?
気が付けば、幼い悠里が俺を抱えている。
何かのシミが、体中に付いている。
死なないで? 何を、言っているのだろう。
俺はここに、いるじゃないか。
視線を、左にずらす。
誰かの気配がしたからだ。
瞬間、まばゆい光が霧のように立ちこめた。
まるでジェットコースターに乗っているかのように、急激に体が浮き上がる。
誰かに引き上げられているような、まるで夢から引き上げられているかのような、そんな感覚。

「しーちゃん――」

悠里の声。世界が白黒の影に包まれている。
滑らかな髪の艶が、白と黒の絶妙なコントラストで描かれている。

「しーちゃん、大丈夫!? しっかりしてよぉ、ねえ、ねえってば」
ぼんやりと聞こえる声が、電話口から再生されたように、こもって変換されている。
「はっ」

誰かに、抱き留められていた。
けれどその感覚はあまりにも冷たい。
肌と肌が触れあっているはずなのに、余りにも遠い間隔があるようだ。
色彩のない、砂嵐のかかった世界。
遠い。
世界が、遠い。
見えている距離と、感じている距離が、違う。
ひとりぼっち、世界の中に、ただ一人。
全て、全てが色あせている。
どうして――?
なぜ?
こんなにも、誰かが近くにいるのに、遠い。
おかしい。おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい。こんな――。
俺は、今、三咲町で、いつも通りの夏休みを過ごしている。
悠里と遊んで、もうアスには、テイトにカエッテ仕事ガハジマ――。
さうだ、俺は、モウ歸らなければナラヌ――

「しーちゃん、帰ってこぉ~い!!!!」

瞬間的に顔面がはじけるような感覚に襲われる。平衡感覚は振りほどけ、体は前傾になってゆっくりと倒れていく。
その最中、誰かの体が俺を必死に留めてくれていた。
暗転し、終わりのないような筒状の世界が目の前に展開される。
視界が現実の立体交差とクロスした。急激に視界が現実の像を展開し、瞼に熱が走る。

「なんだ、これ」

目の前にある真っ白なうなじが、重みに負けて反っていく。

「――」

これは、悠里だ。
急激に、体温が上がる。
そのまま重力に負けて、体が地面に降っていく。
――危ない。

「危な――」

体を抱え込んで、なんとか悠里の下に手を回す。
手が、重量オーバーで痺れる。
着地つかの間、体勢を保っている腹斜筋の限界が訪れて、悠里の上になだれ込む。

「重たいよお――う~んう~ん……しーちゃん、しーちゃんどうしちゃったの……?」

脱力していた四肢に力を込める。

「ご、ごめん悠里、俺、今どうしてた?」
「しーちゃんがこっち向いたら、急に体勢崩してぼーっとしちゃって、そのままだと顔からいっちゃいそうだったから、とりあえず平手打ちして……。そしたらそれはそれで倒れそうになってて、それで必死に止めてたんだよ」

そんな――。
急に、俺はどうしてしまったのだ。
いや、それ以前に、さっきの光景は何だ?
真っ白な世界、遠い世界。
砂嵐の中のような、まるで遠くの次元のような……。
いや、アレは世界なんかじゃない。
悪い夢だ。
疲れているのは関係ない。俺はそんな気の失い方をしたことはない。
じゃあ、ひょっとして――。
俺もまた、この事件の影響にゆっくりではあるが飲まれようとしている――のか?
もう、時間は少ないのかも知れない。
心臓の動悸が早鐘を打っている。
目の前にいる悠里。
砂嵐のノイズがフラッシュバックする。

「うぁッ――」

遠い悠里。
肌はまるで死人のように冷たい。
美しいガーネットの瞳は灰色の世界に消えている。
ただ虚ろな言葉だけが、ここからは触れられないどこかの世界にあることだけを感じる。

「ぐッ……」

激しい頭痛と共に、現実に感覚が引き戻される。

「悠里――」

いや、まだだ。
まだ思考を止めるな――。
これは――俺だけじゃない――。
廃教会の丘での悠里、悠里もそうだった。
雪が降って、悠里が少しの間気を失って、それで、すぐに気を取り戻す。
俺も同じことが起こったと考えた方が自然に思える。
もしかして、これが兆候なのか……?
俺以外の人間にもこんなことが起こった? 昨日の段階で――?
なら、もしや、それなら――。

「ね、ねえ、しーちゃん、しーちゃんってば」

腕の中で、悠里が頬を赤らめてもぞもぞと動いた。

「なんで悠里のことそんなにじーっと見てるの? そ、それに近いし、ずっとぎゅーってされてるままだし、別にいいんだけど、その……」
「少し、待ってくれ――」

ノイズ混じりに、世界が混線している。
雪の影響というのは、これなのか……?
でも、なんだ?
どうしてここまで時間差がある?
俺も悠里も、そして多くの人も。
あの廃教会の丘で、この三咲町で同じ時間に雪を浴びたはずじゃないか。

「――」

悠里が首を傾げる。

「どしたのしーちゃん、っていうかそんな急に積極的になられても困るっていうか」
「悠里、俺の髪、何色だ……?」
「は、は? ……き、金髪。じゃ……ないの? 言ってたじゃない」
「時々、砂嵐が見えたりしないか? ぐらっと重力がひっくり返るみたいな感覚とか」
「ないない! ないから、勝手にいっぱつ殴ってごめんなさい! そんなに怒らないでよ! 普段の気持ちです」

ため息を一つ吐いて、悠里の体を抱き上げる。

「わわっ」
「はあ……まあいいや。悠里。助かった」
「どういたしまして」
「けどどさくさに紛れてビンタ食らわすヤツがあるかよ……」
「いやだって急にゾンビみたいになってこっちに来られたらびっくりするっていうか」
「そりゃそうだけどさ」
「代わりに悠里ちゃんのこと一発だけ結構本気でぶっていいよ。おあいこにしとく?」

悠里は俺の手を取って、頬に触れさせて見せる。肌に吸い付く手の感覚は、懐かしいような新鮮なような奇妙な実感を伴っていた。

「じゃあお言葉に甘えて一発だけ」
「え゛っ゛」
「せーの」
「や、やだぁ……」
「俺も普段の気持ちということでここは」
「やだーー!」

悠里は玄関の方に向かってひょこひょこと下がり、俺の目線を合わせてきょろきょろと視線を泳がせた。

「なんてな、行くぞ」
「なあんだ、この意気地なし。やーいやーい」
「……チッ。うるせえな、それより体調は本当に大丈夫なのか?」
「それはこっちのせーりふーだよっ」

そう言うと悠里はサンダルをつっかけて、玄関のカギを回した。
――大丈夫? 大丈夫ではないんじゃないか?
敷原のメールと、今のめまい――。
俺はそれを知っているけれど、悠里はそれを知らない。
なんとか、なんとかしないと。
俺が、俺がなんとかするのだ。
車の鍵を持って、玄関に立つ。
悠里が玄関を開け放って、夏の陽気と生ぬるい草木香る風が吹き込む。

「しーちゃん、何回目かわかんない夏休み、だね」
「俺は十八回目。悠里は十九回目だろ」
「残念、実は悠里ちゃんは幼稚園でも夏休みがあったので、保育園通いだったしーちゃんとは違うのです」
「そうだったのか」
「お姉ちゃんだからね。なんでも知ってるんだよ」
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