白い夏に雪が降る【完結済】

安条序那

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第3話 夜更かしの思い出

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「ところでしーちゃん、何かあったの?」

 外の新鮮な空気を胸に吸い込む。
 二人で歩く帰り道は、地下のかび臭さと湿気から解放されたからか、疲れたはずなのに不思議なほど軽い足取りだった。

「いや。ちょっとな。妙に新しい服の切れ端みたいなのがあってさ。それで気になっただけ」
「どれどれ見せて?」

 のぞき込んでくる悠里についていた埃と蜘蛛の巣を巻き取りながら、ポケットからそれを取り出す。

「これ」
「うわ、汚い……けど、古くないね。せいぜい長くて一ヶ月ってとこ?」
「ああ、俺もそう思う」
「ん~黄色い布かあ。誰のだろうね? もうここ、子供は基本入っちゃだめってことになったんじゃなかったっけ、確かあのよくわからない事件があってから、そうなってたはずだけど」
「そうだったな。でもどうだろう。子供はルールなんて守らないからな。案外悪ガキは今も出入りしてるのかも」
「どうだろうねえ……ふわあ」

 疲れて眠くなってきたのか、悠里は星空に向かって大きくあくびをした。

「あ、そうだ。なんで望遠鏡持ってないの?」
「どうしてでしょう」

 首を傾げる悠里。
 悪意のない表情。本当に分かっていないのだろう。怒られている自覚もなく、これも楽しい当て物くらいに考えているはずだ。
 ……ここまで信頼されると、こっちも毒気を抜かれるってもんだ。

「教会の中においてきちゃった? えっと――」
「いや、なんでもないよ。単純に、悠里がいないのに気が付いて、戻るには重かったから置いてきただけ」

 足下の小石を軽く蹴っ飛ばした。
 ここまで素直っていうのは、羨ましいを通り越して、少しは妬みたくなるってモノだ。

「……心配してくれたんだ、ありがと」
「いや。いつも通りだろ」
「そう……だね」

 茂みの中に放っておいた望遠鏡。
 拾い上げて、土を払う。

「帰ろう、悠里」
「そうだね。しーちゃん」

 赤くて小さな軽の屋根が見えた。
 足の裏を突く砂利の感覚が、コンクリートのそれに変わる。
 これで天体観測と、俺の夏休みの一日目が、終わる。

「案外、一瞬だったな。悠里」
「そうかな。あたしはずっと忘れない気がする」

 少しかみ合わない答え。
 けど俺は嬉しかった。

「……」

 車のトランクに望遠鏡を乗せて、鍵を開ける。
 助手席に乗り込んだ悠里を確かめて、車のエンジンをかけた。
 その瞬間。
 携帯電話がなった。
 待機画面に名前が映る。
 "篠沢一木”……ああ、おじさんか。

「もしもし、おじさん?」
『ああ、僕だよ。今は廃教会かい?』
「今帰るところだ」

 おじさんはタバコを一つ吸った。

『そっか、間に合って良かった』
「?」
『実はさ、そっちの崖なんだけれど、崩落したっていうのをうちの研究員――いや、しづるくんは分かるか――もどるさんが観測しててさ。それで、多分崖は車で通るのは難しいと思う。結構大きい岩が道を塞いでるらしくってね。だから、少し遠いけど歩いて帰ってきて欲しいんだ。そこに居るのも危険だ。手が空いていれば僕が迎えに行ったんだけれど、ちょっと今混んでてね』
「崖の崩落? それいつ起きたんだ、おじさん。こっちではそういう雰囲気、なかったと思うけど」
『つい半時間前くらいのことだ。僕も驚いてね。それでもどるさんに言われて、急いで君たちに連絡しないとと思ってね。ともかく、間に合ったようでよかったよ。とりあえず、分岐辺りまではタクシーを手配しておくよ』
「……わかった」
『崩落現場は、そこからおそらく十分程のところなんじゃないかなあ』

――。

「ああ、わかった。ありがとうおじさん」
『うん。じゃあね。あ、そうだ。悠里にも代わって貰っていいかい?』
「ああ」

 悠里、と呼びかけると、悠里はその手で携帯電話をひったくった。

「おじさん!」

 飼い主に飛びつく子犬のように、勢い余って蹈鞴たたらを踏んで手元の端末を遊ばせた悠里は、持ち直すや否や電話口に嬉しそうに話しかけた。

「ね、ね。今どこ? 今日もお仕事なの?」

 うん、うんと頷くその頭には、動物の耳でも見えてきそうなものだ。

「じゃあ、明日はちょっと時間あるの? じゃあ何買ってきて欲しい? うん、うんわかった! お返しはちゃんとしてね。愛してるからおじさん! うん、おやすみ!」

 悠里のおじさんっ子ぶりには、こちらもよく辟易するものだが、今日の勢いはいつものそれの三割増しだ。
 そういえば春先から夏にかけて観測所の人員整理が行われるって言ってたっけ。
 普段は愚痴を言わないおじさんが毒づいていたところから見ると、相当大規模な入れ替えが行われていて、今も行われているのだろう。
 当然、姪っ子と遊んでる時間なんて取れないよな……。
 そういう背景もあってか、このような形でもおじさんと話せるのは嬉しかったのだろう。電話は切れたようだが、ふんふんと鼻歌なんて歌っていて、これだけ見れば可愛いモノだ。

「悠里、満足したか?」
「ううん、全然。でもね、おじさん明日はお昼下がりくらいにちょっとは時間取れるかもっていってたから、クーロデュヴァージョのマカロンと、ケーキくらい買って持って行ってあげたいなあって。そう、それでね、絵のパトロンさんが付いた時も嬉しくって電話したんだけどね? その時も忙しかったらしくて全然繋がらなかったから、明日そのことを伝えるんだ~。驚くんだろうな~! 泣いて喜んでくれるかも」
「お、おう。でも悪いニュースが一個」

 ……。
 ぽかんと口を開ける悠里は、それなに、と目で訴えていた。
 そっと、慎重に口を開く。

「ええとだな……。この先、崖崩れがあるらしくってさ。山の下までは、歩きだぞ」
「えっ……本当――」
「本当だ」

 やだやだやだよう、なんてごねる悠里を転がして、車の外に連れ出す。

「しーちゃん、もう眠いもん……車で朝まで寝たいよ~。しーちゃんの車だったら眠れるから! ほんとだよ!」
「だめだ。おじさんがタクシーまで回してくれてるらしいからな。それに、分岐まで降りるだけなら三十分くらいだ。明日まで寝てたら、おじさんに会うのに遅れちゃうかも知れないぞ? それでもいいのか?」

 おじさんという単語を散らして、悠里に針を垂らす。
 こんなところで一夜明かすなんて、俺は御免だ。
 そしておおよそ多分。
 車で一夜明かすなんて行動を取ったら、三時間と持たずに悠里は暴れ出すだろう。扱いの面相臭さに関しては、コイツは一級品の女なのだ。そんな未来が半確約されているというのに、わざわざリスクを侵す行動を取ることは、俺はない。――いや。実際は過去に学んだわけだから、あったわけなのだけれど――。
 最初こそいやいやと勢いよくかぶりを振る悠里だったが、その勢いは次第に弱まっていった。

「わかった、行くよぅ……」

 毛先を指で遊ばせながら、悠里は坂道を下り始めた。

「うん、一緒に行こう」

 舗装されているとはいえ激しい坂道を、二人でゆっくりと降りていく。
 うねる山道の道路を、目の前の闇に向かって落ちていく。
 歩く感覚なんて、とっくに歩いている時のそれとは乖離《かいり》してしまっている。
 闇を泳いで深海に向かっている。
 ざあざあと雨のようになる木々の生い茂る陰の道なんて、光の届かない闇の海とそう変わらない。

「悠里、怖くないか」
「全然。しーちゃんの方が怖いんじゃないの? いつでもお姉さんがよしよししてあげちゃうけど」
「もう昔とは違うよ」
「あらかっこいい」

 歩き進めていくと、やがておじさんの電話の通り、崖崩れの起こっている場所に辿りついた。
 廃教会の裏手に当たる部分の、その中腹から、岩が壊れたように崖崩れを起こしている。
 運悪くこの岩雪崩に巻き込まれていたら、それこそぞっとしない話だったろう。

「わあ~すごいね~。でもどうやって通ろう」

 二メートルほどの大きな岩が道路を分断しているというのに、悠里はのんきに崖にシャッターを切って、記念写真を楽しんでいる。

「ちょっと待っててくれ」

 このまま通るのは、どうも無理そうだ。
 仕方ない。
 脱いだ上着に飲み水を流す。

「何してるのしーちゃん」
「まあ、見てろって」
「はっ」

 濡れた繊維は、こういったざらつく壁にはくっつきやすいのだ。
 思い切り布をたたき付けて、そこを手がかりにして跳躍する。
 ざらついた岩の面が腹を擦って焼ける感触がするが、悠里を下手に登らせて落ちられるなんかより、ずっといい。

「よっ」

 なんとか岩の上に登頂して、悠里に手を伸ばす。

「ほら、悠里。頑張れよ」
「しーちゃん、やっぱり、おじさんに似てきたね」

 えいっと手を掴む悠里を引き上げる。
 こんなことをするのは、いつぞやの『冒険』以来だ。

「うんしょっ」
「よし、大丈夫か?」
「大丈夫。絶対、手離しちゃダメだよ!」

 うーんと唸りながらしがみつく悠里を、必死に引っ張る。

「わかってるよ!」

 悠里を引き上げて、顔を見合わせる。

「はあ、はあ。重いな、お前」
「はーっはーっ……しーちゃんが弱いだけだよ」

 手の甲同士を軽く小突き合わせて、岩に寝そべる。

「ふっ……」
「ふふっ……」

 なんだかよく分からないけれど、お互いに笑ってしまった。

「うん。はははっ」
「あはははっ。子供の頃みたいだね。ちょうど冒険ごっこにはまってた時みたい」
「俺も、俺もそう思ってたんだ」

 空に登る滝壺、森の中の図書館、宇宙人の卵――なんてのもあったかな。
 根も葉もないような噂話、蓋を開けてみれば誰かの見間違いや詩的な感想を持っただけの感動的な風景を、俺たちは本気で探していた。
 結論から言えばそんな光景の勘違いの謎――原理――を解き明かしていただけだったけれど、それでも構わなかった。だって、その時の俺たちは、確かに楽しかったんだから。
 ひとしきり笑い合った後、少しの、静寂が舞い降りた。
 二人とも、星を見上げていた。

「星、綺麗だね。さっきより、綺麗かも」

 岩の上から見上げる星空は、天球の随分と東に傾いた、夜更けの空に様変わりしていた。

「実は、俺もそう思ってたんだ」
「もう、夜遅いんだ……そっか。帰ろっか」

 噛みしめるようにそう言った悠里は、どこか儚く笑った。

「そうだな。もう、家に帰らないと」

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