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第1話 帰省 前
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「なんて渋滞だ、クソッ」
クラクションの雑踏。
赤いナトリウム灯の照らす悪い道を、まだ新しい軽自動車が止まっていた。
帝都から数十キロのところにある三咲町の実家へ帰るだけとはいえ、シーズンは夏休み真っ盛りだ。
四衢八街に賑わう割には主要ルートは未だ整備が終わっておらず、この時期にはインターチェンジ付近でグリッドロックに陥ってしまう。
人口42万、首都圏にある穏やかな海辺街である三咲町は、俺の故郷であり、首都圏の家族連れがやってくる行楽地でもある。
分かってはいたが、こんなに足を取られるとは思っていなかった。
これでは、待ち合わせに間に合わないだろう。
普段ならいざ知らず、今日の待ち合わせには、遅れたくなかった。
流星群は、俺たちを待ってはくれないのだから。
「……!」
ポケットに、振動を感じた。
こんな時間に誰だろう、悠里だろうか。
「もしもし、桜庭です」
『やあ、しづるくん。今、渋滞かい?』
ケロケロとした語り口、声はお気楽な風の高め。
聞き慣れたその声は、どう聞いてもおじさんの声だった。
「ああ、今15号線沿いの渋滞に巻き込まれててさ。アイツとの約束に間に合わないかも知れない」
あはは、と気楽に一つ笑ったおじさんは、そのまま一つタバコを吸った。
いや、正しくはその音が聞こえたと言うべきか。
『大丈夫だよしづるくん。八号線は、嘉音崎辺りに分かれ道がある。そこから下道に変えればここまでは二時間かかるかかからないかそれぐらいで着く』
嘉音崎は、もうすぐそこまで迫っている。
おじさんの言うことが本当なら、丁度いいタイミングで電話をかけてきたことになる。
……つくづく間のいい人だ。
「ありがとうおじさん。地道に下りるよ。それで、用は? 何もないのにかけてきたりはしないだろ」
『そうだね。本題はある。いや、あった』
俺の沈黙を、困惑と受け取ったのかはたまた理解と受け取ったのか。
タバコを一つ吸った音が聞こえて、ため息が漏れた。
『けど、それは君に”遅れてやるなよ。悠里は楽しみにしてんだから”って伝えることだった。だから、もう終わったのさ』
「そうか」
電話は、そこで切れた。
『悠里がねえ、最近妙に元気がなくってね。それでさ、きっとアタシが聞いたって答えないだろうからさ、しづる。頼んでもいいかい?』
二週間前、二従姉である月守悠里の母、月守矢継さんから電話が入った。
その頃初めての夏期休暇を貰って、実家に帰る予定ができたばかりだったから、俺は快く了承した。
いや、快くというのは少し語弊があるかも知れない。
だって数ヶ月に一度悠里と会うというのは、俺にとって当たり前だったからだ。
家に玄関から入るように、三咲町に帰れば悠里に会う。
それが俺、桜庭しづるの常だった。
「しーちゃん、おなかすいた。途中の三隅堂でパン買って」
「もう二十二時だぞ、開いてない。コンビニで我慢してくれ」
街灯の昼白色が、暗い車内を映す。
すらりと長い陶磁の手足が、眩しそうにサンバイザーを開いた。
紫電清霜。器量好し。
助手席に座る女性の風貌を表すなら、その言葉が正しかっただろう。
俺の幼なじみであり、二従姉であり、そして一番の親友である人。
色素の薄い白百合のような横顔に、白磁の肌は月の光と同じ色。
声はカナリアのようでどこまでも透明だけれど、その言葉はどこか幼稚――いや、悠里の前では全ては平等であるだけなのかも知れない――で、とても一つ上だとは思えない。
日陰でじめじめと生きてきた俺が、みんなに愛されてきた悠里をこうして呼び捨てで呼べるなんていうのも、きっとそういう親しみやすさもあるのだと思う。
「えーやだやだ。コンビニのなんか全然おいしくないよ」
ペンギンの抱き枕に顔を埋めながら駄々をこねる悠里は、不満そうに頬を膨らませている。
銀色に近い薄い色をしたセミロングとショートの間。毛先を少し明るく染めて、以前のロングヘアよりも個人的にはこっちの方が悠里には似合っているかも知れない。
「おじさんに電話でもするか? 今も仕事らしいからもどるさんが置いといてくれてるかも」
「焼いて陳列されて二時間以内のふわふわのメロンパンがいい……」
「朝にでも戻るしかないな」
「ぶー」
時間を見る。
三咲町廃教会の丘まで、多少道が悪くともあと一時間半もあれば着くだろうか。
あの場所は、周辺を山に囲まれた三咲町の中でも、その入り口に属している。
「ところでしーちゃん、車買ったんだね~。ずっとボロボロの自転車で移動してたのに、偉くなったね~」
「どこ目線なんだよ。そりゃあ帝都の大都会で病院に就職しようと思ったら、車ぐらい持ってないと話にならない」
勿論、実務という話でなく、面子の話だ。
周りは都会生まれ都会育ちのお嬢様お坊ちゃまばかり。その中で浮きたくないと思ったのなら、新車の軽自動車くらいは持ってなければ心が負けてしまう。
「でも、就職決まった後に免許取りに行ってたし、車買うときだってさ、これだけあればやりたいことができるとか言ってたじゃない。どうせやらない癖に」
……痛いところだ。
確かに、渋っていたこともまた事実だった。例え本当にやらなくたって、多少引きこもりがちの自分にとって最新のデスクトップとモニターと、様々な周辺器具の一切を豪華に揃えられるという金銭的余裕を持っていられることは、精神的な余裕、ひいては俺の幸福度指数を上げることに繋がる――いや、繋がっていたのだから。
だから、学生の頃必死に貯めあげた二〇〇万が大して欲しくもなかった車になった時は、顔が土気色になったものだ。
「……それはそうと、お前はどうなんだよ。最近は忙しいみたいだけどさ、いい客でもできたのか?」
ペンギンが、悠里の手を離れて自由落下した。
驚いて、目線の端を悠里にやる。
白い光に照らされて白銀に見えるボブカットの耳元、少し逸れて見える鼻先。
少し背が伸びた、いや。胸を張っている。
口角が上がっていた。
しかし、目は半目に少したれ下げられて、まるで悪いことを思いついたみたいだ。
跳ねたペンギンが俺の膝に逃げてきたように乗っかって、悠里は少しずつ唇を開き始めた。
はあ、そんな悩ましげなため息が聞こえて、俺は困惑した。
小学生を大きくしたみたいな悠里が、そんなに悩ましげにため息をつくなんて、想像が付かなかったからだ。
「もしかして、聞いちゃいけなかったか?」
「そうじゃないって言ったら、しーちゃんびっくりしちゃうね。けど、違うかなあ。もっとびっくりするよ」
うふふ、うふふ。なんて笑う。いや、思考の逗留した俺をせせら嗤う。
「ねえ、私の絵、いくらで売れたって思う?」
「高くて五〇〇円」
「ふふ、ふふ。流石にふざけすぎでしょ。前より下がってんじゃん」
脇腹に軽いジャブ。
とはいえ、俺の記憶じゃ確かに悠里は売れない画家志望で、画家気取りのお嬢様だったはずなのだ。
芸術大学に特待生で合格したもののモチベーションは四年で一向に下がり続け、結局卒業危うしと銘打たれたことで有名だった。
今まではバーでワークショップなどを行って、キャンバスを原価の割れているような値で売り捌き――いや、そんな値でしか売れないというのが実情なのだろうが――、売れなければ何も収穫なく家に帰ってきてまた売れない絵を描き続けるという、生産性についてはかなり難色を見せる奇妙な女性であった、はずだった。
悠里も実はその現状がいかに危機的であるのかを分かっている節があるので、こんな話、普段ならおくびにも出すことはない。
その残念ななんちゃって画家であるはずの悠里が、今日に限ってその話題に乗ってきたことは、俺をただただ困惑させていた。
行きなれていない人間が、バッティングセンターで自分にあったバットを見つけられないように、俺もまたこの話題に対しての切り返しを見つけられなかった。
「だめだ、全然わからない。何があって、どうしたんだ?」
「うんとね、最近いつものバーでキャンバスを売ってたんだけどさ、そしたらね。業界人っぽい人が来てさ、『月守悠里さんですか?』って聞かれたの。それで、はい、って答えたらさ、『私は早島《はやしま》様の使いの者です。早島様は、月守様の描かれる絵を探されておりました。帝都市街の"ウゥレカ”というバーで、一時期描かれておりましたね?』って言われたからさ。そうだよって答えたの」
「――そんなことあるんだな。で、いくらで売れたんだ?」
「まあまあちょっと待ってよ。まだ話の途中でしょ? それでね。『あなた様の描かれる絵を早島様はいたく気に入られまして。描き続けて欲しいのです。そしてそれを、こちらへ卸して頂きたい』なんて言われちゃってさ」
こんな都合のいいことが在るはずもない。
どうせ詐欺のような話で、悠里を引っかけようとしている連中だろう。
「ふうん……それで?」
「四〇〇万。一枚ね。即金でくれたの。それで、よかったら生活の支援もするって言ってくれたの!」
――は?
思わずハンドルから手が離れかけて、肝が冷えた。
声すらでなかった。
そんなことがあるはずがない。
あんな絵――いや、悠里の親友(恐らく、だが)で芸術の専門家でもなんでもない俺が言うのもなんなのだけれど――に、そんな価値なんて付くはずがない。いや、芸術というのは、そういうものなのか。だとすれば、いや。そうだとしても、アレに価値を見いだすなんて、できるのか?
こいつは本当のことか冗談しか言えないことで有名な人間だ。百か零か。明暗のコントラストのくっきりとしすぎた不適合者――つまり、芸術家――だ。
それがこんな一パーセントくらいの確率で本当かも知れないって思わせるような冗談をて言うってことは……。
じゃあ、やっぱり、そんな事実はないんじゃないだろうか。
脳内の毛細血管が蠢く。俺が錯誤するたびに、コイツへの心配は募っていく。過保護だろうか、いや。そんなことはない。俺は悠里を知っている。
「悠里、お前やっぱり調子悪いんじゃないか? 矢継さんに言われたんだ。『最近悠里がおかしい』って」
そうだ、悠里は自信家ではあるが、こんな妄言や嘘を吐く人間じゃない。だとしたら、こんな嘘を吐くということは随分追い詰められていたに違いない。
どうして、俺は今まで気が付かなかったのだろう。
「なあ、悠里。今から帝都大の椚間《くぬぎま》先生に連絡を取ってみる。実績高くて優しくて、俺よりもいい先生だ。最近なにかと忙しそうだけど、多分俺が言ったら診てくれる――きっとすぐよくしてもらえるからな」
カーテレフォンに番号を入力して、スイッチを押そうと指に力を込めた瞬間だった。
「――しーちゃん、ちゃんと聞いてよ」
悠里は、俺の頬をつまんでいた。
それは、明らかに避難を込めた目で、私を嘘を言っていない、と告げていた。
「それはそうと、前ぶつかるよ?」
悠里はアシストグリップをしっかりと握ると、俺の顔を前に押しもどした。
「あ」
完全にガードレールが目の前だ。
必死にブレーキを効かせながらカーブを曲がる。
「早めに言えよっ」
必死でハンドルを切るが、まだ初年度のドライバーが、こんな緊急事態をうまく捌けるはずもない。
遠心力でドア窓に顔面がぶつかる。
「うわ~」
間の抜けた声を上げながら、アシストグリップを握っていたはずの悠里が遠心力に負けてこちらに飛んでくる。
なんでだよ。
車の窓、俺、ペンギン、悠里の順でサンドされている。
そう、ダメージは俺に一番――
「ぐっ……うおおおおっ」
腕がもげるような痛みを感じながら、必死にハンドルに捕まった結果。
二人とペンギン分の体重に押されたハンドルは俺の腕力の限界を振り切って全力で取り舵を切った。
なんとかカーブを曲がりきって、轟音を立てながらアスファルトが切りつけられる。
視界が回転して、スリップランプの明かりが点る。
車はなんとかぶつからず山道の道路のど真ん中で横になって停止し、その瞬間、予定調和のように悠里は助手席に跳ね返されていった。
ペンギンも助手席に転がっていって、図らずも最初と同じ構図に戻った。
「よっこい……っしょ」
座り直した悠里は、ペンギンをもう一度抱き直すと、しらりと素の顔に戻った。
「都会生活しすぎて人徳でも落ちたんじゃない? 都市化のせい? それとも年か?――お、うまいこと言えた」
してやったりという風ににやついた悠里は、にやついてみせる。
「都市化でも年でもない。なんせもとから人徳なんて全然ないからな……それにしてもいってえな。なんでシートベルトもしてグリップまで握ってんのに飛んでくるんだよ。もうちょっとがんばれよ、すごく痛かったんだぞ」
「体重軽くて力弱い、か弱い乙女だからさ――あ、しーちゃんもうすぐ分岐じゃない?」
またうまいこと言えたじゃん、なんて勢い付く悠里を無視して、少し速度を落とす。
道路は片側一車線に変わり、舗装されたアスファルトは消えはじめていた。
確かに、覚えている。
≪野生動物注意≫
巨大な蛇の看板。十何年か前、ここで人型の蛇に襲われたという事件があったらしく、今もこうしてジョークのような看板が立てられている。
こんなモノがあるなんて、間違いない。
廃教会丘へと、久那次湖への分岐。
ここを左に曲がればもうすぐに見えてくる、十五年以上前に封鎖された禁断の遊び場所。
廃教会の丘。
俺たちの知る、世界で最も星の綺麗な場所。
とはいえ、おかしなことに、以前いつ来たのか、全く覚えていないのだけれど……。
「結局、あの話は本当ってことか?」
「そうだって言ってるじゃん。どんだけ信用してないの?」
「そりゃあだってさ。売れない画家だったお前の絵に急にそんな値段が付いたって本人が言ったら、誰だって頭がおかしくなったって思うさ」
「本当だって判って、感想はどう?」
「幼なじみとして世界一嬉しいよ。ほら、外に出よう」
シートベルトを外して車のドアから這い出る。
都会から離れていくらか涼しいとはいえ、十分今日は熱帯夜だ。
漂ってくる香ばしい土と、緑色をした香りが鼻孔を突く。
夜空から落ちてきたような風が、染めたばかりの金髪の上を滑っていく。
「ねえ、しーちゃん」
車の中から声がした。
「なに? 悠里」
「この車って、買ったばっかりだったよね?」
「ああ」
「誰か乗せたことある?」
「いや。まだ誰も」
「そう。なんでもないよ」
妙に嬉しそうな悠里を放っておいて、車のトランクから望遠鏡を取り出す。
一三〇ミリ口径の天体望遠鏡。
幼い頃におじさんに渡されたお下がりの望遠鏡だ。
そこら中の塗装は剥げているが、未だに十分使える優れものだ。
当時は三〇万以上したらしいが、現在ではもうそんな価値はない。
しかしそれでも、”コイツ”には価値がある。
『しづるくんにはこれをやるよ。君には、きっと才能があるからね』
大きくて、体で抱えるようにして持って行った望遠鏡。今となっては、脇に抱えられてしまう。
何もかも、懐かしい記憶だ。
助手席のドアを開ける。
「あら、気が利くじゃん」
「そうかもな」
車のドアを閉めて、鍵をかける。
やがて灯りが全て無くなって、暗くてざわめく草原だけが、俺たちの前に広がった。
二人の陰が、薄い月明かりに浮き上がる。
「しーちゃん。絶対置いてかないでよ」
「暗いの、苦手じゃないだろ」
「好きだよ。だから、一緒に行った方が楽しいの」
「そうか」
足下の悪い坂道を、ゆっくりと二人で登っていく。
もう少しで、三咲町を見下ろす廃教会が現れる。
坂の先には、どこまでも続いている、久遠の星空がある。
もしかしたら、この先に歩き続ければどこか遠い星に辿りついてしまうかと思うほどの。
「ねえ、しーちゃん」
「なんだ?」
「……ううん。なんでもないよ」
暗くって、悠里の表情は見えなかった。
「言いたいことは言えよ」
それっきりお互いに言葉はなかった。
ざあざあと鳴る草原、石を蹴る音、教会の月影。
昔は必死に歩いていた道が、今となっては簡単な坂道だ。
五分もしない内に、廃教会の門が見えた。
軋んだ鉄扉はボロボロに欠けて、開きっぱなしだった。
門をくぐって、展望台に踏み出す。
円形の石畳の広場があって、その先に三咲町の灯りが見える。
辺鄙な町並みもこうして上から見れば、普段とは違う表情を見せる。
まるで、作り物みたいな街。さっきまでここにいたなんて、誰が信じられる……?
昨日までは眠らないオフィスと明るすぎる外灯の満ちた都会に居て、そちらが俺のいる”世界”だったのだ。こんな世界は、"思い出”に過ぎないものだったはずだった。
とはいえ、本当にここに来たのかすらも危ういような"過去の思い出”なのだけれど。
――そう、”過去の思い出”だ。
目の端に、何かがちらついた。
食らいつくように広がったそれは。
雲のように、一瞬で視界を遮った。
――街を見下ろすように、あまりにも背の高い男がそこに立っていた。真っ黒いコートを夕闇にたなびかせるその後ろ姿には、知ったような知らないような、奇妙な面影が渦巻いていた――
「――誰だ」
「いたっ。しーちゃん、急に止まらないで」
「ああ……悪い。悠里」
「どうしたの? なんかあった?」
「い、いや。何もない」
二メートルはあろうかという背の高い男、黒い影。
そして空に浮かんだ、無数の流れ星。
そんなものは、どこにもない。
……。
幻覚だろうか。
悠里に疲れているかなんて聞いて疑っておいて、なんて医者の不養生だ。
「なあんだ。見飽きた風景だね」
「そういう割には嬉しそうに言うんだな」
「バレちゃった。しし」
子供みたいに幸せそうに回る悠里を脇見しながら、望遠鏡を組む。
手慣れた作業だ。
「しーちゃん、何時の方角から流星群が見えるの?」
「もう後十五分くらい、二時の方角からだ」
望遠鏡の先の空を見る悠里。
不思議そうに、こちらをのぞき込む。
「なんで流星群なのに、望遠鏡を組み立ててるの?」
「実験だよ。流星群でも、これで見られるかなと思ってさ」
「変なの。そういうとこ、おじさんに似てきたね」
「そうかな?」
「うん、おじさんしーちゃん」
悠里は猫のように望遠鏡と俺の間に入り込むと、そっと俺の前髪をセンター分けにして、口角を引っ張った。
「似てないね」
「そりゃあそうだろう」
「おひげ生やしてみて」
「仕事柄難しいな」
「マジックで書いたげる」
「小学生かお前は」
「そうだったら、しーちゃんも十分おじさんだね」
「おじさんじゃないが」
「あはは。ね、買って来といたおやつ食べてもいい?」
「いいよ」
柔らかい草の上に、悠里は仰向けになった。
「ねえしーちゃん」
悠里は妙に言いにくそうに、声を絞り出した。
「なんだ?」
「夜空は黒で、星は白色だよね」
夜空は黒だ。
宇宙には光を反射するものがない。対象から反射した光を捉える仕組みで物体の形を知覚する人間である俺には、宇宙は黒だ。そうとしか知覚することを許されていない。
そして、そうでない星は、白い。光を放っている点なのだから、白色だ。
それとも、悠里には別の色にでも見えているのだろうか。
「違うのか?」
「ううん。それだけ。合ってるなら、いいんだよ」
「……急にどうしたんだよ」
やっぱり、今日の悠里は妙だ。
「それより、星、始まっちゃうよ」
静寂が支配した丘の上を、予測の通り、二時の方角から、星が零れだした。
小さな星々が連なって流れて消えては、現れることを繰り返す。
「しーちゃん。お願い事ある?」
悠里の瞳にも、流れ星が走っていた。
「そんなの、信じてるのか?」
「信じてるよ」
言葉の切れないうちに言い切って、にへっと笑う悠里は、冗談もなにもなさそうな本気な顔をしていた。
瞳が流れて、俺の目を射た。
願い、俺の願いか。
口元に手を当てて、考えてみる。
病院でキャリアを手に入れること、自分なりに研究を続けて論文が掲載されること、小金持ちになって、毎朝通勤で新幹線を使えること。
……。
どれも流れ星に願うような夢ではない気がして、結局、なんでもない願いを願うことにした。
「じゃあ、またこうやってここで悠里やおじさんと星を見られるようにでも願っとこうかな」
悠里は、と問い返す俺を、”ひっかかったな”とでも言うように覗き返す。
「お願いはね。言っちゃうと叶わないって噂があってさ」
「はあ? なんだよそれ」
なんて無責任な。それじゃあ意味が無いじゃないか。
「あはは、しーちゃんってばバカだな~」
「いや、それじゃあもう一緒に星を見られないかも知れないぞ?」
目を丸くした悠里は、驚いたように口を塞いだ。
「あっじゃあ嘘っだったってことにする」
「じゃあ嘘だ」
「よかった~」
それでいいのか、と突っ込みたいところだったが、悠里は満足げに前髪をなでつけた。
安心したように地面を転がる悠里を尻目に、俺は天体望遠鏡を覗く。
……実験開始だ。
暗い星海の、そのより深く。
遠い遠い光の点を、このレンズで撃ち抜くのだ。
とはいえ、その間は一瞬だ。
確認するだけでも、十分だ。
流れ星が大気圏にぶつかって、断熱圧縮によって進行方向に発光しながら燃え尽きていくその一瞬。
それを、この目で押さえてみたい。
だから、根気よく待つ。
「わあ、綺麗な流れ星がこんなにいっぱい、すごいね。そっちも見えた?」
「まだだ」
暗い夜空の一点だ。
けれど、それだけ流れているのなら、こちらにだって。
――!!!
一瞬、ガラスのような、大きな光が通過する。
光が、逆流して迸る。
暗闇に慣れていた左目を、奔流の如き烈光が貫いた。
目に沁みるほどの光が、左目の奥を貫通していく。
「がっ……」
思わず目を離す。
なるほど、流れ星の観測には、望遠鏡は向いていないのがよく分かった。
目がチカチカして、まるで目潰しでも食らったみたいだ。
左目を抑えたところに、悠里が仰向けに近付いてくる。
「ねえしーちゃんしーちゃん。ものすごい大きい星が今流れたよ!縦横十センチくらいはあったんじゃないかなあ。しかも、ものすごく光ってた! すごいね、流れ星って、あんなに綺麗に後ろに尾を引くんだね~。見えた?」
十センチ?
そんな大きな星が流れたのか?
いや、あり得ない。そんなのは隕石だ。
「見間違えじゃ、ないのか?」
「あれ、見えなかったの?」
ひょっとして、目が潰れるほどの大きな光、アレがそうだったというのだろうか?
「いや、多分それだ。あんまりにも明るかったからさ。目にダメージが……」
「あーなるほどね。よしよししたげよっか?」
「いらない。それより、もうちょっとで終わっちゃうかも」
「じゃあ見とこう」
「ああ」
流れる星はだんだん勢いを弱めて、少なくなっていった。
やがて、星は流れなくなって、それと一緒に口数もなくなった。
しばらく花火が終わったみたい後みたいな静寂が世界を包み込んで、闇の中でふたりぼっちになった。
だけれど下で寝転がる悠里の顔は、昔と何も変わらない。
俺のよく知る、本当に幸せそうな顔だった。
「楽しかったね、しーちゃん」
「ああ」
「また来たいね。今度はおじさんも連れてさ」
「あれ、お願いは言っちゃうと叶わないんじゃなかったのか?」
「もう、意地悪しないで」
「はは。でも、本当に一緒に来たいな。そしたらもっと楽しいだろうし、俺の負担も減る」
「手がかかるみたいに言わないでよ」
脇腹に軽いジャブ。
軽く躱して、おでこを人差し指で突いてみせる。
「違うのか?」
「合ってる」
指でおでこを押さえる悠里は、非難の目を向けてくる。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
張り付いた緑の草を叩き払って、めくれた襟を直す。
「……また来ような、悠里。おじさんも連れて」
「うん」
地面から背筋を起こして、顔を見合わせた。
悠里が細かいものを片付けて、俺は望遠鏡をバラしてそれをしまおうとした、その時だった。
「――ねえ、しーちゃん」
悠里は、聞いたこともないような、呆けた声で俺を呼んだ。
「は?」
俺は何事かと驚いて、視線を悠里に向けた。
悠里は背中に宇宙を背負って、空を見上げていた。
――雪が、降ってる。
信じられないことを言って、振り返って俺を見た。
空に目線を向けた頬に、白い雪のかけらが降って、解けては消えた。
「嘘だろ」
見上げれば、雪が降っていた。
気温二九度湿度七〇パーセントの熱帯夜、晴れた真夏の空。
雲すらないというのに、白い雪が降っていた。
雪で、暗い夜空が白く染まっていた。
白い夏に、雪が降っていた。
クラクションの雑踏。
赤いナトリウム灯の照らす悪い道を、まだ新しい軽自動車が止まっていた。
帝都から数十キロのところにある三咲町の実家へ帰るだけとはいえ、シーズンは夏休み真っ盛りだ。
四衢八街に賑わう割には主要ルートは未だ整備が終わっておらず、この時期にはインターチェンジ付近でグリッドロックに陥ってしまう。
人口42万、首都圏にある穏やかな海辺街である三咲町は、俺の故郷であり、首都圏の家族連れがやってくる行楽地でもある。
分かってはいたが、こんなに足を取られるとは思っていなかった。
これでは、待ち合わせに間に合わないだろう。
普段ならいざ知らず、今日の待ち合わせには、遅れたくなかった。
流星群は、俺たちを待ってはくれないのだから。
「……!」
ポケットに、振動を感じた。
こんな時間に誰だろう、悠里だろうか。
「もしもし、桜庭です」
『やあ、しづるくん。今、渋滞かい?』
ケロケロとした語り口、声はお気楽な風の高め。
聞き慣れたその声は、どう聞いてもおじさんの声だった。
「ああ、今15号線沿いの渋滞に巻き込まれててさ。アイツとの約束に間に合わないかも知れない」
あはは、と気楽に一つ笑ったおじさんは、そのまま一つタバコを吸った。
いや、正しくはその音が聞こえたと言うべきか。
『大丈夫だよしづるくん。八号線は、嘉音崎辺りに分かれ道がある。そこから下道に変えればここまでは二時間かかるかかからないかそれぐらいで着く』
嘉音崎は、もうすぐそこまで迫っている。
おじさんの言うことが本当なら、丁度いいタイミングで電話をかけてきたことになる。
……つくづく間のいい人だ。
「ありがとうおじさん。地道に下りるよ。それで、用は? 何もないのにかけてきたりはしないだろ」
『そうだね。本題はある。いや、あった』
俺の沈黙を、困惑と受け取ったのかはたまた理解と受け取ったのか。
タバコを一つ吸った音が聞こえて、ため息が漏れた。
『けど、それは君に”遅れてやるなよ。悠里は楽しみにしてんだから”って伝えることだった。だから、もう終わったのさ』
「そうか」
電話は、そこで切れた。
『悠里がねえ、最近妙に元気がなくってね。それでさ、きっとアタシが聞いたって答えないだろうからさ、しづる。頼んでもいいかい?』
二週間前、二従姉である月守悠里の母、月守矢継さんから電話が入った。
その頃初めての夏期休暇を貰って、実家に帰る予定ができたばかりだったから、俺は快く了承した。
いや、快くというのは少し語弊があるかも知れない。
だって数ヶ月に一度悠里と会うというのは、俺にとって当たり前だったからだ。
家に玄関から入るように、三咲町に帰れば悠里に会う。
それが俺、桜庭しづるの常だった。
「しーちゃん、おなかすいた。途中の三隅堂でパン買って」
「もう二十二時だぞ、開いてない。コンビニで我慢してくれ」
街灯の昼白色が、暗い車内を映す。
すらりと長い陶磁の手足が、眩しそうにサンバイザーを開いた。
紫電清霜。器量好し。
助手席に座る女性の風貌を表すなら、その言葉が正しかっただろう。
俺の幼なじみであり、二従姉であり、そして一番の親友である人。
色素の薄い白百合のような横顔に、白磁の肌は月の光と同じ色。
声はカナリアのようでどこまでも透明だけれど、その言葉はどこか幼稚――いや、悠里の前では全ては平等であるだけなのかも知れない――で、とても一つ上だとは思えない。
日陰でじめじめと生きてきた俺が、みんなに愛されてきた悠里をこうして呼び捨てで呼べるなんていうのも、きっとそういう親しみやすさもあるのだと思う。
「えーやだやだ。コンビニのなんか全然おいしくないよ」
ペンギンの抱き枕に顔を埋めながら駄々をこねる悠里は、不満そうに頬を膨らませている。
銀色に近い薄い色をしたセミロングとショートの間。毛先を少し明るく染めて、以前のロングヘアよりも個人的にはこっちの方が悠里には似合っているかも知れない。
「おじさんに電話でもするか? 今も仕事らしいからもどるさんが置いといてくれてるかも」
「焼いて陳列されて二時間以内のふわふわのメロンパンがいい……」
「朝にでも戻るしかないな」
「ぶー」
時間を見る。
三咲町廃教会の丘まで、多少道が悪くともあと一時間半もあれば着くだろうか。
あの場所は、周辺を山に囲まれた三咲町の中でも、その入り口に属している。
「ところでしーちゃん、車買ったんだね~。ずっとボロボロの自転車で移動してたのに、偉くなったね~」
「どこ目線なんだよ。そりゃあ帝都の大都会で病院に就職しようと思ったら、車ぐらい持ってないと話にならない」
勿論、実務という話でなく、面子の話だ。
周りは都会生まれ都会育ちのお嬢様お坊ちゃまばかり。その中で浮きたくないと思ったのなら、新車の軽自動車くらいは持ってなければ心が負けてしまう。
「でも、就職決まった後に免許取りに行ってたし、車買うときだってさ、これだけあればやりたいことができるとか言ってたじゃない。どうせやらない癖に」
……痛いところだ。
確かに、渋っていたこともまた事実だった。例え本当にやらなくたって、多少引きこもりがちの自分にとって最新のデスクトップとモニターと、様々な周辺器具の一切を豪華に揃えられるという金銭的余裕を持っていられることは、精神的な余裕、ひいては俺の幸福度指数を上げることに繋がる――いや、繋がっていたのだから。
だから、学生の頃必死に貯めあげた二〇〇万が大して欲しくもなかった車になった時は、顔が土気色になったものだ。
「……それはそうと、お前はどうなんだよ。最近は忙しいみたいだけどさ、いい客でもできたのか?」
ペンギンが、悠里の手を離れて自由落下した。
驚いて、目線の端を悠里にやる。
白い光に照らされて白銀に見えるボブカットの耳元、少し逸れて見える鼻先。
少し背が伸びた、いや。胸を張っている。
口角が上がっていた。
しかし、目は半目に少したれ下げられて、まるで悪いことを思いついたみたいだ。
跳ねたペンギンが俺の膝に逃げてきたように乗っかって、悠里は少しずつ唇を開き始めた。
はあ、そんな悩ましげなため息が聞こえて、俺は困惑した。
小学生を大きくしたみたいな悠里が、そんなに悩ましげにため息をつくなんて、想像が付かなかったからだ。
「もしかして、聞いちゃいけなかったか?」
「そうじゃないって言ったら、しーちゃんびっくりしちゃうね。けど、違うかなあ。もっとびっくりするよ」
うふふ、うふふ。なんて笑う。いや、思考の逗留した俺をせせら嗤う。
「ねえ、私の絵、いくらで売れたって思う?」
「高くて五〇〇円」
「ふふ、ふふ。流石にふざけすぎでしょ。前より下がってんじゃん」
脇腹に軽いジャブ。
とはいえ、俺の記憶じゃ確かに悠里は売れない画家志望で、画家気取りのお嬢様だったはずなのだ。
芸術大学に特待生で合格したもののモチベーションは四年で一向に下がり続け、結局卒業危うしと銘打たれたことで有名だった。
今まではバーでワークショップなどを行って、キャンバスを原価の割れているような値で売り捌き――いや、そんな値でしか売れないというのが実情なのだろうが――、売れなければ何も収穫なく家に帰ってきてまた売れない絵を描き続けるという、生産性についてはかなり難色を見せる奇妙な女性であった、はずだった。
悠里も実はその現状がいかに危機的であるのかを分かっている節があるので、こんな話、普段ならおくびにも出すことはない。
その残念ななんちゃって画家であるはずの悠里が、今日に限ってその話題に乗ってきたことは、俺をただただ困惑させていた。
行きなれていない人間が、バッティングセンターで自分にあったバットを見つけられないように、俺もまたこの話題に対しての切り返しを見つけられなかった。
「だめだ、全然わからない。何があって、どうしたんだ?」
「うんとね、最近いつものバーでキャンバスを売ってたんだけどさ、そしたらね。業界人っぽい人が来てさ、『月守悠里さんですか?』って聞かれたの。それで、はい、って答えたらさ、『私は早島《はやしま》様の使いの者です。早島様は、月守様の描かれる絵を探されておりました。帝都市街の"ウゥレカ”というバーで、一時期描かれておりましたね?』って言われたからさ。そうだよって答えたの」
「――そんなことあるんだな。で、いくらで売れたんだ?」
「まあまあちょっと待ってよ。まだ話の途中でしょ? それでね。『あなた様の描かれる絵を早島様はいたく気に入られまして。描き続けて欲しいのです。そしてそれを、こちらへ卸して頂きたい』なんて言われちゃってさ」
こんな都合のいいことが在るはずもない。
どうせ詐欺のような話で、悠里を引っかけようとしている連中だろう。
「ふうん……それで?」
「四〇〇万。一枚ね。即金でくれたの。それで、よかったら生活の支援もするって言ってくれたの!」
――は?
思わずハンドルから手が離れかけて、肝が冷えた。
声すらでなかった。
そんなことがあるはずがない。
あんな絵――いや、悠里の親友(恐らく、だが)で芸術の専門家でもなんでもない俺が言うのもなんなのだけれど――に、そんな価値なんて付くはずがない。いや、芸術というのは、そういうものなのか。だとすれば、いや。そうだとしても、アレに価値を見いだすなんて、できるのか?
こいつは本当のことか冗談しか言えないことで有名な人間だ。百か零か。明暗のコントラストのくっきりとしすぎた不適合者――つまり、芸術家――だ。
それがこんな一パーセントくらいの確率で本当かも知れないって思わせるような冗談をて言うってことは……。
じゃあ、やっぱり、そんな事実はないんじゃないだろうか。
脳内の毛細血管が蠢く。俺が錯誤するたびに、コイツへの心配は募っていく。過保護だろうか、いや。そんなことはない。俺は悠里を知っている。
「悠里、お前やっぱり調子悪いんじゃないか? 矢継さんに言われたんだ。『最近悠里がおかしい』って」
そうだ、悠里は自信家ではあるが、こんな妄言や嘘を吐く人間じゃない。だとしたら、こんな嘘を吐くということは随分追い詰められていたに違いない。
どうして、俺は今まで気が付かなかったのだろう。
「なあ、悠里。今から帝都大の椚間《くぬぎま》先生に連絡を取ってみる。実績高くて優しくて、俺よりもいい先生だ。最近なにかと忙しそうだけど、多分俺が言ったら診てくれる――きっとすぐよくしてもらえるからな」
カーテレフォンに番号を入力して、スイッチを押そうと指に力を込めた瞬間だった。
「――しーちゃん、ちゃんと聞いてよ」
悠里は、俺の頬をつまんでいた。
それは、明らかに避難を込めた目で、私を嘘を言っていない、と告げていた。
「それはそうと、前ぶつかるよ?」
悠里はアシストグリップをしっかりと握ると、俺の顔を前に押しもどした。
「あ」
完全にガードレールが目の前だ。
必死にブレーキを効かせながらカーブを曲がる。
「早めに言えよっ」
必死でハンドルを切るが、まだ初年度のドライバーが、こんな緊急事態をうまく捌けるはずもない。
遠心力でドア窓に顔面がぶつかる。
「うわ~」
間の抜けた声を上げながら、アシストグリップを握っていたはずの悠里が遠心力に負けてこちらに飛んでくる。
なんでだよ。
車の窓、俺、ペンギン、悠里の順でサンドされている。
そう、ダメージは俺に一番――
「ぐっ……うおおおおっ」
腕がもげるような痛みを感じながら、必死にハンドルに捕まった結果。
二人とペンギン分の体重に押されたハンドルは俺の腕力の限界を振り切って全力で取り舵を切った。
なんとかカーブを曲がりきって、轟音を立てながらアスファルトが切りつけられる。
視界が回転して、スリップランプの明かりが点る。
車はなんとかぶつからず山道の道路のど真ん中で横になって停止し、その瞬間、予定調和のように悠里は助手席に跳ね返されていった。
ペンギンも助手席に転がっていって、図らずも最初と同じ構図に戻った。
「よっこい……っしょ」
座り直した悠里は、ペンギンをもう一度抱き直すと、しらりと素の顔に戻った。
「都会生活しすぎて人徳でも落ちたんじゃない? 都市化のせい? それとも年か?――お、うまいこと言えた」
してやったりという風ににやついた悠里は、にやついてみせる。
「都市化でも年でもない。なんせもとから人徳なんて全然ないからな……それにしてもいってえな。なんでシートベルトもしてグリップまで握ってんのに飛んでくるんだよ。もうちょっとがんばれよ、すごく痛かったんだぞ」
「体重軽くて力弱い、か弱い乙女だからさ――あ、しーちゃんもうすぐ分岐じゃない?」
またうまいこと言えたじゃん、なんて勢い付く悠里を無視して、少し速度を落とす。
道路は片側一車線に変わり、舗装されたアスファルトは消えはじめていた。
確かに、覚えている。
≪野生動物注意≫
巨大な蛇の看板。十何年か前、ここで人型の蛇に襲われたという事件があったらしく、今もこうしてジョークのような看板が立てられている。
こんなモノがあるなんて、間違いない。
廃教会丘へと、久那次湖への分岐。
ここを左に曲がればもうすぐに見えてくる、十五年以上前に封鎖された禁断の遊び場所。
廃教会の丘。
俺たちの知る、世界で最も星の綺麗な場所。
とはいえ、おかしなことに、以前いつ来たのか、全く覚えていないのだけれど……。
「結局、あの話は本当ってことか?」
「そうだって言ってるじゃん。どんだけ信用してないの?」
「そりゃあだってさ。売れない画家だったお前の絵に急にそんな値段が付いたって本人が言ったら、誰だって頭がおかしくなったって思うさ」
「本当だって判って、感想はどう?」
「幼なじみとして世界一嬉しいよ。ほら、外に出よう」
シートベルトを外して車のドアから這い出る。
都会から離れていくらか涼しいとはいえ、十分今日は熱帯夜だ。
漂ってくる香ばしい土と、緑色をした香りが鼻孔を突く。
夜空から落ちてきたような風が、染めたばかりの金髪の上を滑っていく。
「ねえ、しーちゃん」
車の中から声がした。
「なに? 悠里」
「この車って、買ったばっかりだったよね?」
「ああ」
「誰か乗せたことある?」
「いや。まだ誰も」
「そう。なんでもないよ」
妙に嬉しそうな悠里を放っておいて、車のトランクから望遠鏡を取り出す。
一三〇ミリ口径の天体望遠鏡。
幼い頃におじさんに渡されたお下がりの望遠鏡だ。
そこら中の塗装は剥げているが、未だに十分使える優れものだ。
当時は三〇万以上したらしいが、現在ではもうそんな価値はない。
しかしそれでも、”コイツ”には価値がある。
『しづるくんにはこれをやるよ。君には、きっと才能があるからね』
大きくて、体で抱えるようにして持って行った望遠鏡。今となっては、脇に抱えられてしまう。
何もかも、懐かしい記憶だ。
助手席のドアを開ける。
「あら、気が利くじゃん」
「そうかもな」
車のドアを閉めて、鍵をかける。
やがて灯りが全て無くなって、暗くてざわめく草原だけが、俺たちの前に広がった。
二人の陰が、薄い月明かりに浮き上がる。
「しーちゃん。絶対置いてかないでよ」
「暗いの、苦手じゃないだろ」
「好きだよ。だから、一緒に行った方が楽しいの」
「そうか」
足下の悪い坂道を、ゆっくりと二人で登っていく。
もう少しで、三咲町を見下ろす廃教会が現れる。
坂の先には、どこまでも続いている、久遠の星空がある。
もしかしたら、この先に歩き続ければどこか遠い星に辿りついてしまうかと思うほどの。
「ねえ、しーちゃん」
「なんだ?」
「……ううん。なんでもないよ」
暗くって、悠里の表情は見えなかった。
「言いたいことは言えよ」
それっきりお互いに言葉はなかった。
ざあざあと鳴る草原、石を蹴る音、教会の月影。
昔は必死に歩いていた道が、今となっては簡単な坂道だ。
五分もしない内に、廃教会の門が見えた。
軋んだ鉄扉はボロボロに欠けて、開きっぱなしだった。
門をくぐって、展望台に踏み出す。
円形の石畳の広場があって、その先に三咲町の灯りが見える。
辺鄙な町並みもこうして上から見れば、普段とは違う表情を見せる。
まるで、作り物みたいな街。さっきまでここにいたなんて、誰が信じられる……?
昨日までは眠らないオフィスと明るすぎる外灯の満ちた都会に居て、そちらが俺のいる”世界”だったのだ。こんな世界は、"思い出”に過ぎないものだったはずだった。
とはいえ、本当にここに来たのかすらも危ういような"過去の思い出”なのだけれど。
――そう、”過去の思い出”だ。
目の端に、何かがちらついた。
食らいつくように広がったそれは。
雲のように、一瞬で視界を遮った。
――街を見下ろすように、あまりにも背の高い男がそこに立っていた。真っ黒いコートを夕闇にたなびかせるその後ろ姿には、知ったような知らないような、奇妙な面影が渦巻いていた――
「――誰だ」
「いたっ。しーちゃん、急に止まらないで」
「ああ……悪い。悠里」
「どうしたの? なんかあった?」
「い、いや。何もない」
二メートルはあろうかという背の高い男、黒い影。
そして空に浮かんだ、無数の流れ星。
そんなものは、どこにもない。
……。
幻覚だろうか。
悠里に疲れているかなんて聞いて疑っておいて、なんて医者の不養生だ。
「なあんだ。見飽きた風景だね」
「そういう割には嬉しそうに言うんだな」
「バレちゃった。しし」
子供みたいに幸せそうに回る悠里を脇見しながら、望遠鏡を組む。
手慣れた作業だ。
「しーちゃん、何時の方角から流星群が見えるの?」
「もう後十五分くらい、二時の方角からだ」
望遠鏡の先の空を見る悠里。
不思議そうに、こちらをのぞき込む。
「なんで流星群なのに、望遠鏡を組み立ててるの?」
「実験だよ。流星群でも、これで見られるかなと思ってさ」
「変なの。そういうとこ、おじさんに似てきたね」
「そうかな?」
「うん、おじさんしーちゃん」
悠里は猫のように望遠鏡と俺の間に入り込むと、そっと俺の前髪をセンター分けにして、口角を引っ張った。
「似てないね」
「そりゃあそうだろう」
「おひげ生やしてみて」
「仕事柄難しいな」
「マジックで書いたげる」
「小学生かお前は」
「そうだったら、しーちゃんも十分おじさんだね」
「おじさんじゃないが」
「あはは。ね、買って来といたおやつ食べてもいい?」
「いいよ」
柔らかい草の上に、悠里は仰向けになった。
「ねえしーちゃん」
悠里は妙に言いにくそうに、声を絞り出した。
「なんだ?」
「夜空は黒で、星は白色だよね」
夜空は黒だ。
宇宙には光を反射するものがない。対象から反射した光を捉える仕組みで物体の形を知覚する人間である俺には、宇宙は黒だ。そうとしか知覚することを許されていない。
そして、そうでない星は、白い。光を放っている点なのだから、白色だ。
それとも、悠里には別の色にでも見えているのだろうか。
「違うのか?」
「ううん。それだけ。合ってるなら、いいんだよ」
「……急にどうしたんだよ」
やっぱり、今日の悠里は妙だ。
「それより、星、始まっちゃうよ」
静寂が支配した丘の上を、予測の通り、二時の方角から、星が零れだした。
小さな星々が連なって流れて消えては、現れることを繰り返す。
「しーちゃん。お願い事ある?」
悠里の瞳にも、流れ星が走っていた。
「そんなの、信じてるのか?」
「信じてるよ」
言葉の切れないうちに言い切って、にへっと笑う悠里は、冗談もなにもなさそうな本気な顔をしていた。
瞳が流れて、俺の目を射た。
願い、俺の願いか。
口元に手を当てて、考えてみる。
病院でキャリアを手に入れること、自分なりに研究を続けて論文が掲載されること、小金持ちになって、毎朝通勤で新幹線を使えること。
……。
どれも流れ星に願うような夢ではない気がして、結局、なんでもない願いを願うことにした。
「じゃあ、またこうやってここで悠里やおじさんと星を見られるようにでも願っとこうかな」
悠里は、と問い返す俺を、”ひっかかったな”とでも言うように覗き返す。
「お願いはね。言っちゃうと叶わないって噂があってさ」
「はあ? なんだよそれ」
なんて無責任な。それじゃあ意味が無いじゃないか。
「あはは、しーちゃんってばバカだな~」
「いや、それじゃあもう一緒に星を見られないかも知れないぞ?」
目を丸くした悠里は、驚いたように口を塞いだ。
「あっじゃあ嘘っだったってことにする」
「じゃあ嘘だ」
「よかった~」
それでいいのか、と突っ込みたいところだったが、悠里は満足げに前髪をなでつけた。
安心したように地面を転がる悠里を尻目に、俺は天体望遠鏡を覗く。
……実験開始だ。
暗い星海の、そのより深く。
遠い遠い光の点を、このレンズで撃ち抜くのだ。
とはいえ、その間は一瞬だ。
確認するだけでも、十分だ。
流れ星が大気圏にぶつかって、断熱圧縮によって進行方向に発光しながら燃え尽きていくその一瞬。
それを、この目で押さえてみたい。
だから、根気よく待つ。
「わあ、綺麗な流れ星がこんなにいっぱい、すごいね。そっちも見えた?」
「まだだ」
暗い夜空の一点だ。
けれど、それだけ流れているのなら、こちらにだって。
――!!!
一瞬、ガラスのような、大きな光が通過する。
光が、逆流して迸る。
暗闇に慣れていた左目を、奔流の如き烈光が貫いた。
目に沁みるほどの光が、左目の奥を貫通していく。
「がっ……」
思わず目を離す。
なるほど、流れ星の観測には、望遠鏡は向いていないのがよく分かった。
目がチカチカして、まるで目潰しでも食らったみたいだ。
左目を抑えたところに、悠里が仰向けに近付いてくる。
「ねえしーちゃんしーちゃん。ものすごい大きい星が今流れたよ!縦横十センチくらいはあったんじゃないかなあ。しかも、ものすごく光ってた! すごいね、流れ星って、あんなに綺麗に後ろに尾を引くんだね~。見えた?」
十センチ?
そんな大きな星が流れたのか?
いや、あり得ない。そんなのは隕石だ。
「見間違えじゃ、ないのか?」
「あれ、見えなかったの?」
ひょっとして、目が潰れるほどの大きな光、アレがそうだったというのだろうか?
「いや、多分それだ。あんまりにも明るかったからさ。目にダメージが……」
「あーなるほどね。よしよししたげよっか?」
「いらない。それより、もうちょっとで終わっちゃうかも」
「じゃあ見とこう」
「ああ」
流れる星はだんだん勢いを弱めて、少なくなっていった。
やがて、星は流れなくなって、それと一緒に口数もなくなった。
しばらく花火が終わったみたい後みたいな静寂が世界を包み込んで、闇の中でふたりぼっちになった。
だけれど下で寝転がる悠里の顔は、昔と何も変わらない。
俺のよく知る、本当に幸せそうな顔だった。
「楽しかったね、しーちゃん」
「ああ」
「また来たいね。今度はおじさんも連れてさ」
「あれ、お願いは言っちゃうと叶わないんじゃなかったのか?」
「もう、意地悪しないで」
「はは。でも、本当に一緒に来たいな。そしたらもっと楽しいだろうし、俺の負担も減る」
「手がかかるみたいに言わないでよ」
脇腹に軽いジャブ。
軽く躱して、おでこを人差し指で突いてみせる。
「違うのか?」
「合ってる」
指でおでこを押さえる悠里は、非難の目を向けてくる。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
張り付いた緑の草を叩き払って、めくれた襟を直す。
「……また来ような、悠里。おじさんも連れて」
「うん」
地面から背筋を起こして、顔を見合わせた。
悠里が細かいものを片付けて、俺は望遠鏡をバラしてそれをしまおうとした、その時だった。
「――ねえ、しーちゃん」
悠里は、聞いたこともないような、呆けた声で俺を呼んだ。
「は?」
俺は何事かと驚いて、視線を悠里に向けた。
悠里は背中に宇宙を背負って、空を見上げていた。
――雪が、降ってる。
信じられないことを言って、振り返って俺を見た。
空に目線を向けた頬に、白い雪のかけらが降って、解けては消えた。
「嘘だろ」
見上げれば、雪が降っていた。
気温二九度湿度七〇パーセントの熱帯夜、晴れた真夏の空。
雲すらないというのに、白い雪が降っていた。
雪で、暗い夜空が白く染まっていた。
白い夏に、雪が降っていた。
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