蝸牛

安条序那

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蝸牛

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 その朝、目が覚めると裊裊と風が鳴っていた。はめ殺しの磨り硝子の向こうでは、鈍く拡散した薄ら暈けた太陽が、譫妄の病人のように喚き立てている。

 生まれてこの方、窓材としての磨り硝子に存在価値を感じたことがない。景色も見えなければ、日差しを遮れるわけでもない。磨り硝子が教えてくれるのは、『向こう側には知らぬ存ぜぬ世界がある』ことだけだ。遮るわけでも迎合するわけでもなく、中途半端に『空間が広がっていること』だけを返すもの、まるではっきりとしないその優柔不断さは、蔓延った中立賛美の表象であるようにさえ感じる。

 ただでさえ無機質な蟻塚みたいな四角い箱に日夜閉じ込められて眠る――毎日棺の中に帰ってくるような心地だというのに、日が昇り始める度にこんな思いになるのであれば、なぜ目覚める必要があるのだろう。薄っぺらい毛布を身体から剥がして、両の手を付いて身を起こすと、今朝の風は雨を伴ったものだとわかった。天窓は透明である。その向こうには眼球のようにこちらを睥睨する太陽が白い歯を覗かせて笑っている。磨り硝子には、赤い染みが点々と垂れている。どうやら今朝の雨は赤いそうだ。

 今朝の予定はなんだっただろう。昨日の夜の記憶はない。毎日のように朝には記憶を失っている。世界の連続性が薄い、肉体の現実性はもっと薄い。薄氷の現実の上に、身を固めて震えた足が二足で立っている。その足が時々凍えきったように感覚を失う。薄氷に罅が入る。

 ひっ、と薄い声を上げる。

「どうしましたか」

 部屋のドアが軋んだ音と共に、黄土色をした大きなカタツムリの顔を持つ、三足歩行の生き物が立っているのが覗いた。

「なんでもない」

 ひどく汗の垂れた手のひらで、濡れたような額をなでつける。もう三日になるだろうか、この部屋には、『何か』が住み着いている。はじめ見た時は、『カタツムリだ』と叫んだ記憶がある。その『カタツムリ』は決まって朝に家の中に現れる。彼女は――声は芯の通った鈴なりで、悪夢のように美しく、この棺桶に響く――ぼくの彼女を自称しており、事実、彼女はぼくのことを何でも知っている。それどころか、ぼくの身の回りの世話をしてくれている。食事、洗濯、掃除――挙句の果てには、頼めば着替えや入浴でさえ助けてくれる。しかし、彼女はどこからどう見ても、『カタツムリ』だった。

「では、食事ができています」

「わかった」

 ぼくが彼女を違和感なく受け入れているのは、なぜなのだろう。馴れ初めなどという言い方は正しくないかもしれないが、彼女と出会った始めての日は、カタツムリを踏み潰した日だった。その日は、今日みたいな汚れた雨の降る日で、通勤の路地を進んでいたところ雑沓に紛れ込んだ薄い殻を、ぼくはなんとなく踏み潰したのである。靴の裏に踏み潰した感覚はねちっこく、粘ついた粘液と硬い殻の弾けるクリスピーな触感――奇怪で不愉快な、気味の悪い命の途切れる感覚――それを朝っぱらから感じたものだから、半ば憤って仕事も不愉快なまま過ごすことになった。帰り道になると、その日の夜はやけに長い月食で、月が登らなかった。棺桶みたいな家に帰ってくるなり、彼女はぼくのことを受け入れた。

「お食事はいかがでしょう」

「ああ、そうしよう」

 驚きやおぞましさよりも、先にぼくは順応していた。明らかに人間でないその姿や、非常識性を無視したわけではない。けれど彼女の背後からは確かに夕飯の香りがしていたし、彼女からは不快な匂いもない。ただ見た目がやけに甲殻類めいていて、その触覚がうねうねと伸びたり縮んだりして、鼻先で揺れるだけだ。それが、果たして何を意味しているのか、ぼくにはわからない。しかしそれが明らかにぼくに興味を持って知ろうとしているという事実は間違いなさそうだった。

「今日は、夕飯はなんだい」

「何が良いか迷いましたが、できるだけ月食に合うものを」

 月食に合うもの、なるほど、これはよくできたことを言う。

「面白いな。いただこう」

 靴を脱ぎ散らして玄関の框を踏み、まっすぐとリビングに向かう。どこまでも長い廊下だ。今は二束三文の貸家となっているこの一軒家を建てたのは、母親の居ない子供を八人持つ父親だったらしい。リビングまで向かう廊下の柱には、何本も引直された鉛筆の線が残っている。子どもたちの身長を記録したものだろう。線の横には名前が刻まれている。リビングに付くと、すぐに無垢材のテーブルに置かれた椅子に座った。彼女はカウンターキッチンの向こう側に回り込んで、すぐにぼくの前に皿を出した。出されたものは、ドーナツだった。

「月食をイメージした、ドーナツかい」

 見れば、黒い皿の上に載せられている。なるほど、はみ出した月輪はひときわ妖しく光っているから、正しいかもしれない。しかしドーナツそのものは紫色のコーティングが為されており、これが果たして月であるのかは疑問が残る。

「はい。お召し上がりください」

「いただきます」

 食事が終わると、ぼくの前に出された皿はいつの間にか下げられていた。彼女の足跡が冷たく反射している。彼女の後を付いてキッチンに入ると、キッチンには一般的な夕飯であるところの白米や肉じゃが、味噌汁などがコンロに置かれていた。しかし彼女はそれを目の前で全て排水口に流すと、そのまま洗浄を始めた。その意味は測りかねる。

「お風呂のご用意もございます」

「助かるよ」

 風呂に入り、着替えると彼女は部屋の隅でじっと固まっていた。疲れたのだろうか。ぼくは部屋に戻り、眠りに入った。

 その次の日もその次の日も、その次の日も、彼女はいた。同じように少し外れた食事を作り、家事をして、部屋の隅で眠る。それが彼女にとってなんの意味があるのか、そもそもこれが現実で、彼女は実在しているのか。それさえも、今のぼくにはわからない。

「いってらっしゃいませ」

 彼女は恭しくぼくを見送った。磨り硝子の向こうはモザイクに塗れている。それを開け放って、向こう側に歩きだすと、ようやく少し軽い気分になった。家を出ると、不動産屋との面会場所に向かった。格安で家を借りているぼくは、彼らと面会をする必要がある。それが条件だったのだ。格安で大きな家を借りられる。二階建ての大きな家だ。築年数はかなりいっているが、それを差し置いても全室空調付き、広い間取りにカウンターキッチン、風呂トイレ別となるとこんな密集地では恐ろしい値段になる――だが、ぼくが彼らに借賃として払っているのは、以前住んでいたワンルームよりも安い金額だ。そうなると、やはりなんらかの事由があってのものとは思われるが、法令に定められた周知さえなかったものだから、つまりここは事故物件でもなんでもないということになる。

 レンガ風の路上ブロックの向こうには、黄色と赤錆色の入り混じった路電の駅があった。ちょうどホームに上がった辺りで踏切が締まり、のろまな市電がゆるゆると間延びした雰囲気を持ったまま現れた。止まる時まで間延びしたままの乗り物に乗り込むと、不動産屋の最寄りまで揺れに身体を預けておく。何駅か先で降りると、踏切の向こうへ歩き出す。地面の安い、奇妙な建物ばかりが並ぶ土地だ。赤青緑黄色、まるで色盲の人間が適当に色を置いたような、目の痛い色彩の中を歩いていると、こちらまで気が滅入ってくる。十分ほどその奇怪な通りを進み続けると、やけにこぢんまりした小さな事務所が見えた。そこが不動産屋である。頭が電球に置き換えられた子供の人形が戸口に立っている。

「アスコ、いかれますか_____?>」

 こちらを不安そうに見つめてきたのは、エラのやけに張った、けれど気の弱そうな優しげな外国の人間だった。肌は黒く、唇は突き出して体格は二メートルはあるだろう。

「ああ。あそこに、わたしはいく」

 なるだけ簡単な日本語で返してやると、彼は嬉しそうに目を瞬かせながら、手を握って真剣な顔をした。

「やめてください。あそこはおかしい____おかしいです。おかしい、Ah……」

「ありがとう。でも、大丈夫」

 うまい日本語が思いつかないのかどもる彼に微笑みかけて、歩みだす。問題はない。何度もここまで来たことがある。何度も彼らとは話したことがある。戸口に立って木製のドアを叩くと、裏側から物音があった。ややあってドアが開くと、薄暗い事務所の中が見えた。事務所の中に身体をねじ込むと、頭をぶつけた。この事務所は、やけに天井が低い。身長は百七十センチもあれば頭をぶつけるだろう。事務員は老婆がやっているので、彼女にとっては窮屈でもなんでもないらしい。事務所は入口から奥にかけて、扇形に広がっている。ゴウゴウン、と軋んだ空調の音が常に鳴り響いて、金属が擦れる耳障りな音が指先を勝手に震えさせる。

「はいりゃんぜ」

「どうも」

「どうがね」

 古臭いイントネーションで、彼女はこちらが座るよりも早く話しかけてきた。声色から、少なくとも、こちらを歓迎しているわけではないことがわかる。彼女にとってはこれは業務なのだ。あくまでもぼくに『安く貸してやっているだけ』に過ぎない。

「問題はありません」

「そうかい。妙なことは?」

「いいえ、特に」

「そうかい――」

 いいえ、特に――その言葉に、老婆の瞳がぎら、と光った。妙な程の反応速度だった。その意味を確かめたくて口を開く、なにか、問題でも。と口の形が作られたところで、彼女はさらに言葉を繋げた。

「家を、引き払ってもらえないかね」

「は……?」

 予想外の宣告に、ぼくは呆気に取られたまま、首をかしげていた。

「退去費に含めて三百万出す。今日中に出られるかい」

 老婆は信じられない言葉を吐き出して、奥のレジに向かうと、ガチャガチャとやかましい音を立てながらレジを締めた。席に戻ってきた彼女は、乱雑に封筒を叩き渡すと、急かすようにぼくを追い出した。

「今日中だ。今日中だ。わかったかい。後は請求書でよこしな。わかったかい。今日中だ」

 三百万、大金である。理由もわからないまま、しかし契約事由に『貸主の志向によって借り主は異論を呈さないものとする』と書かれていたことを思い出し、急遽マンスリーマンションの契約を結んだ。夕焼けの頃に家に帰ると、やはりそこに、『カタツムリの彼女』は居た。

「おかえりなさい」

「ただいま。ごめん、急に引っ越しをすることになった」

「いつ出ることに」

「大家いわく、今日中らしい」

「そうですか」

 彼女の触手が忙しなく動く。その意味は、驚きだった。いつの間にか、彼女の表情らしきものを感じ取れるまでになっていた自らに驚きつつ、ぼくは脱いだ靴をそのまま袋に詰めた。玄関に荷物を続々と集め、それを箱に詰める。さっさと詰め切って送ってしまおう。彼女はその間、じっとリビングと玄関の間で立っていた。

「次は、いつお帰りになられますか?」

「さあな。わからない。けれど、君には感謝している。それとも、一緒に行くかい」

「いいえ。ここで待っております」

「そうかい。次の人がいい人だといいな」

「……」

 そのまま彼女は黙り込んで、ぼくの荷物を詰めるのを手伝っていた。その背姿はどこかいみじそうで、気の毒だった。やがて荷物も一段落つき、玄関に身体を横たえて一息ついていると、柱のあたら低い位置に鉛筆の線が見つかった。その線は地上から約五センチあるかないかの位置であり、子どもの身長と思うにはどうにも無理があった。名前は書かれていない。不思議に思っていると、彼女の声が聞こえた。

「お食事は、どうされますか」

「ちょうど仕舞っていないことだし、最後に、食べていこうかな」

「了解しました。少々お待ちください」

 彼女を待ちながら、最後の日となった家屋を回る。広いばかりで、結局自室とリビングしか使っていない。これならもっと狭い、なんなら以前のワンルームとほとんど変わりない。この手元の三百万で高い部屋に暫く滞在するのも悪くないかと思っていたが、思い直してみれば、この二階建てでさえこの有り様だ。起きて半畳寝て一畳、なんて言葉もあるが、ぼくのような小人ではちょうどそうなのかもしれない。自室に戻ると、磨り硝子の向こう側に丸いもやが幾つも浮かんでいた。月の光が拡散しているのだろう。ぼんやりと、この棺桶からもう直に出ていくという実感が湧いてきた。

「お食事が出来ました」

「ありがとう」

 リビングに降りると、彼女は食事を既に並べていた。

「今日は満月ですので、それに合うものを」

「そうか」

 テーブルの上には、花束が並んでいた。黄色い花だ。吹き出したような甘い香りのする紫色の花弁が、ひたひたと皿の上に並んでいる。

「なるほど、いただきます」

 ぼくは花を頬張った。噛み砕き、嚥下する。青臭いが、食えないことはない。時折感じる蜜を啜りながら、素早く食事を終えると、彼女の方へ向く。

「ありがとう。準備をして出るよ」

「……承知しました」

 彼女は皿を下げると素早く洗浄を終わらせた。そしてそのまま箱に詰めると、配達屋が玄関まで来ていた。ぼくは彼らの応対をして、その箱を全て預けると、がらんどうの家だけが残った。正に、棺のような白い家である。もう既に、残したものはない。家電は置いていっても良いそうだから、後はこの身一つさえ移動してしまえばこの薄暗い一軒家とはお別れになる。

「そろそろ出ようと思う」

「左様ですか」

「少しの間だったが、楽しかった。ありがとう。また縁があれば」

「左様なら」

「ああ、左様なら」

 鞄だけを持って夜道に出る。薄暗い夜道を進み、空を見上げると、月は浮かんでいなかった。新月である。いや、しかし――自室の磨り硝子の向こうには、黄色い光りが灯っていた。何を見ていた?――それに、彼女もまた満月と言っていた。しかし、しかし、空には月などないし、雲もない。

 がらんどうの空の下、革靴がコンクリィトを叩く音だけが響いている。人もおらず、車もない。しかし道が妙に綺羅ついている。行く先が同じものだから、その後ばかり追いかけていると、表通りに出た。ネオンライトや街灯の綺羅めきが、闇に慣れた目に痛い。生ぬるい風の吹く地下鉄に乗り込んで、新たな最寄りに到着すると、受付からマンスリーマンションの鍵を受け取った。疲れていたものだから泥のように眠ると、夢すら見なかった。

 目を覚ますと、痛いほどの日光が部屋を差していた。カーテンを閉め忘れて眠っていたらしい。晴れやかな気分になって朝食を済ませると、何気なくテレビのチャンネルを回した。ちょうどニュースの時間らしい。礼儀正しい真面目くさったキャスターが、見覚えのある埃臭い事務所を映している。

『ここで死体が見つかったそうです』

 ぼくはテレビの電源を消した。必要のなさそうな情報だったからだ。

 職場への電車に乗り込むと、窓ガラスには月が写った。
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