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1巻

1-3

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     ◇


『こんな若い子が次の担当?』

 面前であからさまにため息をつかれたのは、入社してちょうど三ヶ月が経った頃だった。
 試用期間から本採用になった花織は、悠里の担当先をいくつか引き継いだ。
 そのうちの一つ、初めての取引先に伺ったところ、待ち構えていたのは厳しい洗礼だった。

『女性の営業ってやりづらいんだよね。違う人に代えられないの? こちらとしては今まで通り大室君に担当してほしいんだけど』

 取引先の担当者は花織には一瞥いちべつもくれず、悠里だけを見ていた。
 そんな相手に、悠里は担当を外れた後も自分が花織をバックアップすることを伝え、その場を収めた。
 その間、花織ができたのは愛想笑いを浮かべることだけ。でも本当は悔しかったし、悲しかった。
 帰社後、どん底までへこんだ花織に悠里は言った。

へこむのはわかる。相手の言い方もどうかと思うしね。でもこればかりは落ち込んでも意味はない。東雲さんが女性なのは事実なんだから、それについては悩むだけ時間の無駄だ』

 こんな時は嘘でもなぐさめるものではないかと思っていただけに、彼の言葉には驚いたし傷ついた。しかし悠里は、花織を突き放したわけではなかった。

『でも、俺としてはこの仕事に性別は関係ないと思ってる。男でも女でも要は数字を上げればいいんだから、そういった面では営業職はとてもシンプルだ。これまで俺は、教育係として教えられることは全て教えてきたつもりだ。だから自信を持って』

 そう言って、悠里は優しく微笑んだ。

『東雲さんなら大丈夫だと思って引き継いだんだ。それに何かあれば……いや、何もなくてもいつでも俺を頼っていいよ。君の後ろには俺がいる。だから、一緒に頑張ろう』

 多分、花織がはっきり彼への恋心を意識したのはこの時だ。
 うわつらだけのなぐさめの言葉ではない。心のこもったその言葉に、頼りがいのある姿に、花織はどうしようもなく惹かれたのだ。
 悠里はたくさんのことを教えてくれた。
 社会人として当たり前のことからイレギュラー時の対処方法まで、彼は花織に営業のノウハウを一から徹底的に叩き込んだ。柔和な外見に反して教育係としての悠里は「厳しい」の一言に尽きたが、花織が悠里を嫌うことはなかった。
 彼の言動からは、いつだって『花織が成長するように』という思いが感じられたから。
 むしろ一緒にいればいるほど尊敬の念がつのった。そんな彼に告白された時は夢を見ているのかと思ったし、プロポーズされた時は涙が出るほど嬉しかったのだ。


     ◇


 四月一日。
 新年度のスタートでもあるこの日、出勤した花織はいつになく緊張していた。
 理由は言うまでもなく悠里である。
 今日から花織と悠里は同じオフィスで働くことになる。
 ふとした時に彼を目にすることがあるかもしれない――いいや、間違いなくあるだろう。
 営業部と商品企画部はフロアこそ異なるものの、共に仕事をする機会が折々にある。
 簡単に言えば、営業は商品企画部が企画立案して生まれた製品を売るのが仕事だ。
 企画の段階から会議に参加することは多々あるし、反対に営業戦略を考える際に企画側の意見を求めることも多い。共に取引先におもむくことも珍しくなかった。
 現に今朝も、沙也加が商品企画部の社員と取引先に行くと話していたばかりだ。
 そもそも営業部は悠里の古巣でもある。営業部には今も彼をしたう社員は大勢いるし、仕事上で関わらないということはまずあり得ない。

(しっかりしないと)

 出社後、自分のデスクについた花織は小さく息をつく。
 異動が発表されてから約一週間。
 表向きは平静をよそおいながらも、ふとした瞬間に悠里のことを考えて気がそぞろになる……そんな落ち着きのない日々を過ごし、今日を迎えてしまった。
 今のところ仕事に支障は出ていないけれど、沙也加は何かしら勘づいていても不思議ではない。
 悠里とは極力関わりたくはない。合わせる顔がない、というのが正直なところだ。
 彼の帰国を知り、「転職」の二文字が頭をよぎらなかったと言えば嘘になる。
 でも、現実的に考えてそれは難しい。
 自分一人が食べていくだけならいくらでも道はあるが、花織には遥希がいる。彼を立派に育て上げるという目標のためにも、今の職場を離れるわけにはいかないのだ。
 それに悠里からすれば、自分は顔も見たくない相手のはずだ。あちらから積極的に花織に関わってくるとも思えなかった。
 この三年間がそうであったように、遥希と仕事についてだけを考えればいい。
 そう思考を切り替えた花織は、手早くメールチェックと本日のスケジュール確認を終える。
 学生の頃は「営業職=一日中外回り」という印象が強かったが、入社してみれば意外にデスクワークが多かった。
 見積書の作成や取引先との事務的な連絡のやりとり、取引先に売り込むための資料作成……とあげ始めたらキリがない。一日外に出ていることもあるが、少なくとも今日の午前中はデスクワークをし、午後に外回りをする予定を立てていた。
 メールチェックを終えた花織は、次いで見積書の作成に取りかかる。その後、午後の営業先で使用する新製品のプレゼン資料を作成していたら、あっという間に正午前になっていた。
 月曜日の今日は弁当を持参していない。社内の食堂で昼食を済ませた花織は、からの食器の載ったトレイを返却カウンターに戻すべく席を立つ。にわかに空気がざわめいたのは、その時だった。

「見て、大室君」

 耳に飛び込んできた名前に足が固まる。

「あなたがロンドンに行ってる間に業者が変わったの」
「本当だ。社食でパエリアが食べられるの? バターチキンカレーにナンとか……すごいな」
「ちなみに私のおすすめは、クラブサンドイッチよ」

 食堂の入り口で交わされるなんてことのない会話に周囲の視線が集まる。
 もちろん、花織も。
 ――大室悠里。
 かつての婚約者が、そこにいた。
 遠目にもはっきりとわかる長身に端整な顔立ち。記憶の中と寸分すんぶんたがわぬその姿。

「悠里さん……」

 無意識に声が漏れる。ささやきにもならない小さな声。それにもかかわらず悠里の視線がこちらを向いた。
 彼の薄茶色の瞳が大きく見開かれる。
 なぜ、どうして。先ほどの声が聞こえたはずもないのに。

『花織』

 形のいい唇が声もなく自分の名前を呼んだとわかった瞬間、体の中を電撃が貫いた。
 花織は咄嗟とっさに、彼から視線を逸らした。
 下を見つめたまま、足早に悠里がいるのとは違う入り口から食堂を出ていく。
 それを呼び止める声は、なかった。


 ――早く。早く、一人にならないと。
 周囲に不審に思われない程度の早足で通路を歩く。
 しかし、気持ちは今すぐ駆け出したいほどにいていた。
 ――まさか初日に、彼を目にすることになるなんて。
 こんなことなら外食すればよかったと思うが後の祭り。
 食堂を出た花織が向かったのは営業部ではない。過去の資料が保存されている資料室だ。
 会社に関連する資料のほとんどはすでにデータ化されているが、創業八十年ともなると紙の資料もまだ数多く存在する。資料室はそれらを保存している部屋で、用がなければまず誰も訪れることはない。だからこそ人目を避けるのにこれ以上の場所はなかった。
 資料室の前に着いた花織は、周囲を見渡し誰もいないことを確認する。
 中に入り、後ろ手にドアを閉めた瞬間、こらえていた感情が爆発した。
 ずるずるとその場にしゃがみ込む。
 泣いてはいけない。これから向かう取引先にみっともない顔は見せられない。
 唇を強く引き結び、両手を強く握りしめることで、湧き上がる感情を必死にしずめようと試みる。
 でも、無理だった。落ち着こうと、冷静になろうと思えば思うほど、先ほどの悠里の姿を思い出してしまう。

(変わらなかった……)

 端整な顔立ちも、耳に心地よい声も、柔らかな笑顔も。全てがかつて愛した彼のままだった。
 なつかしさと愛おしさが込み上げて胸が痛い。終わったはず――いいや、自ら終わらせたはずの恋だ。悠里との関係はすでに過去のもの、そう思っていた。
 でも、違ったのだ。
 その証拠に、悠里と目が合ったのは数秒にも満たなかったにもかかわらず、視線が合った瞬間、花織の感情は一気に過去に引き戻された。

(なんで……)

 別れてから今日まで、花織は「母親」に徹してきた。それが当然だと思っていたし、誰かと恋愛をする気なんてこれっぽっちも起きなかった。しかし、今ここにいる花織は母親なんかじゃない。
 自ら終止符を打った恋に未練がましくすがる、身勝手でみじめな女だ。
 悠里は、一瞬にして花織を「母親」から一人の「女」に戻してしまった。
 その時、ためらいがちに外側からドアがノックされる。びくん! と肩を震わせる花織に、ドア越しにかけられたのは、なつかしい悠里の声だった。

「花織? そこにいるね?」
「な、んで……?」

 食堂にいるはずの彼がドアの外にいる。

「開けるよ」

 密室の中、入り口は一つしかない。今すぐここから出ていかなければ――その一心で立ち上がる。

「……やっぱりいた」

 声もなく立ち尽くす花織に悠里は言った。

「一人になりたい時、ここに来る癖は変わらないんだな」

 彼が日本にいた頃も花織がここに逃げ込んだことは確かにある。でもその回数は片手にも満たないし、悠里に話したこともない。
 なぜ、どうして。疑問の言葉が頭に浮かぶけれど、動揺のあまり声が出ない。
 同時にこうして近くで対峙して初めてわかったことがある。
 先ほど遠目で悠里を見た時、花織は「変わらない」と思った。
 でも、違った。今目の前に立つ悠里は、昔よりずっと魅力的な男性になっていた。悠里は無言のまま花織を見据える。わずかに揺れる瞳は、なんと話しかけるか悩んでいるように見えた。
 彼は何を言おうとしているのだろう。非難だろうか、それとも怒りだろうか。
 体を強張こわばらせて身構える花織の前で、形のいい唇がゆっくりと開く。

「久しぶりだね、花織」

 発せられた言葉は予想のどれとも違った。
 花織、と。ただ名前を呼ばれただけなのに心臓が飛び出そうなほど跳ね上がる。同時にほのかな胸のうずきを感じたのは気のせいではなかった。

「……お久しぶりです」

 人一人分の距離をけたまま、二人は互いに緊張した面持おももちで見つめ合う。

「かお――」

 張り詰めた空気を一蹴いっしゅうするような着信音に花織は再び大きく肩を震わせた。
 社用のスマホを確認すれば、午後に訪問予定の取引先からだった。
 急いで電話に出ると『待ち合わせ時刻を少し早めてほしい』という内容で、花織は了承した上で電話を切る。
 すると、それを見ていた悠里が「取引先から?」と聞いてくる。

「は、はい。午後に伺う予定のお客さまで、時間を早めてほしいと……」

 告げられた時間に間に合わせるためには今すぐ会社を出る必要がある。
 急な話ではあったが今の花織には助け舟のように感じられた。
 悠里が追いかけてきた理由はわからないけれど、今はこれ以上ここにいたくない――いられない。あと少しでも二人きりでいれば、この三年ごまかし続けてきた感情を気取られてしまいそうだった。

「急ぐので、失礼します」
「待って」

 悠里は、出ていこうとする花織の手首を掴んで引き止める。

「話したいことがある。もちろん今じゃなくて構わない。仕事終わりに時間をくれないか?」
「……離してください」
「頷いてくれたらすぐに離すよ」
「話なんて、私にはありません」
「君にはなくても、俺にはあるんだ」

 一歩も引かない悠里を花織は信じられない思いで見つめた。
 時間を守るのは当たり前。仕事には責任を持ち、スピード感を持って取り組むこと。
 そう花織に教えたのは他ならない悠里だ。しかし、このまま手を離してもらえなければ、まず間違いなく約束の時間に遅れてしまう。
 何が彼をここまでかたくなにさせるのかはわからない。しかし、先に折れたのは花織の方だった。

「……遥希の迎えがあるので、仕事終わりは無理です」

 おいの名前を出すと、手首を掴む力がわずかに緩む。

「それに俺も一緒についていくのは?」

 思いも寄らない提案に花織はぎょっとする。

「そんな、困ります」
「どうして?」
「……知らない男の人が急に一緒に来たら、遥希が驚くから」

 ためらいがちに答えると、わずかに悠里の表情がかげった。

「『知らない』、か。確かに、三年も経てば遥希くんにとって俺は知らない男だよな。それなら昼食を一緒に食べよう。昼なら迎えの時間にも被らない。今週でいている日は?」

 悠里はわずかな隙も与えてくれない。夜がだめなら昼。この上昼もだめだと言えば、仕事中に皆の前で話しかけてきそうな勢いに花織は負けた。

「……木曜日なら」
「わかった。場所はまた後で伝えるよ。連絡先は変わっていない?」

 小さく頷いたところでようやく手を解放された。

「急いでいるのに引き止めてごめん。それと……ありがとう」
「いえ……それでは」

 花織は小さく頭を下げて逃げるように資料室を飛び出した。その足で化粧室に飛び込み、洗面台の上に両手をつく。鏡に映る情けない顔はうっすらと火照ほてっている。
 熱い。掴まれた手首にまだ温もりが残っているような気がしてならなかった。
 その夜、花織のスマホに三年ぶりに悠里からメッセージが届いた。

『木曜日の件だけど、昔よく行ってたカフェで待ってる』

 悠里が指定したのは、かつて別れ話をした店だった。



   3


 新宿・歌舞伎町のクラブで働くホステス。それが、花織と夏帆の母親だった。
 父親は、母と同じ歌舞伎町で働くホストだったという。
 母いわく『性格はクソだけど顔だけは最高だった』という父親について、花織は名前も顔も知らない。血縁上の父親である人は、母が花織を身籠みごもったと知るなり歌舞伎町から消えたらしい。

『子どもなんて産むもんじゃないわね。身動きが取りづらいったらありゃしない。独り身だったらもっと自由に生きられたのに』

 それが母の口癖だった。
 姉妹の住まいは、築五十年を超える古びたマンションの一室だった。
 未就学児の頃は二十四時間預かりをしている認可外保育所に預けられ、明け方、千鳥足ちどりあし状態の母親が迎えに来るのを姉と待っていた。小学校に上がってからは、母が何日も家をけることは珍しくなかった。

『お金はここに置いておくから適当にやって。戸締りだけは気をつけなさいよ』

 テーブルの上に万札を数枚置いて出ていく母の行き先は、きっと好きな男のもとだったのだろう。
 完璧な化粧をほどこした母は「女」の顔をしていた。
 初めの頃はコンビニ弁当ばかり食べていた。それに飽きると、姉妹で協力して料理を作るようになった。ネグレクトに近い状態だったのは間違いない。そんな中でも家賃や光熱費の支払いをしてくれていたのは不幸中の幸いだった。

『私があんたたちを育てるのは高校を卒業するまでよ。そこから先は好きにしなさい。大学や専門学校に行きたいなら今のうちからバイト代を貯めるか、奨学金がもらえるくらい勉強するのね。まあ、塾に行くならそれくらいは出してあげるわ』

 母は常々そう言っていた。
 子どもの面前で『産まなければよかった』と言い放ち、平気で家をける彼女は「いい母親」ではなかった。
 やがて花織が高校に進学し、大学進学を希望する一方、三歳年上の夏帆は高校卒業と同時に都内の銀行の一般職に就いた。

『大学にかかるお金については心配しなくて大丈夫。塾代はお母さんが出してくれるし、それ以外は私がなんとかする。だから、かおちゃんは勉強に集中してね』

 そんな姉の協力のおかげで、花織は都内の国立大学に見事合格したのだった。
 合格を報告すると姉は自分のことのように喜んでくれた。
 そんな姉以上に花織の大学合格を喜んだのは他ならぬ母だった。

『これで母親としての仕事も終わりね! ああ、長かった! それじゃあ夏帆、花織、元気でね。あんたたちは好きに生きなさい。私もそうするわ』

 満面の笑みを浮かべた母は、その次の日に家を出ていった。
 住み慣れた部屋を出ていく母は、今までで一番綺麗だった。
 きっと、「母」ではなく「女」の顔をしていたからだろう。
 そんな母のことを花織は嫌いではなかった。手放しに好きとは言えないものの、十八歳まで育ててくれたのは事実だったから。しかし、夏帆は違った。
 姉は育ててくれたことには感謝しつつも、異性関係にだらしない母を嫌っていた。

『私は、お母さんみたいには絶対ならない。父親のいない子どもなんて作らない』

 それが、夏帆の口癖だった。
 だからこそ、そんな姉が未婚のまま妊娠したと知った時は信じられなかった。

『彼には婚約者がいたの。それを隠して私と付き合っていたんだって。もちろんそれを知ってすぐに別れたけど、その時にはもう彼の子どもを妊娠してて……。ほんと、バカみたいだね。あんなにお母さんみたいにはならないって言ってたのに、反面教師どころか同じようなことをしてる』

 その時、初めて花織は姉に恋人がいたことを知った。
 ――姉をだまして付き合った挙句、妊娠させるなんて。
 当然許せるはずがなくて、花織は相手の男について尋ねた。しかし、夏帆は父親の素性についてかたくなに口を閉ざした。その上で『絶対に産む』と言い切ったのだ。
 本音を言えば『どうして?』と思った。
 なぜ、そんな最低な男の子どもを産もうとするの、と。
 しかしそれが姉の選んだ道ならば、花織は自分にできることはなんでもしようと心に決めた。花織が大学に進学するために姉は身を粉にして働いてくれた。ならば今度は自分が姉を支える番だ。
 妊娠初期、つわりのひどい姉は水分をとるのもやっとな様子だった。
 みるみるせていく姉のために、花織は仕事をしながら栄養について学び、姉の食生活をサポートした。検診には可能な限り付き添ったし、体がむくんで眠れないという姉の手足を毎晩マッサージした。
 そんな風に過ごしていれば、どうしたってお腹の子どもにも愛着は湧く。
 それは花織だけではなかった。悠里もまた、何かと手を貸してくれたのだ。
 妊娠後期、ベビー用品を買いに行く時に車を出してくれたこともあれば、『お姉さんの気晴らしになれば』と二人のデートに夏帆を誘ってドライブに行ったこともある。
 夏帆、花織、悠里。そんな三人に見守られてお腹の子どもはすくすくと育っていった。
 そうして生まれた赤ん坊の顔は、しわくちゃだった。それでも分娩室に響き渡るほどの大きな泣き声を上げる姿はたまらなく可愛くて、愛おしかった。
 出産に立ち会った花織はたまらず泣いてしまい、そんな妹を見た夏帆もまた、目尻に涙を浮かべていた。驚いたのは、出産翌日に見舞いに訪れた悠里が泣いたことだ。
 赤ん坊をおっかなびっくり抱いた彼は、『あったかい……』と、そう呟いて目をうるませたのだ。
 悠里が泣くのを見たのはその時が初めてで思わず慌ててしまった。そんな二人を見て姉はくすくすと笑っていた。
 笑顔と笑い声、そして元気に泣く赤ん坊。
 ――もしも自分と悠里の間に子どもが生まれても、きっと彼は愛してくれる。
 思わずそんな想像をしてしまうくらいに、あの瞬間の病室は幸せに満ちていた。
 自由にのびのびとすこやかに育ちますように。
 そんな願いを込めて「遥希」と名付けられた赤ん坊を、悠里は大層可愛がってくれた。
 誕生から姉が亡くなるまでの一年十ヶ月。
 悠里は数えきれないくらい遥希を抱っこしてくれた。もちろん遥希はそれを記憶していないだろうが、花織は確かに覚えている。

『遥希くん、随分重くなったなあ』

 遥希と顔を合わせるたびに、嬉しそうに小さな体を抱き上げる悠里の姿を。

『遥希くんが大きくなったら、一緒にスポーツがしたいな』

 デートで野球観戦をした時に笑顔でそう言っていたことを。

『いい子だ。……大丈夫、大丈夫だよ』

 母親を亡くしたばかりで不安定な遥希をそう言って抱きしめてくれたことを。
 全部全部、覚えている。


     ◇


 約束の木曜日。
 花織は外回りから直接待ち合わせ場所へ向かった。
 かつて幾度となく悠里と共に足を運んだカフェだが、花織は別れ話をした時を最後に訪れていない。よくも悪くもあの店には悠里との思い出が多すぎる。
 この三年、彼のことを考えないようにするのに必死だった花織には、とても足を踏み入れられる場所ではなかった。
 それでも、いざ来てみれば、どうしたってなつかしさを感じずにはいられない。
 入り口のドアを開けると、カランカラン、と昔なつかしいベルの音がする。
 店内に視線をめぐらせれば、一番奥の席に座る悠里の後ろ姿が見えた。
 彼のいる場所を見た花織はなんともいえない気持ちになる。
 そこは、別れ話をした時と同じ席だった。
 ――よりによって、どうしてあそこに。
 偶然ということはないだろう。この店を選んだことといい、なんらかの意図を感じずにはいられない。花織のスマホには昔と変わらず悠里の連絡先が登録されている。
 必要があれば連絡を取り合うことは可能だったにもかかわらず、再会するまでスマホが彼の名前を表示することは一度もなかった。それが帰国早々こうして人目を忍んで呼び出すなんて、いったい何を言われるのだろう。

(……何を言われたとしても、受け止めないと)

 たとえそれが非難や罵倒ばとうだったとしても、悠里にはそれを言う権利がある。
 やむを得ない事情があったとはいえ、三年前の自分は一方的に彼を切り捨てたのだから。

「大室さん」

 当時とは立場が逆になったのを感じながら、花織はたくましい背中に声をかける。振り返った悠里は花織を見るなり目を見張り、ホッとしたように小さく息をつく。

「来てくれたんだ」
「……来ますよ。断ろうとしても、そんな隙すら与えてくれなかったじゃないですか」
「ごめん、強引だった自覚はあるよ。――さあ、座って」

 うながされた花織は対面の席に座り、おずおずと悠里を見た。
 恋人だった時の彼は、花織にとって誰よりも安心できる存在だった。しかし、元恋人として向き合っている今は距離感がわからずただただ困惑する。
 でも、悠里は違った。資料室で二人きりになった時の緊張感が嘘のように、彼は柔らかな眼差しで花織を見つめてきた。

「花織、できれば大室さんじゃなくて名前で呼んでほしい」
「でも……」


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