今宵、彼は紳士の仮面を外す

結祈みのり

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1巻

1-2

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 その現実を受け止めた瞬間、陽菜の心臓は未だかつてないくらいに激しく高鳴った。
 鼓動が体の芯から響いている気がする。

(ど、どうしよう?)

 陽菜の頭の中はそれでいっぱいだ。
 ただ見ているだけで満足だった憧れの人が、肩が触れ合うほど近くにいる。
 見ているだけの時は数分間がとても短い気がしたのに、今はとても長く感じた。窓の外を通り過ぎる見慣れた景色も、車内の雑音も、全てが遠ざかり、切り離されたような感覚におちいる。
 陽菜の全神経は、ほんの数センチ隣の彼へ注がれていた。けれど、顔は上げることができず、ずっとうつむいたままだ。
 今時初恋を知ったばかりの小学生でも、こんな反応はしないだろう。
 その時、不意に足元が揺れた。バスがカーブを曲がったのだ。
 陽菜はバランスを崩した。ヒールが床を滑って、上半身が後ろに傾く。

「――っと」

 その時、大きな手のひらがそっと、陽菜の腰を支えた。

「……大丈夫ですか?」

 あの男性が助けてくれたのだ。
 彼が触れていたのは、陽菜が体勢を整えるまでの間だけ。はっと隣をあおぎ見る頃には、男性の手はつり革へ戻っていた。
 ほんの一瞬の出来事。しかし確かに彼は、陽菜を支えてくれた。

「あ、ありがとうございます」

 突然のことにぽかんとしながらも、陽菜はどうにか礼を言う。

「どういたしまして」

 男性は、柔らかく微笑んだ。
 その破壊力たるや、すさまじい。
 初めて間近に聞く声は、想像より少し低くかすれている。何より、やけに色っぽく陽菜の耳を直撃した。腰が砕けそう、とはこのことだ。
「もしかしてこれはチャンスなのでは」と、陽菜は思った。

(話しかけても、変に思われないかしら)

 ――ありがとうございます。実は、何度かバスでご一緒しているんです。
 いきなりそんなことを言ったら、妙な女だと思われないだろうか。
 でも、こんなチャンスはこの先二度とないかもしれない。
 陽菜は彼に声をかけようと視線を上げる。しかし、すぐに後悔した。
 彼は、ある一点を見つめていたのだ。視線の先は、なんの変哲もない化粧品の車内広告。だが、その中で一つ目を引くものがある。
 新作のルージュを手に微笑む女性――今十代の若者の間で絶大的な人気を誇るモデルのなみだ。
 ふわふわとなびく茶色の髪、柔らかな微笑みをたたえる顔は、この世の「可愛い」の全てを体現している。
 同性の陽菜でも守ってあげたいと思うほど庇護欲ひごよくをそそるれんな容姿。それは陽菜の外見の対極に位置するものだ。
 美波を見つめる男性の視線はとても優しい。
 その表情は今まで見てきたどんな彼よりも柔らかく見えた。
 まるで恋人を見るようなその視線に、陽菜の中にもやもやが広がっていく。

(……ああいう女性が好きなのかしら)

 高鳴っていた鼓動がすっと引いていった。
 彼は悪いことなんて何もしていない。それなのに心が冷えてしまい、傷つけられた気持ちになる。
 自分ひとりが浮かれていたことを陽菜は、途端に恥ずかしく思った。
 自宅最寄りのバス停につくまでずっと隣を見られなくなる。
 それから数日、陽菜の頭にはあのモデルの笑顔がちらついて離れなかった。


     ◇


「あんた、ばか?」

 その週の金曜日の夜。久しぶりに食事をしようと待ち合わせた親友の佐倉胡桃は、一連の話を聞くなりそう言い切った。

「『何度か同じ時間のバスでお見かけしたことがあります』くらい、なんで言わないのよ。せっかくバス王子が隣に来たっていうのに!」

 バス王子――あまりに安直な名前に陽菜は突っ込みたかったが、胡桃は止まらない。

「その時話しかけないで、いつ話しかけるの! 見ているだけで満足って、小学生でももっと進んでるわよ」
「……あのね、胡桃。人には分かっていてもできないことが……」
「そう言い続けて、もう二十八歳でしょうが」

 胡桃の言葉は正論すぎて、陽菜はぐうのも出ない。

「それに、芸能人と比べてへこんでどうするの。大体、美波と陽菜は全然タイプが違うじゃない。比べるだけ無駄。あんたの魅力は可愛らしさにはないでしょ。いい加減自覚しなさいよ」

 テーブルに片ひじをついた胡桃は、左手でカクテルを揺らしながら「まったくもう」と呆れたようにため息をつく。
 あまり行儀がいいとは言えないが、お酒でうっすらと頬を染めた彼女は、陽菜でさえドキッとするほど色っぽい。
 透けるように真っ白な肌に、ぱっちりと大きな目、ふわふわとゆるく巻いた髪。胡桃もまた「可愛い」を体現する女性だ。
 しかも実家は誰もが知っている製菓会社を経営している。
 そんな超お嬢様である胡桃は、良くも悪くも裏表のない人間だ。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。異性の好みも同様で、彼女の恋人に対する第一条件は「顔」である。第二条件は「一般常識を持っている」ことだった。見た目も中身も、異性関係ですら彼女は陽菜と正反対のタイプだ。
 だからだろうか、高校で知り合って以来、妙に馬が合った。

「胡桃ならそうするでしょうけど、会えるとは思っていなかったから驚いてそれどころじゃなかったの。仕方ないと思わない?」
「思わないわね。私なら気になった段階で話しかけているもの」
「私も話しかけようとしたわ。ただ……怖気おじけ付いてしまって。熱心に見ていた相手は超人気モデル、こっちは恋愛初心者のアラサーよ?」
「そんなド派手な顔で恋愛には小心者、なんて意外よねー。陽菜、会社ではクールなバリキャリで通してるんでしょ? ギャップ萌えでも狙ってるの?」
「……そんなの狙う余裕があれば、今頃恋人がいたでしょうね」
「確かに。自分のことよく分かっているじゃない。高校の時みたいに会社でも後輩の女の子にきゃーきゃー言われてるんでしょ。どうせなら男の一人や二人、はべらせてみなさいよ」
「慕ってくれる子はいるけど、きゃーきゃーなんて言われてないわ。……なんだか胡桃、今日はずいぶんと毒舌ね」
「そう? いつものことでしょ。大体ね、美波は確かに可愛いけど、大人の色気で勝負すればいいじゃない。まあ、いいわ。それより、後輩ちゃんに婚活パーティーに誘われたんだって?」
「そうなの。これ、胡桃の会社が主催しているものだって本当?」

 胡桃はみずから会社を立ち上げ、婚活コンサルタントとして活躍しているのだ。
 陽菜がスマホの画面を見せると、胡桃は「ああ」と目をまたたかせた。

「私の企画だわ。へえ、後輩ちゃんもいいところに目をつけるじゃない。今回の参加男性はかなりレベルが高いわよ。個人的にもとってもおすすめ。というか、私も陽菜を誘おうと思ってたの」
「私を?」
「そう。この企画、どちらかと言えば婚活初心者向けに作ってるのよ。流れは一般的なもので、最初は全員と数分ずつ会話をして、次はフリータイム。最後にカップリングの発表。それだけだと何も面白くないから、料理と会場に力を入れたわ。カップルになれなくても舌を絶対に満たせるってわけ。もちろん気に入った人がいれば、ホテルに泊まるのもありよ」
「一夜限りの恋ってこと?」
「あら、『そんなの、はしたない!』とでも言うつもり?」
「そうは言わないけど、会ったその日に、なんて私にはハードルが高すぎるわ。それに、合コンって苦手で……」
「じゃあ、あんた、ずっとそのままでいいの?」

 胡桃はすっと目を細める。

「気になる人がいても声をかけられない、そんな中途半端な状態で。確かに変態男しか寄ってこないのは同情するけど、仕方ないって諦めるのは怠惰たいだよ。恋人が欲しいなら、自分から動かなきゃ」

 その言葉は陽菜の心に突き刺さった。
 中途半端。確かにそのとおりだ。仕事とちょっと特殊な人に好かれる性質を理由に、流されるように過ごして早六年。仕事は順調だけど、プライベートはずっと停滞したままだ。
 そう遠くない未来、後輩にどんどん先を越されるだろう。
 気になった人の隣に立つだけでドキドキしてしまい何もできない、自分。
 嫌だ、とすぐに思った。

「胡桃。私、行くわ」

 小宮と胡桃、偶然にも二人から同じイベントに誘われた。これはきっと今動くべきだ、というお告げなのだ。

「洋服とメイク、もう一度教えてくれる?」

 陽菜は胡桃に頼む。

「今日の飲み代で引き受けてあげる。楽しみにしてなさい、会場で一番の美女にしてみせるわ」

 親友は、にっこりと笑ったのだった。


     ◇


 一週間後の土曜日。
 婚活パーティー会場であるホテルに着いた陽菜は、イタリアンレストランがある二十二階へ向かった。エントランスホールを通り抜けエレベーターに乗り込んだ途端、どんどん心臓の鼓動が速くなっていく。
 主催者の胡桃は先に会場入りしているため、陽菜は一人だ。一人で行動するのは、仕事ではもちろんプライベートでも慣れているのに、なんだか心もとない気がした。
 その理由は多分、胡桃がいないからだけではない。

(この格好で大丈夫……よね?)

 陽菜は、今、胡桃の選んだ勝負服を着ている。
 センスのいい彼女が似合うと言ったものはきっと、陽菜に合っているはずだ。
 ベージュのロングコートの首筋と袖口には、柔らかなファーが愛らしくついている。
 そして肝心のコートの下は――
 陽菜がコートの裾をきゅっと握ったその時、エレベーターが二十二階に到着した。
 雑誌にもしばしば登場する有名シェフが料理長を務めるレストラン。そこを貸し切りとは、胡桃の力の入れようがうかがえる。
 ドキドキしながらレストランに入り受付を済ませると、スタッフが簡単に今日の流れを説明してくれた。
 大体は、事前に胡桃から聞いていたとおりで、受付を済ませた後は、開始時刻までプロフィールカードを書いて待つ。カードには氏名と職業、趣味を書く欄があるものの、名前は仮名でもいいと言われた。ナンバープレートが配られ、その番号に基づいたテーブルに向かえばいいらしい。
 パーティーがスタートすると、各テーブルを男性側が動き、女性参加者と数分間会話をするのだ。そしてその後はフリータイム。最後は気になった異性を三人番号で指名し、カップリング発表タイムとなる。

(確かにこれなら、初心者の私でも参加しやすいわね)

 プロフィールカードに視線を落としていると、「朝来様」と呼ばれた。

「コートをお預かりいたします」

 受付の男性スタッフがにこやかに手を差し出している。

「脱がなきゃ、ダメですよね?」

 自分の格好を思い返した陽菜は咄嗟とっさにそう言ってしまった。けれどすぐに「なんでもありません!」とごまかす。スタッフは、陽菜の言葉に少し驚いたようだが、何事もなかったみたいに微笑んだ。

「会場は空調も効いていますし、寒いということはないかと存じます。万が一、気になるようでしたら遠慮なくおっしゃって下さい」
「……はい、ありがとうございます」

 その完璧な応対に観念して、陽菜はコートをスタッフへ預けた。
 途端に、暖かな空気が素肌をさらりとぜる。
 今、陽菜は胡桃の全面プロデュースによる衣装を身につけていた。
 親友が選んだのは、普段の陽菜なら絶対に手にしない、胸元がざっくりⅤ字型に開いた黒のニットワンピースだ。膝下丈のそれは体のラインにフィットし、陽菜の肉体を際立たせる。背中の部分は編み込みになっていて、歩く度に紐の先端がふわりと揺れた。胸元には自社製品である一粒ダイヤのネックレスが輝いている。
 陽菜の仕上がりを見た親友が満足そうに微笑んだので、普段はしない格好に戸惑っていた陽菜も中々いいのではないか、なんて思ったりした。しかしいざ会場に来てみると、すーすーした感覚が落ち着かない。もしかして自分だけ気合を入れすぎてしまったのでは、なんて考えてしまう。
 その証拠に、受付を終えて指定されたテーブルに向かうわずかな間にも、陽菜は、会場にいた他の参加者の視線を感じた。意識すると更に落ち着かなくなりそうで、陽菜はあえて全てを無視し、前を見る。その間も心臓はドクドクと早鐘を打っていた。

(目立ってる……?)

 その時、ポン、と後ろから肩を叩かれた。

「ひゃっ!」

 素肌に触れた手に、弾かれたように振り返ると、胡桃が笑っている。

「やっと来た。中々姿が見えないから、怖気おじけ付いたのかと思ったわ」
「胡桃!」

 見慣れた姿に陽菜は一気に安堵あんどした。
 胡桃は、普段の華やかな私服とは打って変わってシンプルなダークスーツを着ている。主催者なので気を遣っているのだろう。

「陽菜、挙動不審になってるわよ。目立つから少し落ち着きなさい。それに顔が引きつってる、緊張しすぎね」
「緊張するわ。こういうのは久しぶりなんだもの」
「大丈夫よ。会話に詰まったら、仕事相手だと思えばいいわ。全く興味がない相手なら大根と同じでしょ」
「大根って……でも、確かにそれなら大丈夫かも」

 そう答える陽菜の全身を眺め、胡桃は改めて満足そうに頷いた。

「いいじゃない。その服やっぱり似合ってる。――って何よ、その顔。私のセンスに文句でもあるの?」
「違うわ。ただ、視線を感じるの。露出度が高すぎじゃないかしら」
「それは……まあいいわ、今は自覚しなくても」
「胡桃?」
「他の参加者を見てみなさい、陽菜より肌を出している女性はいっぱいいるわ」

 陽菜はさっと会場内を見回す。なるほど、先ほどまでは緊張で見えていなかったけれど、確かに陽菜以上にセクシーな格好の女性がちらほらいた。
 ほっとすると同時に、自意識過剰だったかも、と恥ずかしくなる。

「――ほら、そろそろ始まるから行きなさい。楽しんでね」

 胡桃にぽんと背中を押され、陽菜は指定されたテーブルに向かった。


 会話に困ったら仕事相手だと思えばいいとは、確かにベストなアドバイスだ。
 自己紹介タイムを終えた陽菜はそう実感していた。
 ジュエリー販売会社の商品企画部に所属する陽菜は、普通の会社員では出会えないタイプの様々な異性と接する機会がある。それこそ目の覚めるような美形芸能人から、職人まで。
 そのせいか陽菜はあまり緊張せずに対応することができた。
 今回の参加者は、男女それぞれ二十名ずつの計四十人。
 男性側は欠席か遅刻かは分からないが、予定より一人少ないものの、胡桃が太鼓判を押すだけあって、会社経営者、医師、弁護士……と俗にいう超高学歴な面々が集まっている。
 仕事の時ほどバラエティに富んではいないものの、全員スマートな態度で、会話中も手に持ったグラスが空になると、好みを聞いてすぐに新しい飲みものを持ってきてくれた。
 会場内をゆったりと流れるジャズも、参加者の華やかなよそおいも、全てが大人な雰囲気だ。
 陽菜の知っている合コンでは、やけに男性がガツガツしているものだったから、この雰囲気は意外だった。
 中には何人かいいな、と思える男性もいる。だから、陽菜は油断してしまった。
 パーティー開始から約一時間、フリータイムが始まってすぐ、陽菜は困惑していた。

「――へえ、企画の仕事をしてるんだ。確かに、すごく仕事できそうだね。自立した女って感じで」
「……ありがとうございます」

 開業医をしているという男性が、フリータイム早々陽菜のもとにやって来た。誰かと話すきっかけをくれたことに初めこそ感謝したが、以降も彼はずっとこの調子で陽菜にまとわりついている。

「この仕事をしていると色んな女性がり寄ってくるけど、やっぱり初めから金目当ての女が多いんだよね。初対面で年収を聞いてきたり、やたらベタベタ触ってきたり。それって俺の職業に群がっているだけで、俺自身を見てないじゃない? そういうの、いい加減うんざりだよ」

 彼はベラベラと自分のことだけを話す。

「その点、君みたいに自立した人はいいよね。下手な男なんかよりよっぽどかせいでそうだ」

 まあ、流石さすがに俺には及ばないだろうけれど、と言葉の最後に自分を上げることを忘れない。

(……この人、苦手だわ)

 陽菜は顔に愛想笑いを貼り付けた。
 悪い人ではないのだと思う。しかし少々、自分のことが大好きすぎるように感じるのだ。
 一通り自分のことを話し終えた男性は、「それで」と初めて陽菜に質問してくる。

「朝来さんはどうしてこのイベントに参加したの? あなたほど綺麗なら、男なんてよりどりみどりでしょうに」
「そんなことありませんよ。私が仕事ばかりで寂しい生活をしているのを見かねて、友人が誘ってくれたんです」
「またまた、そんな謙遜けんそんはいらないよ。きっと男に対する理想が高いんでしょう?」

 理想――は、陽菜を外見だけで判断しない人。
 それを理想が高いと言われてしまうのなら、陽菜はきっとこの先もずっと独身だ。
 そんな未来が嫌で恋愛を楽しもうと思ったからこそ、このイベントに参加したのに。

「でもあなたはそれでいいと思うよ。変にびる女よりもよっぽどいい。それに、そこらの男よりもよほど強そうだ」

 強そう。その言葉も何度も言われた。

(あなたが私の何を知っているの?)

 今や陽菜は疲れを感じていた。これが仕事なら我慢できる。しかしそうではない以上、この人と会話を続けようとは思えなかった。
 だが、男性は止まらない。

「俺はそういう女性がいいな。どう、連絡先を交換しない?」

 これは、明らかなルール違反だ。お互いの連絡先は、カップリングが成立して初めて交換することになっている。
 だから陽菜は失礼がないよう、やんわりとその申し出を断った。
 すると男性は笑顔を一変させ、不機嫌そうに顔をしかめつつも言いつのる。

「これくらい、主催者も黙認するはずだよ」

 この人と連絡先を交換したいとは、陽菜にはとても思えない。
 ちらりと会場の隅にいる胡桃を見た。けれど彼女は忙しそうに他のスタッフとやりとりをしている。親友の企画を台無しにするような真似はしたくなかったので、陽菜は改めてやんわりと断った。

「……申し訳ないのですが、今は――」
「ちっ、そういうところが良くないんじゃないの?」

 男性は不機嫌な様子を隠そうともせず舌打ちをすると、一歩、陽菜へ詰め寄った。

「どんな男を探しているのか知らないけど、そんなにお高くとまってるからモテないんだよ。おかしいと思ったんだ。君みたいな女が婚活パーティーなんて。サクラかとも考えたけど、その性格じゃ恋人がいないのも頷けるね」

 陽菜は咄嗟とっさに言葉を返せなかった。
 連絡先を教えなかっただけで、ここまで言われるなんて。
 そんな陽菜の様子に多少溜飲りゅういんが下がったのか、男性はシャンパングラスを片手ににんまりと笑う。

「どう? 教える気になった?」
(そんなこと言う人に、教えるわけないじゃない!)

 いくら恋愛下手だって、こんな男はまっぴらごめんだ。呆れた陽菜はその場を離れようとする。しかしあろうことか、男性は陽菜の手を握って引き止めた。

「なっ……!?」
「返事、聞いてないよ?」

 ぞくり、と陽菜の背筋に悪寒おかんが走る。さすがにこれは、ない。
 陽菜はそれまで浮かべていた笑みを消して、手を振り払おうとする。そこに、さっと一人の男性が割り込んできた。

「――失礼」

 りんとした声が陽菜の耳に飛び込む。

「先ほど、こちらを落としませんでしたか?」

 彼はハンカチを差し出し、そう陽菜に問いかけた。
 陽菜は何も言えなかった。彼の背後で医者だというあの男性が不快そうに抗議しているけれど、その声はやけに遠い。

(嘘、でしょう……?)

 声をかけてきた男性が白いハンカチを陽菜に手渡そうとする。

「なんだ、君は!?」

 不意に医師の男性がくいっとその人の肩を引いた。すると彼は「おっと」とやけに大げさに体を傾ける。その拍子にグラスの中身が少しだけハンカチにかかった。
 それは、どこから見ても陽菜の持ち物ではない。それなのに彼は陽菜の肩をたたく。

「大変だ、すぐに汚れを落とさないと。申し訳ありませんが、一緒に来ていただけますか?」

 彼は陽菜だけに見えるようにウインクをした。
 ――話を合わせて。
 そう、言っている気がする。

「はい!」

 陽菜の返事にその人は満足そうに小さく頷き、腰にそっと手を添えてくる。そのまま陽菜をともなって歩き始めた。けれど、医師の彼が「おい!」と二人を止める。

「あなたは振り返らないでいい、俺に任せて」

 そう、彼は陽菜の耳元でささやき、振り返った。

「何か?」

 その時、彼がどんな表情をしていたか、陽菜には分からない。しかし医師は「ひっ」と引きつった声を出した。

「お話がないなら、失礼してもよろしいですか?」

 彼の言葉に、それまでの勢いが嘘だったかのように医師が身を引く。

「行きましょう」

 彼に連れられた陽菜はレストランを出る。そして店から出た直後、腰に添えられていた手は離れた。まるで、あの日のバスと同じ……
 陽菜を助けてくれた男性は、あのバスの彼だったのだ。

(本当に……?)

 嘘、どうして、信じられない。そんな心の声が陽菜の頭を一気にかけめぐる。

「大丈夫?」

 陽菜はろくに返事もできず、ただ、彼に視線を奪われていた。
 触れられていた腰がまだ熱を持っている気がする。
 バスの車内で横に並ぶのではない。正面の、すぐ目の前にあの人の顔がある。
 それはまるで白昼夢はくちゅうむのようで、陽菜はひたすらほうけてしまった。彼はその様子を違う意味にとらえたらしい。

「あまり酔っているふうには見えなかったけど、本当は気持ち悪い?」
「え……?」
「それとも連れ出されて嫌だった……とか?」

 彼は少しだけ悲しそうに眉を下げる。
 ――可愛い。
 瞬間的にそう思った。
 彼はもともと優しげな顔立ちをしているが、その表情に、陽菜自身も意識したことのなかった母性が大いにくすぐられる。

「あなたが困っているように感じたから、つい。……迷惑でしたら謝ります」
「そんなことありません!」

 思わず大きな声を出してしまい、慌てて口をつぐむ。迷惑だなんて、そんなふうに誤解されるのは嫌だ。
 片手をそっと胸にあてて深呼吸をすると、改めて彼と向かい合う。

「……そんなこと、ありません。あなたがおっしゃったとおり少し困っていたので、その……とても助かりました」

 陽菜は感謝の気持ちを込めて深く頭を下げる。
 今、自分はどんな顔をしているだろう。真っ赤になっていないだろうか、髪は乱れていないだろうか。そんなことばかり気になってしまう。
 少しでも想いを伝えたくて、陽菜は顔を上げ、できる限りの笑みを浮かべる。
 すると彼は一瞬目を見張った後、穏やかに、「なら良かった」と微笑んだのだった。
 それはあの日――バスで『どういたしまして』と言った時と同じくらいの破壊力だ。

(やっぱり、若いからかしら)

 年下特有の無邪気さ――可愛らしさに加えて、そこはかとなくただよう色気に頭の奥がくらくらする。

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