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1巻
1-3
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なぜ四年前、あんなにも急に日本を発ったのか。いったいいつから美琴を嫌っていたのか……今も、嫌いなのか。でも今はそれらよりもまず、聞かなければならないことがある。
「どうして、拓海がここにいるの?」
美琴の問いに拓海は僅かに眉を寄せる。
「美琴は今日、なんて言われてここに来た?」
その懐かしい仕草に胸が疼きながらも、美琴は口を開いた。
「お見合いだ、って」
「その認識で間違いない。その見合い相手は、俺だ」
「……ごめんなさい、ちょっと待って」
眩暈がしそうになる。美琴が動揺していると、拓海は更に眉根を寄せた。
「本当に何も知らされていないのか。……あのクソジジイ」
拓海は口汚く吐き捨てる。先ほど重蔵の前で見せていた態度とはまるで違った。
「俺は、兄貴の代わりとしてここにいる」
息を呑む美琴に、拓海は淡々と続けた。
「ジジイが柊の跡継ぎに望む条件は、あらゆる面で『優秀』であることだ。学歴、生まれ、性格。どれをとっても文句がつけられないような人間。その点、兄貴は全ての条件に当てはまっていた。九条家の長男で、優秀で、美琴と年齢も近い。だからジジイは兄貴をお前の婚約者にした」
しかし拓海は駆け落ちした。何もかもを捨てて、たった一人の女性を選んだのだ。
「まさか兄貴がそんな思い切ったことをするとは思わなかったよ。昔からあの人は、絵に描いたような優等生だったからな」
拓海は淡々と続ける。
「ジジイは兄貴と同条件の男を探したけど、そんな奴なかなか見つかるもんじゃない。そこで白羽の矢が立ったのが、俺だ。妾腹とはいえ、俺も九条の人間だからな。光臣がジジイに打診して、結果的に俺が選ばれた」
光臣。拓海と貴文の父親で、九条家の現当主だ。
「お祖父様が、拓海を……?」
「疑うのは分かる。ジジイは昔から俺が大嫌いだったからな。でも俺以上に条件が合う男がいなかったんだから仕方ない」
信じられないけれど、話は分かった。拓海がお見合い相手なのは間違いないだろう。だからと言って、拓海がこの話を受けるかは別の話。彼は、重蔵に頼まれてここにいるだけだ――そう考えた時、ふと先ほどの拓海と重蔵の会話を思い出す。
『このまま話を進めても構わないな?』
『もちろんです』
あの言い方はまるで、拓海が結婚を承諾したようだった。しかし頭に浮かんだ予想を美琴はすぐに打ち消す。
「……拓海は、この話を断ったんだよね?」
「さっき言った通り、俺は見合い相手として今日ここに来た。この話は既に決定事項と思ってもらっていい。恨むなら、馬鹿な兄貴を恨んでくれ」
どうして。拓海は美琴が嫌いなはず。二度と顔を見たくないと、そう言ったのは彼自身なのに。
(私と拓海が、結婚……?)
ずっと好きだった人。
本当なら喜ぶべきことなのに――嬉しいと思えないのは、分からないことが多すぎるからだ。
「仕事は……? 今は、フォトグラファーの仕事をしてるんだよね?」
一番気になったのはそれだった。拓海は、写真家として活躍しているはずだ。世界中を飛び回って、ありとあらゆる景色を写すのが彼の仕事。こんなところにいるべき人ではない。それなのに、なぜ。
(まさか)
そういえば重蔵は、「写真家をしていた」と過去形で話してはいなかったか。
胸がざわめく。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。青ざめる美琴に、拓海は言った。
「フォトグラファーの仕事は、辞めた」
予感は、的中した。
「どうして……辞める必要なんて、どこにも――」
「あったんだよ。それが、この結婚の条件だから」
「条件……?」
美琴は震える声で問う。
「お前との結婚は、柊商事の社長になることを意味する。ジジイは柊グループを背負う人間が二足の草鞋を履くなんて許せないんだろう。『写真なんて下らん、趣味で十分だ』と言われたくらいだからな」
拓海の表情が陰る。それだけで彼にとって写真がいかに重要か分かった。
「……駄目だよ。拓海、写真が好きなんだよね? 海外ではどんどん評価が上がってるって貴文さんに聞いたよ。それなのに辞めるなんて、そんな……」
「それはできない。一度引き受けたことを反故にしたら、ジジイは何をするか分からない。元いた会社の連中に迷惑がかかるようなことはしたくないんだ」
美琴ははっとした。もしも拓海が断った場合、重蔵は彼が勤めていた会社に圧力をかけるかもしれない。そうなれば、同僚や友人にも被害が及ぶ。だから、拓海は帰国した――?
(私のせいだ)
拓海も重蔵も、今回の責任は駆け落ちした貴文にあると思っている。
確かにそれは間違いではないだろう。しかし美琴が貴文に手を貸さなければ、駆け落ちの成功率は格段に下がったはず。つまり美琴は、彼らの共犯者だ。それが大好きな人の夢を奪うことに繋がるなんて……彼の周囲にまで影響を及ぼすなんて、思いもしなかったのだ。
「拓海」
震える声で好きな人の名前を呼ぶ。
「今からでも遅くない、この話は断って」
「……美琴?」
「お祖父様のことなら私がなんとかする。全部私のせいにして構わない。どんな理由を付けてもいい、私を悪者にしてもいい。だからお願い!」
たまらず美琴は声を荒らげた。美琴のせいで拓海が夢を諦めるなんて……意思を捻じ曲げられるなんて、そんなことは絶対にあってはならない。
「私からもお祖父様に話すから……お願い、拓海」
重蔵に逆らう。そう想像しただけで身が竦むような思いがした。結果、どんな責めを受けるかは分からない。それでも構わなかった。拓海を巻き込んでしまうより、ずっといい。
(私、なんてことを)
拓海に対する申し訳なさから、じわりと目尻に涙が浮かぶ。
(……泣くな)
自分にそんな資格はないのだから、と美琴はすぐに目元を拭おうとする。すると、対面に座っていた拓海がすっと立ち上がり美琴の隣に移動し、その手を掴んだ。
「……泣くほど、俺のことが嫌いか?」
「拓海?」
「兄貴は、お前を捨てて他の女を選んだ。それでもまだ、兄貴が好きなのか?」
見下ろされた美琴ははっとする。拓海は、美琴が貴文を想って泣いていると勘違いしているのだ。
それは違う、と言いかけようとするも、拓海の自嘲がそれを遮った。
「……好きになるのも当然か。兄貴は優しくて優秀で誰からも好かれる。でも俺は、何もかもがあの人とは正反対だ。お前が俺を苦手なのも仕方ないよな」
「苦手って……拓海のことをそんな風に思ったこと、一度もないよ」
「今更」
拓海はぞっとするほど冷たく吐き捨てる。
「俺と話す時のお前はいつも緊張していた。顔は笑っているのにどこかよそよそしい。俺を見る時はいつも伏し目がちだ。うまく隠していたつもりだろうけど、俺はずっと気づいてた」
俺以外は分からなかっただろうけどな、と拓海は唇を歪める。
一方の美琴はすぐに答えを返せない。驚いたのだ。
(拓海の目には、そんな風に映っていたの……?)
緊張していたのは、ドキドキしていたから。つい目をそらしてしまったのは、拓海を見て赤らむ頬を隠したかったから。全部、拓海が好きだから。それ以上の理由なんてありはしないのに。
まさか拓海がそれを正反対の意味で捉えていたなんて、思いもしなかった。
「違うの、私は――」
「何が違う?」
その瞬間、空気が一変した。
今まで張り詰めていたそれは突如弾け、代わりに拓海の激しい怒気が空気を震わせる。誤解を解こうとする美琴の言葉を聞こうとせず、拓海は美琴の手首を握る手に力を込めた。
(怖い)
痛みで咄嗟に顔をしかめると、その拍子に堪えていた涙が美琴の頬を滑った。
「いいか。これは決まったことなんだ」
彼は挑むように美琴を見据えた。力強い瞳に射貫かれる。
「見ろ。お前と結婚するのは、俺だ」
「離して……」
美琴の懇願を拓海は無視した。それどころか自分の方に引き寄せようとする。
「いやっ!」
美琴は咄嗟に身を引いて体をよじる。その時、振り払った美琴の指先が拓海の頬をかすめた。
「っ……!」
拓海が顔を歪める。彼の頬に滲んだひっかき傷に、美琴は我に返った。すぐに謝ろうとするけれど、それよりも早く拓海の右手が美琴の顎を掴んで、くいと上げた。
「兄貴以外の男には、指一本だって触られたくないか?」
「たく、み……」
「残念だったな。今こうしてお前に触れているのは兄貴じゃない、俺だ。どうしてもそれを受け入れられないというのなら、体に教えてやるよ。――余計なことなんて、もう何も言えないように」
「んっ……!」
美琴は目を見開いた。
拓海に、唇を塞がれたのだ。
突然のことに身動きできないでいると、拓海の舌が強引に美琴の唇をこじあけた。
抵抗する間もなかった。強引に割って入った舌は、奥に引っ込もうとする美琴の舌をたやすく搦めとる。舌裏を舐め上げて口の中を暴れ回るそれに、頭がくらくらした。
(どうして、こんなことするのっ……⁉)
婚約者だった貴文は、美琴の頬に触れることすらしなかった。美琴が知っているキスといえば、親愛を表すチークキスだけだ。しかし、これは違う。
美琴の何もかもを奪うかのような激しいキスに、どう反応したらいいのか分からない。
逃げようと体をよじっても、拓海に腰をホールドされて動けない。
できるのはただ、嵐のように突然訪れたキスに耐えるだけだ。
「ふっ……ぁ……」
美琴の口から吐息が漏れる。
(やだ、こんないやらしい声っ……)
声を抑えようと唇を引き結ぼうとしても、拓海は許さなかった。絡んで、舐められて、吸われて。くちゅくちゅという音に自らの声が混じるのが、恥ずかしくてたまらない。
「美琴」
じわりと目尻に浮かんだ涙を、拓海が舐めとる。不意に終わった口づけに、美琴の体から力が抜ける。その場に座り込みそうになるのを、拓海の逞しい腕に支えられた。
咄嗟に「離して」と言いかけて――言葉を呑んだ。
(どうして、あなたがそんな目をするの)
美琴が見上げた先にある顔は、とても辛そうだった。拓海は、先ほどまで暴れていた唇をきゅっと引き結び、何かに耐えるような表情をして美琴を見下ろしている。
まるで泣くのを堪えているような、その表情。
「……やっと手に入れたんだ」
拓海は、美琴の視線から逃れるように、ぎゅっと美琴を自らの胸に抱きしめた。
「俺は兄貴が持っているものも、これから先あの人が得るものも、本当はずっと羨ましくてたまらなかった。それでも……絶対に手に入らないものを望んでも虚しいだけだと思って、諦めていた」
「た、くみ……?」
戸惑う美琴を拓海はいっそう強く抱きしめる。
「でも状況は変わった。もう諦めたりなんかしない。――美琴。俺は、お前と結婚して全てを手に入れる」
この瞬間、美琴は悟った。
なぜ拓海が夢を捨ててまで帰国し、貴文の身代わりになったのか。
なぜ美琴が破談を勧めても、頑として受け入れようとしないのか。
拓海は、柊グループが欲しいのだ。
だから、嫌いな美琴とも結婚する。美琴に拘っているのではない。
彼が求めているのは、柊における立場だけ。
全てを理解した美琴の両目から再び涙が滲む。それが頬を濡らすのを、美琴は唇を噛むことでなんとか堪えた。美琴を抱きしめる拓海はそれに気づかない。だから美琴は、息を、声を殺して泣いた。
「……会わなければよかった」
たまらず漏れた言葉に、拓海は一瞬体を強張らせたが、すぐに抱く手に更に力を込めた。
その力強さに、温かさに、いっそう切なさが募る。
もう一度だけ会いたいと思った。誰かのものになる前に、一目姿を見たいと思った。
でもそれは、こんな形じゃない。
いつかもう一度会えたら、「好き」と伝えられるだろうか――そんな風に思っていた、甘えた自分。
でも、言えるはずない。
好き。そのたった二文字を、美琴は永遠に口にする機会を失った。
なぜなら美琴は、拓海の夢を奪った張本人なのだから。
「諦めろ、美琴」
まるで自らに言い聞かせるように、拓海は言った。
「もう二度と離さない。――お前は、俺の物だ」
Ⅲ
相馬拓海、十四歳。
その日、拓海はたった一人の家族である母親を見送った。
突然の病死だった。
母親は心の弱い人だったけれど、小さいながらも小料理屋を営み、女手一つで拓海を育ててくれた。父親はいない。拓海の母親は、いわゆる愛人だったのだ。
血縁上の父親にあたる男は、母が身ごもったことを知ると二度と会いに来ることはなかった。一方で男は拓海を認知した。月々の養育費の振り込みが滞ることがなかったのは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。
通帳に数字が刻まれる時だけ思い出す父親。特に会いたいと思ったことはないし、これからも会うつもりなんてなかった。しかし母の葬儀を密やかに終えたその夜、男はなんの前触れもなく訪れた。
「相馬拓海だな? 私は九条光臣。お前の父親だ」
土砂降りの夜だった。父親を名乗る男は、お付きの人間に傘を持たせて自らは一滴も濡れることなく拓海を見下ろした。
嫌な男だ。一目見てそう思った。
冷ややかな視線に威圧的なオーラ。何よりも人を見下すその態度が、気に食わない。
「……あまり母親に似ていないな」
男はいっそ呆れるほどに淡々としていた。年齢は四十代半ば頃。その顔は恐ろしく整っているのに、無表情のせいか何の感情も読み取れない。しかしそれは、相対する拓海もまた同じだった。
「そうだろうな。母さん曰く、俺はあんたに生き写しらしいから」
この男が自分の父親であることは間違いなかった。拓海は、それを事実として受け止める。否定するには、自分と男の顔はあまりに似ていたのだ。
数十年後には自分はこんな顔になるのだろう。まるで未来の自分を見ているような気持ち悪い感覚だった。この男と会うのはこれが初めてだが、自分と父親が似ていることは、こうして実際会わなくても知っていた。「聞いていた」と言っていい。
なぜなら拓海は、生まれた時から子守歌代わりに言われてきたのだから。
『あなたはお父さんに本当に似ているわ。まるで光臣さんが傍にいるみたい』
『あなたのお父さんはとても素敵な方なの。拓海も光臣さんみたいな人になるのよ』
母は拓海に何千回、何万回と父親について話して聞かせた。
父親は九条家という由緒正しい家柄の人間であること。
小料理屋を営む母とは客として出会い、恋に落ちて拓海が生まれたこと。
会いに来ないのは本妻が離婚に応じないからで、離婚が成立すればきっと迎えに来てくれること……
離婚については母の願望にすぎないことは、幼心にも理解していた。
本当に迎えに来るつもりがあるのなら、一度も会いに来ないのはおかしい。
しかし光臣を異常なまでに愛した母は、それを認めなかった。
母は、子供を儲けておきながら一度も姿を見せない男を病的なまでに想い、焦がれ、心を病んだ。そしていつか迎えに来てくれると信じたまま、死んだのだ。
母は息子に愛した男の幻影を見ていた。母にとっての拓海は、九条光臣の代わりだったのだ。
その本物が今、目の前にいる。
初めて会う実の父親。しかし会えた喜びはもちろん、感動なんて欠片もない。
「今更何の用だ。気まぐれで来たなら今すぐ帰れ。あんたなんか、塩をまく価値もない」
愛人が妊娠したと知るなりすぐに切り捨てるような男だ。
十四年も会っていない女が死んだと知ったところで弔いに来るとも思えない。
「随分と良い性格に育ったものだな。だが今後は控えるように。今まではどうだったか知らないが、九条を名乗る以上は父親に対してそんな口の利き方をするなど、金輪際許さない」
「……九条を名乗る? いきなり来て何言ってんだ、あんた」
「お前を九条家に迎え入れると言っている。手続きは全てこちらで整えよう。学校は転校することになる。明日迎えをやるからそのつもりで準備をしておくように」
怒りを通り越して、もはや理解不能だった。
「引き取ってほしいなんて誰が言った? 大体、今日まで一度も会ったことのない父親を頼ろうなんて初めから思ってない。あんたには何も期待していない。十四年間放っておいたんだ、これからもそうすればいいだろう。俺は一人で生きていく。あんたに会うのは、これが最初で最後だ」
憐れみなんかいらない。分かったらさっさと帰れ――そう言った拓海を、光臣は鋭く睨む。
「勘違いするな。私はお前に命令しているんだ。お前はただ素直に頷けばいい」
「……は?」
この男は、どこまで偉そうなのか。
「あんたにそんなこと言う権利はない」
「あるんだよ、私には。お前の父親だからな」
「ふざけんな、今更父親ヅラするつもりか⁉」
ついに我慢できずに声を荒らげる。しかし光臣は不愉快そうに眉根を寄せるだけだ。
「いいか。会ったことがあろうとなかろうと、認知した以上、私はお前の父親だ。そしてお前は未成年。父親の私がお前を養育するのは当然の流れだろう。大体、『一人で生きていく』だと? 笑わせるな、義務教育も終えていない十四歳の子供がどうやって生きていくつもりだ」
「そんなのいくらでも方法はある! 学校なんか行かないで働いたって構わない!」
昔から実年齢より上に見られることが多かったし、中学入学の頃には高校生に何度も間違われた。年齢をごまかして働けばいいと主張する拓海を、光臣は「馬鹿なことを」と一蹴する。
「私の息子が中卒なんてありえん。先ほども言っただろう。お前には然るべき学校を出てもらう。同じことを何度も言わせるな。無駄話をするのは好きではない」
あまりの横暴さに反論の言葉さえ浮かばない。呆れと怒りが入り混じり、呆然と目の前の男を見る。
拓海の沈黙を肯定と捉えたのか、光臣は反論を許さない声色で淡々と続ける。
「お前には何不自由ない生活を約束しよう。希望は最大限叶えるし、欲しいものがあれば何でも与える。ただ一つ、九条の家以外はな」
「……どういう意味だ」
九条家に迎えると言いながら家は与えないなんて、意味が分からない。
「お前は一応私の息子だから、九条の姓は与える。しかし、九条家は他の息子たちの物だ。兄の貴文と弟の礼。貴文は十五歳、礼は二歳になる。家を継ぐのは彼らであって、お前ではない」
一歳年上の兄と一回りも年の離れた弟。どうやら自分には二人の兄弟がいるらしい。そんなことすら拓海は知らなかった。それにもかかわらず、光臣は全てが当然のように話し続ける。
「お前には九条の名に相応しい教養を身に付けてもらう。いずれは貴文の手足になり、礼を支える存在になれ。お前は息子たちのスペアだ。それさえ理解できれば、後は自由にすればいい」
会話にならない。同じ言語を話しているのに、まるで通じていないような気持ち悪さ。
拓海がそう感じるのも仕方ないことだった。
目の前の男は、拓海を同じ人間としてではなく、ただの道具として見ているのだから。
「話は以上だ」
言って光臣は背中を向けて出て行った。
「待っ……!」
拓海は靴も履かずに、すぐに後を追いかける。しかし光臣はちらりとも振り返らない。彼を乗せた黒塗りの車は拓海を無視して遠ざかっていった。
「なんなんだよ……勝手なことばっか言ってんじゃねえよ!」
全身を雨に打たれながら拓海は叫ぶ。しかしその声は雨音にかき消され、悔しさのあまり滲んだ涙もまた雨に溶けて消えた。
――怒りで体がどうにかなってしまいそうだ。
突然現れた父親。奴は、過去の愛人とはいえ、悔やみの言葉一つ口にしなかった。一方的に拓海を引き取ると告げ、一方的に拓海の将来を決めつけた。名門の姓と裕福な暮らしを与えるから、母の違う兄弟に尽くせと言われた。
それは、餌と住処をやる代わりに従えということだ。
そんなの、飼い犬と一緒じゃないか。
(ふざけるな)
母は、光臣の愛人となったことで実家に縁を切られた。そのため拓海は相馬の人間と一度も会ったことがない。身よりもなく天涯孤独になった拓海は、児童養護施設に入所する予定だった。しかし父親が引き取る意思を示している以上、それはなくなったと考えていい。
十四歳の子供が一人で生きていけるほど現実は甘くないことは、拓海も理解している。
結局は、あの男を頼る以外にないのだということも。
(だからって、誰が言いなりになんてなるもんか)
全身ずぶ濡れになりながら、十四歳の少年は自身に固く誓う。
(利用してやる)
与えられるものは全て受け取る。
教育も環境も全てを自分の血肉にして、「九条に相応しい人間」とやらになってやろう、でも。
(絶対に、あいつの言う通りになんかなってやるものか)
どんな形でもいい。あの男に自分の存在を認めさせてやるのだ。光臣の望み通り九条家の奴隷になんてならない。何としても九条で自分の立場を確立してみせる。
そして明朝。大層立派な車で迎えはやってきた。来たのは運転手ただ一人。光臣の姿はない。
運転手は拓海の荷物がボストンバッグ一つであることに驚いたようだった。
彼は、必要なものは全て九条の家に運ぶと言ってくれたけれど、断った。
大切なものは全てバッグに詰め込んである。
擦り切れるほど読み込んだ大好きな写真家の風景画集と、カメラが二つ。
一つは、小遣いを貯めて買ったカメラ。そしてもう一つは、小学生の頃に母に買ってもらったポラロイドカメラだ。性能で言えば玩具みたいなそれを、拓海はどうしても捨てることができなかった。
それらが入ったバッグを手に、拓海は車に乗り込んだ。
こうして拓海は、「九条拓海」になったのだった。
◇―*◆*―◇
『今後のことについてはまた連絡する。……逃げようなんて無駄なことは考えるなよ』
激しいキスの後、崩れ落ちそうになった美琴に、新しい婚約者は冷ややかに言い放った。一方の美琴は返事すらできなかった。
(一人になりたい)
そう思ったのを最後に美琴は気を失った。
思いがけない再会と望まない婚約。
拓海の夢を奪ってしまったことへの罪悪感。そして……無理やり奪われたファーストキス。
突然自分の身に降りかかったそれらに、体も心もついていけなかったのだ。
それから後のことはほとんど覚えていない。自宅へは拓海が送ってくれたらしい。
夜中に一度だけ目を覚ましたけれど、瞼を閉じればすぐに睡魔に襲われた。体が考えることを拒否したのかもしれない。
その日、美琴は泥のように眠った。
「どうして、拓海がここにいるの?」
美琴の問いに拓海は僅かに眉を寄せる。
「美琴は今日、なんて言われてここに来た?」
その懐かしい仕草に胸が疼きながらも、美琴は口を開いた。
「お見合いだ、って」
「その認識で間違いない。その見合い相手は、俺だ」
「……ごめんなさい、ちょっと待って」
眩暈がしそうになる。美琴が動揺していると、拓海は更に眉根を寄せた。
「本当に何も知らされていないのか。……あのクソジジイ」
拓海は口汚く吐き捨てる。先ほど重蔵の前で見せていた態度とはまるで違った。
「俺は、兄貴の代わりとしてここにいる」
息を呑む美琴に、拓海は淡々と続けた。
「ジジイが柊の跡継ぎに望む条件は、あらゆる面で『優秀』であることだ。学歴、生まれ、性格。どれをとっても文句がつけられないような人間。その点、兄貴は全ての条件に当てはまっていた。九条家の長男で、優秀で、美琴と年齢も近い。だからジジイは兄貴をお前の婚約者にした」
しかし拓海は駆け落ちした。何もかもを捨てて、たった一人の女性を選んだのだ。
「まさか兄貴がそんな思い切ったことをするとは思わなかったよ。昔からあの人は、絵に描いたような優等生だったからな」
拓海は淡々と続ける。
「ジジイは兄貴と同条件の男を探したけど、そんな奴なかなか見つかるもんじゃない。そこで白羽の矢が立ったのが、俺だ。妾腹とはいえ、俺も九条の人間だからな。光臣がジジイに打診して、結果的に俺が選ばれた」
光臣。拓海と貴文の父親で、九条家の現当主だ。
「お祖父様が、拓海を……?」
「疑うのは分かる。ジジイは昔から俺が大嫌いだったからな。でも俺以上に条件が合う男がいなかったんだから仕方ない」
信じられないけれど、話は分かった。拓海がお見合い相手なのは間違いないだろう。だからと言って、拓海がこの話を受けるかは別の話。彼は、重蔵に頼まれてここにいるだけだ――そう考えた時、ふと先ほどの拓海と重蔵の会話を思い出す。
『このまま話を進めても構わないな?』
『もちろんです』
あの言い方はまるで、拓海が結婚を承諾したようだった。しかし頭に浮かんだ予想を美琴はすぐに打ち消す。
「……拓海は、この話を断ったんだよね?」
「さっき言った通り、俺は見合い相手として今日ここに来た。この話は既に決定事項と思ってもらっていい。恨むなら、馬鹿な兄貴を恨んでくれ」
どうして。拓海は美琴が嫌いなはず。二度と顔を見たくないと、そう言ったのは彼自身なのに。
(私と拓海が、結婚……?)
ずっと好きだった人。
本当なら喜ぶべきことなのに――嬉しいと思えないのは、分からないことが多すぎるからだ。
「仕事は……? 今は、フォトグラファーの仕事をしてるんだよね?」
一番気になったのはそれだった。拓海は、写真家として活躍しているはずだ。世界中を飛び回って、ありとあらゆる景色を写すのが彼の仕事。こんなところにいるべき人ではない。それなのに、なぜ。
(まさか)
そういえば重蔵は、「写真家をしていた」と過去形で話してはいなかったか。
胸がざわめく。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。青ざめる美琴に、拓海は言った。
「フォトグラファーの仕事は、辞めた」
予感は、的中した。
「どうして……辞める必要なんて、どこにも――」
「あったんだよ。それが、この結婚の条件だから」
「条件……?」
美琴は震える声で問う。
「お前との結婚は、柊商事の社長になることを意味する。ジジイは柊グループを背負う人間が二足の草鞋を履くなんて許せないんだろう。『写真なんて下らん、趣味で十分だ』と言われたくらいだからな」
拓海の表情が陰る。それだけで彼にとって写真がいかに重要か分かった。
「……駄目だよ。拓海、写真が好きなんだよね? 海外ではどんどん評価が上がってるって貴文さんに聞いたよ。それなのに辞めるなんて、そんな……」
「それはできない。一度引き受けたことを反故にしたら、ジジイは何をするか分からない。元いた会社の連中に迷惑がかかるようなことはしたくないんだ」
美琴ははっとした。もしも拓海が断った場合、重蔵は彼が勤めていた会社に圧力をかけるかもしれない。そうなれば、同僚や友人にも被害が及ぶ。だから、拓海は帰国した――?
(私のせいだ)
拓海も重蔵も、今回の責任は駆け落ちした貴文にあると思っている。
確かにそれは間違いではないだろう。しかし美琴が貴文に手を貸さなければ、駆け落ちの成功率は格段に下がったはず。つまり美琴は、彼らの共犯者だ。それが大好きな人の夢を奪うことに繋がるなんて……彼の周囲にまで影響を及ぼすなんて、思いもしなかったのだ。
「拓海」
震える声で好きな人の名前を呼ぶ。
「今からでも遅くない、この話は断って」
「……美琴?」
「お祖父様のことなら私がなんとかする。全部私のせいにして構わない。どんな理由を付けてもいい、私を悪者にしてもいい。だからお願い!」
たまらず美琴は声を荒らげた。美琴のせいで拓海が夢を諦めるなんて……意思を捻じ曲げられるなんて、そんなことは絶対にあってはならない。
「私からもお祖父様に話すから……お願い、拓海」
重蔵に逆らう。そう想像しただけで身が竦むような思いがした。結果、どんな責めを受けるかは分からない。それでも構わなかった。拓海を巻き込んでしまうより、ずっといい。
(私、なんてことを)
拓海に対する申し訳なさから、じわりと目尻に涙が浮かぶ。
(……泣くな)
自分にそんな資格はないのだから、と美琴はすぐに目元を拭おうとする。すると、対面に座っていた拓海がすっと立ち上がり美琴の隣に移動し、その手を掴んだ。
「……泣くほど、俺のことが嫌いか?」
「拓海?」
「兄貴は、お前を捨てて他の女を選んだ。それでもまだ、兄貴が好きなのか?」
見下ろされた美琴ははっとする。拓海は、美琴が貴文を想って泣いていると勘違いしているのだ。
それは違う、と言いかけようとするも、拓海の自嘲がそれを遮った。
「……好きになるのも当然か。兄貴は優しくて優秀で誰からも好かれる。でも俺は、何もかもがあの人とは正反対だ。お前が俺を苦手なのも仕方ないよな」
「苦手って……拓海のことをそんな風に思ったこと、一度もないよ」
「今更」
拓海はぞっとするほど冷たく吐き捨てる。
「俺と話す時のお前はいつも緊張していた。顔は笑っているのにどこかよそよそしい。俺を見る時はいつも伏し目がちだ。うまく隠していたつもりだろうけど、俺はずっと気づいてた」
俺以外は分からなかっただろうけどな、と拓海は唇を歪める。
一方の美琴はすぐに答えを返せない。驚いたのだ。
(拓海の目には、そんな風に映っていたの……?)
緊張していたのは、ドキドキしていたから。つい目をそらしてしまったのは、拓海を見て赤らむ頬を隠したかったから。全部、拓海が好きだから。それ以上の理由なんてありはしないのに。
まさか拓海がそれを正反対の意味で捉えていたなんて、思いもしなかった。
「違うの、私は――」
「何が違う?」
その瞬間、空気が一変した。
今まで張り詰めていたそれは突如弾け、代わりに拓海の激しい怒気が空気を震わせる。誤解を解こうとする美琴の言葉を聞こうとせず、拓海は美琴の手首を握る手に力を込めた。
(怖い)
痛みで咄嗟に顔をしかめると、その拍子に堪えていた涙が美琴の頬を滑った。
「いいか。これは決まったことなんだ」
彼は挑むように美琴を見据えた。力強い瞳に射貫かれる。
「見ろ。お前と結婚するのは、俺だ」
「離して……」
美琴の懇願を拓海は無視した。それどころか自分の方に引き寄せようとする。
「いやっ!」
美琴は咄嗟に身を引いて体をよじる。その時、振り払った美琴の指先が拓海の頬をかすめた。
「っ……!」
拓海が顔を歪める。彼の頬に滲んだひっかき傷に、美琴は我に返った。すぐに謝ろうとするけれど、それよりも早く拓海の右手が美琴の顎を掴んで、くいと上げた。
「兄貴以外の男には、指一本だって触られたくないか?」
「たく、み……」
「残念だったな。今こうしてお前に触れているのは兄貴じゃない、俺だ。どうしてもそれを受け入れられないというのなら、体に教えてやるよ。――余計なことなんて、もう何も言えないように」
「んっ……!」
美琴は目を見開いた。
拓海に、唇を塞がれたのだ。
突然のことに身動きできないでいると、拓海の舌が強引に美琴の唇をこじあけた。
抵抗する間もなかった。強引に割って入った舌は、奥に引っ込もうとする美琴の舌をたやすく搦めとる。舌裏を舐め上げて口の中を暴れ回るそれに、頭がくらくらした。
(どうして、こんなことするのっ……⁉)
婚約者だった貴文は、美琴の頬に触れることすらしなかった。美琴が知っているキスといえば、親愛を表すチークキスだけだ。しかし、これは違う。
美琴の何もかもを奪うかのような激しいキスに、どう反応したらいいのか分からない。
逃げようと体をよじっても、拓海に腰をホールドされて動けない。
できるのはただ、嵐のように突然訪れたキスに耐えるだけだ。
「ふっ……ぁ……」
美琴の口から吐息が漏れる。
(やだ、こんないやらしい声っ……)
声を抑えようと唇を引き結ぼうとしても、拓海は許さなかった。絡んで、舐められて、吸われて。くちゅくちゅという音に自らの声が混じるのが、恥ずかしくてたまらない。
「美琴」
じわりと目尻に浮かんだ涙を、拓海が舐めとる。不意に終わった口づけに、美琴の体から力が抜ける。その場に座り込みそうになるのを、拓海の逞しい腕に支えられた。
咄嗟に「離して」と言いかけて――言葉を呑んだ。
(どうして、あなたがそんな目をするの)
美琴が見上げた先にある顔は、とても辛そうだった。拓海は、先ほどまで暴れていた唇をきゅっと引き結び、何かに耐えるような表情をして美琴を見下ろしている。
まるで泣くのを堪えているような、その表情。
「……やっと手に入れたんだ」
拓海は、美琴の視線から逃れるように、ぎゅっと美琴を自らの胸に抱きしめた。
「俺は兄貴が持っているものも、これから先あの人が得るものも、本当はずっと羨ましくてたまらなかった。それでも……絶対に手に入らないものを望んでも虚しいだけだと思って、諦めていた」
「た、くみ……?」
戸惑う美琴を拓海はいっそう強く抱きしめる。
「でも状況は変わった。もう諦めたりなんかしない。――美琴。俺は、お前と結婚して全てを手に入れる」
この瞬間、美琴は悟った。
なぜ拓海が夢を捨ててまで帰国し、貴文の身代わりになったのか。
なぜ美琴が破談を勧めても、頑として受け入れようとしないのか。
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だから、嫌いな美琴とも結婚する。美琴に拘っているのではない。
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全てを理解した美琴の両目から再び涙が滲む。それが頬を濡らすのを、美琴は唇を噛むことでなんとか堪えた。美琴を抱きしめる拓海はそれに気づかない。だから美琴は、息を、声を殺して泣いた。
「……会わなければよかった」
たまらず漏れた言葉に、拓海は一瞬体を強張らせたが、すぐに抱く手に更に力を込めた。
その力強さに、温かさに、いっそう切なさが募る。
もう一度だけ会いたいと思った。誰かのものになる前に、一目姿を見たいと思った。
でもそれは、こんな形じゃない。
いつかもう一度会えたら、「好き」と伝えられるだろうか――そんな風に思っていた、甘えた自分。
でも、言えるはずない。
好き。そのたった二文字を、美琴は永遠に口にする機会を失った。
なぜなら美琴は、拓海の夢を奪った張本人なのだから。
「諦めろ、美琴」
まるで自らに言い聞かせるように、拓海は言った。
「もう二度と離さない。――お前は、俺の物だ」
Ⅲ
相馬拓海、十四歳。
その日、拓海はたった一人の家族である母親を見送った。
突然の病死だった。
母親は心の弱い人だったけれど、小さいながらも小料理屋を営み、女手一つで拓海を育ててくれた。父親はいない。拓海の母親は、いわゆる愛人だったのだ。
血縁上の父親にあたる男は、母が身ごもったことを知ると二度と会いに来ることはなかった。一方で男は拓海を認知した。月々の養育費の振り込みが滞ることがなかったのは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。
通帳に数字が刻まれる時だけ思い出す父親。特に会いたいと思ったことはないし、これからも会うつもりなんてなかった。しかし母の葬儀を密やかに終えたその夜、男はなんの前触れもなく訪れた。
「相馬拓海だな? 私は九条光臣。お前の父親だ」
土砂降りの夜だった。父親を名乗る男は、お付きの人間に傘を持たせて自らは一滴も濡れることなく拓海を見下ろした。
嫌な男だ。一目見てそう思った。
冷ややかな視線に威圧的なオーラ。何よりも人を見下すその態度が、気に食わない。
「……あまり母親に似ていないな」
男はいっそ呆れるほどに淡々としていた。年齢は四十代半ば頃。その顔は恐ろしく整っているのに、無表情のせいか何の感情も読み取れない。しかしそれは、相対する拓海もまた同じだった。
「そうだろうな。母さん曰く、俺はあんたに生き写しらしいから」
この男が自分の父親であることは間違いなかった。拓海は、それを事実として受け止める。否定するには、自分と男の顔はあまりに似ていたのだ。
数十年後には自分はこんな顔になるのだろう。まるで未来の自分を見ているような気持ち悪い感覚だった。この男と会うのはこれが初めてだが、自分と父親が似ていることは、こうして実際会わなくても知っていた。「聞いていた」と言っていい。
なぜなら拓海は、生まれた時から子守歌代わりに言われてきたのだから。
『あなたはお父さんに本当に似ているわ。まるで光臣さんが傍にいるみたい』
『あなたのお父さんはとても素敵な方なの。拓海も光臣さんみたいな人になるのよ』
母は拓海に何千回、何万回と父親について話して聞かせた。
父親は九条家という由緒正しい家柄の人間であること。
小料理屋を営む母とは客として出会い、恋に落ちて拓海が生まれたこと。
会いに来ないのは本妻が離婚に応じないからで、離婚が成立すればきっと迎えに来てくれること……
離婚については母の願望にすぎないことは、幼心にも理解していた。
本当に迎えに来るつもりがあるのなら、一度も会いに来ないのはおかしい。
しかし光臣を異常なまでに愛した母は、それを認めなかった。
母は、子供を儲けておきながら一度も姿を見せない男を病的なまでに想い、焦がれ、心を病んだ。そしていつか迎えに来てくれると信じたまま、死んだのだ。
母は息子に愛した男の幻影を見ていた。母にとっての拓海は、九条光臣の代わりだったのだ。
その本物が今、目の前にいる。
初めて会う実の父親。しかし会えた喜びはもちろん、感動なんて欠片もない。
「今更何の用だ。気まぐれで来たなら今すぐ帰れ。あんたなんか、塩をまく価値もない」
愛人が妊娠したと知るなりすぐに切り捨てるような男だ。
十四年も会っていない女が死んだと知ったところで弔いに来るとも思えない。
「随分と良い性格に育ったものだな。だが今後は控えるように。今まではどうだったか知らないが、九条を名乗る以上は父親に対してそんな口の利き方をするなど、金輪際許さない」
「……九条を名乗る? いきなり来て何言ってんだ、あんた」
「お前を九条家に迎え入れると言っている。手続きは全てこちらで整えよう。学校は転校することになる。明日迎えをやるからそのつもりで準備をしておくように」
怒りを通り越して、もはや理解不能だった。
「引き取ってほしいなんて誰が言った? 大体、今日まで一度も会ったことのない父親を頼ろうなんて初めから思ってない。あんたには何も期待していない。十四年間放っておいたんだ、これからもそうすればいいだろう。俺は一人で生きていく。あんたに会うのは、これが最初で最後だ」
憐れみなんかいらない。分かったらさっさと帰れ――そう言った拓海を、光臣は鋭く睨む。
「勘違いするな。私はお前に命令しているんだ。お前はただ素直に頷けばいい」
「……は?」
この男は、どこまで偉そうなのか。
「あんたにそんなこと言う権利はない」
「あるんだよ、私には。お前の父親だからな」
「ふざけんな、今更父親ヅラするつもりか⁉」
ついに我慢できずに声を荒らげる。しかし光臣は不愉快そうに眉根を寄せるだけだ。
「いいか。会ったことがあろうとなかろうと、認知した以上、私はお前の父親だ。そしてお前は未成年。父親の私がお前を養育するのは当然の流れだろう。大体、『一人で生きていく』だと? 笑わせるな、義務教育も終えていない十四歳の子供がどうやって生きていくつもりだ」
「そんなのいくらでも方法はある! 学校なんか行かないで働いたって構わない!」
昔から実年齢より上に見られることが多かったし、中学入学の頃には高校生に何度も間違われた。年齢をごまかして働けばいいと主張する拓海を、光臣は「馬鹿なことを」と一蹴する。
「私の息子が中卒なんてありえん。先ほども言っただろう。お前には然るべき学校を出てもらう。同じことを何度も言わせるな。無駄話をするのは好きではない」
あまりの横暴さに反論の言葉さえ浮かばない。呆れと怒りが入り混じり、呆然と目の前の男を見る。
拓海の沈黙を肯定と捉えたのか、光臣は反論を許さない声色で淡々と続ける。
「お前には何不自由ない生活を約束しよう。希望は最大限叶えるし、欲しいものがあれば何でも与える。ただ一つ、九条の家以外はな」
「……どういう意味だ」
九条家に迎えると言いながら家は与えないなんて、意味が分からない。
「お前は一応私の息子だから、九条の姓は与える。しかし、九条家は他の息子たちの物だ。兄の貴文と弟の礼。貴文は十五歳、礼は二歳になる。家を継ぐのは彼らであって、お前ではない」
一歳年上の兄と一回りも年の離れた弟。どうやら自分には二人の兄弟がいるらしい。そんなことすら拓海は知らなかった。それにもかかわらず、光臣は全てが当然のように話し続ける。
「お前には九条の名に相応しい教養を身に付けてもらう。いずれは貴文の手足になり、礼を支える存在になれ。お前は息子たちのスペアだ。それさえ理解できれば、後は自由にすればいい」
会話にならない。同じ言語を話しているのに、まるで通じていないような気持ち悪さ。
拓海がそう感じるのも仕方ないことだった。
目の前の男は、拓海を同じ人間としてではなく、ただの道具として見ているのだから。
「話は以上だ」
言って光臣は背中を向けて出て行った。
「待っ……!」
拓海は靴も履かずに、すぐに後を追いかける。しかし光臣はちらりとも振り返らない。彼を乗せた黒塗りの車は拓海を無視して遠ざかっていった。
「なんなんだよ……勝手なことばっか言ってんじゃねえよ!」
全身を雨に打たれながら拓海は叫ぶ。しかしその声は雨音にかき消され、悔しさのあまり滲んだ涙もまた雨に溶けて消えた。
――怒りで体がどうにかなってしまいそうだ。
突然現れた父親。奴は、過去の愛人とはいえ、悔やみの言葉一つ口にしなかった。一方的に拓海を引き取ると告げ、一方的に拓海の将来を決めつけた。名門の姓と裕福な暮らしを与えるから、母の違う兄弟に尽くせと言われた。
それは、餌と住処をやる代わりに従えということだ。
そんなの、飼い犬と一緒じゃないか。
(ふざけるな)
母は、光臣の愛人となったことで実家に縁を切られた。そのため拓海は相馬の人間と一度も会ったことがない。身よりもなく天涯孤独になった拓海は、児童養護施設に入所する予定だった。しかし父親が引き取る意思を示している以上、それはなくなったと考えていい。
十四歳の子供が一人で生きていけるほど現実は甘くないことは、拓海も理解している。
結局は、あの男を頼る以外にないのだということも。
(だからって、誰が言いなりになんてなるもんか)
全身ずぶ濡れになりながら、十四歳の少年は自身に固く誓う。
(利用してやる)
与えられるものは全て受け取る。
教育も環境も全てを自分の血肉にして、「九条に相応しい人間」とやらになってやろう、でも。
(絶対に、あいつの言う通りになんかなってやるものか)
どんな形でもいい。あの男に自分の存在を認めさせてやるのだ。光臣の望み通り九条家の奴隷になんてならない。何としても九条で自分の立場を確立してみせる。
そして明朝。大層立派な車で迎えはやってきた。来たのは運転手ただ一人。光臣の姿はない。
運転手は拓海の荷物がボストンバッグ一つであることに驚いたようだった。
彼は、必要なものは全て九条の家に運ぶと言ってくれたけれど、断った。
大切なものは全てバッグに詰め込んである。
擦り切れるほど読み込んだ大好きな写真家の風景画集と、カメラが二つ。
一つは、小遣いを貯めて買ったカメラ。そしてもう一つは、小学生の頃に母に買ってもらったポラロイドカメラだ。性能で言えば玩具みたいなそれを、拓海はどうしても捨てることができなかった。
それらが入ったバッグを手に、拓海は車に乗り込んだ。
こうして拓海は、「九条拓海」になったのだった。
◇―*◆*―◇
『今後のことについてはまた連絡する。……逃げようなんて無駄なことは考えるなよ』
激しいキスの後、崩れ落ちそうになった美琴に、新しい婚約者は冷ややかに言い放った。一方の美琴は返事すらできなかった。
(一人になりたい)
そう思ったのを最後に美琴は気を失った。
思いがけない再会と望まない婚約。
拓海の夢を奪ってしまったことへの罪悪感。そして……無理やり奪われたファーストキス。
突然自分の身に降りかかったそれらに、体も心もついていけなかったのだ。
それから後のことはほとんど覚えていない。自宅へは拓海が送ってくれたらしい。
夜中に一度だけ目を覚ましたけれど、瞼を閉じればすぐに睡魔に襲われた。体が考えることを拒否したのかもしれない。
その日、美琴は泥のように眠った。
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