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1巻
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プロローグ
「拓海!」
空港の出発ロビーに声が響く。行き交う人々は一瞬、足を止めて声の方をちらりと見る。しかしすぐ興味を失ったように各々の方向へと歩き出す。
そんな中ただ一人、そこに留まる人がいた。
「……美琴?」
遠く離れているから声は聞こえない。しかし柊美琴には、彼の唇が自分を呼んだことが分かった。
どんなに沢山の人がいても、彼が――九条拓海が人込みに紛れることはない。
拓海は、そこにいるだけで視線を集める。
美琴よりも頭一つ分以上高い身長。一見すらりとしているけれど、実際はとても引き締まっている体。後ろへ緩やかになでつけた黒髪に、吸い込まれそうな瞳。すっと通った鼻筋、形の良い唇。
全てが完璧な比率で配置されている、奇跡のように美しい男。
子供の頃から一緒にいた、四歳年上の幼馴染。
「どうしてこんなところに……今日は卒業式だろ?」
拓海は、制服姿の美琴を戸惑ったように見下ろす。彼の言う通り、今日は美琴の高校の卒業式だった。とはいえ小学校から大学までエスカレーター式の学校だから、メンバーはほとんど変わらない。特に感慨深くなることもなく、粛々と式を終えていつも通り帰宅した。しかし――
「お祖父様から、拓海が留学するって聞いたの。……今日の便でアメリカに発つって」
祖父から拓海の留学を聞かされた瞬間、美琴は鞄を投げ捨て家を飛び出した。祖父の制止する声が後ろから聞こえたけれど、構わず送迎の車に飛び乗り、運転手に空港に向かうように頼んだ。
ここに来るまでのことは、ほとんど覚えていない。それほど夢中だったのだ。
空港で彼の後ろ姿を見つけた瞬間、美琴は心底安堵した。しかし振り返った彼の右手にスーツケースを見つけてしまった今、その安堵感は消え去った。
目の前の光景は、彼がこれから旅立つことを告げている。
「留学なんて、嘘だよね。旅行に行くだけだよね?」
それでも信じたくない美琴は縋るように聞いた。しかし彼は、美琴が抱いた微かな希望を簡単に砕く。
「重蔵様に聞いた通りだ。向こうの大学院で経営学を学ぶんだ」
「そんな……私、聞いてないよ……?」
何度も首を振る様は、まるで駄々をこねる子供のようだ。
普段の美琴なら、拓海の前でこんな醜態をさらすことは絶対になかっただろう。
美琴はずっと、大人になりたいと思っていたから。
四歳の年の差は大きい。拓海はいつだって美琴より大人で、落ち着いていて、隣に立った時の自分の子供っぽさが嫌でたまらなかった。だからこそ早く大人になりたいと思っていたのだ。
そして今日、美琴は高校を卒業した。これで少しは拓海に近づけた……そう思っていた直後に知ったまさかの留学に、「いやだ」と頭が、心が叫ぶ。
「こんなに大切なこと、どうして話してくれなかったの?」
「聞かれてないからな。それに俺たちは赤の他人だ、別に話す必要はないだろ」
切り捨てる言い方に愕然とする。他人を見るような冷たい目を向けられるのは初めてだ。
「そんなことより、結婚する時期が正式に決まったって兄貴に聞いた。……四年後、お前が大学を卒業したらすぐに籍を入れるんだ、って」
「それ、は――」
結婚。
その言葉に美琴の全身から血の気が引いていく。
(答えなきゃ)
頭では分かっているのに声が、言葉が出てこない。
拓海が話した通り、美琴は四年後に祖父の決めた婚約者と結婚する。そしてその相手は拓海ではない。血の繋がった彼の兄、九条貴文だ。しかし拓海にとっては、美琴の結婚など他人事にすぎないようだ。
(他人……?)
この時、美琴にある考えが過った。
美琴にとって拓海は唯一無二の大好きな人だ。
(じゃあ、拓海にとっての私は?)
彼にとって美琴は、兄の婚約者――他人にすぎないのか。
美琴が一方的に特別だと思っているだけで、拓海にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。
だから留学のことも話さなかった……その必要がなかったからだ。
心臓が嫌な音を立てた。反射的に目頭が熱くなる。
(泣いちゃだめ。泣いている場合じゃない)
緩みそうになる涙腺をなんとか堪えて、唇をきゅっと噛む。
「美琴」
拓海の口から次に続くだろう言葉を想像して、美琴は咄嗟に願った。
(お願い、言わないで)
どうか、それだけは。
「おめでとう」
拓海から聞きたくなかった、その言葉。
(「ありがとう」って、返さなきゃ)
なのに、喉の奥が張り付いて言葉が出ない。
好きな人に他の男性との結婚を祝われることが、こんなにも辛いなんて。
拓海は、美琴が自分を好きだなんて考えたこともないだろう。
彼が自分を女性として見ていないことは、初めから分かっていた。
彼は、美琴が拓海の兄の婚約者だから構ってくれていただけだ。それ以上の理由はない。可能性がゼロだからこそ、ひっそりと心の中で想うだけで良かった。
(……そう、思っていたのに)
想うだけでいいなんて、嘘だった。だって、「おめでとう」の一言で、こんなにも胸が痛くなる。
「兄貴なら必ずお前を幸せにしてくれる。……あの人は、本当に優しい人だから。俺を本当の弟のように扱ってくれた唯一の人だ」
凍りつく美琴に、拓海は淡々と告げる。
「何を言ってるの? 拓海と貴文さんは血の繋がった本当の兄弟じゃない」
「半分だけ、な。兄貴は正妻の子だけど、俺は愛人の子だ」
今にも儚く溶け消えてしまいそうな微笑に、胸が詰まる。
「もういいか? そろそろ行かないと乗り遅れる」
これ以上は時間の無駄だとばかりに拓海は背を向ける。美琴はその右手を咄嗟に掴んだ。
「待って!」
拓海は迷惑そうに眉を寄せる。その表情に心が折れそうになるけれど、手は放さなかった。
今手放したら二度と会えない――そんな気がしたのだ。
「帰ってくるよね。留学が終わったら、日本に戻ってくるよね……?」
懇願にも近い声で聞く美琴に、拓海は言った。
「もう、会わない」
「え……?」
「お前の顔は、二度と見たくない」
衝撃で、声が出ない。
(行かないで)
(好きなの。初めて会った時から、拓海のことが好きだった!)
ずっと秘めていた気持ち。今まさに喉元まで出かかったそれは、ついぞ発せられることはなかった。
美琴にとって拓海と彼の兄の貴文は、家族よりも近い存在だ。少なくとも美琴はそう思っていた。しかし拓海は留学話を隠していたばかりか、美琴の顔も見たくないという。
(私は、そんなに嫌われていたの……?)
堪えていた涙が一気に溢れ出る。地獄に突き落とされたようだ。
ショックと衝撃で言葉が出ない美琴は、掴んだ手を力なく離す。
自由になった拓海は今度こそ背中を向けた。
もう追いかけることは、できなかった。
美琴は止めどなく涙を流しながら、小さくなっていく背中を見送った。
Ⅰ
旧財閥の流れを組む柊グループは金融や商事、重工業などあらゆる業界に展開しており、国内でも三指に入る巨大グループだ。
現在の柊家当主の名は、柊重蔵。
齢七十五にして柊家を統べる彼を、人は「財界の化け物」と呼ぶ。
美琴は、彼のたった一人の孫娘だ。
そして旧華族でもある柊家に昔から仕えているのが、九条家である。
時代の流れと共に二つの家の形は変わったけれど、今でも両家はとても近い関係にある。
実際、柊グループ傘下のいくつかの企業のトップには九条の名が連なっている。
九条家の現当主の名は、光臣。彼には三人の息子がいた。
長男の貴文、次男の拓海、そして二人の兄と一回りも年の離れた、三男の礼。
この中で美琴の婚約者に選ばれたのは、貴文だった。
礼は美琴と年が離れすぎているし、妾腹の子である拓海は初めから選択肢になかった。
二人の婚約は、美琴が十三歳、貴文が十八歳の時に決められた。
柊家の孫娘と九条家の長男。年齢差も五歳でつり合いも取れている。
それに貴文は幼い頃から優秀だった。文武両道で全てにおいて優秀な貴文を重蔵は気に入っていた。
貴文が柊家に婿入りしても、九条家は三男の礼が継ぐから問題ない。むしろこの婚約によって、九条はいっそう柊と強い結びつきができると考えたのだ。
誰もが認める名門同士の婚約――その関係に転機が訪れたのは、美琴が大学三年生の二十一歳の時。
拓海と離れてから、三年が経過した頃だった。
◇―*◆*―◇
その日は婚約以来恒例となっていた、月に一度の九条家訪問日だった。
いつも通り客室に通され、いつも通りお茶を飲みながら他愛のない話をする。
もう十年近くも同じことを繰り返してきた。昔と違うのは、その場に拓海がいないということだけ。
今日もまた普段通りの数時間を過ごすのだろう。
漠然とそう思っていた美琴は、婚約者の口から発せられた言葉に耳を疑った。
「好きな人ができた。だから君とは結婚できない。……本当にごめん、美琴」
貴文は、秘書の女性が好きなこと、これからの人生を彼女と生きていきたいこと、そして、そのためなら全てを捨てる覚悟があることを、言葉を選びながらも美琴に伝える。
「秘書って……水谷藍子さんのこと?」
貴文は小さく頷いた。彼女のことは、美琴も知っている。貴文と一緒にいる時に何度か顔を合わせた程度だが、すらりとした長身とショートカットが印象的ないかにも仕事ができそうな女性だった。
でもまさか、二人が仕事以上の関係だったなんて――
「……いつから、彼女のことを?」
「一年前、彼女が僕の秘書になった時から。……今思えば、一目惚れだったのかもしれない」
若くして柊グループの傘下である柊商事の専務を務める貴文は、昔から女性たちの憧れの的だった。
名だたる企業の社長令嬢やモデル、果ては自社の受付嬢。
彼女たちはいずれもずば抜けた美人で、自信に満ち溢れた女性たちだった。しかし貴文には美琴という婚約者がいたし、何より過度に「女」をアピールする彼女らになびくことはなかった。
「でも、藍子はそれまで知り合ったどんな女性とも違ったんだ」
凛と伸びた背筋に化粧っ気のない、しかし端整な顔立ち。
まっすぐに貴文を見つめる瞳には邪なものなんてまるでない。幼い頃に両親を失った彼女は、バイト代と奨学金で大学に進学。更には自力で柊商事に入社し、今日まで仕事一筋で生きてきたという。
もちろん貴文に言い寄ることはなく、全く男として興味を持たれていない。それがなぜか無性に悔しくて、鉄仮面のような顔を笑わせたくて……気づけば毎日藍子のことを考えている。そして自惚れでなければ、藍子もまた同じ気持ちでいてくれると思うのだ、と。
「……まだ、彼女には貴文さんの気持ちを伝えていないの?」
「まずは美琴に全てを話してからだと思ったから、君以外の誰にも言ってない。道に外れたことをしている分、せめて筋だけは通さないと……と思ったんだ。勝手なことを言って本当に申し訳ないと思ってる。でも……美琴、お願いだ。僕との婚約を、解消してほしい」
深々と頭を垂れる姿は、断罪を待つ咎人のようだ。
この場合、突然婚約破棄を申し渡された婚約者として正しい対応はなんだろう。
絶対に嫌だと涙ながらに訴える、許さないとお茶をひっかける……しかし美琴が選んだのは、そのどれでもなかった。
「貴文さん、頭を上げて」
ゆっくりと顔を上げた彼に、美琴は静かに問う。
「婚約破棄をした後はどうするつもりなの? 私一人が頷いても、周りはきっとそうじゃない」
「そうだね。多分、誰一人として許してはくれないと思う。でも僕は何を失ってでも、彼女が欲しいんだ」
勘当されても構わない。そのためなら駆け落ちする覚悟もあるのだと、貴文は言った。
「……そんなに上手くいくかしら」
美琴の言葉に、貴文は眉根を寄せる。
「駆け落ちをするといっても、どこから情報が漏れるか分からない。そうなったら多分、お祖父様はあなたたちを絶対に許さない。藍子さんと別れさせるためなら、どんな手だって使うはず」
「たとえどんなことがあっても、藍子は僕が守るよ。そのためにできる事なら何でもするつもりだ」
その一瞬、貴文の瞳がぎらりと光る。それは、温和な彼が見せる初めての表情だった。美琴は威圧されつつ、なおも聞く。
「九条でなくなったあなたに藍子さんが守れるの? もし婚約破棄をしたら、あなたが相手にするのは私のお祖父様――柊重蔵よ」
美琴の指摘に貴文は言葉に詰まる。その表情は痛いところを突かれた、と言わんばかりだ。
「それは……」
「貴文さんがとても優秀なのは私も知ってます。それでも難しいこともあると思うの」
だから、と美琴は言いきった。
「――私も、協力します」
目を見張る貴文に、美琴は続ける。
「私にできることなんて、あなたと藍子さんの関係を黙っていることくらいだと思うけど……少なくとも、私からお祖父様に何かを言うことはありません」
貴文の戸惑いが手に取るように分かった。当然だ。他の女性と駆け落ちするのを手助けする婚約者なんて聞いたことがない。困惑する貴文を前に美琴はふっと表情を和らげる。
「私のことを疑ってる? 協力者のふりをして裏でお祖父様と繋がってるんじゃないか、って」
「それはない! 美琴を疑ったことなんてないよ。でも、さすがにどう反応したらいいのか分からない。だって、協力するって……どうして?」
怒りをぶつけられるならまだしも、協力を申し出るなんて思いもしなかったに違いない。それでも……
(私には、協力する理由がある)
ふと美琴の頭に浮かんだのは、三年前に別れた大好きな人だった。
「もしも好きな人がいて、相手も自分を想ってくれるのなら……その手は絶対、離しちゃだめだと思うから」
美琴は最後まで拓海に好きだと言えなかった。
それまでだって、「拓海が自分を好きになることはない」と思い、気持ちを伝えることはしなかったのだ。
(それだけじゃない)
貴文は誰もが認める完璧な青年だ。容姿、人柄、生まれ。非の打ちどころがない貴文に周囲は期待を寄せる。その筆頭が、彼の母親である九条倫子だ。
倫子は、貴文が愛人の子に負けないように、常に貴文が完璧であることを望んだ。そして貴文もまた、その期待に必死に応えてきたのだ。しかし彼が人知れず思い悩んでいたことを美琴は知っている。
九条家に生まれた重責。母を始めとした周囲からの過度な期待。それらを一身に受け止めてきた貴文が初めて自ら望んだのが、一人の女性だというのならば……美琴は、それを応援したい。
「美琴……君も、好きな人がいるの?」
貴文の問いに、美琴は頷いた。
「僕の知っている人?」
「……ごめんなさい。それは、聞かないで」
「君は、その人と――」
「何もないわ。ただ私が一方的に好きだっただけ。だから、貴文さんは私に謝る必要なんてないの」
貴文が藍子と出会わなければ、美琴は拓海のことを黙ったまま結婚していただろう。
そんな自分が、貴文の謝罪を受ける資格なんてないのだ。
「貴文さん。あなたと藍子さんが一緒にいるために、私にも協力させて? これはあなたたちのためじゃなく、私のためでもあるの」
「君のため?」
「私はもうその人には会えないけど……気持ちを伝えなかったことを、今でも後悔してる」
拓海が日本を発ってから、何度も考えた。
もしも美琴が「好き」と伝えていたら、結果は今と違っていただろうか、と。
何も変わらないのかもしれない。しかし胸の奥にしこりのようにある「伝えなかった」という後悔はなかっただろう。
「私は黙って諦めてしまったけど、貴文さんは違うでしょ? あなたは行動に移そうとしている。なら、上手くいってほしい。だって私は、貴文さんのことが好きなんだもの」
息を呑む貴文に、美琴は微笑む。
それは拓海に対する恋心とは違う、幼馴染としての親愛だ。それでも美琴は確かに貴文が好きだった。時に兄のように、時に友人のように。
だからこそ、彼には幸せになってほしい。
好きな人と、一緒に。
「ありがとう、美琴。……協力、してくれるかな?」
美琴はしっかりと頷いた。
「喜んで、貴文さん」
そして、一年後。
二十二歳になった美琴は、四年前に拓海を見送った時と同じ空港にいた。
あの日と違うのは、見送る相手が拓海の兄・貴文であることだ。
婚約破棄の申し出から一年。美琴は二人の駆け落ちのために微力ながらも協力してきた。
協力といっても、貴文と藍子が一緒にいるための口実になったり、場所を提供したり……とささやかなことばかりだったが、それも今日までのこと。
これから、貴文と藍子は駆け落ちをする。
表向きは、海外出張に向かう社長と秘書、そしてそれを見送る婚約者だ。しかし貴文が予定通り帰国することはない。
彼と藍子は、今後の人生の拠点を海外に選んだ。
国内での柊グループの影響力は侮れない。それは海外でも同じことだが、国内に比べれば格段に見つかる可能性は低くなるからだ。それ以上のことは、美琴は知らない。
今日の美琴の役割は、貴文と藍子を見送り「二人は確かに出国した」と証言することだ。
「ありがとう、美琴」
微笑む貴文の隣には、そっと寄り添う一人の女性がいる。はっきりとした顔立ちのショートカットの彼女の名前は、水谷藍子。貴文の秘書で、恋人だ。
「美琴さん、なんて言えばいいのか……ごめんなさい」
「頭を上げて、藍子さん。あなたは謝るようなことは何もしてない。これは全部、私がやりたくてしたことなの」
美琴の言葉に、藍子はゆっくりと顔を上げる。彼女は「ありがとうございます」と囁くように言って、今一度深く頭を垂れた。謝罪ではなくお礼のそれを、美琴は今度は笑顔で受け入れる。
傍らの貴文は、頭を上げた藍子の髪の毛を優しく撫でた。藍子はどこか恥ずかしそうに貴文を見返す。見つめ合う二人の姿は、互いを想い合う恋人そのものだ。
「お祖父様については大丈夫。ちゃんとあなたたちは出国したって証言するわ。さあ行って」
美琴が促すと、拓海は藍子から手を離して、そっと美琴の両手に自分の手を重ねた。
「美琴。こういう形にはなったけど……僕は、君と出会えて本当に良かったと思ってる。本当の妹のように、君のことを大切に想ってるよ」
「ありがとう、貴文さん。……実は私も、兄がいたらこんな感じかなって、ずっと思ってたの」
美琴はかつての婚約者の手を握り返すと、あえて悪戯っぽく笑いかけた。
もしかしたら、貴文と会うのは今日が最後かもしれない。
そう思うと寂しいけれど、胸の痛みはない。
美琴は確かに彼が好きだった。しかしその好意は親愛であり、貴文もまた同じだっただろう。
幼馴染としての情で、愛ではないのは間違いない。
なぜなら美琴は、知っているから。
胸が焼け付くほどの激しい感情を。名前を呼ばれただけで泣きたくなるくらい幸せになることを。
そして美琴がそんな感情を抱いた相手は、後にも先にも一人だけなのだから。
「さようなら、貴文さん、藍子さん。……幸せになってね」
しっかりと頷いた貴文と藍子は、最後に美琴にもう一度礼を言うと歩き始める。
大勢の人が行き交うロビーの中に、手を繋いだ二人の姿が消えていく。
(拓海)
遠ざかる二人の背中に重なったのは、四年前、涙で見送った拓海の姿だった。
拓海は自身の言葉通り、あの日以来一度も帰国していない。
以前貴文に聞いたところによると、アメリカの大学院でMBAを取得した彼は、その後会社を立ち上げたらしい。しかしその会社が軌道に乗り始めた矢先、突然退社してフォトグラファーに転身したという。
『景色を撮っているらしいよ。世界中あっちこっちを飛び回っているみたいだ。日本じゃまだあまり知られてないけど、たまに個展を開いてるようだし、海外ではそこそこ有名みたいだね』
貴文にそれを聞いた時、美琴は驚いたけれど意外ではなかった。
拓海の趣味が写真であるのは知っていた。何よりも美琴は、彼の撮る写真が好きだったのだ。
もし、いつか再会することがあれば。
あなたのことが好きでした、そう伝えることくらいは許されるだろうか。
若い頃の笑い話として打ち明けてもいいだろうか。
(きっと、迷惑だろうな)
二度と会いたくないとまで言われたのだ。そんな相手に「好きだ」なんて言われても、困惑するだけだろう。それにもしかしたら今頃、恋人がいるかもしれない。
年齢を考えたら結婚していてもおかしくはないのだ。
拓海が、結婚。
今まで何度か想像したことがあるが、そのたびに胸が痛くなって、自分の心が未だ拓海にあるのを実感する。
こんなにも引きずるなら気持ちを伝えれば良かったのに。
可能性がないから、拓海が優しいのは貴文の婚約者だから……と何もしなかったのは、美琴自身。
(私も、好きって言えば良かったのかな)
遠い異国の地にいる人を想う。
彼に嫌われているなんて知らなかった。初めからそうだったのか、何かをきっかけに嫌ったのかも分からない。そしてそれを知る機会は今後もないのだろう。
それでもなお望むのは、ただ一つ。
(……あなたに、会いたい)
「拓海!」
空港の出発ロビーに声が響く。行き交う人々は一瞬、足を止めて声の方をちらりと見る。しかしすぐ興味を失ったように各々の方向へと歩き出す。
そんな中ただ一人、そこに留まる人がいた。
「……美琴?」
遠く離れているから声は聞こえない。しかし柊美琴には、彼の唇が自分を呼んだことが分かった。
どんなに沢山の人がいても、彼が――九条拓海が人込みに紛れることはない。
拓海は、そこにいるだけで視線を集める。
美琴よりも頭一つ分以上高い身長。一見すらりとしているけれど、実際はとても引き締まっている体。後ろへ緩やかになでつけた黒髪に、吸い込まれそうな瞳。すっと通った鼻筋、形の良い唇。
全てが完璧な比率で配置されている、奇跡のように美しい男。
子供の頃から一緒にいた、四歳年上の幼馴染。
「どうしてこんなところに……今日は卒業式だろ?」
拓海は、制服姿の美琴を戸惑ったように見下ろす。彼の言う通り、今日は美琴の高校の卒業式だった。とはいえ小学校から大学までエスカレーター式の学校だから、メンバーはほとんど変わらない。特に感慨深くなることもなく、粛々と式を終えていつも通り帰宅した。しかし――
「お祖父様から、拓海が留学するって聞いたの。……今日の便でアメリカに発つって」
祖父から拓海の留学を聞かされた瞬間、美琴は鞄を投げ捨て家を飛び出した。祖父の制止する声が後ろから聞こえたけれど、構わず送迎の車に飛び乗り、運転手に空港に向かうように頼んだ。
ここに来るまでのことは、ほとんど覚えていない。それほど夢中だったのだ。
空港で彼の後ろ姿を見つけた瞬間、美琴は心底安堵した。しかし振り返った彼の右手にスーツケースを見つけてしまった今、その安堵感は消え去った。
目の前の光景は、彼がこれから旅立つことを告げている。
「留学なんて、嘘だよね。旅行に行くだけだよね?」
それでも信じたくない美琴は縋るように聞いた。しかし彼は、美琴が抱いた微かな希望を簡単に砕く。
「重蔵様に聞いた通りだ。向こうの大学院で経営学を学ぶんだ」
「そんな……私、聞いてないよ……?」
何度も首を振る様は、まるで駄々をこねる子供のようだ。
普段の美琴なら、拓海の前でこんな醜態をさらすことは絶対になかっただろう。
美琴はずっと、大人になりたいと思っていたから。
四歳の年の差は大きい。拓海はいつだって美琴より大人で、落ち着いていて、隣に立った時の自分の子供っぽさが嫌でたまらなかった。だからこそ早く大人になりたいと思っていたのだ。
そして今日、美琴は高校を卒業した。これで少しは拓海に近づけた……そう思っていた直後に知ったまさかの留学に、「いやだ」と頭が、心が叫ぶ。
「こんなに大切なこと、どうして話してくれなかったの?」
「聞かれてないからな。それに俺たちは赤の他人だ、別に話す必要はないだろ」
切り捨てる言い方に愕然とする。他人を見るような冷たい目を向けられるのは初めてだ。
「そんなことより、結婚する時期が正式に決まったって兄貴に聞いた。……四年後、お前が大学を卒業したらすぐに籍を入れるんだ、って」
「それ、は――」
結婚。
その言葉に美琴の全身から血の気が引いていく。
(答えなきゃ)
頭では分かっているのに声が、言葉が出てこない。
拓海が話した通り、美琴は四年後に祖父の決めた婚約者と結婚する。そしてその相手は拓海ではない。血の繋がった彼の兄、九条貴文だ。しかし拓海にとっては、美琴の結婚など他人事にすぎないようだ。
(他人……?)
この時、美琴にある考えが過った。
美琴にとって拓海は唯一無二の大好きな人だ。
(じゃあ、拓海にとっての私は?)
彼にとって美琴は、兄の婚約者――他人にすぎないのか。
美琴が一方的に特別だと思っているだけで、拓海にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。
だから留学のことも話さなかった……その必要がなかったからだ。
心臓が嫌な音を立てた。反射的に目頭が熱くなる。
(泣いちゃだめ。泣いている場合じゃない)
緩みそうになる涙腺をなんとか堪えて、唇をきゅっと噛む。
「美琴」
拓海の口から次に続くだろう言葉を想像して、美琴は咄嗟に願った。
(お願い、言わないで)
どうか、それだけは。
「おめでとう」
拓海から聞きたくなかった、その言葉。
(「ありがとう」って、返さなきゃ)
なのに、喉の奥が張り付いて言葉が出ない。
好きな人に他の男性との結婚を祝われることが、こんなにも辛いなんて。
拓海は、美琴が自分を好きだなんて考えたこともないだろう。
彼が自分を女性として見ていないことは、初めから分かっていた。
彼は、美琴が拓海の兄の婚約者だから構ってくれていただけだ。それ以上の理由はない。可能性がゼロだからこそ、ひっそりと心の中で想うだけで良かった。
(……そう、思っていたのに)
想うだけでいいなんて、嘘だった。だって、「おめでとう」の一言で、こんなにも胸が痛くなる。
「兄貴なら必ずお前を幸せにしてくれる。……あの人は、本当に優しい人だから。俺を本当の弟のように扱ってくれた唯一の人だ」
凍りつく美琴に、拓海は淡々と告げる。
「何を言ってるの? 拓海と貴文さんは血の繋がった本当の兄弟じゃない」
「半分だけ、な。兄貴は正妻の子だけど、俺は愛人の子だ」
今にも儚く溶け消えてしまいそうな微笑に、胸が詰まる。
「もういいか? そろそろ行かないと乗り遅れる」
これ以上は時間の無駄だとばかりに拓海は背を向ける。美琴はその右手を咄嗟に掴んだ。
「待って!」
拓海は迷惑そうに眉を寄せる。その表情に心が折れそうになるけれど、手は放さなかった。
今手放したら二度と会えない――そんな気がしたのだ。
「帰ってくるよね。留学が終わったら、日本に戻ってくるよね……?」
懇願にも近い声で聞く美琴に、拓海は言った。
「もう、会わない」
「え……?」
「お前の顔は、二度と見たくない」
衝撃で、声が出ない。
(行かないで)
(好きなの。初めて会った時から、拓海のことが好きだった!)
ずっと秘めていた気持ち。今まさに喉元まで出かかったそれは、ついぞ発せられることはなかった。
美琴にとって拓海と彼の兄の貴文は、家族よりも近い存在だ。少なくとも美琴はそう思っていた。しかし拓海は留学話を隠していたばかりか、美琴の顔も見たくないという。
(私は、そんなに嫌われていたの……?)
堪えていた涙が一気に溢れ出る。地獄に突き落とされたようだ。
ショックと衝撃で言葉が出ない美琴は、掴んだ手を力なく離す。
自由になった拓海は今度こそ背中を向けた。
もう追いかけることは、できなかった。
美琴は止めどなく涙を流しながら、小さくなっていく背中を見送った。
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旧財閥の流れを組む柊グループは金融や商事、重工業などあらゆる業界に展開しており、国内でも三指に入る巨大グループだ。
現在の柊家当主の名は、柊重蔵。
齢七十五にして柊家を統べる彼を、人は「財界の化け物」と呼ぶ。
美琴は、彼のたった一人の孫娘だ。
そして旧華族でもある柊家に昔から仕えているのが、九条家である。
時代の流れと共に二つの家の形は変わったけれど、今でも両家はとても近い関係にある。
実際、柊グループ傘下のいくつかの企業のトップには九条の名が連なっている。
九条家の現当主の名は、光臣。彼には三人の息子がいた。
長男の貴文、次男の拓海、そして二人の兄と一回りも年の離れた、三男の礼。
この中で美琴の婚約者に選ばれたのは、貴文だった。
礼は美琴と年が離れすぎているし、妾腹の子である拓海は初めから選択肢になかった。
二人の婚約は、美琴が十三歳、貴文が十八歳の時に決められた。
柊家の孫娘と九条家の長男。年齢差も五歳でつり合いも取れている。
それに貴文は幼い頃から優秀だった。文武両道で全てにおいて優秀な貴文を重蔵は気に入っていた。
貴文が柊家に婿入りしても、九条家は三男の礼が継ぐから問題ない。むしろこの婚約によって、九条はいっそう柊と強い結びつきができると考えたのだ。
誰もが認める名門同士の婚約――その関係に転機が訪れたのは、美琴が大学三年生の二十一歳の時。
拓海と離れてから、三年が経過した頃だった。
◇―*◆*―◇
その日は婚約以来恒例となっていた、月に一度の九条家訪問日だった。
いつも通り客室に通され、いつも通りお茶を飲みながら他愛のない話をする。
もう十年近くも同じことを繰り返してきた。昔と違うのは、その場に拓海がいないということだけ。
今日もまた普段通りの数時間を過ごすのだろう。
漠然とそう思っていた美琴は、婚約者の口から発せられた言葉に耳を疑った。
「好きな人ができた。だから君とは結婚できない。……本当にごめん、美琴」
貴文は、秘書の女性が好きなこと、これからの人生を彼女と生きていきたいこと、そして、そのためなら全てを捨てる覚悟があることを、言葉を選びながらも美琴に伝える。
「秘書って……水谷藍子さんのこと?」
貴文は小さく頷いた。彼女のことは、美琴も知っている。貴文と一緒にいる時に何度か顔を合わせた程度だが、すらりとした長身とショートカットが印象的ないかにも仕事ができそうな女性だった。
でもまさか、二人が仕事以上の関係だったなんて――
「……いつから、彼女のことを?」
「一年前、彼女が僕の秘書になった時から。……今思えば、一目惚れだったのかもしれない」
若くして柊グループの傘下である柊商事の専務を務める貴文は、昔から女性たちの憧れの的だった。
名だたる企業の社長令嬢やモデル、果ては自社の受付嬢。
彼女たちはいずれもずば抜けた美人で、自信に満ち溢れた女性たちだった。しかし貴文には美琴という婚約者がいたし、何より過度に「女」をアピールする彼女らになびくことはなかった。
「でも、藍子はそれまで知り合ったどんな女性とも違ったんだ」
凛と伸びた背筋に化粧っ気のない、しかし端整な顔立ち。
まっすぐに貴文を見つめる瞳には邪なものなんてまるでない。幼い頃に両親を失った彼女は、バイト代と奨学金で大学に進学。更には自力で柊商事に入社し、今日まで仕事一筋で生きてきたという。
もちろん貴文に言い寄ることはなく、全く男として興味を持たれていない。それがなぜか無性に悔しくて、鉄仮面のような顔を笑わせたくて……気づけば毎日藍子のことを考えている。そして自惚れでなければ、藍子もまた同じ気持ちでいてくれると思うのだ、と。
「……まだ、彼女には貴文さんの気持ちを伝えていないの?」
「まずは美琴に全てを話してからだと思ったから、君以外の誰にも言ってない。道に外れたことをしている分、せめて筋だけは通さないと……と思ったんだ。勝手なことを言って本当に申し訳ないと思ってる。でも……美琴、お願いだ。僕との婚約を、解消してほしい」
深々と頭を垂れる姿は、断罪を待つ咎人のようだ。
この場合、突然婚約破棄を申し渡された婚約者として正しい対応はなんだろう。
絶対に嫌だと涙ながらに訴える、許さないとお茶をひっかける……しかし美琴が選んだのは、そのどれでもなかった。
「貴文さん、頭を上げて」
ゆっくりと顔を上げた彼に、美琴は静かに問う。
「婚約破棄をした後はどうするつもりなの? 私一人が頷いても、周りはきっとそうじゃない」
「そうだね。多分、誰一人として許してはくれないと思う。でも僕は何を失ってでも、彼女が欲しいんだ」
勘当されても構わない。そのためなら駆け落ちする覚悟もあるのだと、貴文は言った。
「……そんなに上手くいくかしら」
美琴の言葉に、貴文は眉根を寄せる。
「駆け落ちをするといっても、どこから情報が漏れるか分からない。そうなったら多分、お祖父様はあなたたちを絶対に許さない。藍子さんと別れさせるためなら、どんな手だって使うはず」
「たとえどんなことがあっても、藍子は僕が守るよ。そのためにできる事なら何でもするつもりだ」
その一瞬、貴文の瞳がぎらりと光る。それは、温和な彼が見せる初めての表情だった。美琴は威圧されつつ、なおも聞く。
「九条でなくなったあなたに藍子さんが守れるの? もし婚約破棄をしたら、あなたが相手にするのは私のお祖父様――柊重蔵よ」
美琴の指摘に貴文は言葉に詰まる。その表情は痛いところを突かれた、と言わんばかりだ。
「それは……」
「貴文さんがとても優秀なのは私も知ってます。それでも難しいこともあると思うの」
だから、と美琴は言いきった。
「――私も、協力します」
目を見張る貴文に、美琴は続ける。
「私にできることなんて、あなたと藍子さんの関係を黙っていることくらいだと思うけど……少なくとも、私からお祖父様に何かを言うことはありません」
貴文の戸惑いが手に取るように分かった。当然だ。他の女性と駆け落ちするのを手助けする婚約者なんて聞いたことがない。困惑する貴文を前に美琴はふっと表情を和らげる。
「私のことを疑ってる? 協力者のふりをして裏でお祖父様と繋がってるんじゃないか、って」
「それはない! 美琴を疑ったことなんてないよ。でも、さすがにどう反応したらいいのか分からない。だって、協力するって……どうして?」
怒りをぶつけられるならまだしも、協力を申し出るなんて思いもしなかったに違いない。それでも……
(私には、協力する理由がある)
ふと美琴の頭に浮かんだのは、三年前に別れた大好きな人だった。
「もしも好きな人がいて、相手も自分を想ってくれるのなら……その手は絶対、離しちゃだめだと思うから」
美琴は最後まで拓海に好きだと言えなかった。
それまでだって、「拓海が自分を好きになることはない」と思い、気持ちを伝えることはしなかったのだ。
(それだけじゃない)
貴文は誰もが認める完璧な青年だ。容姿、人柄、生まれ。非の打ちどころがない貴文に周囲は期待を寄せる。その筆頭が、彼の母親である九条倫子だ。
倫子は、貴文が愛人の子に負けないように、常に貴文が完璧であることを望んだ。そして貴文もまた、その期待に必死に応えてきたのだ。しかし彼が人知れず思い悩んでいたことを美琴は知っている。
九条家に生まれた重責。母を始めとした周囲からの過度な期待。それらを一身に受け止めてきた貴文が初めて自ら望んだのが、一人の女性だというのならば……美琴は、それを応援したい。
「美琴……君も、好きな人がいるの?」
貴文の問いに、美琴は頷いた。
「僕の知っている人?」
「……ごめんなさい。それは、聞かないで」
「君は、その人と――」
「何もないわ。ただ私が一方的に好きだっただけ。だから、貴文さんは私に謝る必要なんてないの」
貴文が藍子と出会わなければ、美琴は拓海のことを黙ったまま結婚していただろう。
そんな自分が、貴文の謝罪を受ける資格なんてないのだ。
「貴文さん。あなたと藍子さんが一緒にいるために、私にも協力させて? これはあなたたちのためじゃなく、私のためでもあるの」
「君のため?」
「私はもうその人には会えないけど……気持ちを伝えなかったことを、今でも後悔してる」
拓海が日本を発ってから、何度も考えた。
もしも美琴が「好き」と伝えていたら、結果は今と違っていただろうか、と。
何も変わらないのかもしれない。しかし胸の奥にしこりのようにある「伝えなかった」という後悔はなかっただろう。
「私は黙って諦めてしまったけど、貴文さんは違うでしょ? あなたは行動に移そうとしている。なら、上手くいってほしい。だって私は、貴文さんのことが好きなんだもの」
息を呑む貴文に、美琴は微笑む。
それは拓海に対する恋心とは違う、幼馴染としての親愛だ。それでも美琴は確かに貴文が好きだった。時に兄のように、時に友人のように。
だからこそ、彼には幸せになってほしい。
好きな人と、一緒に。
「ありがとう、美琴。……協力、してくれるかな?」
美琴はしっかりと頷いた。
「喜んで、貴文さん」
そして、一年後。
二十二歳になった美琴は、四年前に拓海を見送った時と同じ空港にいた。
あの日と違うのは、見送る相手が拓海の兄・貴文であることだ。
婚約破棄の申し出から一年。美琴は二人の駆け落ちのために微力ながらも協力してきた。
協力といっても、貴文と藍子が一緒にいるための口実になったり、場所を提供したり……とささやかなことばかりだったが、それも今日までのこと。
これから、貴文と藍子は駆け落ちをする。
表向きは、海外出張に向かう社長と秘書、そしてそれを見送る婚約者だ。しかし貴文が予定通り帰国することはない。
彼と藍子は、今後の人生の拠点を海外に選んだ。
国内での柊グループの影響力は侮れない。それは海外でも同じことだが、国内に比べれば格段に見つかる可能性は低くなるからだ。それ以上のことは、美琴は知らない。
今日の美琴の役割は、貴文と藍子を見送り「二人は確かに出国した」と証言することだ。
「ありがとう、美琴」
微笑む貴文の隣には、そっと寄り添う一人の女性がいる。はっきりとした顔立ちのショートカットの彼女の名前は、水谷藍子。貴文の秘書で、恋人だ。
「美琴さん、なんて言えばいいのか……ごめんなさい」
「頭を上げて、藍子さん。あなたは謝るようなことは何もしてない。これは全部、私がやりたくてしたことなの」
美琴の言葉に、藍子はゆっくりと顔を上げる。彼女は「ありがとうございます」と囁くように言って、今一度深く頭を垂れた。謝罪ではなくお礼のそれを、美琴は今度は笑顔で受け入れる。
傍らの貴文は、頭を上げた藍子の髪の毛を優しく撫でた。藍子はどこか恥ずかしそうに貴文を見返す。見つめ合う二人の姿は、互いを想い合う恋人そのものだ。
「お祖父様については大丈夫。ちゃんとあなたたちは出国したって証言するわ。さあ行って」
美琴が促すと、拓海は藍子から手を離して、そっと美琴の両手に自分の手を重ねた。
「美琴。こういう形にはなったけど……僕は、君と出会えて本当に良かったと思ってる。本当の妹のように、君のことを大切に想ってるよ」
「ありがとう、貴文さん。……実は私も、兄がいたらこんな感じかなって、ずっと思ってたの」
美琴はかつての婚約者の手を握り返すと、あえて悪戯っぽく笑いかけた。
もしかしたら、貴文と会うのは今日が最後かもしれない。
そう思うと寂しいけれど、胸の痛みはない。
美琴は確かに彼が好きだった。しかしその好意は親愛であり、貴文もまた同じだっただろう。
幼馴染としての情で、愛ではないのは間違いない。
なぜなら美琴は、知っているから。
胸が焼け付くほどの激しい感情を。名前を呼ばれただけで泣きたくなるくらい幸せになることを。
そして美琴がそんな感情を抱いた相手は、後にも先にも一人だけなのだから。
「さようなら、貴文さん、藍子さん。……幸せになってね」
しっかりと頷いた貴文と藍子は、最後に美琴にもう一度礼を言うと歩き始める。
大勢の人が行き交うロビーの中に、手を繋いだ二人の姿が消えていく。
(拓海)
遠ざかる二人の背中に重なったのは、四年前、涙で見送った拓海の姿だった。
拓海は自身の言葉通り、あの日以来一度も帰国していない。
以前貴文に聞いたところによると、アメリカの大学院でMBAを取得した彼は、その後会社を立ち上げたらしい。しかしその会社が軌道に乗り始めた矢先、突然退社してフォトグラファーに転身したという。
『景色を撮っているらしいよ。世界中あっちこっちを飛び回っているみたいだ。日本じゃまだあまり知られてないけど、たまに個展を開いてるようだし、海外ではそこそこ有名みたいだね』
貴文にそれを聞いた時、美琴は驚いたけれど意外ではなかった。
拓海の趣味が写真であるのは知っていた。何よりも美琴は、彼の撮る写真が好きだったのだ。
もし、いつか再会することがあれば。
あなたのことが好きでした、そう伝えることくらいは許されるだろうか。
若い頃の笑い話として打ち明けてもいいだろうか。
(きっと、迷惑だろうな)
二度と会いたくないとまで言われたのだ。そんな相手に「好きだ」なんて言われても、困惑するだけだろう。それにもしかしたら今頃、恋人がいるかもしれない。
年齢を考えたら結婚していてもおかしくはないのだ。
拓海が、結婚。
今まで何度か想像したことがあるが、そのたびに胸が痛くなって、自分の心が未だ拓海にあるのを実感する。
こんなにも引きずるなら気持ちを伝えれば良かったのに。
可能性がないから、拓海が優しいのは貴文の婚約者だから……と何もしなかったのは、美琴自身。
(私も、好きって言えば良かったのかな)
遠い異国の地にいる人を想う。
彼に嫌われているなんて知らなかった。初めからそうだったのか、何かをきっかけに嫌ったのかも分からない。そしてそれを知る機会は今後もないのだろう。
それでもなお望むのは、ただ一つ。
(……あなたに、会いたい)
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