これが最後の恋だから

結祈みのり

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1巻

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   プロローグ


「あんたなんて、大っ嫌い」

 辛いのは私の方なのに、どうしてあんたがそんなに辛そうな顔をするの。
 怒りが収まらない。裏切られた、だまされた、傷つけられた――ありとあらゆる感情が体の内側からき上がる。今目の前で起きている光景が、とても現実とは思えなかった。
 それは悪夢を見て飛び起きた朝の気分にも似ている。けれど同時に、決定的に違うということも恵里菜えりなには分かってしまった。
 自分は失ったのだ。誰よりも大切で大好きだった人を、今この瞬間失った。

「……エリ」
「うるさい」
「エリ」
「……っ! やめてよ、もう!」

 嫌いになったのなら、そんな風に優しく呼ばないで。そうでなければ期待しそうになる。
 絶対に許せないのに、もう一度その顔で、その声で「好きだ」と言われたら、ほっとしてしまうから。

「別れよう。……お前のことなんか、本当は好きでもなんでもなかった。幼馴染おさななじみだから付き合ってみただけだ」

 これだけならまだ許せたのかもしれない。幼馴染おさななじみでなければ、この男と話す機会さえなかっただろうことは十分分かっていた、でも。

佐保さほが、好きだ」

 それを聞いた瞬間、頭の中で何かが弾けた。
 佐保。それは大嫌いな姉の名前だ。

「……最低」

 この男は初めから、恵里菜のことなど好きではなかった。彼が見ていたのも、欲していたのも恵里菜ではなく佐保。――自分は姉の代わりだったのだ。

「もう、いい」

 疲れた。もう、何もかもがどうでも良かった。
 大好きだった。高校生のつたない恋愛かもしれないけれど、恵里菜は全力であきらに恋をした。
 でも、もう知らない。こんな男――もう、いらない。

「ばいばい、晃」

 最後に彼がどんな表情をしていたか恵里菜には分からない。涙でにじんだ視界には、その場に立ち尽くす晃の影しか映らなかったから。


 ――十八歳の冬、恵里菜の最初で最後の恋は終わった。


   1

 忙しい。目が回る。
 店内に鳴り響く電話のコールが三回目を超えたが、誰も取らない。急ぎの稟議書りんぎしょを仕上げていた恵里菜は心の中で舌打ちをして、仕方なく受話器を取った。

「大変お待たせいたしました、平庄へいじょう銀行上坂かみさか支店、新名にいなでございます。はい、口座の残高でございますね。かしこまりました。それではお口座番号とご登録のお電話番号をお願いいたします。――ありがとうございます。それではお調べして、こちらからお電話させて頂きます。……失礼いたします」

 受話器を置いた瞬間に、すかさず次の電話がかかってきた。隣でのんびりとあくびをする後輩に、視線で「早く出て!」と伝えて、自分はすぐパソコンに向かう。ものの十数秒で依頼された残高を調べ終え、折り返しの電話をかけた。
 九月の銀行は、忙しい。
 月末であることに加えて決算期だ。窓口には普段の倍近いお客様が来店するため、預金係はてんてこまい。それに比べれば少ないものの、恵里菜の担当である融資ゆうし窓口にも、お客様が途切れることなく訪れている。とてもではないが人手が足らなかった。

(これじゃあ休憩もろくに取れないじゃない!)

 お昼休憩の時間はとうに過ぎ、昼食抜きは確定だ。ほんの十分でいいから一息つきたいけれど、この現状ではその時間すら惜しかった。

「いらっしゃいませー!」

 大きな声で挨拶あいさつをした後、眉間みけんに寄りかけたしわを慌てて消して、恵里菜は自分の席へと戻る。
 融資ゆうしの案件を申請する書類である稟議書りんぎしょを仕上げると、すぐさまパソコンに戻って作業を進めた。
 今日の融資ゆうしは普段の月末に比べてだいぶ多い。それ自体はありがたいことだけれど、さすがに忙しすぎる。だが、全てはお客様第一。お客様あっての銀行業務だ。

「新名さん、一番に折り返しのお電話が入ってます」
「今出ます!」
「書類が見当たらないんですけど……」
「そこのキャビネットの一番上のクリアファイルに入っています」
(この時期は忙しいんだから、前日にできる準備はやっておくようにと言ったでしょう!)

 注意する時間も惜しんでひたすら笑顔と謝罪、両手はパソコンと、体中を使って動きまわる。
 気付いた時にはもう十五時、店のシャッターが降りるのを見て、恵里菜はこの日初めてほっとすることができた。

(……疲れた)

 月末と決算期。しかし体が重く沈むようなこの疲れの原因は、それだけではない。

(なんで、今更あんな夢を見るのよ)

 ここ数年、ふとした時に思い出すことはあっても、夢に見ることはなかった。
 それなのに昨夜の夢は、まるで当時を目の前で繰り返しているかのように鮮明だった。晃の声がはっきりと耳に残っている。今日はそれらを振り払おうと仕事に没頭したものだから、区切りがついた今では、この場に倒れ込んで眠ってしまいそうなほどの疲労を覚えている。
 だが当然、そんなことができるはずもなく。
 九時に開店し、十五時に閉店する銀行業務は世間一般に暇だと思われているが、とんでもない。窓口が閉まりお客様を待たせるプレッシャーからは解放されるものの、ここからがある意味本番だ。
 書類を整理し、稟議書りんぎしょを仕上げ、督促とくそくと営業の電話をかけて……。やることをあげたらキリがない。

(今夜は絶対に飲んで帰ろう。飲まなきゃやってられないわ)

 仕事終わりの一杯だけを楽しみに、恵里菜は残りの業務を片付け始めたのだった。


 新名恵里菜。
 都内の大学を卒業後、地元の銀行に就職した彼女は、社会人四年目の二十六歳だ。
 預金業務を一年経験したのち融資ゆうし係に配属されてからは、主に後方事務を担当していた。他にも延滞督促とくそくの電話、稟議書りんぎしょ作成などの事務方全般と、時おり営業にも行くことがある。
 百七十センチと女性にしては高めの身長、落ち着いた物腰とは裏腹に、社内規定ぎりぎりの明るさに染めた茶色の巻き髪。
 仕事では頼りにされており、後輩への指示も的確だが、物言いがはっきりしているため怖がる人は数知れず。また、プライベートの気配を一切感じさせない独特の雰囲気がある。お客様への笑顔は常に絶やさないが、仕事以外の笑顔を見た者は、ほとんどいない。
 ――以上が職場における恵里菜の基本プロフィールだ。


「『新名さんって美人だけど怖いよね。確かに仕事の指示は的確だけど、言い方きついよ。見下されているみたいな気になるし。それに、私服が派手だと思わない?』」

 低い男声でいかにも「女子」な口調で話されると、ぞくっとする。店に入るなり注文した生中を一気に飲み干した恵里菜は、ジョッキを卓に置き、対面に座る男をじろりとにらんだ。

佐々原ささはらさん、気持ち悪いです。お酒がまずくなるのでやめて下さい。――あ、すみません。生中もう一つお願いします」
「気持ち悪いってひどいな。あーあ、入社した時のエリーは派手でも可愛かったのに。こんなコギャルが銀行員って冗談だろって思ったの、今でも覚えてる」
「コギャルはもう死語ですってば。あと何回も言っていますけど、私の名前は『恵里菜』です、勝手に短くしないで下さい。ついでに名前で呼ばないで下さい、セクハラです」
「何言ってんだ、こんなのセクハラのうちに入らないよ。大体、俺と付き合えって何度言っても聞きやしないくせに」
「飲むたびに『俺と付き合え』って言うのは十分セクハラに該当すると思いますけど」
「結構本気なのになあ」
「はいはい、ありがとうございます」

 二杯目を終えてようやくエンジンがかかってきた恵里菜は、ふう、と一息ついた。
 佐々原も残りのビールを美味しそうに飲み干し、空になったジョッキを置くと、ふっと笑う。

「それじゃあ改めて。上半期かみはんきおつかれさん」

 佐々原拓馬たくま。二十九歳。三年先輩である彼は、恵里菜の元指導係だ。
 平庄銀行では、新人育成カリキュラムの一環として、先輩社員がつきっきりで指導する。マンツーマン形式のそれは相性が悪ければ最悪だが、恵里菜の場合は運が良かった。
 佐々原は恐ろしく仕事のできる男だったのだ。業務が終われば下らない軽口の一つも叩くが、営業成績は支店ナンバーワンで、顧客からの支持率もずば抜けている。怒り心頭でクレームを入れてきたお客様が、怒っていたのが嘘だったかのように笑顔で帰っていくほどだった。
 人懐っこい笑顔に明るくほがらかな性格と、人に愛される要素が形になったような男だ。
 しかし、仕事に対しては誰よりも厳しく、入社当時の恵里菜は彼に相当泣かされた。
 新人の時はその指導の厳しさに何度も仕事を辞めたいと思ったものだが、四年目の今となっては、ただただ感謝するばかりである。指導係を離れた今も、こうして飲みに誘う程度には可愛がってくれているのだから、なおのことだ。

「あ、その馬刺し食べないなら下さい」
「いつも思うんだけど、そのほっそい体のどこに入るの? ……ああ、胸か」

 視線が一点に集中したことに気付くも、恵里菜は無視した。今日は胸元がざっくりあいたピンクのカットソーに白のジャケットを羽織り、白のフレアスカートを穿いている。先ほどから佐々原以外の男性客の視線もこちらを向いているような気がするけれど、恵里菜は構わず酒をあおった。
 細身な体にEカップの恵里菜の容姿はどうにも男を「そそる」らしいが、そんなの知ったことか。

(それより今はお酒。これを楽しみに月末を乗り切ったんだから)

 美味しいお酒と美味しい料理。一見チャラ男だが頼れる先輩。ここまで揃っているのに楽しまないなんてもったいない。

「さっきの声真似、三好みよしさんですよね? 私を嫌うのは勝手だけど、怖がる暇があるなら最低限の仕事くらいしてほしいですよ。月末は忙しいと言っておいたのに準備はしない、電話も出ない。それで愚痴ばっかりなんて、どうかと思うけど」
「確かになあ。三好ちゃん、もう二年目になるのに学生気分抜けてないもんな」
「私だってまだ四年目だし、人のことどうこう言える立場じゃないですけど。お給料もらっている以上プロなんだから、仕事中に泣きごとを言うのはやめてほしいです」

 百五十センチ前後の小柄な体と、真っ黒ストレートのボブカット。どこか垢抜あかぬけない見た目に自信無さげなたどたどしい話し方。初めて会った時から恵里菜は三好のことが苦手だった。
 田舎いなかっぽさの残る彼女は、昔の誰かを嫌でも思い出させる。

「だいたい、私の私服が派手なのと、仕事の出来は関係ないじゃない」
「あのな、エリー」

 三好への愚痴が止まらなくなりそうな恵里菜を、落ち着いた声がそっとたしなめた。

「三好ちゃんの態度は確かにめられたもんじゃない。ましてや誰の目があるか分からない倉庫で悪口を言うなんてとんでもない話だ。でも、もっとコミュニケーションは取った方がいいんじゃないか? 無理に個人的なつながりを持てとは言わないけど、どんなに相性が悪くても同じ仕事をする仲間だ。もう少し愛想良くすることも大事だよ」
「愛想、ですか」
「そう。せっかく綺麗な顔をしているんだから、笑えばお得なこともたくさんあると思わない?」
「そう……できれば、いいのかもしれませんね」

 さらりと容姿をめられたことは素直に嬉しい。けれど、自分が佐々原のように人当たりが良くなれるかと考えると、とてもできそうになかった。
 接客では笑顔を絶やさない一方で、仕事仲間に対しては比較的ドライな自覚はある。しかし、やるべき仕事はこなしているし、それで特に問題もない――と思っていたが違ったらしい。

(見下してなんかいないのに)

 三好の話を聞いて、怒るよりも呆れた。そして少しだけ、痛かった。
 楽しかったはずの気分がだんだんと下降していくのを感じる。
 恵里菜には佐々原という頼れる指導係がいた。だが三好の指導係は頼りない自分で、二人の関係も良好とは言えない。そう考えると、もしかしたら一番の被害者は三好なのかもしれなかった。

「まあ、三好ちゃんも決して悪い子じゃないんだよな。お客さんにも会社の人間にも、いつもにこにこしてるし、あれはすごくいいと思うけど」

 三好はいつも笑顔を絶やさない。見た目は地味だが、人当たりの良さは昔の誰かとは――「彼女」に比べられた過去におびえ、今なお虚勢きょせいを張り続ける誰かとはえらい違いだ。

(……だめだなあ)

 後輩の些細ささいな愚痴など笑って聞き流さなきゃダメなのに。表面上は気にしていないふりをしていても、こうしてうじうじ考えてしまう。こんな恵里菜の一面を、三好はきっと知らないだろう。
 キツくて怖い恵里菜がこんなにもマイナス思考で、人の目を気にする性格だなんて。
 直したいと思うのに、昔からしみついたそのクセはなかなか直らない。

(なんか、嫌だな。……気分良く飲みたいのに)

 今日はなんだかとても酔いが早い。仕事の疲れがまっていたのもあるだろう。けれどそれ以上の原因があることを恵里菜は自覚していた。
 日中は忙しいから忘れていられた。しかしこうして上半期かみはんき一忙しい日が終わり、気心の知れた先輩とのんびりしていると、無意識のうちにあの感覚がよみがえる。
 ――エリ。
 時間と共に記憶は薄れていく。薄れていかなくてはならないと思っていた。
 それなのに久しぶりによみがえった声は、どれだけ忘れようとしても耳にこびりついて離れない。

『エリが好きだ。――俺と、付き合ってほしい』
『エリはエリだろ?』
『佐保でも他の誰でもない。俺が好きなのは、エリだから』

 知らない。無愛想でぶっきらぼうで――笑うと少し幼くなる、あんな男。
 知らない。真面目なだけが取り柄で、可愛げも面白みもない、田舎いなか臭い昔の自分なんて。

『佐保が、好きだ』
(……どうして、今更夢になんて出てくるの)

 消したいのに消えてくれない声を追い払うように、恵里菜は冷酒をぐっと飲み干した。

「うっわ、なんでいきなり一気飲みしてんだよ!」

 さすがに冷酒一気飲みは頭に来る。恵里菜はたまらず卓に突っ伏した。両手の上に頭を乗せてうつぶせになると、体中にじんわりと酔いが回っていく感覚がする。

「こら、エリー。だらしないぞ」

 起きろよ、とうながされ、恵里菜は軽く身をよじって視線だけを佐々原に向ける。苦笑じりにさかずきを傾ける先輩に、恵里菜の口からは自然と言葉がこぼれた。

「……佐々原さんの愛想のよさ、半分欲しい」

 酔いで上気した桃色の頬に、どこかとろんとしたアーモンド型の瞳。首筋から胸元にかけては赤みが差し、卓に頭を乗せているため、つぶされた胸の大きさが強調されている。普段はどちらかというとぶっきらぼうな後輩の乱れた姿を見て、佐々原は冷えたおしぼりを恵里菜の顔に押し付けた。

「冷たっ! なにするんですか、もう」
「うるさい。ほんっとにタチが悪い。甘えたいなら彼氏に甘えろ、酔っぱらい」
「……彼氏なんていりません。いても邪魔なだけだし、いいことなんてないですから」

 それを酔っぱらいの戯言ざれごとと取ったのか、佐々原は「寂しいことを言うなよ」と苦笑する。
 寂しいこと。佐々原の言うとおり、二十六歳独身女の言葉としては寂しすぎるだろう。でも本当に、恵里菜は彼氏なんていらないのだ。

「彼氏がいたら、別れる時寂しいですよね。だから彼氏なんていらないんです。いつ終わるか分からないような関係なんて、無駄なだけだから」
「今までどんだけひどい恋愛してきたわけ?」
「聞きたいなら教えますけど、長いですよ」
「……なんで上から目線なんだよ。いいよ聞いてやるよ。だからだらしない格好でいるのはやめろ。周りの皆さんに迷惑だ」

 忠告を無視して、恵里菜はとろんとした目で佐々原を見つめる。いつも余裕綽々よゆうしゃくしゃくの彼がどこか慌てたような、気まずそうな表情をしているのが何とも面白かった。

(いい人だなあ)

 爽やかな雰囲気も面倒見のいい性格も、仕事をしっかりこなす姿も全てが好ましい。
 しかしそんな思いも、恵里菜が遠い昔、晃に感じた感情と違うことには間違いなかった。

「……私に双子の姉がいるって話したことありました?」
「いや、初耳」

 なぜ佐々原に話そうと思ったのか。酔っていたから――確かにそうだ。しかしそれ以上に、やけになっていたのだと思う。誰かに話すことで、あれはもう過去の出来事なのだと自分で自分に知らしめたかったのかもしれない。

「私の姉は佐保っていうんですけど、とにかく可愛いんです。明るくて運動神経も抜群、出来損ないの妹にも嫌味なくらい優しい。一卵性いちらんせいの双子だから、顔だけは私とそっくりなんです」
「顔『だけ』?」
「はい。あとは全部正反対。妹は暗くて、えなくて、運動ができなくて、人と目が合わせられなくて……ね、全然違うでしょ?」
「……待ってくれ。今の話の流れだと、エリーがその暗い女の子だった、みたいに聞こえるけど」
「佐々原さんともあろう人が、何天然発言してるんです。その通りですよ」
「冗談だろ? ブランド物好きで、化粧品代は惜しまず、美容院も月に一回。欲しい洋服は迷わず購入。おまけに乗っている車は新車の外国車だってのに。……よし。そんなエリーのどこが地味子ちゃんなのか言ってみな? 俺は今まで、お前ほど黒髪が似合わない新人を見たことないけどな」
「ありがとうございます。それ、私にとっては最上級のめ言葉です」
「……はあ?」

 今度こそわけが分からないと頭を抱えた佐々原の姿に、恵里菜は思わず笑みをこぼした。佐々原の反応が嬉しかったのだ。それこそが、彼の目に恵里菜が「そう」映っていないことの証拠だから。
 恵里菜は、すうっと大きく息を吸い込んだ。

「似てない双子の姉妹と同い年の幼馴染おさななじみの男の子。妹は幼馴染おさななじみのことが好きでした。でも劣等感のかたまりである妹は話しかけることもできなくて、いつも二人のやりとりをうらやましく思っているだけです。でも高校三年生になって奇跡が起きました。唯一自信のあった勉強がきっかけで、幼馴染おさななじみと付き合うことになったのです。妹はとても幸せでした。でも卒業間際に驚愕きょうがくの事実が発覚! 彼は実は姉が好きで、妹を身代わりにしていただけだったのです。傷心しょうしんの妹は今まで以上に自分が嫌いになって、『変わろう』と決意しました。予定していた大学ではなく、都内の大学に進学した妹は、バイト代の全てを服や美容につぎ込み、派手な銀行OLに変身したのでした。――はい、おしまい」

 呆気あっけに取られる佐々原に恵里菜はにこりと笑う。そのまま椅子の後ろにかけていたハンドバッグから財布を取り出して一万円札を卓に置くと、さっと立ち上がり頭を下げた。

「お疲れ様でした、佐々原さん」
「え……ちょっと待てってエリー、お金なんていらな――」
「月曜日から下半期しもはんき、また頑張りましょうね。今日は本当に楽しかったです。それではおやすみなさい、失礼します」

 止める言葉もひらりとかわし、恵里菜は居酒屋を後にした。


「さむっ……」

 店を出た途端、肌寒い風が体をでる。
 明日からもう十月。猛暑だった今年は、九月中旬を過ぎても一向に暑さがやわらがなかったけれど、こうして夜の風を浴びるとなんとなく秋の気配を感じた。
 一人暮らしの恵里菜のアパートは、居酒屋のある駅から歩いて五分ほどの場所にある。
 周囲全てが田園地帯といった、絵に描いたような田舎いなかでこそないものの、就職のために都心から戻ってきた当初は、やはり不便に感じたものだ。

(でも、ずっと帰ってきたかった)

 便利な生活も可愛らしく洗練されたお店の数々も、嫌いではないけれど、どこか疲れた。
 せっかくここまで変われたのだ。元の地味子に戻りたいなんて絶対に思わないが、自分の収入に見合わない服も車も化粧品も、今となってはもはや見栄に近い。
 晃との思い出が詰まった街にいるのが嫌で、半ば逃げるように家を飛び出した。けれど、結局四年間が限界で、こうして戻ってきてしまった。それでも実家に戻るのはなんとなく気が向かず、安い給料をやりくりして一人暮らしをしている。

(私、何がしたいんだろ)

 大学卒業後からがむしゃらに働いて、気がつけば、あっという間に四年間が過ぎていた。
 仕事にも大分慣れ、心や私生活に余裕が出てきたせいだろうか。時々、無性に寂しくなる。
 高校まで勉強一筋だった恵里菜にとって、気心の知れた友人など片手で足りる。その友人たちも高校卒業と同時に各地に散ってしまい、地元に戻ってきたのは恵里菜だけだ。

(だめだ、とりあえず帰ったらすぐ寝よう)

 顔を洗ってシャワーを浴びて、さっさと寝る。明日は休日だ。悩むのは別に今でなくてもいい。
 それから数分、アパートはもう目前というところで、バッグの中のスマートフォンが振動した。

「……佐保?」

 名前を見た瞬間、心臓がドクンと鳴った。
 宮野みやの佐保。二十二歳の時、四年間の交際を実らせて隣県にとついでいった姉の名前がそこにある。
 どう頑張ってもかなわない大嫌いな人。美人で、華やかで、裏表がなくて、自信に満ちあふれている――全てが恵里菜と正反対の、双子の姉。一卵性いちらんせいにもかかわらず、二人が似ているのは顔だけだ。
 生まれてからずっと、恵里菜は佐保の影だった。趣味は読書、運動は苦手、人と話すのはもっと苦手。そんな妹が姉より唯一優れていた点といえば、勉強ができることくらい。

(なんでこんな時間に?)

 時刻はすでに零時三十分。人に電話をするには遅すぎる時間帯だ。
 出るか出ないか悩んでいる間に着信音はんだ。画面から名前が消えた瞬間、無意識にため息がれる。佐保とはもう一年以上会っていない。
 名前を見ただけでこんなに動揺してしまう今、電話越しとはいえ、とても話す気にはなれない。
 明日メールすればいい。しかし何気なく着信履歴ちゃくしんりれきを見た恵里菜は、今度は別の意味でひやりとした。

「……何、これ」

 佐保からの着信の他に、知らない携帯番号の履歴りれきがびっしり残っていたのだ。
 姉の最初の着信は二十時半、ちょうど佐々原と飲み始めた時間帯だ。その後を追うように見知らぬ番号が並んでいる。見れば留守電も入っていた。さすがにこれは気味が悪い。



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