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1巻
1-3
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大きな手のひらが腰に添えられている。その感触をやけに熱く感じて、甘い痺れが背中を駆け抜けた。
恭平の雰囲気はまるで別人のようだった。
先ほどまでの穏やかな眼差しが妖しく獰猛なものに変わり、表情は変わらず優しいのに瞳の奥が笑っていない。まるで獲物を前にした肉食獣のような雰囲気に動けなくなる。
「一条美弦さん。俺と結婚しませんか?」
チョコレート色の瞳がゆっくりと近づいてきて――美弦の記憶は、そこで途切れた。
都内の夜景が一望できるマンションの一室。室内を照らしているのは窓からぼんやりと差し込む月明かりだけ。
そんな中、キングサイズのベッドの上に二つの人影が浮かび上がる。
周囲には脱ぎ捨てられた衣類が散らばっていた。静かな室内に溶けるのは、唾液を絡め合う音と荒々しい吐息、そしてシーツがずれる音だけだ。
裸で仰向けになる美弦に覆い被さっているのは、同じく素肌を晒した恭平。
彼は左手で美弦の両手を頭の上で一つにすると、右手で彼女の頬を優しく撫でる。
けれど優しい手つきに反してキスは荒々しい。
「んっ……ふぁ……」
「もっと口を開けて。君の可愛い口の中を感じたい」
熱い舌が強引に美弦の唇を割って侵入する。反射的に引っ込めた舌はすぐに絡め取られ、強く吸われた。そのまま歯列をなぞり、内壁を舐められる。息をする間もない激しい口付けに、美弦はされるままだ。くちゅくちゅと唾液の絡まる音がなんともいやらしい。
――知り合ったばかりの男と体を重ねている。
この四年間、浩介一筋だった美弦は、自分の身に起きている初めての経験に心も体もついていけない。酔ってうまく回らない頭で「どうしてこうなった」と息を乱しながら考えるが、思考はまとまらなかった。
けれど一つわかっているのは、これが無理矢理ではないということ。
恭平のマンションに到着して玄関のドアが閉まるなり、二人は貪るようなキスをした。激しい口付けの後、恭平は美弦を横抱きにして寝室に向かう。そこで彼女の衣服を一気に取り払うと、自らもまた裸になったのだ。
「今、何を考えてた?」
嵐のような口付けの合間に、恭平は背中がぞくりとするほど色香の滲んだ声で問う。
「考え事をするなんて随分と余裕だな」
「違っ……!」
「キスだけじゃ君を夢中にさせられないなら――もっと、俺を感じてもらわないと」
言うなり恭平は美弦の耳殻をなぞるように舐める。
先ほどまで口の中を蹂躙していた舌を耳に這わせて、食んで、息を吹きかけて。
そのたびに美弦は、意識が飛びそうな快感に襲われて、本能的に腰を揺らす。
「美弦」
低くて心地よい声に名前を呼ばれる。
「俺を見て。俺を感じて――俺に夢中になって」
今は体だけでいいから、と見惚れるほどうっとりした顔で恭平は微笑む。
「今すぐ婚約者を忘れろとは言わない。でも今こうして君に触れているのは、俺だよ」
だから。
「今は、俺以外のことなんて考えるな」
一瞬で、彼の雰囲気がガラリと変わった。物腰の穏やかな紳士が、美弦を求める雄になる。
「待って……あっ!」
呼びかけた言葉は甘い嬌声に変わった。恭平に乳首をピンと弾かれたのだ。
「それ、だめぇ……!」
「『いい』の間違いだろ? だって――ほら。君のここはこんなに赤く色づいてる」
言いながら彼はぷっくりと膨らむ先端をいじり始めた。
甘い痛みに美弦は思わず身をよじって腰をくねらせる。その反応に気を良くしたのか、恭平は顔を胸に近づけて、ぱくんと口に含んだ。
その瞬間、美弦の体は大きく跳ねた。けれど恭平は止まらない。
屹立した乳首を舌でこねくり回し、ちゅっと吸ってやんわりと食む。その間も彼の両手は美弦を攻め続けた。
豊満なバストを下から掬い上げ、緩急をつけて揉みしだく。彼の思うままに形を変える双丘の先端を指先でつまんで、弾いて、押し潰す。
「おかしくなっちゃっ……!」
その直後、目の前が真っ白になって、頭の中で何かが弾ける。
口と手で攻められ続けた美弦は達した。そんな美弦を、恭平は甘い瞳で見下ろす。
「……本当に眩暈がするほど綺麗だな」
細い首に形のいいデコルテ。仰向けになってもなお形の崩れない豊満なバストに、きゅっとくびれた腰から続くふっくらとした尻。引き締まった両足。華奢ながら女性らしいまろやかさのある体を、熱を帯びた視線が舐め回す。
ただ見られているだけなのに、子宮の奥がずくんと疼く。
中を触れられたわけでもないのに体の芯は切ないくらいに熱を持ち、その証に内側から溢れたとろりとしたものが太ももの付け根を濡らした。
(やだ、なんで……!)
反射的に太ももを擦り合わせる。するとくちゅ、と粘着音が静かな室内に溶けた。
これに恭平が気づかないはずがなかった。
「――見られただけで感じた?」
図星を指された美弦は羞恥心でいたたまれなくなる。
美弦は知らなかった。
恥ずかしそうに頬をピンク色に染めて、足を擦り合わせる姿がどれほど男の劣情を誘うのか。
事実、艶かしく横たわる美弦の姿に、恭平の喉仏がごくんと上下した。
「最高にエロいな。可愛くて、色っぽくて、たまらない」
――エロいなんて。
「……初めて言われたわ」
息を乱しながら呟くと、恭平はありえないとばかりに大きく目を見開いた。その表情から驚きようが伝わってくるけれど、残念ながら本当のことだ。
派手な外見から「男関係が激しそう」と誤解されがちな美弦だが、実際は違う。過去に恋人と呼べる相手は浩介だけだった。
告白されたことはあるけれど、中学生の頃は弟の世話をするのが一番だったし、高校と大学は「少しでも母を経済的に助けたい」「せめて学費くらいは自分で出したい」と勉強とバイトに忙しく、恋をする暇なんてなかった。
就職してからもそれは同じで、初めの二年間は仕事に慣れるのに必死だった。ようやく仕事に楽しみを見出した頃にできた初めての恋人が、浩介なのだ。
手を繋ぐのも、キスも、セックスも、美弦の初めては全て浩介に捧げた。
そんな彼とのセックスは……よく言えば丁寧、悪く言えば機械的だった。
軽く触れ合うようなキスをして、互いに触れ合って、挿入して、あちらが果てたら終わり。
美弦も達したことはあるし、気持ちよかったけれど、こんな風に――恭平とキスした時のように、頭がぼうっとする感覚も、触れられた場所から切ないほどの熱を感じたのも初めてだ。
そして、恭平に触れられて初めて気づいたことがある。
こんなこと、普段の美弦なら絶対に言わなかっただろう。けれど、酔いと達したばかりの高揚感から、つい口に出してしまった。
「……私、激しくされるのが好きみたい」
その、直後。
「んっ――‼」
噛み付くようなキスをされた。
「なんでっ……ああんっ!」
先ほどまで胸を弄んでいた両手が太ももを掴んで、大きく開く。そして唇から顔を離した恭平が、ぞくりとするほど妖艶な笑みを浮かべて美弦を見下ろした。
シーツに染みを作るほど濡れそぼった秘部が恭平の眼前に晒される。
恭平に見惚れていた美弦は羞恥心から足を閉じようとする。けれど恭平は自らの体を足の間に割り込ませることで、それを封じた。
「待っ……」
「なんで?」
制止を求める声を遮り、恭平は先ほど言いかけた美弦の言葉を繰り返す。
「『激しくされるのが好き』なんて言われて、煽られないわけがないだろう?」
その時、美弦の視線に信じられないものが映る。
こういったものは他人と比べるものではないと思うし、そもそも美弦は比較対象を一人しか知らなかった。それでも断言できる。
天井を仰ぐほど屹立したそれは、恐ろしく大きい。表面には幾筋もの血管が浮かび上がり、まるで生き物のようだ。そのあまりの迫力に慄く美弦の前で、恭平は手早く避妊具を装着する。
「最後まではしない。それは酔っていない時にしよう」
「あっ……!」
「でも、このまま終わるなんてありえない。お望み通り、激しく攻めてやる」
直後、恭平は先端を膣口に押し当てた。
「ああっ……!」
薄い膜越しでもわかるほど熱い塊を感じた瞬間、むず痒いほどの快感が背筋を駆け抜けた。
思わず腰を浮かす美弦に、恭平は「可愛い声」と甘く囁き、ゆっくりと腰を上下し始める。その動きが次第に速くなっていった。
美弦から溢れた愛液が潤滑油となって、くちゅくちゅといやらしい音を奏でる。
「あっ、こんなの、知らない……!」
「っ……素股は初めて?」
恭平も感じているのだろうか。わずかに息を乱しながらも笑顔で問われてた美弦は、甘い声を上げながら必死に頷く。
挿入されているわけでもないのに、あまりの快感にどうにかなってしまいそうだ。
体の中心が疼いて、もどかしくて、たまらない。
堪えきれずに両手を恭平の背中に回してしがみつくと、自然と頭を彼の胸に埋めることになる。
すると、性急に腰を揺らしながら、右手の指を舐めて湿らせた恭平が――美弦の陰核をつぷん、と押した。
「あっ……それ、だめぇ……おかしく、なっちゃうっ……!」
蜜口を攻められつつ、陰核をこねくり回される。激しい律動に呼応するように硬く立ち上がった乳首が恭平の胸板に擦られた。
「美弦」
とろけるような甘い声で名前を呼ばれ、陰核をやんわりとつままれた、その瞬間。
「俺でおかしくなって」
強烈な快楽に呑み込まれ、美弦は意識を手放した。
◇
――思い出した。
全てではないけれど、目覚めた直後はおぼろげだった記憶が、一つのきっかけ――婚姻届の「夫になる人」に記された名前を見たことで次々と浮かび上がってくる。
彼の名前は御影恭平。現在三十二歳。
苗字が示す通り御影ホテルの創業者一族の一人だ。しかも美弦の記憶が正しければ、恭平は社長の御影雄一の次男で、長男である副社長、斗真の弟だ。
何より、彼はここ最近、社内で話題の人物である。
恭平は大学院を卒業して御影ホテルに入社した。それからすぐにニューヨークの海外事業部北米開発室に配属となり、着実に営業実積を重ねていった。
ここ数年、海外事業部でナンバーワンの営業成績を連発しており、まさに家柄と実力を兼ね備えたエリート御曹司である。
見覚えがあるような気がしたのは、以前社内報で写真を見たことがあったから。その時も「何このイケメン」と驚いたが、当時はまだ浩介という恋人がいたし、仕事が忙しいこともあって、あっという間に記憶の外に追いやられていた。
そんな彼は半年前の九月に帰国し、現在は東京本社のホテル事業本部長の職についている。
帰国した御曹司が、東京本社に来る――女性社員は色めきたった。
中には本気で「御曹司と恋に落ちる」ことに憧れている女の子がいるくらいだ。
しかし美弦が好きなのは浩介だったし、彼と別れてからの一ヶ月は、言葉は悪いが「恋なんてクソ食らえ、私は仕事に生きる!」と本気で思っていたから気にも留めなかった。
もしも美弦が他の女性社員同様、彼に興味を持っていたら、『善』で会うなり恭平の正体に気づいただろう。しかし実際は「見たことあるかも」程度でまるでわからなかったのだ。
――だからといって、自社の御曹司に絡み酒をした挙句、体を重ねるなんて。
恥ずかしくて、情けなくて、恐れ多くて。
なんとも形容し難い感情に襲われた。
「私がこんなことを言えた立場ではないのはわかっています――けど、何をしてるんですか、御影本部長……」
がっくりしながら呟くと、恭平は面白くなさそうに眉を寄せる。
昨日今日で初めて見せる不機嫌そうな表情に「上司相手にさすがに口がすぎたか」と内心焦る。そんな美弦に、彼は意外な言葉を返した。
「その話し方は好きじゃないな。呼び方も。今はあくまでプライベートの時間。だから敬語も役職も必要ない」
優しいけれど有無を言わさぬ雰囲気に、反射的に頷く。すると恭平は満足そうに唇の端を上げた。
「さっきの質問だけど、『何をしてる』も何も、ここに婚姻届があるように、君と結婚を約束して、熱い一夜を過ごした。オーケー?」
「オーケー、じゃなくてっ! だいたい、どうして婚姻届があるの……?」
恭平は「そこからか」と苦笑すると、なぜかスマホでどこかに電話をかけ始める。すぐに繋がったようで、彼は「マスターだよ」と美弦にスマホを手渡した。
「話は通してあるから、婚姻届記入の経緯は彼に聞いて。俺が話すよりも第三者に聞いた方が真実味があるだろうし」
確かにそうかもしれない。美弦は戸惑いながらもスマホを受け取った。
『美弦ちゃん、具合はどう?』
「大丈夫です。昨日は酔っ払って迷惑をかけてしまったようでごめんなさい。それでその……昨日何があったのか教えてもらえますか?」
『本当に覚えてないの? 確かにかなり飲んでたからなあ』
その後聞いた話は、美弦の想像を遥かに超えていた。
昨夜、恭平からの突然のプロポーズに固まった美弦は、残りの酒を一気に呷った。
そしてしばらく黙った後、「わかったわ」と答えたという。
その後はむしろ美弦の方が乗り気で、なんと恭平に「結婚するなら今すぐしたい!」と結婚情報誌をコンビニに買いに行かせた。
そして彼が戻るなり付録の婚姻届に意気揚々と記入して、恭平にもそれを求めると、マスターに証人欄に署名するように求めた。
(私が婚姻届を買いに行かせた……?)
唖然とする美弦にマスターはなおも衝撃の事実を口にする。
『結婚はそんな簡単に決めるもんじゃないよって言っても、美弦ちゃん、「今書いてくれないと私は一生独り身だ、だったら今結婚してもいいじゃない!」「お母さんに婚約者を紹介するって言っちゃったの!』って荒れに荒れて。俺が書かないと収拾がつかない状況だったから、仕方なく書いたんだよ。もちろん、提出はしないって恭平くんと約束してね』
「……マスター、迷惑をかけて本当にごめんなさい。あとでお詫びに伺います」
『気にしなくていいよ。それじゃあ、また店で待ってるよ』
電話が切れる。が、とてもじゃないが恭平の顔が見られない。
――なんていうことをしたのだ、昨夜の自分は。
マスターはもちろんだが、恭平に対して迷惑をかけすぎではないか。
今まで、プライベートでも仕事でもお酒の失敗なんて一度もしたことがなかったのに。初めての失敗がこれなんて、あまりに酷すぎる。とにもかくにも、まずは謝らなければ。
「ごめんなさい。お酒の席の冗談を本気にして結婚を迫るなんて――」
「冗談じゃない。俺は本気だ」
深く頭を下げようとする美弦の前に恭平が跪く。
「酒の勢いでもふざけてもいない。俺は君と結婚したいんだ」
ぽかんと惚ける美弦の両手を、恭平の手が包み込む。まるで騎士が主人に忠誠を誓うような姿勢でこちらを見据えるまっすぐな瞳に貫かれる。
「一条美弦さん。俺と結婚しませんか?」
その眼差しに、声に、言葉に、昨夜の記憶が蘇る。
「昨日も同じことを言ってくれた……?」
「思い出してくれた?」
どこか嬉しそうな声色に美弦は頷く。
そうだ。彼は美弦の生い立ちや失恋話を面倒な顔一つ見せず、最後まで聞いてくれた。
そして桜子に否定された美弦の内面を全て受け止め、肯定してくれたのだ。
本当に嬉しかった。温かくて、涙が止まらないほど感激して――
(この人と結婚する人は幸せだろうなって、思った)
そんな美弦に、恭平は「結婚しよう」と言ってくれたのだ。
その後のことは、マスターに聞いた通りだろう。
「返事を聞かせてもらっても?」
「……本気で言ってるの?」
「冗談でこんなことは言わない。君は昨日『誰でもいいから結婚したい』と言った。もしそれが本心なら、相手が俺でもいいんじゃないか?」
自分で言うのもなんだけど、俺はなかなかの優良物件だよ、と悪戯っぽく笑む。
「高学歴・高収入・高身長。俗に言う三高は全部揃ってる。犯罪歴はもちろんないし、タバコもギャンブルも興味はない。『御曹司』なんて言われてるけど金遣いは荒くないつもりだ。一人暮らしが長いから家事は得意だし、料理は趣味だ。俺と結婚すれば、家にいる時はいつでも俺が料理をするよ。君の好きな料理をなんでも作ってあげる」
「あの――」
「両親や親族付き合いは最低限でいい。両親は息子の生活にあまり口を出すタイプではないから嫁姑問題はないと思うけど、もしそうなったら俺は百パーセント妻の味方をする。仕事は続けてもいいし、辞めてもいい。辞めた場合はもちろん生活の保証はする。それ以外にも君の希望があれば最大限叶えるよ。文書にしてもいい」
「ちょっ、ちょっと待って!」
ここぞとばかりに自分を売り込む恭平に呆気に取られて、たまらず止めた。頭がついていかない。
「――おかしいわ」
「俺だと母親に紹介できない?」
「そうじゃなくて! ……私とあなたじゃ釣り合わないもの」
四年も付き合った恋人にあっさり振られた女と、大企業のエリート御曹司。
釣り合うわけがない。
「それに私たちは知り合ったばかりで、お互いのことなんて何も知らないのに、結婚なんて」
婚姻届への記入を迫っておきながら説得力のかけらもないが、少なくとも素面の美弦にはとても理解できない。だが恭平は真面目な顔で美弦を見据えた。
「俺は君の名前も家族構成も、一生懸命働く理由や、なぜ節約しているのかも知ってるよ。全部、昨日君が話してくれたからね。俺のことは結婚してからおいおい知ってもらえればいい。君は母親に婚約者を紹介できないことを嘆いてたけど、それも俺と結婚すれば解決する」
「それはそうだけど……仮に私と結婚しても、あなたにはメリットが何もないわ」
「それは違う。君と結婚して、むしろ助かるのは俺の方だ」
「どういうこと?」
「女よけになる」
キッパリと恭平は言った。
「どうやら俺は、人より目立つ見た目らしくてね。帰国してから言い寄ってくる女性が絶えなくて困ってる。特に女性社員の声が気になって仕方ない。仕事の話ならともかく、やれ恋人はいるのか、好みのタイプはどうだ……なんてあちこちで聞かれてうんざりしてる。そういった意味でも、今の俺には『妻』という存在が必要なんだ」
眩しいほどの笑顔だが、その主張はなかなか辛辣かつ失礼だ。
美弦のことは好きでもなんでもないが、自分の目的のために結婚してほしい。
つまりは、そういうことだ。
(……なんだ)
美弦のことが好きだから、なんて理由を期待したわけではない。けれどあまりに熱心にアプローチしてくるものだから、彼の結婚したい理由を聞いて拍子抜けしたのは否めない。
「あなたが結婚したいわけはわかったわ。でも、相手が私じゃなきゃいけない理由はないように思うけど」
「理由はある。君は美人だ」
「はい?」
予想の斜め上をいく答えにぽかんとする美弦に恭平は続ける。
「どうせ妻にするなら綺麗な女性がいい。その点、君は最高に俺好みだ」
今の話を要約すると、つまり――
(私の顔と体が好みだから、女よけと体裁のために結婚したいってこと……?)
彼の醸し出す雰囲気は砂糖菓子のように甘いのに、話している内容はどこまでもビジネスライクだ。けれど、だからこそその言葉は信用できた。
もしも結婚したい理由が「好きだから」とか「一目惚れ」なんて言われたら、信じられなかっただろう。手酷い失恋をしたばかりの今、「恋」や「愛」ほど信用できないものはない。
それに、この結婚は悪い話ではないのかもしれない。
美弦は、母を悲しませないため。
恭平は、周囲の煩わしい声を封じるため。
互いにメリットがある結婚は、言い換えれば契約のようなもの。
それに、実際、結婚相手として彼はこれ以上ないほどの優良物件だ。
イケメン・ハイスペック・料理上手。恭平も美弦の外見が好みだと言ってくれている。
――断る理由が見つからない。
だから。
「わかったわ」
美弦は小さく、けれどしっかりと頷いた。
「あなたと結婚します」
次の瞬間、美弦は痛いくらいに抱きしめられる。
「あのっ、ちょっと……⁉」
「言い忘れてたけど、俺は紙切れ上だけの結婚をするつもりはないよ。君がセックスをしていいのは、俺だけだ。浮気は許さない」
「なっ……!」
耳まで真っ赤に染める美弦の顔を恭平は覗き込む。
「もちろん俺が抱くのも君だけだ」
大切にするよ、と。
悩ましいほどの色気を纏わせ、恭平は微笑んだ。
結婚に際して美弦と恭平はいくつかの決まり事を持った。
知り合ったばかりの二人が夫婦になるのだから最低限のルールは必要だ、と主張したのは美弦だ。
恭平はあっさり同意すると、「どうせなら契約書を作成しよう」とその場で懇意にしている弁護士に電話をして、会う約束を取り付けたのだ。
これらは全て『善』で出会った翌日の出来事である。
さすがは社内でも名の知れたエリート社員、段取りも仕事もとても早い。
その日の午後には弁護士立ち合いのもと、結婚契約書が交わされた。
契約内容をざっくり言えば、「財産管理はそれぞれ、家事は分担、不貞行為は禁止」だ。
お金に関しては、美弦も仕事を続けるつもりだから、彼の給与には頼らない。
家事は気づいた方がやればいいし、ハウスキーパーを頼んでもいい。
ちなみに結婚したことを公表するのは恭平のみで、美弦は明かさず旧姓で通すことにした。
婚約破棄でただでさえ不必要な注目を浴びているのに、この上、現在女性社員の注目度ナンバーワンの恭平と結婚したと知られて、妬まれるのはごめんだ。
とはいえ、事務の手続き上、会社の誰にも知られないようにするのは難しい。
こればかりは恭平の創業者一族としての力を借りて、総務部に手を回してもらった。
そのため、社内で二人の結婚を知るのは彼の父と兄である社長と副社長、総務部のごく一部の社員だけ。恭平にも「結婚した」ことは公表しても、「相手が美弦である」ことは明かさないと約束してもらう。
これに関しては恭平は不満そうではあったものの、「女よけにはなるのだから」と納得してもらった。
それ以外には、「新居は恭平のマンションにすること」「食事はできるかぎり一緒に取ること」「同じベッドで眠ること」等々、契約内容は新婚夫婦としては、至って普通のことばかりだ。
しかし、実際に結婚生活を送るうちに改善点が出てくるかもしれない。その時は、都度、契約を更新して柔軟に対応するということで、二人の意見は一致した。
――ただ一点を除いては。
『不貞行為が発覚した場合、即離婚』
この項目だけは、今後何があっても変更はしない。
婚姻中、もしも他に好きな異性ができたらその時点で正直に話すこと。
隠れて不貞行為を行った場合は例外なく即離婚すること。
そう求めたのは、美弦だ。
夫婦とはいえ他人同士なのだから、時に言えないことや隠し事もあるかもしれない。それは仕方のないことだ。しかし、相手を裏切るような嘘だけはどうしても許容できないし、許せない。
恭平は不機嫌な顔一つ見せることなく、それを受け入れてくれた。
『もちろん構わない。今後、俺が君以外の女性に興味を持つことはありえないから』
知り合ったばかりの自分に対して、どうしてこんな風に断言できるだろう。それくらい、美弦は彼の「好み」の外見をしているのだろうか。
不思議に思ったものの、彼を疑う気にはならなかった。
『俺は、君を振るような見る目のない男とは違う。君を裏切らないし、嘘もつかない。夫として、これから時間をかけてそれを証明していくよ』
そう答える恭平は、思わず見惚れるほど優しい表情をしていたから。
照れと恥ずかしさで視線を逸らす美弦を、恭平はやはり柔らかい眼差しで見つめていた。
恭平の雰囲気はまるで別人のようだった。
先ほどまでの穏やかな眼差しが妖しく獰猛なものに変わり、表情は変わらず優しいのに瞳の奥が笑っていない。まるで獲物を前にした肉食獣のような雰囲気に動けなくなる。
「一条美弦さん。俺と結婚しませんか?」
チョコレート色の瞳がゆっくりと近づいてきて――美弦の記憶は、そこで途切れた。
都内の夜景が一望できるマンションの一室。室内を照らしているのは窓からぼんやりと差し込む月明かりだけ。
そんな中、キングサイズのベッドの上に二つの人影が浮かび上がる。
周囲には脱ぎ捨てられた衣類が散らばっていた。静かな室内に溶けるのは、唾液を絡め合う音と荒々しい吐息、そしてシーツがずれる音だけだ。
裸で仰向けになる美弦に覆い被さっているのは、同じく素肌を晒した恭平。
彼は左手で美弦の両手を頭の上で一つにすると、右手で彼女の頬を優しく撫でる。
けれど優しい手つきに反してキスは荒々しい。
「んっ……ふぁ……」
「もっと口を開けて。君の可愛い口の中を感じたい」
熱い舌が強引に美弦の唇を割って侵入する。反射的に引っ込めた舌はすぐに絡め取られ、強く吸われた。そのまま歯列をなぞり、内壁を舐められる。息をする間もない激しい口付けに、美弦はされるままだ。くちゅくちゅと唾液の絡まる音がなんともいやらしい。
――知り合ったばかりの男と体を重ねている。
この四年間、浩介一筋だった美弦は、自分の身に起きている初めての経験に心も体もついていけない。酔ってうまく回らない頭で「どうしてこうなった」と息を乱しながら考えるが、思考はまとまらなかった。
けれど一つわかっているのは、これが無理矢理ではないということ。
恭平のマンションに到着して玄関のドアが閉まるなり、二人は貪るようなキスをした。激しい口付けの後、恭平は美弦を横抱きにして寝室に向かう。そこで彼女の衣服を一気に取り払うと、自らもまた裸になったのだ。
「今、何を考えてた?」
嵐のような口付けの合間に、恭平は背中がぞくりとするほど色香の滲んだ声で問う。
「考え事をするなんて随分と余裕だな」
「違っ……!」
「キスだけじゃ君を夢中にさせられないなら――もっと、俺を感じてもらわないと」
言うなり恭平は美弦の耳殻をなぞるように舐める。
先ほどまで口の中を蹂躙していた舌を耳に這わせて、食んで、息を吹きかけて。
そのたびに美弦は、意識が飛びそうな快感に襲われて、本能的に腰を揺らす。
「美弦」
低くて心地よい声に名前を呼ばれる。
「俺を見て。俺を感じて――俺に夢中になって」
今は体だけでいいから、と見惚れるほどうっとりした顔で恭平は微笑む。
「今すぐ婚約者を忘れろとは言わない。でも今こうして君に触れているのは、俺だよ」
だから。
「今は、俺以外のことなんて考えるな」
一瞬で、彼の雰囲気がガラリと変わった。物腰の穏やかな紳士が、美弦を求める雄になる。
「待って……あっ!」
呼びかけた言葉は甘い嬌声に変わった。恭平に乳首をピンと弾かれたのだ。
「それ、だめぇ……!」
「『いい』の間違いだろ? だって――ほら。君のここはこんなに赤く色づいてる」
言いながら彼はぷっくりと膨らむ先端をいじり始めた。
甘い痛みに美弦は思わず身をよじって腰をくねらせる。その反応に気を良くしたのか、恭平は顔を胸に近づけて、ぱくんと口に含んだ。
その瞬間、美弦の体は大きく跳ねた。けれど恭平は止まらない。
屹立した乳首を舌でこねくり回し、ちゅっと吸ってやんわりと食む。その間も彼の両手は美弦を攻め続けた。
豊満なバストを下から掬い上げ、緩急をつけて揉みしだく。彼の思うままに形を変える双丘の先端を指先でつまんで、弾いて、押し潰す。
「おかしくなっちゃっ……!」
その直後、目の前が真っ白になって、頭の中で何かが弾ける。
口と手で攻められ続けた美弦は達した。そんな美弦を、恭平は甘い瞳で見下ろす。
「……本当に眩暈がするほど綺麗だな」
細い首に形のいいデコルテ。仰向けになってもなお形の崩れない豊満なバストに、きゅっとくびれた腰から続くふっくらとした尻。引き締まった両足。華奢ながら女性らしいまろやかさのある体を、熱を帯びた視線が舐め回す。
ただ見られているだけなのに、子宮の奥がずくんと疼く。
中を触れられたわけでもないのに体の芯は切ないくらいに熱を持ち、その証に内側から溢れたとろりとしたものが太ももの付け根を濡らした。
(やだ、なんで……!)
反射的に太ももを擦り合わせる。するとくちゅ、と粘着音が静かな室内に溶けた。
これに恭平が気づかないはずがなかった。
「――見られただけで感じた?」
図星を指された美弦は羞恥心でいたたまれなくなる。
美弦は知らなかった。
恥ずかしそうに頬をピンク色に染めて、足を擦り合わせる姿がどれほど男の劣情を誘うのか。
事実、艶かしく横たわる美弦の姿に、恭平の喉仏がごくんと上下した。
「最高にエロいな。可愛くて、色っぽくて、たまらない」
――エロいなんて。
「……初めて言われたわ」
息を乱しながら呟くと、恭平はありえないとばかりに大きく目を見開いた。その表情から驚きようが伝わってくるけれど、残念ながら本当のことだ。
派手な外見から「男関係が激しそう」と誤解されがちな美弦だが、実際は違う。過去に恋人と呼べる相手は浩介だけだった。
告白されたことはあるけれど、中学生の頃は弟の世話をするのが一番だったし、高校と大学は「少しでも母を経済的に助けたい」「せめて学費くらいは自分で出したい」と勉強とバイトに忙しく、恋をする暇なんてなかった。
就職してからもそれは同じで、初めの二年間は仕事に慣れるのに必死だった。ようやく仕事に楽しみを見出した頃にできた初めての恋人が、浩介なのだ。
手を繋ぐのも、キスも、セックスも、美弦の初めては全て浩介に捧げた。
そんな彼とのセックスは……よく言えば丁寧、悪く言えば機械的だった。
軽く触れ合うようなキスをして、互いに触れ合って、挿入して、あちらが果てたら終わり。
美弦も達したことはあるし、気持ちよかったけれど、こんな風に――恭平とキスした時のように、頭がぼうっとする感覚も、触れられた場所から切ないほどの熱を感じたのも初めてだ。
そして、恭平に触れられて初めて気づいたことがある。
こんなこと、普段の美弦なら絶対に言わなかっただろう。けれど、酔いと達したばかりの高揚感から、つい口に出してしまった。
「……私、激しくされるのが好きみたい」
その、直後。
「んっ――‼」
噛み付くようなキスをされた。
「なんでっ……ああんっ!」
先ほどまで胸を弄んでいた両手が太ももを掴んで、大きく開く。そして唇から顔を離した恭平が、ぞくりとするほど妖艶な笑みを浮かべて美弦を見下ろした。
シーツに染みを作るほど濡れそぼった秘部が恭平の眼前に晒される。
恭平に見惚れていた美弦は羞恥心から足を閉じようとする。けれど恭平は自らの体を足の間に割り込ませることで、それを封じた。
「待っ……」
「なんで?」
制止を求める声を遮り、恭平は先ほど言いかけた美弦の言葉を繰り返す。
「『激しくされるのが好き』なんて言われて、煽られないわけがないだろう?」
その時、美弦の視線に信じられないものが映る。
こういったものは他人と比べるものではないと思うし、そもそも美弦は比較対象を一人しか知らなかった。それでも断言できる。
天井を仰ぐほど屹立したそれは、恐ろしく大きい。表面には幾筋もの血管が浮かび上がり、まるで生き物のようだ。そのあまりの迫力に慄く美弦の前で、恭平は手早く避妊具を装着する。
「最後まではしない。それは酔っていない時にしよう」
「あっ……!」
「でも、このまま終わるなんてありえない。お望み通り、激しく攻めてやる」
直後、恭平は先端を膣口に押し当てた。
「ああっ……!」
薄い膜越しでもわかるほど熱い塊を感じた瞬間、むず痒いほどの快感が背筋を駆け抜けた。
思わず腰を浮かす美弦に、恭平は「可愛い声」と甘く囁き、ゆっくりと腰を上下し始める。その動きが次第に速くなっていった。
美弦から溢れた愛液が潤滑油となって、くちゅくちゅといやらしい音を奏でる。
「あっ、こんなの、知らない……!」
「っ……素股は初めて?」
恭平も感じているのだろうか。わずかに息を乱しながらも笑顔で問われてた美弦は、甘い声を上げながら必死に頷く。
挿入されているわけでもないのに、あまりの快感にどうにかなってしまいそうだ。
体の中心が疼いて、もどかしくて、たまらない。
堪えきれずに両手を恭平の背中に回してしがみつくと、自然と頭を彼の胸に埋めることになる。
すると、性急に腰を揺らしながら、右手の指を舐めて湿らせた恭平が――美弦の陰核をつぷん、と押した。
「あっ……それ、だめぇ……おかしく、なっちゃうっ……!」
蜜口を攻められつつ、陰核をこねくり回される。激しい律動に呼応するように硬く立ち上がった乳首が恭平の胸板に擦られた。
「美弦」
とろけるような甘い声で名前を呼ばれ、陰核をやんわりとつままれた、その瞬間。
「俺でおかしくなって」
強烈な快楽に呑み込まれ、美弦は意識を手放した。
◇
――思い出した。
全てではないけれど、目覚めた直後はおぼろげだった記憶が、一つのきっかけ――婚姻届の「夫になる人」に記された名前を見たことで次々と浮かび上がってくる。
彼の名前は御影恭平。現在三十二歳。
苗字が示す通り御影ホテルの創業者一族の一人だ。しかも美弦の記憶が正しければ、恭平は社長の御影雄一の次男で、長男である副社長、斗真の弟だ。
何より、彼はここ最近、社内で話題の人物である。
恭平は大学院を卒業して御影ホテルに入社した。それからすぐにニューヨークの海外事業部北米開発室に配属となり、着実に営業実積を重ねていった。
ここ数年、海外事業部でナンバーワンの営業成績を連発しており、まさに家柄と実力を兼ね備えたエリート御曹司である。
見覚えがあるような気がしたのは、以前社内報で写真を見たことがあったから。その時も「何このイケメン」と驚いたが、当時はまだ浩介という恋人がいたし、仕事が忙しいこともあって、あっという間に記憶の外に追いやられていた。
そんな彼は半年前の九月に帰国し、現在は東京本社のホテル事業本部長の職についている。
帰国した御曹司が、東京本社に来る――女性社員は色めきたった。
中には本気で「御曹司と恋に落ちる」ことに憧れている女の子がいるくらいだ。
しかし美弦が好きなのは浩介だったし、彼と別れてからの一ヶ月は、言葉は悪いが「恋なんてクソ食らえ、私は仕事に生きる!」と本気で思っていたから気にも留めなかった。
もしも美弦が他の女性社員同様、彼に興味を持っていたら、『善』で会うなり恭平の正体に気づいただろう。しかし実際は「見たことあるかも」程度でまるでわからなかったのだ。
――だからといって、自社の御曹司に絡み酒をした挙句、体を重ねるなんて。
恥ずかしくて、情けなくて、恐れ多くて。
なんとも形容し難い感情に襲われた。
「私がこんなことを言えた立場ではないのはわかっています――けど、何をしてるんですか、御影本部長……」
がっくりしながら呟くと、恭平は面白くなさそうに眉を寄せる。
昨日今日で初めて見せる不機嫌そうな表情に「上司相手にさすがに口がすぎたか」と内心焦る。そんな美弦に、彼は意外な言葉を返した。
「その話し方は好きじゃないな。呼び方も。今はあくまでプライベートの時間。だから敬語も役職も必要ない」
優しいけれど有無を言わさぬ雰囲気に、反射的に頷く。すると恭平は満足そうに唇の端を上げた。
「さっきの質問だけど、『何をしてる』も何も、ここに婚姻届があるように、君と結婚を約束して、熱い一夜を過ごした。オーケー?」
「オーケー、じゃなくてっ! だいたい、どうして婚姻届があるの……?」
恭平は「そこからか」と苦笑すると、なぜかスマホでどこかに電話をかけ始める。すぐに繋がったようで、彼は「マスターだよ」と美弦にスマホを手渡した。
「話は通してあるから、婚姻届記入の経緯は彼に聞いて。俺が話すよりも第三者に聞いた方が真実味があるだろうし」
確かにそうかもしれない。美弦は戸惑いながらもスマホを受け取った。
『美弦ちゃん、具合はどう?』
「大丈夫です。昨日は酔っ払って迷惑をかけてしまったようでごめんなさい。それでその……昨日何があったのか教えてもらえますか?」
『本当に覚えてないの? 確かにかなり飲んでたからなあ』
その後聞いた話は、美弦の想像を遥かに超えていた。
昨夜、恭平からの突然のプロポーズに固まった美弦は、残りの酒を一気に呷った。
そしてしばらく黙った後、「わかったわ」と答えたという。
その後はむしろ美弦の方が乗り気で、なんと恭平に「結婚するなら今すぐしたい!」と結婚情報誌をコンビニに買いに行かせた。
そして彼が戻るなり付録の婚姻届に意気揚々と記入して、恭平にもそれを求めると、マスターに証人欄に署名するように求めた。
(私が婚姻届を買いに行かせた……?)
唖然とする美弦にマスターはなおも衝撃の事実を口にする。
『結婚はそんな簡単に決めるもんじゃないよって言っても、美弦ちゃん、「今書いてくれないと私は一生独り身だ、だったら今結婚してもいいじゃない!」「お母さんに婚約者を紹介するって言っちゃったの!』って荒れに荒れて。俺が書かないと収拾がつかない状況だったから、仕方なく書いたんだよ。もちろん、提出はしないって恭平くんと約束してね』
「……マスター、迷惑をかけて本当にごめんなさい。あとでお詫びに伺います」
『気にしなくていいよ。それじゃあ、また店で待ってるよ』
電話が切れる。が、とてもじゃないが恭平の顔が見られない。
――なんていうことをしたのだ、昨夜の自分は。
マスターはもちろんだが、恭平に対して迷惑をかけすぎではないか。
今まで、プライベートでも仕事でもお酒の失敗なんて一度もしたことがなかったのに。初めての失敗がこれなんて、あまりに酷すぎる。とにもかくにも、まずは謝らなければ。
「ごめんなさい。お酒の席の冗談を本気にして結婚を迫るなんて――」
「冗談じゃない。俺は本気だ」
深く頭を下げようとする美弦の前に恭平が跪く。
「酒の勢いでもふざけてもいない。俺は君と結婚したいんだ」
ぽかんと惚ける美弦の両手を、恭平の手が包み込む。まるで騎士が主人に忠誠を誓うような姿勢でこちらを見据えるまっすぐな瞳に貫かれる。
「一条美弦さん。俺と結婚しませんか?」
その眼差しに、声に、言葉に、昨夜の記憶が蘇る。
「昨日も同じことを言ってくれた……?」
「思い出してくれた?」
どこか嬉しそうな声色に美弦は頷く。
そうだ。彼は美弦の生い立ちや失恋話を面倒な顔一つ見せず、最後まで聞いてくれた。
そして桜子に否定された美弦の内面を全て受け止め、肯定してくれたのだ。
本当に嬉しかった。温かくて、涙が止まらないほど感激して――
(この人と結婚する人は幸せだろうなって、思った)
そんな美弦に、恭平は「結婚しよう」と言ってくれたのだ。
その後のことは、マスターに聞いた通りだろう。
「返事を聞かせてもらっても?」
「……本気で言ってるの?」
「冗談でこんなことは言わない。君は昨日『誰でもいいから結婚したい』と言った。もしそれが本心なら、相手が俺でもいいんじゃないか?」
自分で言うのもなんだけど、俺はなかなかの優良物件だよ、と悪戯っぽく笑む。
「高学歴・高収入・高身長。俗に言う三高は全部揃ってる。犯罪歴はもちろんないし、タバコもギャンブルも興味はない。『御曹司』なんて言われてるけど金遣いは荒くないつもりだ。一人暮らしが長いから家事は得意だし、料理は趣味だ。俺と結婚すれば、家にいる時はいつでも俺が料理をするよ。君の好きな料理をなんでも作ってあげる」
「あの――」
「両親や親族付き合いは最低限でいい。両親は息子の生活にあまり口を出すタイプではないから嫁姑問題はないと思うけど、もしそうなったら俺は百パーセント妻の味方をする。仕事は続けてもいいし、辞めてもいい。辞めた場合はもちろん生活の保証はする。それ以外にも君の希望があれば最大限叶えるよ。文書にしてもいい」
「ちょっ、ちょっと待って!」
ここぞとばかりに自分を売り込む恭平に呆気に取られて、たまらず止めた。頭がついていかない。
「――おかしいわ」
「俺だと母親に紹介できない?」
「そうじゃなくて! ……私とあなたじゃ釣り合わないもの」
四年も付き合った恋人にあっさり振られた女と、大企業のエリート御曹司。
釣り合うわけがない。
「それに私たちは知り合ったばかりで、お互いのことなんて何も知らないのに、結婚なんて」
婚姻届への記入を迫っておきながら説得力のかけらもないが、少なくとも素面の美弦にはとても理解できない。だが恭平は真面目な顔で美弦を見据えた。
「俺は君の名前も家族構成も、一生懸命働く理由や、なぜ節約しているのかも知ってるよ。全部、昨日君が話してくれたからね。俺のことは結婚してからおいおい知ってもらえればいい。君は母親に婚約者を紹介できないことを嘆いてたけど、それも俺と結婚すれば解決する」
「それはそうだけど……仮に私と結婚しても、あなたにはメリットが何もないわ」
「それは違う。君と結婚して、むしろ助かるのは俺の方だ」
「どういうこと?」
「女よけになる」
キッパリと恭平は言った。
「どうやら俺は、人より目立つ見た目らしくてね。帰国してから言い寄ってくる女性が絶えなくて困ってる。特に女性社員の声が気になって仕方ない。仕事の話ならともかく、やれ恋人はいるのか、好みのタイプはどうだ……なんてあちこちで聞かれてうんざりしてる。そういった意味でも、今の俺には『妻』という存在が必要なんだ」
眩しいほどの笑顔だが、その主張はなかなか辛辣かつ失礼だ。
美弦のことは好きでもなんでもないが、自分の目的のために結婚してほしい。
つまりは、そういうことだ。
(……なんだ)
美弦のことが好きだから、なんて理由を期待したわけではない。けれどあまりに熱心にアプローチしてくるものだから、彼の結婚したい理由を聞いて拍子抜けしたのは否めない。
「あなたが結婚したいわけはわかったわ。でも、相手が私じゃなきゃいけない理由はないように思うけど」
「理由はある。君は美人だ」
「はい?」
予想の斜め上をいく答えにぽかんとする美弦に恭平は続ける。
「どうせ妻にするなら綺麗な女性がいい。その点、君は最高に俺好みだ」
今の話を要約すると、つまり――
(私の顔と体が好みだから、女よけと体裁のために結婚したいってこと……?)
彼の醸し出す雰囲気は砂糖菓子のように甘いのに、話している内容はどこまでもビジネスライクだ。けれど、だからこそその言葉は信用できた。
もしも結婚したい理由が「好きだから」とか「一目惚れ」なんて言われたら、信じられなかっただろう。手酷い失恋をしたばかりの今、「恋」や「愛」ほど信用できないものはない。
それに、この結婚は悪い話ではないのかもしれない。
美弦は、母を悲しませないため。
恭平は、周囲の煩わしい声を封じるため。
互いにメリットがある結婚は、言い換えれば契約のようなもの。
それに、実際、結婚相手として彼はこれ以上ないほどの優良物件だ。
イケメン・ハイスペック・料理上手。恭平も美弦の外見が好みだと言ってくれている。
――断る理由が見つからない。
だから。
「わかったわ」
美弦は小さく、けれどしっかりと頷いた。
「あなたと結婚します」
次の瞬間、美弦は痛いくらいに抱きしめられる。
「あのっ、ちょっと……⁉」
「言い忘れてたけど、俺は紙切れ上だけの結婚をするつもりはないよ。君がセックスをしていいのは、俺だけだ。浮気は許さない」
「なっ……!」
耳まで真っ赤に染める美弦の顔を恭平は覗き込む。
「もちろん俺が抱くのも君だけだ」
大切にするよ、と。
悩ましいほどの色気を纏わせ、恭平は微笑んだ。
結婚に際して美弦と恭平はいくつかの決まり事を持った。
知り合ったばかりの二人が夫婦になるのだから最低限のルールは必要だ、と主張したのは美弦だ。
恭平はあっさり同意すると、「どうせなら契約書を作成しよう」とその場で懇意にしている弁護士に電話をして、会う約束を取り付けたのだ。
これらは全て『善』で出会った翌日の出来事である。
さすがは社内でも名の知れたエリート社員、段取りも仕事もとても早い。
その日の午後には弁護士立ち合いのもと、結婚契約書が交わされた。
契約内容をざっくり言えば、「財産管理はそれぞれ、家事は分担、不貞行為は禁止」だ。
お金に関しては、美弦も仕事を続けるつもりだから、彼の給与には頼らない。
家事は気づいた方がやればいいし、ハウスキーパーを頼んでもいい。
ちなみに結婚したことを公表するのは恭平のみで、美弦は明かさず旧姓で通すことにした。
婚約破棄でただでさえ不必要な注目を浴びているのに、この上、現在女性社員の注目度ナンバーワンの恭平と結婚したと知られて、妬まれるのはごめんだ。
とはいえ、事務の手続き上、会社の誰にも知られないようにするのは難しい。
こればかりは恭平の創業者一族としての力を借りて、総務部に手を回してもらった。
そのため、社内で二人の結婚を知るのは彼の父と兄である社長と副社長、総務部のごく一部の社員だけ。恭平にも「結婚した」ことは公表しても、「相手が美弦である」ことは明かさないと約束してもらう。
これに関しては恭平は不満そうではあったものの、「女よけにはなるのだから」と納得してもらった。
それ以外には、「新居は恭平のマンションにすること」「食事はできるかぎり一緒に取ること」「同じベッドで眠ること」等々、契約内容は新婚夫婦としては、至って普通のことばかりだ。
しかし、実際に結婚生活を送るうちに改善点が出てくるかもしれない。その時は、都度、契約を更新して柔軟に対応するということで、二人の意見は一致した。
――ただ一点を除いては。
『不貞行為が発覚した場合、即離婚』
この項目だけは、今後何があっても変更はしない。
婚姻中、もしも他に好きな異性ができたらその時点で正直に話すこと。
隠れて不貞行為を行った場合は例外なく即離婚すること。
そう求めたのは、美弦だ。
夫婦とはいえ他人同士なのだから、時に言えないことや隠し事もあるかもしれない。それは仕方のないことだ。しかし、相手を裏切るような嘘だけはどうしても許容できないし、許せない。
恭平は不機嫌な顔一つ見せることなく、それを受け入れてくれた。
『もちろん構わない。今後、俺が君以外の女性に興味を持つことはありえないから』
知り合ったばかりの自分に対して、どうしてこんな風に断言できるだろう。それくらい、美弦は彼の「好み」の外見をしているのだろうか。
不思議に思ったものの、彼を疑う気にはならなかった。
『俺は、君を振るような見る目のない男とは違う。君を裏切らないし、嘘もつかない。夫として、これから時間をかけてそれを証明していくよ』
そう答える恭平は、思わず見惚れるほど優しい表情をしていたから。
照れと恥ずかしさで視線を逸らす美弦を、恭平はやはり柔らかい眼差しで見つめていた。
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